All Chapters of 愛を尽くした、その果てに: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

「みのり……ずっと愛しているよ」深夜の寝室、佐原景斗(さはら けいと)はベッドの上で抑えきれない呻き声を漏らしていた。絶頂に達しかけたその刹那――枕元に置いたスマホが不意に振動し始めた。普段の彼なら無視するはずだった。だが、画面が灯り、表示された名前を見た瞬間、景斗の動きは止まった。橘みのり(たちばな みのり)は、荒い息を整えながら、その様子を黙って見つめていた。「……もしもし?」静まり返った夜気の中で、電話の向こうから男の声が響いた。「景斗!詩織のこと、覚えてるか?!」景斗は低く声を抑え、アラビア語で遮った。「声を抑えろ、今は都合が悪い」相手もすぐにアラビア語に切り替えたが、声は依然として大きいままだった。「病院の診断が出た!詩織は末期がんだそうだ!余命一ヶ月だって!彼女は死ぬ前にお前と一緒にいたいと言っている。それが彼女の最後の願いなんだ!」その瞬間、景斗の顔色が一変した。「……何だと!?すぐ行く!」電話を切ると、景斗は振り返りもせずに言った。「みのり、急用ができた。家で待っててくれ。すぐ戻る」彼女が答える間もなく、彼は身を起こし、シャワーを浴びて服を着替え、玄関のドアを閉めて去っていった。部屋には再び静寂が落ちた。振動音が響き、みのりのスマホ画面が明るく光った。そこには沢木詩織(さわき しおり)からのメッセージが表示されていた。【橘みのり、あなたの負けよ。言ったでしょ?景斗は私のものだって】その上には、三日前に届いたメッセージがあった。【もし私が癌になったら、彼はどうすると思う?あなたを捨てて、私のもとへ来るに違いないわ】みのりはゆっくりとスマホを伏せ、開け放たれた寝室の扉を見つめた。景斗は知らなかった。彼女がとっくにアラビア語を習得し、さっきの通話内容をすべて理解していたことを。静かな沈黙の中で、みのりはうっすらと苦笑を浮かべた。「そうね……私の負けよ……」その呟く声は、夜の静寂の中に消えていった。彼と過ごした日々のひとつひとつが、囁きとともに脳裏に蘇る。景斗は南城市随一の財閥、佐原家の御曹司にして、「天才」と謳われた青年だった。一方の私、みのりは、山奥の桐ノ里育ちの田舎娘に過ぎなかった。十七歳の夏、崖から転落した彼と出会っ
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第2話

景斗は、一晩中帰ってこなかった。翌日の早朝、白川和馬(しらかわ かずま)教授から電話がかかってきた。「……橘君、本当に一緒に海外へ行く気になったのか?」白川教授の声は、わずかに息が上がっていた。「最初の滞在先は国境なき医師団だ。危険な現場にも入るし、国内とは長く連絡が取れなくなるかもしれないぞ」私は小さく息を吐くも、はっきりと言った。「はい。もう決めました」しばらく沈黙が落ちた。「……ついこの前まで、『婚約者と結婚するから』って断ってただろ?急にどうしたんだ?」「別れるつもりです」その一言で、察してくれたのだろう。「……わかった。覚悟はできてるんだな?」「はい、できてます」「じゃあこの二日間で履歴書と必要書類をまとめて提出してくれ。俺が手続きを進める。出発は一か月後だ」電話が切れると同時に、景斗からメッセージが届いていることに気づいた。【みのり、急な仕事で出張になった。南城に戻ったら連絡するから、大人しく待っててくれ】その文字を見つめ、私は苦笑いした。スマホを伏せて机に置き、留学手続き用の書類を広げた。私の実家は山間の小さな集落で、十数軒の家がぽつぽつと並ぶだけの場所だった。祖母は村でただ一人、薬草を使える村医者だった。私は三歳の頃から祖母の背中について山を歩き、薬草や鉱石の効能を学びながら育った。私が医大への進学を決めたのは、ただ景斗の目を治したかったからだ。景斗も、本気で私を支えてくれた。佐原家の人脈を使って全国の医療ネットワークを動かし、トップ専門医に弟子入りできるよう、私を推薦してくれた。私は医術の才に恵まれ、腕は飛躍的に向上していった。彼の目を治したとき、私の恩師となったのが白川教授だった。半年前、白川教授が数名の医学生を連れ、海外の医療支援活動を行う計画を立てたとき、私は結婚を理由に断った。でも、今は違う。私は国境なき医師団と行動をともにし、より多くの命を救うと決意した。そうすれば――景斗は、もう私を見つけることはできない。書類をまとめ終えた頃、また見知らぬ番号から動画が届いていた。再生すると、沢木詩織が景斗の胸に寄りかかっていた。「景斗……私、一ヶ月だけ、あなたの妻になりたいの。一か月後に私が死んだら、みのりさんのところへ戻れ
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第3話

午前九時、景斗から電話がかかってきた。「マンションの地下駐車場で待ってる。降りておいで」あらかじめ用意しておいた供物を抱え、私は彼の車に乗り込んだ。祖母が亡くなったのは、私が大学二年のときだった。本当は、故郷の山の上に眠らせてあげるつもりだった。でも景斗は、「おばあさんをひとり田舎に置いていけない」と言って、南城の霊園に祖母を埋葬した。でも、今になって思う。私はこの街を去るつもりだし、どのみち祖母はひとりこの街に取り残される。あのとき、彼の約束なんて信じるべきじゃなかった。祖母のことを思うと、涙が止まらなかった。車の中で肩を震わせる私を見て、景斗は慌てて車を脇に寄せ、私を抱きしめた。「みのり、泣かないで……おばあさんが天国で心配しちゃうだろ」私の涙の理由なんて知らずに、彼は偽善的な態度を取り繕っている。この男は、最後まで私を騙し通すつもりなのだ。「……そうね。心配させちゃいけないわね。もう行きましょう」景斗は、私の顔を覗き込みながら言った。「みのり……何かあったのか?おばあさんが亡くなってもう随分経つのに、今日の君の様子はおかしいよ」私は首を振った。「ううん。ただ、急に恋しくなっただけ」彼に何度か問いかけられたけど、私は何も答えなかった。「……もう泣かないで。さもないと、おばあさんに『みのりは弱虫だ』って言いつけるよ?」私は黙ったまま、視線を落とした。墓地に着くと、供物を手に車を降りた。景斗が手伝おうとするも、私は避けた。「自分で、おばあちゃんに渡したいの」二人で並んで墓地の階段を登った。祖母の名前が刻まれた墓碑が目に入り、胸が張り裂けそうになった。私はゆっくりと膝をつき、墓碑に手を添えた。景斗も隣で膝をつき、手を合わせた。「おばあさん、安心してください。俺が、みのりを一生守ります」どうしてこの男は、祖母の前で平気でそんな嘘がつけるのだろう。私は袋の中から、赤い組紐を取り出した。祖母の墓前に置こうとしたそのとき、景斗が私の手首を掴んだ。「みのり……それって、俺たち二人のために編んだ組紐だろ?」私は小さく頷いた。「結婚式で交換するって約束したものだよな?」景斗は眉をひそめた。「式の日まで大事に取っておくって、言ってたじゃな
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第4話

心の中で祖母に別れを告げると、私は墓地の階段を降りようと背を向けた。景斗はその場に残り、墓前の線香が完全に消えるのを待ってから後を追ってきた。その瞬間だった。背後で沢木詩織の悲鳴が響き、階段から転がり落ちていくのが見えた。「詩織!」景斗は雷に打たれたかのように私を押しのけ、その拍子に石段へ叩きつけられた私に振り返りもせず、詩織のもとへ駆け寄った。「大丈夫か?骨折してないか?病院へ行こう!」彼は詩織を抱き上げ、その場を走り去った。その場に取り残された私は、さきほどの衝撃で右腕の袖が破れ、骨が覗くほどの深い傷を負っていた。血が溢れ、石畳を赤く染めていく。冷たい風が血の匂いを漂わせ、痛みで全身が震えた。それでも私は必死に立ち上がり、ふらつきながら霊園の門へ向かった。門にたどり着いたときには、景斗の車はもうどこにもなかった。その場にいた職員の方が血だらけの私を見て驚き、すぐにタクシーを呼んでくれた。「その女性を、すぐに病院までお願いします!」と、運転手に頼み込む声が聞こえた。赤の他人でさえ、こんなに気遣ってくれる。なのに、景斗は――病院で傷口を洗浄され、縫合される間、私は冷や汗を流しながらも、一度も声を上げなかった。「痛くないの?こんなに我慢強い人は初めてだよ」と、医師は驚いた顔で言った。私は答えず、ただ窓の外を見つめた。祖母が亡くなったあと、景斗が私の支えになると信じていた。でも今や、彼を私の人生から切り捨てるしかない。泣き言を言える相手なんて、もうどこにもいない。だから――強くならなきゃいけないのだ。会計を済ませて病院を出ようとしたとき、詩織を抱きかかえた景斗と鉢合わせた。私を見るなり、彼の表情が険しくなる。「みのり!詩織は癌で余命わずかだと言ったのに、どうして彼女を突き飛ばしたんだ!?君のせいで何かあったら、どう責任を取るつもりだ!」胸の奥で、何かがひび割れる音がした。「私が突き飛ばしたって、彼女がそう言ったの?私はそんなことなんてしてないわ!」景斗の目が冷えた色を帯びた。「みのり!あの石彫は、俺が彼女にあげると決めたんだ。文句があるなら俺に言えよ!病人に当たるなんて、君の優しさはどこに行ったんだ?」胸の奥が冷たくなり、言葉が自然に口をついた
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第5話

病院を出て間もなく、景斗から何度も電話がかかってきた。でも私は、出る気にはなれなかった。しつこく鳴り続ける着信音がようやく止むと、今度はメッセージが届いた。【みのり、白川教授を疑ったわけじゃないんだ。今日は焦ってて、言葉を選べなかっただけだ。教授にも、君にも謝るよ。教授に一言伝えてくれないか?】私は返事をしなかった。しばらくして、またメッセージが届いた。【詩織を連れて再検査した。彼女にはもう時間が残されていない。余命わずかの彼女に嫉妬しないでくれ。彼女を見送ったら、俺の残りの人生は君に捧げるよ。一ヶ月後、君を両親に紹介する。そしたら結婚式を挙げよう。これからはずっと一緒だ】私はスマホを閉じ、心の中で静かに答えた。――佐原景斗、私たちに未来なんてない。私のこれからの人生に、あなたはいらない。その夜、SNSを開くと、沢木詩織の投稿が目に飛び込んできた。景斗にスリッパを履かせてもらっている写真、マフラーを巻いてもらっている写真、スープを飲ませてもらっている写真……そして最後の一枚は、肩を寄せ合って微笑む二人の写真だった。画面越しの二人は、とても幸せそうだった。私はしばらくその画面を見つめ、最後にそっと「いいね」を押した。翌朝、私は帰郷の航空券を予約した。直行便はなく、いくつか乗り継ぎを経て、夕暮れ前に小さな町の停留所で降りた。荷物を抱えタクシーに乗り込み、舗装された山道を進んだ。数年前、景斗と一緒にこの山を出たとき、彼が出した資金で村へ続くコンクリートの道路が整備された。その道を通って、今では家の前まで車で行ける。私は何日もかけて、荒れ果てていた実家を少しずつ片付けていった。村の人たちは私が戻ったことに気づき、声をかけてくれた。「おかえり、みのりちゃん」「久しぶりだなあ、元気にしてたか?」子どもたちも笑いながら駆け寄ってきて、私の手を握った。私の故郷――桐ノ里は、資源も仕事もない貧しい村だ。舗装路ができても、外の世界には遠く及ばない。私は、ひび割れた手で私の服の裾を引く小さな女の子を見つめ、胸の中で決意を固めた。――ここを離れる前に、私にできることをしよう。でもこの村には、寄付を受け取る仕組みすらなかった。だから私は、自ら慈善団体に連絡し、何度も桐ノ里の
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第6話

胸が張り裂けそうになり、目の前が真っ白になった。震える手でスマホを握りしめ、連絡先を開いたが……誰にかければいいのかわからなかった。――佐原景斗?その名前が頭に浮かんだ瞬間、胸の奥が冷たくなった。もう、あの人は信じるに値しない。すぐに航空券を取ろうとしたが、直行便はなく、配車アプリでタクシーを呼び、夜行の高速鉄道に飛び乗った。南城市に着いたのは夕暮れ直前だった。空は重く垂れ込めた雲に覆われ、湿った風が頬を冷たく打った。タクシーから飛び降りると、私は霊園の中へ全力で駆け出した。祖母の墓のそばで、沢木詩織が骨壷を抱え上げようとしているのが見えた。「やめて!!」私は声を張り上げ、息が詰まるほど必死に駆け寄った。詩織が振り返り、不気味に笑うと、次の瞬間骨壷をわざと手から滑らせた。パリンッ!乾いた音が墓地に響き、骨壺は地面に叩きつけられ、粉々に砕け散った。私は崩れ落ち、割れた破片の上で両手を広げ、必死に灰を集めようとした。冷たい風が容赦なく私の腕をすり抜け、灰をさらっていく……「おばあちゃん……!おばあちゃん!!」声が枯れるまで泣き叫んだ。全部、私のせいだ。佐原景斗なんかを愛し、信じた私が間違っていた。どうして南城市へ来てしまったのだろう。どうして、佐原景斗を信じてしまったのだろう。私は立ち上がり、理性が吹き飛んだ頭で詩織を睨みつけ、そのまま突進した。「沢木詩織!おばあちゃんを返して!!」詩織は地面に尻もちをつきながらも、その唇にはまだ嘲笑の気配が残っていた。私がその頬に手を振り下ろそうとした、その瞬間――がっしりと腕を掴まれ、その一撃は宙で止められた。「景斗さん!橘さんが急に来て……私はわざと骨壺を落とすつもりじゃなかったの、ごめんなさい……」詩織が涙を流しながら縋るように言った。そして景斗は迷うことなく、彼女を庇った。「詩織、君のせいじゃない」その瞬間、胸の奥が凍りついた。張り裂けそうだった痛みさえ、すっと消えていった。私は景斗に振り向き、冷え切った声で告げた。「……手を離して」「みのり、詩織はわざとじゃないんだ……」その声には、不快感しか覚えなかった。心の底から気持ち悪いと思うこの男に、一瞬たりとも触れられたくなかった。
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第7話

みのりからの返信がないことに、景斗は胸騒ぎを覚えた。電話をかけようとスマホに手を伸ばしかけたその瞬間――「……け、景斗……」と、詩織が弱々しい声で彼の名前を呼んだ。景斗はまた詩織に気を取られるしかなかった。医者からは、余命三日と宣告されていた。詩織の顔色は真っ青で、水も食事も喉を通らず、呼吸をするたび苦しそうに咳き込み、ときどき血を吐いた姿を晒していた。……でも、それはすべて彼女の演技に過ぎなかった。沢木家は、佐原家ほど裕福ではなかったが、同じ階層の家柄で、両家の親同士は古くからの知り合いだった。景斗と詩織は幼い頃から一緒に育った幼馴染だった。二人は高校から交際を始め、家族にも祝福されていた。だが大学一年のとき、詩織が無理に景斗を誘って出かけた登山で、例の事故が起きた。詩織は、生死不明の恋人を崖に残したまま、逃げるように海外へと姿を消した。その日を境に、佐原家は彼女への態度を一変させた。景斗は、あの崖での瞬間を忘れられずにいた。崖から落ちかけたとき、必死に古木の根を掴み、辛うじて宙吊りになっていた。詩織は最初こそ手を伸ばし、景斗を引き上げようとしたが、彼の手を掴んだ瞬間、体重に耐えられず、顔色を変えて手を振り払い、その場から逃げ出したのだ。あの事故は――紛れもなく詩織が原因だった。その当時、景斗は詩織を責めたこともあった。でもその後、みのりと出会い、彼女と一緒に過ごす時間の中で、記憶も視力も回復し、そして笑顔を取り戻したのだ。そんな中、詩織が再び戻ってきた。沢木家の不動産業は破綻寸前で、詩織は癌を患っているという噂まであった。景斗は放っておけなかった。「詩織は余命はわずかで、みのりは一生添い遂げる存在」と、自分に言い聞かせながら、詩織を優先し続けた。「冷たい病院で死にたくないの……これが最後の願いよ、景斗お兄ちゃん……」詩織が「お兄ちゃん」と呼んだのは、子どもの頃以来だった。高校で付き合うようになってからは、決して使わなかった呼び方だ。その一言が、景斗の胸を再び貫いた。「わかったよ」景斗は頷き、詩織の願いを受け入れた。翌朝、詩織は「最後に景斗さんお手製のうどんが食べたい」と言った。みのりのために料理を覚えた景斗にとって、それは造作もないことだった。
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第8話

景斗は、何かを思い出した瞬間、狂ったようにその場を飛び出そうとした。「景斗さん……!」沢木詩織が縋るように彼の腕を掴んだ。しかし景斗はその手を力任せに振り払い、詩織を突き飛ばした。「どけ!」詩織の身体が地面に叩きつけられ、呻き声を漏らしたが、景斗は一度も振り返らなかった。彼はただ、全速力で家へ向かって走った。佐原家の人間は、みのりのことを「不釣り合いの女」だと見下していたため、景斗は必要な時にだけ実家へ戻り、普段はみのりと外で二人暮らしをしていた。みのりが医師になってからは、二人で病院近くの高級マンションで暮らしていた。家へ飛び込むなり、景斗は血走った目でリビングを見渡し、寝室へ駆け込み、洗面所のドアまで荒々しく開け放った。だが、どこにもみのりの痕跡はなかった。二人で撮った写真は一枚も残されておらず、ペアのマグカップも消えていた。みのりの私物も、生活用品も、一つ残らず片付けられていた。まるで、最初からここに彼女は存在しなかったかのように。景斗の心が、深く沈んでいった。彼はリビングの冷たい床に座り込み、目を閉じた瞬間、この一ヶ月、自分が何をしたのかが鮮明に甦った。「……みのり!」叫ぶと同時に、手が無意識に頬を打ち据えた。「みのり……俺が間違ってた!俺が悪かったんだ……!」血の味が口の中に広がるのも構わず、再び立ち上がり、階段を駆け下りた。ハンドルを握る手に力を込め、病院近くにある、もう一つのマンションへと車を走らせた。しかしそこも、空虚だった。家具だけが整然と残り、あの日々の温度はどこにもなかった。景斗は虚ろな目で部屋を見渡し、その場に立ち尽くした。頭が真っ白になり、これから何をすべきかも浮かばなかった。その時、不意に思い出したことがあった。震える指でスマホを取り出し、いくつかの番号を必死に押す。数分後、自分が用意したみのりの祖母の墓地が、未だ使われていないことが確認できた。次に、みのりの故郷へと電話をかけた。何度も繋ぎ直し、ようやく返ってきた答えは――あの日、景斗が詩織を連れて去ったあと、みのりは祖母の骨壺を抱え、夜のうちに村へ戻り、祖母の遺骨を村の墓地へ埋葬したということだった。景斗の背筋が一気に粟立った。みのりは……一体何を考えている?
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第9話

私は白川教授と共に、国境なき医師団の一員として戦地へ向かった。そこは砲火が飛び交い、街の至るところで負傷者がうめき声をあげていた。粗末な病院には、必要な薬も人手も足りず、ベッドすらまともに揃わなかった。私たちが病院へ到着した日、大規模な爆撃が街を襲い、次々と交通事故が連鎖するように発生した。救急車が次々と重症者を運び込んでくるも、それすら足りず、現地の人々が担架で負傷者を運び込む姿もあった。私は何かを考える暇もなく、教授らチームとともに、無我夢中で救命処置に飛び込んだ。縫合、止血、胸骨圧迫、気管挿管――その作業を幾度となく繰り返した。ようやく手術室から出られた頃には、到着から十数時間が経過していた。疲労でふくらはぎは痙攣し、腕は痺れ、関節が痛みで軋んだ。食事は口に合わなかったが、空腹で倒れるわけにはいかず、黙々と流し込んだ。食べ終えると休む間もなく、再び呼び出されて治療へ向かった。まる三日間、寝ることなく救命を続けた。生きるか死ぬかの境目で患者を救い、その狭間で無力感に襲われても、また次の負傷者のもとへ走った。時折仮眠を取るも、空襲警報が鳴り響き、その音で跳ね起きた。近くで爆発音が鳴るたびに、私は身をかがめて自分の安全を確保しながらも、ついさっき救った患者の安否を案じていた。怒りや悲しみに浸る余裕はなかった。この場所での死は、日常だった。大人だけでなく、まだ小さな子どもたちでさえ、戦争の犠牲になってあっけなく命を落としていく。ある日、片腕を失った小さな女の子が運ばれてきた。切断の意味すら、まだまともに理解できない年頃だった。退院前日、その女の子は私を見上げて尋ねた。「退院したら、お花のブレスレット、またつけられる?」胸が張り裂けそうになった。私はその子の包帯に、お花のブレスレットの絵を描いてあげた。女の子は屈託なく笑った。その笑顔はあまりにも眩しく、私は病室を出ると壁にもたれ、しばらく動けずにいた。呼吸を整え、震えを抑えてようやく顔を上げた時、白川教授が近づいた。「橘君、ここでやっていけそうか?」私は小さく頷いた。「……大丈夫です」数多くの儚く脆い命を目の当たりしたからこそ、命の尊さを痛感していた。そして、もっと多くの命を救いたいと強く思った。
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第10話

景斗はわかっていた。今すぐ自分の過ちを正し、みのりに誠意を尽くして償えば――まだ挽回できる余地は残されていると。だが、詩織が子どもを産めば、その可能性は完全に失ってしまう。「沢木詩織の腹の子なんて……要らない。俺はまだ若いし、子どもなんていつだって作れる」景斗は両親を前に、静かにそう告げた。だが両親は揺るがなかった。「お前は結局、橘みのりを取り戻したいんだろ?」父が低い声で問いかける。「彼女との子どもを望んでいるんだな?だが、もしみのりが戻らなかったらどうする?佐原家の跡取りはいなくなるぞ」その言葉を突きつけられた瞬間、景斗の表情がわずかに歪んだ。「みのりが戻らない」――その言葉が、鋭い刃のように胸を抉った。長い沈黙の末、景斗はまっすぐ父を見据えて答えた。「……それでも、俺はみのりを取り戻す。彼女と結婚して、彼女との子を持つ」梅子がすかさず問い詰めた。「もし橘みのりに子どもを産む気がなかったら?その時はどうするの?」景斗は視線を逸らさず、同じ言葉を繰り返した。「必ず取り戻す」その瞬間、両親は息子の覚悟を悟った。それでも、詩織の子どもを堕ろさせることだけは許さなかった。「いいか、景斗。お前は心配するな」父が告げる。「詩織には金を渡して海外で出産させ、二度と戻らせない。子どもは俺たちが責任を持つ。お前は橘みのりを取り戻すことだけを考えろ」景斗はしばらく黙り込み、父の提案を受け入れた。その会話を電話越しに聞いていた詩織は、思わず笑みをこぼした。彼女は、自分の勝利を確信したのだ。この計画は誰がどう考えても完璧で、景斗も最終的には納得すると詩織も梅子も信じて疑わなかった。赤ん坊さえ生まれれば、景斗は必ず自分の元へ戻ってくる。血を分けた子どもを、彼が無視できるはずがない。一度でも子どもに会いに来れば、その時には母親である自分にも会うことになる。そして何度も顔を合わせるうちに、過去の思い出を語り、少しずつ景斗の心を取り戻せばいい。雨垂れが石を穿つように、ゆっくりと確実に。詩織はそう信じて疑わなかった。梅子もまた、景斗への警戒を解き、詩織を高級マンションに匿った。しかし数日後、景斗はすぐに詩織の居場所を突き止めた。その日、会社の部下を連れてマン
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