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第1216話

Author: 夏目八月
しかし芝居の間中、紅葉女御は話しかけ続けた。時折可愛らしく笑い、さくらの腕を軽く押すしぐさまでして、まるで親しい間柄であるかのように振る舞った。

二人のやり取りは周囲の妃嬪たちの注目を集め、何度も覗き込むような視線が向けられた。

とはいえ、さくらは時折相槌を打つか頷くだけで、表面的な笑顔を返す程度だった。

しかし周囲はそうは見ていなかったらしく、芝居が終わった後、清良長公主も寧姫もさくらに尋ねた。「紅葉女御とは前からの知り合いだったの?」

「いいえ、今日が初対面です」さくらは首を振った。

「初めてお会いになったのに、もうそんなにお近しいのですか?」寧姫は驚きの表情を隠せなかった。

清良長公主は事態を見抜いたようで、眉を寄せた。「あの女とは距離を置きなさい。下心があるわ」

さくらも気づいていたが、皆が芝居に夢中になっている時に立ち去れば、太后や皇太妃の興を削ぐことになりかねなかった。

この紅葉女御は決して愚かではないが、さして賢くもない、とさくらは見て取っていた。

芝居が終わり、紅葉女御は胸を撫で下ろしているようだったが、定子妃や敬妃の視線が冷たさを帯び始めていることには気づいていないようだった。

さくらは後宮の事情にはあまり関与しないものの、宮中の妃たちの気質は理解していた。新入りが寵愛を受けることは容認しても、権力の手を伸ばしすぎれば、黙ってはいないだろう。

それに紅葉女御は何も理解せずに動いている。皇后が最も嫌う自分に近づこうとするなど、まさに皇后の目の上の瘤となるような行動だった。

宮宴が始まると、さくらは斎藤帝師の姿を目にした。

御花園を行ったり来たりしていたのも、帝師との対面を避けたかったからだ。とはいえ、いずれは顔を合わせねばならないことも分かっていた。

夫が都を離れている今、さくらは親王妃であると同時に玄甲軍の大将でもある。そのため、配置された席は皮肉にも帝師の真向かいだった。

斎藤帝師は先帝の師であり、相良左大臣もまた先帝を教え、現陛下の師となった。二人が宮宴に招かれるのは当然のことだった。

彫刻を施した高級な食卓に次々と料理が並べられ、清和天皇が天地と恩師への感謝を込めて献杯を上げた。さくらは斎藤帝師の厳かな様子と、その儒者としての風格を目にしたが、脳裏には南風楼で目にした帝師の姿が重なって離れなかった。

その光景
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