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第985話

Author: 金招き
憲一の声は低く、どこか震えていた。

「飲まないなら、俺が手を出さないとは限らないぞ」

明雄は憲一の気持ちを理解していた。

だが、どれだけ理解しようと、由美を譲るつもりはなかった。

彼は深く長いため息をついた。

そして、グラスを手に取り、一気に飲み干した。

憲一もまた、自分で酒を注ぎ、無言で一杯飲み干した。

グラスをテーブルに置く音が、やけに大きく響いた。

「この酒……本当にきついな」

喉を通るたびに心臓が締め付けられるようだ。

明雄が彼のグラスに酒を注ぎながら、穏やかに言った。

「この酒、匂いも味も強烈だ」

憲一は目を上げて彼を見つめた。

「強烈なものを……お前はよく飲めるな」

明雄も自分のグラスに注ぎながら答えた。

「よく味わってみると、意外と甘いんだ」

「……それ、酒の話か?」

憲一は深い目で彼を見た。

明雄は笑って言った。

「そっちこそ、酒の話か?」

何を語っているのか、本人たちにもよく分からなかった。

だが、ふたりは顔を見合わせて笑った。

憲一はグラスを掲げ、彼と乾杯した。

「やっぱり、お前の方が……幸せだな」

その点について、明雄も否定はしなかった。

ふたりは同時に一気に飲み干した。

明雄はまた酒を注いだ。

「酔っ払って帰ったら、奥さんに怒られたりしないか?」

憲一が少し茶化すように尋ねた。

明雄は笑った。

「……かもな」

本当は、今日は深酒するつもりじゃなかった。

けれど、憲一の様子があまりにも痛々しくて――

この酒が少しでも慰めになるのなら、いくらでも付き合おうと思った。

「……怖くないのか?」

憲一は唇を舐めて言った。

明雄は答えた。

「怖くないよ」

「なあ、一人の女の子が法医学を選ぶなんてさ……毎日遺体を見て、それでも怖くないのかな?」

由美がその専攻を選んだ時、憲一は強く反対した。

彼は彼女に、普通の医者になってほしかったのだ。

その問いに、明雄は答えず、静かに一杯飲み干した。

確かに、女の法医学者なんて滅多にいない。

だから最初は、彼女を「すごいな」と尊敬していた。

けれど彼女が仕事の中で見せる細やかさと冷静さに、次第に惹かれていった。

どんな現場でも動じず、落ち着いている彼女に。

いつからか、その尊敬が「好き」に変わっていた。

気づけば、もう目が離せ
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