北都郊外の墓地で、小林雪(こばやし ゆき)は母親の墓前に立ち、遺影に優しく触れた。 「お母さん、さようなら。もし生まれ変われるなら、またあなたの娘になりたい」 空からはしとしとと雨が降り始め、振り返えった雪は、口元に流れてきた雨粒を拭った。それはしょっぱくて、少し苦かった。 幼い頃に父親を亡くし、母親に女手一つで育てられた彼女にとって、今は母親もいなくなり、娘と二人だけでこの冷たい世界に立ち向かわなければならなくなった。 雪は墓地を歩きながら電話をかけた。 「小林さん、あなたは本当に被験者として人間脳科学研究班に参加しますか?ここは砂漠の無人地帯です。一度足を踏み入れたら、おそらく二度と戻ることはできないでしょう」 「はい、本気です」 「わかりました。7日後、あなたの個人情報は抹消され、担当者があなたと娘さんを迎えに行きます」 電話を切ると、雪は神楽坂礼(かぐらざか れい)が砂漠で銀河を見に行こうと約束してくれたことを思い出した。 これが運命なのかもしれない。
もっと見る礼は砂漠の近くの小さな街に戻り、砂漠に最も近い場所に小さな家を買った。2LDKの、小さな庭付きの戸建てだった。地元の人々に教えてもらいながら、庭に砂漠でも育つ草花を植えた。毎日欠かさず水やりと肥料をやり、芽が出て、美しい花を咲かせるのを見守った。料理も覚えた。最初は気候や食事に馴染めなかったが、今では現地の食材を使い、現地の料理を作る毎日だ。アイロンがけも覚えた。この街ではスーツやシャツを着る必要はなかったが、雪の誕生日と、二人の記念日には、いつもおしゃれをして、ケーキ屋で小さなケーキを買って帰った。蝋燭の火を消す度に、同じ願い事をした。雪と娘が、いつまでも健康で幸せでありますように、と。彼はよく砂漠へ行った。星空の写真を撮ったり、ただただ座って静かに一日を過ごしたりした。いつも一人でいる彼を見かねて、親切な地元の人々が彼に女の人を紹介してくることがあったが、彼はいつも笑顔でこう答えていた。「俺には妻がいる。彼女はただ遠いところに行っているだけなんだ。だから俺はここで、彼女の帰りを待っているのさ」彼の話は街中に広まり、彼のことを「一途だ」と言う者もいれば、「愚かだ」と言う者もいた。しかし、彼は周りの目を気にすることなく、ただひたすら、毎日を生きていた。ある日、砂漠で遭難した人がいると聞き、礼は車で砂漠の奥地まで行き、彼らを救助した。それからというもの、彼に助けを求める人が後を絶たず、いつしか彼は、この地方で有名な砂漠ガイドになっていた。最初は、いつか雪が家の前に現れ、「もう許してあげる」と言ってくれるのではないかと期待していた。そしてその希望を夢にまで見たが、目が覚めるたびに失望し、それが叶わぬ夢だと悟り始めていた。それから彼は、街で偶然雪に出会うことを期待するようになった。ほんの一瞬、すれ違うだけでもいい、今の彼女がどうしているのか、一目見たいと思っていた。しかし、50年の歳月は流れ、彼はもう年老いていた。もう砂漠へ車を走らせることも、庭の花の手入れをすることも、街の中心部までケーキを買いに行くことさえもできなくなっていた。彼は今にも消え入りそうな息をしながら、ベッドに横たわっていた。そばには、かつて彼に助けられた人々が静かに集まり、公証人と弁護士も立ち会っていた。彼は全財産を雪と娘に残すように言い残した。も
翌日、礼は潤と共に北都へ戻った。飛行機を降りた瞬間から、彼は以前の、自身と気迫が溢れる社長に戻っていた。この一ヶ月の間に溜まった仕事を迅速にこなし、臨時株主総会を開き、社長解任を狙う取締役たちを黙らせ、不穏な動きを見せていた社員たちを粛清した。大規模なリストラを経て、会社は以前よりも業績を伸ばし、低迷していた株価も上昇し始めた。礼は神楽坂家の別荘に戻り、毎日、朝から晩まで会議や接待に明け暮れた。それは以前と全く変わらない生活だった。しかし、潤は、礼の落ち着きぶりに、どこか違和感を覚えていた。なんだか、以前の生気のない姿が幻だったかのようだった。何度か尋ねようと思ったのだが、礼に辛い記憶を思い出させてしまうのを恐れ、言葉を呑み込んだ。半年後、神楽坂グループの業績は前年の2倍に達した。礼は頻繁に出張するようになり、潤でさえ、彼が何をしているのかわからない時があった。年末の忘年会で、彼は全社員に、この一年間の苦労をねぎらう意味で、高額のボーナスを支給した。ようやく礼が立ち直ったと思った矢先、潤は思いもよらない話を耳にすることになる。騒がしい会場の中、礼が壇上に上がり、マイクを手に咳払いをした。途端、会場は静まり返り、皆が彼の言葉に耳を傾けた。来年の目標か、さらなる奮起を促す言葉が続くと、誰もが思っていた。しかし、礼は、会社が外資系企業に買収されることを告げた。「これまで神楽坂グループと共に歩んできてくれた皆さんには本当に感謝しています。今回の買収は、皆さんの雇用と給与に影響を与えることはありませんし、人員削減も行いません。管理職、役員の皆さんも、引き続き同じ役職で能力を発揮し、目標を実現してください。変わるのは社名だけです。そして、俺は社長を辞任し、取締役会からも完全に退きます。またいつか、どこかで会える日を楽しみにしています。今までありがとうございました」誰もが状況を理解できないまま、礼は壇上を降り、会場を後にした。潤は慌てて追いかけた。「社長!」息を切らせながら、車に乗り込もうとする礼を呼び止めた。「社長、どこへ行くんですか?また小林さんのところへ行くんですか?」追いかけている途中で、潤は全てを理解した。なぜ礼がまるで別人のようになっていたのか。彼は雪を探すことを諦めていなかったのだ。落ち
雪が喫茶店を出ると、一台の車が店の前で待っていた。周囲を見回し、誰も見ていないことを確認してから、車に乗り込んだ。「お待たせしました。研究施設までお願いします」車に乗ってから、彼女は自分の手にナイフが握られていることに気づいた。家を出る前に、引き出しから持ち出したものだった。礼とは学生時代から社会人になってからの7年間、ずっと一緒に過ごしてきた。彼女は礼のことをよく理解していた。彼は欲しいものは何が何でも手に入れようとする男だ。もし、今日、自分が言葉だけで拒絶すれば、彼はどんなことをしてでも、自分を連れ戻そうとするだろう。自分の命を賭けることでしか、彼を諦めさせることはできない。雪は苦笑した。策略をめぐらせることが大嫌いだったのに、初めて使う相手がまさか礼になるとは。彼女は窓の外を眺めた。車は街を離れ、砂漠の奥へと進んでいく。「礼、さようなら。これで、私たちはもう他人よ」もう二人が同じ道を歩むことはない。これからは、彼は彼の道を、彼女は彼女の道を歩む。二度と交わることはない。潤が喫茶店に着くと、礼は床に座り込み、虚ろな目で割れたお守りを握りしめていた。手のひらは血だらけだった。しかし、彼は痛みを感じている様子もなく、ただ入り口の方をじっと見つめていた。潤は駆け寄り、彼を椅子に座らせた。お守りを握りしめた手を広げようとしたが、びくともしなかった。「社長、小林さんはもう行ってしまいました。ここで血を流していても無駄ですよ。小林さんも、社長がこんな風になっているのを見たら悲しみます。きっと、社長が立ち直ることを願っているはずです」「そうだろうか……」礼は潤の方を見た。彼女はまだ自分のことを気にかけてくれているのだろうか?今しがた言われた言葉の一つ一つが、彼の胸に突き刺さっていた。彼女はきっと、自分に心底失望し、もう二度と自分のことなど気にしないはずだ。「もちろんです。小林さんは優しい方ですから、社長がこんな風になっているのを見たら、きっと悲しみます」潤は思いつく限りの慰めの言葉をかけた。礼と雪がどんな話をしたのかはわからなかったが、おそらく、彼女はもう二度と礼の元へは戻らないだろう。礼はゆっくりと手を広げた。手のひらは血だらけだった。彼の血がお守りを赤く染め、娘の血と混ざり合っていた。彼は血ま
礼は無理やり雪の体を自分に向けさせた。「違う!お前がいない日々なんて、地獄だった。毎日がただの作業みたいで、生きてても、もう終わりが見えてる気がした。仕事に打ち込み、美羽で気を紛らわせて、お前を忘れようとしていた。でも、お前に会った瞬間、わかったんだ。この5年間、お前への気持ちは少しも変わっていなかった。今、神様がもう一度チャンスをくれた。今度こそ、お前を離さない」礼は決めていた。雪がどう思おうと、彼女を連れ戻す。そうすれば、いつか自分の本当の気持ちも伝わるはずだ。しかし、雪はバッグからナイフを取り出し、彼女自身の首に突きつけた。「雪、何をするんだ?」彼はナイフを奪い取ろうとしたが、雪に大声で制止された。「来ないで!来たら、あなたの目の前で死ぬわ」「わかった、行かないから……雪、落ち着いてくれ」「礼、この5年間、あなたは何も変わらない日々を生きてきたのよね。私は毎日、翌月の医療費、学費、生活費のことで頭がいっぱいだった。3つの仕事を掛け持ちして、やっと生活していたの。あなたに会いに行こうと思わなかったわけじゃない。でも、あなたに迷惑がかかると思って諦めた。私はあなたに申し訳ないと思ったことは一度もない。あなたは?あなたは私を愛しすぎていたから、あんなことをしたと言うけれど、私をベッドに押し倒した時、柳さんに陥れられた時、娘を蹴り飛ばした時、あなたは少しでも私を、娘のことを考えた?少しでも心に罪悪感はあったの?」「雪、俺は……」礼は何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。「本当はこんなこと言いたくなかった。でも、あなたが私を追い詰めるから。あなたは私を愛しているんじゃない。ただ、諦めきれないだけよ。よく考えて。もしあの時、私があなたと一緒にいることを選んでいたら、私たちは幸せになれたと思う?あなたの仕事、私の母の病気、それに、あなたを破滅させる動画。最後は憎しみ合うだけだったと思うわ。あの頃のあなたは何もできなかった。今更、全てを手に入れてから償おうとしたって、もう遅い。私は自分の選択を後悔していない。もう一度あの時に戻ったとしても、きっと同じことをするだろう。だから、お願いだから、もう私を放っておいて。あの頃の思い出は、思い出のままにしておいて」雪の言葉に、礼は何も言い返せなかった。もし、
礼は信じられないといった様子で彼女を見つめた。「どうして……まだ俺を恨んでいるのか?本当に悪かったと思ってる。ただ……本当にお前に捨てられたと思ったから、あんなひどいことを言い、やりすぎてしまった。この5年間、お前のことを一度も忘れたことはなかった。美羽には感謝しているが、そこに愛はない。お前がもう戻ってこないと思っていたから、誰と結婚しても同じだと思っていた」雪は苦笑いした。もし再会した時に、彼がこんな風に言ってくれていたら、自分は彼の元に残る選択をしていたかもしれない。しかし、何もかもがもう遅すぎた。「礼、5年前、私はあえてあなたから去ったの。あなたに諦めてもらうために、わざと芝居を打った。あなたが私を恨んでも、仕方がないと思っているわ。でも、再会してからの数日間で、私はあることに気づいたの。過ぎた時間はもう戻らない。壊れた鏡は、たとえ繋ぎ合わせたとしても、元の形には戻らない」礼が美羽を選んだ時点で、二人の間にはもう何も残っていなかったのだ。「違う!俺たちには、終わったことなんて何もない!」礼は胸ポケットから、カスミソウの花言葉が書かれた小さな紙切れを取り出した。「これは、お前の部屋で見つけたんだ。まだお前の心の中には俺がいるんだよな。俺を恨んでも、憎んでもいい。でも、もう俺の前から姿を消さないでくれ」礼は、懇願するような目で彼女を見つめていた。それはまるで、長い旅をしてようやく帰る場所を見つけた旅人が、その扉の前で、冷たく締め出されてしまったかのようだった。「礼、私はもう十分説明した。私たちの関係はこれで終わり。もうここから去って。私の仕事と生活に干渉しないで」雪はそう言うと立ち上がって歩き出した。礼は後ろから彼女を強く抱きしめ、泣きそうな声で言った。「行かないでくれ……お願いだ、行かないでくれ!こんな方法でお前を呼び出したことを怒っているのか?でも、他に方法がなかったんだ!砂漠で一ヶ月もお前を探し続けた。お前がここにいるのはわかっていたのに、見つけられなくて……俺は気が狂いそうだったんだ。お願い……もう俺を一人にしないでくれ」雪は足を止めた。礼の体が震えているのがわかった。彼がこんなに取り乱しているのを見るのは、5年前以来だった。彼女の記憶の中では、彼は常に自信を持った男だった。優秀
礼は【雪、ごめん】と書かれた巨大な横断幕を作り、熱気球に乗って砂漠の上空に掲げた。この出来事はすぐに拡散され、研究班のリーダーがネットの動画を雪に見せた。「雪、君に非はないのはわかっている。しかし、我々の研究は国家の重要機密に関わるプロジェクトだ。リスクやトラブルは避けなければならない」「わかりました。すぐ彼に会いに行きます。車を出していただけませんか?もしそれでもダメなら、私は研究班を辞めます」雪は、自分のせいで研究班に迷惑をかけてしまったことを申し訳なく思った。「君の事情は理解している。君がこの研究を続けられるよう努力するが、次このようなことがあったら、私たちではもうどうすることもできないことを理解してほしい」雪は頷いた。リーダーが配慮してくれているのはわかっていた。そうでなければ、今すぐにでも出て行けと言われていただろう。彼女は娘のところへ行った。娘は礼とは会わないと言っていたが、これが彼に会える最後のチャンスかもしれない。「お母さんは神楽坂さんに会いに行くけど、あなたはどうする?これが最後のチャンスかもしれないわ」娘は顔を上げ、少し迷ってから、静かに尋ねた。「ママはパパと仲直りする?」「いいえ。お母さんは彼に、もう私たちに関わらないように言うだけよ」「じゃあ、ママが帰ってくるのを待ってる」雪は娘の頭を撫でた。娘は成長していた。2時間後、雪は街で唯一の喫茶店で礼と会った。閑散とした店でなければ、彼女は彼だと気づかなかったかもしれない。わずか1ヶ月の間に、彼はすっかり痩せこけていた。砂漠の強い日差しと風で、白い肌は黒く日焼けし、髭は剃ってきたばかりなのに、もうっすらと生えていた。ジャージ姿の彼からは、大企業の社長の面影は微塵も感じられなかった。雪が入ってくると、礼の充血した目に光が宿った。「雪、やっと……見つけた」彼は立ち上がり、彼女を抱きしめようとしたが、避けられた。「座って話そう」雪は一番奥の席に座った。礼は彼女の隣に座りたかったが、拒絶するような視線を感じ、向かいの席に座った。「何の用?」雪は回りくどい言い方はせず、単刀直入に尋ねた。「雪、美羽がしたことを全て知ったんだ。彼女には既に制裁を加えた。もしお前が自分でけじめをつけたいっていうのなら、帰ったら、何を
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