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第92話

Author: 楽恩
おじいさんに見抜かれた私は、もう迷うことなく頷いた。

「はい」

するとおじいさんは軽く手を上げて、土屋じいさんに何かを持ってくるよう示した。差し出されたのは、一枚の黄ばんだ診療記録だった。

私はそれを受け取り、ページをめくった瞬間――心臓が見えない手でぎゅっと握られたような衝撃を受けた。

江川宏。

彼が子どもの頃、長年にわたって心療内科に通っていた記録だった。

私は思わず顔を上げた。信じたくない。あんな完璧なエリートが、心の治療を受けていたなんて。

唇を動かすまでにしばらくかかった。

「彼……どうして……」

けれど次の瞬間、ふと腑に落ちる感覚があった。

生まれてすぐに母を亡くし、父は別の女性に夢中で家庭は荒れ、愛情は継娘にばかり注がれていた。

――心に傷を負っていても、なんら不思議じゃない。

「ここ数年、あいつに話すべきか悩んだこともあった」

おじいさんは深くため息をつき、老いた目に鋭さを宿らせながら言った。

「だが、いつかは自分で知ることになる。ずっと隠しておけるもんじゃないからな」

……

江川家の旧邸をあとにした私は、胸の内にざわつきを抱えたまま帰路についた。車を運転しながら、右目のまぶたがずっとピクピクと痙攣していた。

普段ならそんなの気にもしないけれど、今日ばかりは、胸が妙にざわついて仕方がなかった。

ちょうどマンションの駐車場に入ろうとしたそのとき――

宏から電話がかかってきた。

心臓がひときわ強く脈打つ。「……もしもし?」

「おじいさんが倒れた! 今、救急車が向かってる」

「え、わ、私、すぐ戻る……!」

頭が真っ白になり、声が上ずった。そのとき、宏の落ち着いた声が電話口から響いてきた。

「南、落ち着いて。こっちには来なくていい。聖心病院に直接向かって」

「う、うん……わかった……」

頭の中が真空になったように何も考えられなかった。

電話を切ったあと、私は車を警備員さんに託して「代わりに停めてください」とお願いし、そのまま道端でタクシーを拾った。

前回のことがあるから、こんな状態で運転する勇気はなかった。

病院に到着してタクシーを降りたとき、ちょうど救急車がサイレンを鳴らしながら横を駆け抜けていった。

――おじいさん!

お腹の子のことを思えば、全力で走るわけにもいかず、ただ足早に救急車のあとを追
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yas
クソ女!!!!おじいさんに何いった!?
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