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第80話

Auteur: 楽恩
さっきまで無表情でスマホをいじっていた宏が、ふいに顔を上げ、こちらに目を向けた。

逃げ場はどこにもない。

私は観念して、そのまま診察室から出る。

宏の顔つきが少しだけ変わり、穏やかな声で言った。

「……どうした?病院なんて、具合悪いのか?」

さっきまでアナに冷たく言い放っていたのとはまるで別人だった。

以前の私なら、そんな態度に「私だけに優しい」とでも思ってしまったかもしれない。

でも今は、そんな幻想にすがる余地もない。

そこにあるのはただ、冷めた嘲笑だけ。

私がまだ口を開く前に、アナが診察室の前にある電子掲示板をちらりと見て、ふっと笑った。

そして、わざとらしく大きな声で言う。

「へえ~、こんな専門医にかかるんだ?もしかして、HPVにでも感染した?あれってさ、だらしない生活してるとなるやつだよね~?」

その言葉に、周囲の視線が一斉に私に向く。明らかに、嫌悪と軽蔑を含んだものだった。

だけど私はむしろ、ほんの少しだけ安堵した。

視線を掲示板に移して気づいた。

どうやら担当医が交代したらしく、今表示されている名前は私が診てもらった医師とは違っていた。

ようやく理解する。

私は妊娠の確認で来たが、まだ妊娠三ヶ月未満のため産科ではなく、婦人科で診てもらうしかなかった。

もしこれが産科だったら――

どんな言い訳をしても通用しなかっただろう。宏はきっと、自分の権限を使って私の診療記録を調べ上げたに違いない。

私は小さく息を吐いて、気持ちを整えた。

「……そうね。妻がいちばん恐れるのって、夫がどこかの汚い女から病気をお土産に持って帰ってくることじゃない?」

「……っ」

アナの顔が引きつる。さすがにこれ以上この話題で突っかかってくる勇気はないようだった。

「じゃあ、ここで何してんのよ?」

彼女が苛立った声でまた聞いてくる。

私は微笑みながら、わざとゆっくりと答えた。

「さっき言ってたじゃない。夫からうつされた汚い病気を診てもらいに来たのよ」

「南、あんたね……!」

「黙れ」

宏の声が、氷のように冷たく割り込んだ。

その一言に、アナは顔を赤くして、悔しそうに唇を噛みしめる。

「どうして私を止めるの!?あの女、あんたのこと汚れてるってまで言ったのよ!?」

私は江川アナに視線を戻し、静かに言った。

「あら、ちゃんと分か
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