「会いに行ってもいいか?直接話したい」景斗の声は、かすかに震えていた。だが、みのりはきっぱりと断った。「必要ないわ。どこで話し合っても、私の答えは変わらないから」景斗は諦めずに食い下がった。「君が帰国したら、もう一度ちゃんと告白するよ。今度こそちゃんとやり直そう。南城市中、いや全国、世界中に俺の気持ちを証明して――」「ごめんね、佐原景斗」みのりは淡々と遮った。「人生には、もっと大切なことがたくさんあるって気づいたの。今は恋愛なんてするつもりはないわ。だから、もうお互い連絡するのはやめましょう」そう告げると、みのりは迷わず電話を切った。無機質な「ツー、ツー」という音だけが、静まり返った部屋に響き続けた。景斗はしばらくその音を聞き続け、やがて胸を押さえて、喉の奥から絞り出すような呻き声を漏らした。その痛みは鋭利な刃物のようで、心臓を抉り取りながら、冷たく深く沈んでいった。消化することも、昇華することもできず、ただその痛みに身を任せるしかなかった。次の瞬間、景斗は立ち上がり、車へ乗り込むとアクセルを踏み込んだ。向かった先は――沢木家だった。今の沢木家は、都心の片隅の古びた団地に身を寄せていた。わずか二部屋しかない安アパートで、父と弟が一部屋を、母と詩織がもう一つの狭い部屋を使っていた。日々の肉体労働に追われる暮らしで、詩織の手や顔は荒れ果て、スキンケアなどできる余裕もなかった。景斗がドアを開けると、詩織は怯えることなく彼を見返した。「私はもうこの有様よ。これ以上、何をしに来たわけ?」景斗は冷たい視線で見下ろした。「これで済まされると思ってるのか?」詩織は景斗の目の奥の何かを察した。「……橘みのりを見つけたのね?……捨てられたんでしょ?」彼女は勝ち誇ったように笑った。「ざまあみろ」景斗は冷たく吐き捨てた。「まだ懲りてないようだな。深山で年寄りに嫁いで子を産むか、六十過ぎの変態成金の愛人になるか、選べ」詩織の笑みが一瞬で凍りついた。彼女は膝から崩れ落ち、悲鳴をあげた。「私が悪かったわよ!でも、あんたが無能だったせいでしょ!?ちょっと調べれば、私の嘘なんて簡単に見破れたじゃない!あんたを愛したのは事実よ!薬を盛って無理やり寝たわけじゃないわ!あ
今回の医療支援は、白川教授が計画した海外研修の一環だったが、旅程も期間も厳密には決められていなかった。国内からの緊急呼び出しで白川教授が帰国を余儀なくされた時、みのりは迷わず現地に残ると申し出た。教授は静かに笑って頷いた。「医者は、多くの患者と向き合うほどに腕を磨ける」それが彼の揺るぎない信念だった。こうして、みのりは優秀な先輩医師たちと共に海外に残り、さらに多くの患者を救いながら、広く果てしない世界を見て回った。大自然の壮大さに触れ、人間の儚さと尊さを知る日々。その中で、みのりの心は日に日に静かで穏やかなものへと変わっていった。海外に出て間もない頃、彼女の笑顔はぎこちなく、泣き顔と変わらないほど歪んでいた。ほとんどの時間、彼女は無言だった。しかし、時が経つにつれ、かつての自然な笑顔がゆっくりと戻ってきた。朝には鳥のさえずりに耳を澄まし、花の香りを吸い込み、水辺の風が髪を揺らすのを感じながら景色を眺める心の余裕ができた。先輩たちと共に気功で体を動かし、時にはジムで筋トレにも励むようになった。体は引き締まり、肌には血色が戻り、性格も以前よりずっと朗らかになった。国内で味わったあの苦しみは、気づけば遠く霞む記憶になっていた。ある日、先輩たちが気を遣うように過去の話題を振ると、みのりは肩の力を抜き、淡々と笑って答えた。「ただ彼氏と別れただけなんです。あの時は……人生が終わったみたいに思ったけど、今振り返ると……たかが失恋で、大したことじゃなかったんですよ」大したことじゃない。もう全部、過去のこと。――みのりは、心底そう思っていた。しかし、南城にいる景斗には、そう思えなかった。彼はあらゆる手を尽くし、ついにみのりの新しい電話番号を手に入れた。夕焼けが空を染める頃、景斗は庭のベンチに腰を下ろし、何度も深呼吸を繰り返した。震える指で番号を押し込み、呼び出し音が二度鳴った後――魂に刻まれた声が耳に届いた。「もしもし、橘みのりです」景斗は口を開いたが、声が出なかった。何を言うつもりだったのか、すべて霧散してしまった。沈黙の向こうで、みのりが何かを察した気配があった。「……佐原景斗?」フルネームで呼ばれた。それは彼女にとって初めてだった。景斗の記憶が蘇る。
景斗は寝食を忘れて働き詰め、一昼夜を費やして仕事を片付けると、その足で空港へ向かった。飛行機に飛び乗り、荒れ果てた戦地を越え、幾多の困難を潜り抜け、ようやく――みのりがいる病院へ辿り着いた。だが、そこに彼女の姿はなかった。その瞬間、景斗の全身から音が立てて血の気が引いた。雷に打たれたように硬直し、必死に首を振る。「嘘だ、みのりが死ぬわけがない!そんなはずが……!」景斗は病院関係者の胸ぐらを掴み、腕が千切れそうなほど力を込めて揺さぶった。「橘みのりはどこに行ったんだ!!」スタッフは怯えながら答えた。「橘先生は……短期支援で来られていただけで、国境なき医師団の正式なメンバーではありません。白川教授と一緒に……別の地域へ、医療支援に向かわれました」安堵と同時に、胸が張り詰める。「どこへ行ったのか知っているか!?」だが、その問いに答えられる者はいなかった。事故に巻き込まれてもないし、死んだわけでもない。そのことを知っただけでも、景斗には十分だった。ほんの一瞬、「彼女はもう死んだのかもしれない」という絶望が脳裏を支配した時のあの恐怖に比べれば、どんな困難も怖くはなかった。景斗はゆっくりと拳を握りしめ、骨ばった手は震えていた。「みのり……どこへ行こうと、必ず見つけ出す」景斗は飛行機で南城市へ戻った。ただ一往復しただけで、何も掴めず、会社に戻れば仕事は山積みになっていた。それでも彼は仕事を片付ける傍ら、みのりの行方を探し続けた。資金を惜しまず、探偵を雇い、海外の情報網に依頼し、人脈を総動員した。しかし、今回ばかりは情報が掴めなかった。夜が訪れるたび、悪夢にうなされ、眠れぬ夜が続いた。ほとんど眠れず、身体はみるみる痩せ細っていった。頬がこけ、目の下には深い隈が刻まれた。それでも構わなかった。両親は声を荒げて言った。「たかが女一人のために、自分を壊すつもりか!」景斗は憔悴しきった顔でしばらく無言になるも、低く答えた。「これは……俺が背負うべき罰だ」森川航も、沢木詩織も、必ず裁きを受ける。だが――自分自身は?みのりは、自分を罰しないだろう。もう、自分のことなど考えてもいないだろう。だからこそ、自分が自分を罰さねばならない。彼女の心を傷つけ、壊し
多額の費用と、幾度となく手間を惜しまずに動いた末――景斗はついに、みのりの最新の写真を入手した。粗末な病院の片隅で、白衣に身を包んだ彼女は、長かった髪を肩までの短さに切りそろえ、清潔で凛とした姿をしていた。その瞳は真っ直ぐで、凛々しかった。景斗は、その写真を食い入るように見つめた。――みのりが去ってからというもの、景斗は毎晩のように彼女の夢を見ていた。しかし夢の終わりはいつも、あの墓地での光景へと戻される。祖母の遺灰が詩織の手から滑り落ち、無残な音を立てて砕け散ったあの日。彼は詩織の隣に立ち、みのりの前から去った。夢の中で振り向いたみのりの瞳――その視線が、何度も景斗を唸らせ、真夜中に目が覚めてしまう。その瞳には、絶望しか映っていなかった。目が覚めるたびに、胸を掻き毟られるような後悔と痛みに苛まれた。――なぜ、あの時気づけなかったのか。もし、あの時、詩織の手を振り払い、みのりを庇ってあげたら。共に砕け散った遺灰を拾い集め、共に祖母を弔っていたら。彼女は、あんなにも決然と背を向けることはなかったのではないか――その仮説が、景斗の胸を締めつけ、狂おしいほどの後悔を呼び起こした。景斗は森川航を憎み、沢木詩織を憎んだ。だが、それ以上に――自分自身を憎んでいた。その自己嫌悪が深くなるほど、彼は森川と詩織への報復を止められなかった。森川家の会社を潰し、家族が職探しをしても、圧力をかけて全て潰した。二人の共通の友人たちでさえ、景斗の執念深さに耐えかね、声をかけてきた。「景斗、森川も詩織に騙されただけだろ?そこまでしなくても――」「十年来の友人だろ?本当に一家を追い詰めるつもりか?」だが、景斗は冷たく吐き捨てた。「騙された?笑わせるな。俺が掴んだ証拠では、あの二人は共謀していた」その瞳は笑っていたが、笑みには皮肉さが漂っていた。「詩織は余命一ヶ月だと嘘をつき、みのりを俺から引き離した。それで今はどうだ?二人ともピンピンしてるじゃないか。この先、何十年も余裕だよ」友人たちがさらに言葉を重ねようとしたが、景斗は手を上げて制した。「みのりを南城に連れてきたとき、はっきり言ったはずだ。みのりがいなければ、俺はあの山中で死んで野犬の餌になっていたんだ」視線が一層
景斗はわかっていた。今すぐ自分の過ちを正し、みのりに誠意を尽くして償えば――まだ挽回できる余地は残されていると。だが、詩織が子どもを産めば、その可能性は完全に失ってしまう。「沢木詩織の腹の子なんて……要らない。俺はまだ若いし、子どもなんていつだって作れる」景斗は両親を前に、静かにそう告げた。だが両親は揺るがなかった。「お前は結局、橘みのりを取り戻したいんだろ?」父が低い声で問いかける。「彼女との子どもを望んでいるんだな?だが、もしみのりが戻らなかったらどうする?佐原家の跡取りはいなくなるぞ」その言葉を突きつけられた瞬間、景斗の表情がわずかに歪んだ。「みのりが戻らない」――その言葉が、鋭い刃のように胸を抉った。長い沈黙の末、景斗はまっすぐ父を見据えて答えた。「……それでも、俺はみのりを取り戻す。彼女と結婚して、彼女との子を持つ」梅子がすかさず問い詰めた。「もし橘みのりに子どもを産む気がなかったら?その時はどうするの?」景斗は視線を逸らさず、同じ言葉を繰り返した。「必ず取り戻す」その瞬間、両親は息子の覚悟を悟った。それでも、詩織の子どもを堕ろさせることだけは許さなかった。「いいか、景斗。お前は心配するな」父が告げる。「詩織には金を渡して海外で出産させ、二度と戻らせない。子どもは俺たちが責任を持つ。お前は橘みのりを取り戻すことだけを考えろ」景斗はしばらく黙り込み、父の提案を受け入れた。その会話を電話越しに聞いていた詩織は、思わず笑みをこぼした。彼女は、自分の勝利を確信したのだ。この計画は誰がどう考えても完璧で、景斗も最終的には納得すると詩織も梅子も信じて疑わなかった。赤ん坊さえ生まれれば、景斗は必ず自分の元へ戻ってくる。血を分けた子どもを、彼が無視できるはずがない。一度でも子どもに会いに来れば、その時には母親である自分にも会うことになる。そして何度も顔を合わせるうちに、過去の思い出を語り、少しずつ景斗の心を取り戻せばいい。雨垂れが石を穿つように、ゆっくりと確実に。詩織はそう信じて疑わなかった。梅子もまた、景斗への警戒を解き、詩織を高級マンションに匿った。しかし数日後、景斗はすぐに詩織の居場所を突き止めた。その日、会社の部下を連れてマン
私は白川教授と共に、国境なき医師団の一員として戦地へ向かった。そこは砲火が飛び交い、街の至るところで負傷者がうめき声をあげていた。粗末な病院には、必要な薬も人手も足りず、ベッドすらまともに揃わなかった。私たちが病院へ到着した日、大規模な爆撃が街を襲い、次々と交通事故が連鎖するように発生した。救急車が次々と重症者を運び込んでくるも、それすら足りず、現地の人々が担架で負傷者を運び込む姿もあった。私は何かを考える暇もなく、教授らチームとともに、無我夢中で救命処置に飛び込んだ。縫合、止血、胸骨圧迫、気管挿管――その作業を幾度となく繰り返した。ようやく手術室から出られた頃には、到着から十数時間が経過していた。疲労でふくらはぎは痙攣し、腕は痺れ、関節が痛みで軋んだ。食事は口に合わなかったが、空腹で倒れるわけにはいかず、黙々と流し込んだ。食べ終えると休む間もなく、再び呼び出されて治療へ向かった。まる三日間、寝ることなく救命を続けた。生きるか死ぬかの境目で患者を救い、その狭間で無力感に襲われても、また次の負傷者のもとへ走った。時折仮眠を取るも、空襲警報が鳴り響き、その音で跳ね起きた。近くで爆発音が鳴るたびに、私は身をかがめて自分の安全を確保しながらも、ついさっき救った患者の安否を案じていた。怒りや悲しみに浸る余裕はなかった。この場所での死は、日常だった。大人だけでなく、まだ小さな子どもたちでさえ、戦争の犠牲になってあっけなく命を落としていく。ある日、片腕を失った小さな女の子が運ばれてきた。切断の意味すら、まだまともに理解できない年頃だった。退院前日、その女の子は私を見上げて尋ねた。「退院したら、お花のブレスレット、またつけられる?」胸が張り裂けそうになった。私はその子の包帯に、お花のブレスレットの絵を描いてあげた。女の子は屈託なく笑った。その笑顔はあまりにも眩しく、私は病室を出ると壁にもたれ、しばらく動けずにいた。呼吸を整え、震えを抑えてようやく顔を上げた時、白川教授が近づいた。「橘君、ここでやっていけそうか?」私は小さく頷いた。「……大丈夫です」数多くの儚く脆い命を目の当たりしたからこそ、命の尊さを痛感していた。そして、もっと多くの命を救いたいと強く思った。