圭介はさっと腕を伸ばした。香織は腰に重みを感じたかと思うと次の瞬間、どしんと分厚い肩の上に放り出されていた。「痛いっ!」声を上げた途端、唇が柔らかな感触に包まれた。「ちょっと……?」ぼんやりとした意識の中、香織は自分の体に忍び寄る彼の手を押さえた。彼女はあえて甘えるように言った。「あなたってほんと……」返ってきたのは、言葉ではなく、より深く、繊細なキスだった。外ではいつの間にか強風が吹き始め、木の葉が舞い散っていた。気づけば、香織のパジャマはすでに半分ほどはだけていた。二人が情熱に溺れかけたその時――「ママ~!」パタンとドアが開き、布団を抱えた双が飛び込んできた。「ママ……外、風がすごくて……こわいよ……」まだ幼い子どもにとって、突然の嵐は恐怖そのものだった。「ちょっ、ちょっと待って!」子どもの声を聞いた瞬間、香織は目を見開いた。見下ろせば、すでに胸元はかなりはだけていた。彼女は慌てて布団をかぶり、裸に近い体を隠した。「双か!」苦笑いを浮かべながら、香織は圭介を小突いた。一方の圭介は服こそきちんと着ていたものの、上のボタン二つが外れ、鍛え上げられた胸元がちらりとのぞいていた。双はきらきらした目で二人を見つめた。圭介は額に手を当ててつぶやいた。「本当に眠れなかったのか?」実際のところ、双はわりとしっかりした子どもだ。ただ、甘えたかったのだ。双はにこやかに笑い、真っ白な歯を見せた。そしていたずらっぽく笑いながら言った。「だって、こわかったんだもん」そんなこと言って、風に怖がったことなんて見たこともない。嘘にもほどがある。顔にまだ微かな赤みを残した香織は、さっき布団の中で慌てて服を整えたようだった。双は怖がっているふりをしながら、指先で服の裾をいじっていた。「だって……外、すごい風だったし……」圭介は手招きした。「おいで」すると双は飛びつくようにベッドに登った。そして膝を立ててベッドの上で揺れると、スプリングが心地よく沈んだ。「このベッド、ふわふわ〜」香織は彼の頬をつねった。「あなたのベッドもふわふわでしょ?」「うん、ふわふわだよ」双はにっこり笑って香織の胸にすり寄った。圭介は彼をぐいっと引き離して問いかけた。「自
子どもにとって、憲一は間違いなく責任感のある父親だった。「わかりました」憲一が子どものために言っているのだと理解して、由美は頷いた。「娘さんは、本当に幸せなお子さんですね。松原さんのようなお父さんがいて……」それを聞いて、憲一は苦笑を浮かべた。壁の時計に目をやると、もうすでに午前1時を回っていた。「もうこんな時間か……」由美が提案した。「今夜は松原さんが、お子さんと一緒に寝てあげてください。一人にしておくわけにはいきませんから。明日、私の家の荷物を少し片付けて、こちらに運ぼうと思っています。夜中に赤ちゃんが起きることもあるので、なるべくこちらで世話できるようにしたいです」憲一は頷いた。「送っていこうか?」何度か迷った末、彼はついに口を開いた。「いえ、大丈夫です」由美はごく自然に手を振った。「私の住んでいるところは、ここからそう遠くありません。それに、松原さんにそこまで気を遣わせるなんて、とんでもないです」そう言って、彼女は背を向けて出て行った。——今の住所を知られたくない。彼なら、少し調べればこの部屋が香織に手配してもらったものだと、気づくかもしれない。もしそうなれば、きっと疑念を抱かれるだろう。由美はタクシーを拾って帰ることにした。窓にもたれかかりながら、彼女は外の流れる夜景をじっと見つめた。――やっとの思いで、ようやく娘に会えた……でも、あんなに苦しむ姿を見てしまうなんて……胸が引き裂かれる思いだった。「娘よ……」車窓を流れていく街の光を眺めながら、由美は小さく呟いた。タクシーは夜の闇に紛れて走り去った。……一方その頃、香織の家。「パチパチ」香織は洗面台の前で顔を軽く叩いていた。最近肌が乾燥気味で、念入りなケアが必要だった。圭介はベッドに半ば横たわりながら、手に書類を持って読んでいた。テーブルのあたりから響く音に、彼は手元の書類をふと置いた。「もう使い切ったのか?」そう言いかけたとき、香織が小声で呟くのが聞こえた。「切らしちゃった」圭介は眉をひそめた。「一緒に買いに行こう」すると香織は、慌てて振り向いた。「大丈夫! 私がひとりで買ってくるわ!」圭介はそれ以上何も言わず、再び書類に目を落とした。部屋の中は静
「先生!」由美は憲一の言葉をまるで聞いていないかのように、再び医師の方を振り返った。「……この子、まだこんなに小さいのに、こんな状態になって……将来的に、何か後遺症が残ったりしませんか?」処方箋を記入していた医師は、ペンを止めて小さく首を振った。「今さら心配しても遅いですよ。あれだけ長く熱が続いていても、放っておいたじゃないですか?子どもってのはね、大人のちょっとした不注意で命を落とすことだってあるんです。あと一日遅れてたら、脳に影響が出てたかもしれないですよ。次は絶対に気をつけてください!」「はい……本当に、申し訳ありません……」由美は何度も深く頷いた。薬を受け取ると、その子はすでに注射を終えていた。小児科を出た頃には、由美の身体はもう力が入らず、ぐったりとしていた。その様子を見ていた憲一は、支えてあげたい気持ちはあったものの、立場的に簡単に手を差し伸べることはできなかった。我が子を必死に守ろうとする姿を見て、彼は思わずため息をついた。「俺が悪かった……前に雇った家政婦があまりにも頼りなくて……水原さんがいてくれれば、これからは安心できる」由美は振り返り、にっこりと微笑んだ。「こんなに良いお給料を頂いているのですから、子供の面倒も見られないようではいけませんよ」そして、さらりと話題を変えるように言った。「それに……松原さんと私の従兄は知り合いですし。もし何かあったら、従兄にも顔向けできませんから」二人の会話はどこまで行っても形式的だった。それが、二人の今の関係を如実に表していた。病院から家までは、まだ少し距離があった。帰り道、車内はしばらく無言だった。赤ちゃんは、ようやく落ち着いた表情で眠っており、真っ赤だった顔もすっかり元に戻っていた。その寝顔を見つめながら、由美の表情にはやわらかな愛情が浮かんでいた。「そういえば……」家の前にたどり着いたとき、憲一がふと思い出したように口を開いた。「水原さん、今どこに住んでます?」由美の胸がざわめいた。「……え?」彼女は思わず声が上ずった。「あ、別に深い意味はなくて」その様子に気づいた憲一は慌てて笑顔を作った。「俺は最近仕事で朝早くから夜遅くまで忙しくて、しかも不規則な生活だから……もし水原さんの住まいが
憲一の心には怒りが渦巻いていた。「今すぐ荷物をまとめて出て行け。うちにはもう君は必要ない!」短く冷たく言い放つと、すぐに自分の上着を手に取り、振り返った。「水原さん、行きましょう」由美は振り返ることなく、子供を抱いたまま外へ駆け出した。幸い車はガレージに入れておらず、すぐに出発できた。運転中、憲一が横顔を盗み見ると、由美の顔には心配と焦りがにじんでいた。「急いでください!」道中、由美は焦燥に駆られていた。憲一もまた、一瞬たりとも油断せず、ハンドルを強く握った。病院に飛び込むと、由美はようやく胸を撫で下ろした。大病院では、受付と診察の順番待ちが何よりも時間がかかる。憲一は病院へ入る前、自分の知り合いの医師に急いで電話をかけた。「小児科の緊急予約を取れないか?」電話口で、彼は明らかに焦りを露わにし、こめかみに青筋を浮かべていた。子どものことを本当に心配していた。ただ、こんな急に熱を出すとは思っていなかっただけなのだ。2分ほどの通話で、彼は無事に小児科の緊急予約を確保した。彼らは子どもを抱えて小児科の診察室へ急ぎ、そこで迎えてくれたのは経験豊富そうな年配の医師だった。「ご安心ください」聴診器を当てて様子を見たあと、医師は穏やかに言った。「恐らく、ちょっとした風邪によるものです。こちらでもう少し検査をしてみますので、少々お待ちください」その言葉を聞いた瞬間、由美は胸をなでおろした。ふらりと足元が揺らぎ、危うく転びそうになった。幸い手すりがあったため、どうにか体を支えられた。手術の後遺症で、まだ体力が完全には回復していないのだ。「親として、気づかなかった俺が悪かった」検査の待ち時間の間、憲一は深く反省していた。「仕事が忙しくて、子どもを家政婦に任せるしかなかったんだ……それが、まさかこんな信用できない相手だったとは……」由美は何も言わなかった。──子どものことは、些細なことでも見逃してはならない。もし自分が側にいれば、仕事を捨てても我が子を傷つけたりはしなかっただろう。憲一のことなど、今はどうでもよかった。彼女は、ただひたすら目の前の医師の動きを見守っていた。医師は手際よく検査を終えると、二人を部屋に呼んだ。「熱はすでに1~2日続いていた
二人は急いで部屋に入った。家政婦は子供を抱いてあやしていた。その姿を見た由美の表情は、一瞬で険しくなった。「ちょっと、あなた……何してるの?」「こんなに小さな赤ちゃんに、その抱き方は何ですか?基本の抱き方すら、教わっていないのですか?」そう言いながら、彼女は家政婦の腕から赤ちゃんをやさしく受け取った。泣きすぎたせいで、赤ちゃんの声はすっかりかすれていた。その顔を見た瞬間、由美の瞳が潤んだ。──この子は、私の子ども。十月十日、お腹の中で育てて、生み出した命。ずっと会いたかった娘が、ついに目の前にいる──「……旦那様……」家政婦は戸惑った様子で声を漏らした。──今まで誰も抱き方について、指摘したことはなかったのに……「私は……」当惑した家政婦は言葉に詰まった。「掃除をしてくれ」憲一は手を振って彼女を追い払った。彼は由美を見つめた。──確かに言っていることはもっともだ。仕草もまさに保育士のようだ。だが、どうして彼女はこんなにも緊張している?「よしよし……怖くないよ、もう大丈夫」憲一はドア枠にもたれかかった。窓から差し込む陽の光が、そっと彼女の肩に落ちた。由美は子供を優しくトントンと叩いていた。「よしよし……大丈夫よ、大丈夫……この抱き方なら楽でしょう?」かすかな声だが、憲一にははっきり聞こえた。──その背中を見ていると、どうしてもあの顔が思い出される……だが、この人は「彼女」ではない。「松原さん!」憲一が思いにふけっていたそのとき、由美が突然振り返った。「赤ちゃんのおでこが少し熱いです。子ども用の体温計はありますか?」ほんの少し娘とふれあっただけで、由美はすぐにその異変に気づいた。泣き続けていたのも、おそらく体調不良のせいだろう。「……熱い?」憲一は目を見開いた。そしてすぐさま家政婦に視線を向けた。彼女は呆然と立ち尽くしていたが、慌てて近くの棚から体温計を取り出した。「これは大人用です……まあ、赤ちゃん専用のものは、用意していないのでしょうね」通常、体温計は共用できるが、乳児の免疫力を考えれば別々が望ましい。体温計を手に取ると、彼女は自然な手つきでそれを赤ちゃんの脇に挟んだ。──数分後。体温計を確認した
「この給与、海外にいた頃よりも高いです。ご安心ください、必ず全力でお子さんをお世話いたします」由美はそう言いながら、店員にペンを頼み、手慣れた様子で署名欄に名前を書き入れた。ペンを置くと同時に、憲一が手を差し出した。「では、よろしくお願いします」その手を、由美は躊躇いなく握り返した。――娘に会える、その瞬間が、すぐ目の前にある。両手が触れ合った瞬間、憲一の心臓が再び高鳴ったが、何も語らなかった。「そうだ」契約書をカバンにしまいながら、憲一がふと思い出したように言った。「実は、うちの子ども、名前はあるんですが、正直ちょっと気に入っていなくて……何かいい名前の候補はありませんか?」突然の話に、由美は一瞬固まった。――あの子の名前は、自分と明雄がつけたものだ。だが今や彼は亡くなり、自分の顔も変わった。憲一が名前を変えようとしているのも、無理はない。むしろ、まだ幼い今のうちに変えてしまえば、過去との縁もすっぱり断ち切れるかもしれない。「そうですか……」少し悩むふりをしてから、由美は静かに首を振った。「私はただお子さんのお世話をする立場の人間ですから、命名のような大切なことは、ご家族で決めるのが良いと思います。でも、もしご希望でしたら……一つ、良い名前があります」憲一の瞳が、わずかに揺れた。「ぜひ聞かせてください」「『瑠璃』(るり)という名前はいかがでしょうか?松原さんも、お嬢さんが気品があって、しっかりした女性に育ってほしいと願っているはずでしょう」つい余計なことを口にしてしまった。元の名前も良かったが、せめて命名の提案をして、母親として少しでも関わりたいという本心が滲んだ。「松原瑠璃……か……」憲一はその名前を繰り返し、味わうように口にした。彼は由美に視線を向け、口元に笑みを浮かべた。「良い名前ですね」しばらく黙り込んだ後、憲一はふっと前方を見つめて笑った。「水原さんはきっと、よく本を読んでこられたのでしょうね。水原さんのような方に子どもを預けられるなら、安心できます」由美はそっと視線を落とし、控えめに言った。「ありがとうございます」「それで……いつから出勤可能ですか?」少し躊躇い、憲一は眉をひそめた。「今の家政婦では子どもの世話がうまくできなくて、掃除くらいし