登入三年前、偽令嬢と罵られ、家も婚約者も奪われた朝霧栞。深夜のコンビニで働く彼女の前に、彼女を捨てた父が現れ「妹の代わりに嫁げ」と告げる。相手は、黒い仮面と車椅子の怪物当主・榊律。けれど婚約の夜、彼だけが栞を偽物ではなく、本当の名で呼んだ。捨てた家族への断罪と、身代わり婚から始まる逆転ロマンス。
查看更多午前二時過ぎ。
私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の用ですか」 「少し、話がある」 「雑誌と公共料金でしたら、こちらで伺えます」 自分でも、よくそんなことを言えたと思う。けれど、深夜二時のコンビニに突然現れて「話がある」と言う父親より、仕事のマニュアルの方がまだ信用できた。 相変わらず、命令に近い言い方だった。 この人は昔からそうだ。会社でも家でも、自分が口を開けば周りが従うと思っている。三年前、自分の手で私を切り捨てたあとでも、その立場だけはまだ残っているつもりらしい。 笑ってしまいそうになった。 「もう如月家の人間じゃありません。そう言ったのは、あなたですよね」 言ってから、自分の声が思ったより平らで安心した。笑顔が必要なら接客用を貼れる。でも、この人にまで無料提供するつもりはなかった。 隆一の眉がかすかに動く。 その表情を見た瞬間、忘れたはずの景色が、喉の奥までせり上がってきた。 三年前。 父は一人の少女を連れて帰ってきた。 如月未央。 「この子が、本当の実の娘だ」 その日から、家の空気は少しずつ変わった。 両親は、表向きは今まで通りに接してくれた。けれど、食卓で私の話を聞く時間は短くなり、母の笑顔は薄くなり、父は私を見るたびに、何かを測るような目をした。 未央だけは違った。 「お姉ちゃん」と無邪気に呼んで、私の服を真似し、同じ紅茶を選び、同じ本を読もうとした。 私は、それを本気で慕われているのだと思った。 血が繋がっていないと分かった途端に、失われていくものばかりだった。だから、妹ができたと思えばいい。そう自分に言い聞かせていた。 けれど、あの日。 未央は父の前に、大量の写真と一通の封筒を置いた。 「お姉ちゃん、こういう場所に出入りしてたの。ホストばかりいるような、下品なお店に。それだけじゃないわ。会社の資料まで、外の人に渡してたみたい」 写真には、私に似た女の横顔が写っていた。 封筒には、如月グループの内部資料らしきものが入っていた。 どれも、身に覚えがない。 「違う。これは何? 未央、誰に頼まれたの」 私は彼女の手首を掴んだ。 問い詰めるつもりだった。痛めつけるつもりなんてなかった。 それなのに未央は、待っていたようによろめき、テーブルの角へ額をぶつけて倒れ込んだ。 床にうずくまった彼女は、涙に濡れた目で私を見上げた。 ――お姉ちゃんに、押されたの。 父は、私の言葉を聞かなかった。 頬に熱い痛みが走る。 ――出て行け。お前はもう、如月家の人間ではない。 その夜、土砂降りの雨の中で、私は婚約者だった桐生司に何度も電話をかけた。 信じてほしかった。 せめて一言、話を聞くと言ってほしかった。 ようやく繋がった電話の向こうで、司は言った。 ――悪い、今は無理だ。病院で未央に付き添っている。 それきりだった。 家も、大学も、婚約者も、その夜に消えた。 悪い噂はあっという間に広がった。私は大学に戻れなくなり、昼は会計事務の単発仕事を請け、夜はこうしてコンビニに立つようになった。 一千以上の夜を、この下町でやり過ごした。 信じられるものは少ない。 通帳に残った数字と、自分で押したタイムカード。それだけは、私を裏切らなかった。 「栞」 隆一の声で、現在に戻る。 私はまっすぐ彼を見た。 「……今さら、何ですか」 隆一は唇を引き結び、しばらく黙った。 いつもの彼なら、私に沈黙など向けない。命じ、断じ、終わらせる。それだけだった。 その男が、迷っている。 「……祖母が、危篤だ」 息が詰まった。 「静江さんが……?」 如月静江。 如月家で唯一、私を本当に孫として抱きしめてくれた人だった。 血が繋がっているかどうかを誰かが騒ぎ立てるより前から、静江さんだけは私の手を握り、「栞は栞でいい」と言ってくれた。 「もう長くないと医者に言われた。意識があるうちに、どうしてもお前に会いたがってる」 「どうして、あなたの言葉を信じなきゃいけないんですか」 声が震えた。 レジの下で拳を握る。まだこの人の言葉ひとつで乱される自分が、悔しかった。 隆一は目を伏せた。膝の横で握られた拳が、かすかに震えている。 「本当だ」 掠れた声だった。 そして、信じられないことに、隆一はレジカウンターの前で頭を下げた。 「頼む。……病院へ来てくれ」 かつて私を追い出した男の頭頂部が見えた。 滑稽だと思えばよかった。 ざまあみろと笑えばよかった。 けれど、静江さんの名前を聞いた瞬間から、息の吸い方が分からなくなっていた。 私は唇を噛んだ。 如月家に戻るわけじゃない。 父を許すわけでもない。 ただ、あの人に会う。 会わなければ、きっと一生後悔する。 「……行きます」病院の面談室へ移されたあと、駆けつけた医師が私の左手首を診察した。 骨折や捻挫はないが、白い皮膚の上に、男に強く掴まれた指の跡がくっきりと赤い帯になって残っている。警察へ提出する可能性があるなら湿布だけで済ませない方がいいと説明され、医療用の写真撮影の同意書に署名した。自分の手首の痛みが、診療録の中で『左手関節部圧迫痕』という無機質な文字に変わっていくのが、どこか他人事のように見えた。 葵さんとの面会は中止――正確には延期になった。悔しかったが、病院の正面玄関でこんな襲撃が起きた以上、母の安全を最優先にするしかなかった。「高瀬さん、先にこれを。窓越しに撮った動画です。運転手の端末画面が映っています」 私がスマートフォンを渡すと、高瀬さんと相良さんが即座に画面を確認した。「『KJ-PS』……九条康生氏の私設秘書室で使用されている内部略称と一致します。送迎会社から一次回答も来ました。外部の秘書代行システムを経由していますが、接続元IPと認証コードの発行先が康生氏の私設秘書室の管理端末です」 相良さんがさらに画面をスクロールし、目元を鋭く細めた。「待ってください。今日の送迎予約ログの内部備考欄に、奇妙な付帯コードが残っています。『SYM_RLC_NGN』……KMS系の秘書代行で過去に使われていた業務タグと照合すると、SYMは狭山(Sayama)、RLCはリロケーション、NGNは長野県内の拠点コードと見られます」 私は椅子から身体を起こした。「狭山って、二十四年前の白桐産院の看護師長ですよね!? なぜ私の拉致未遂の予約と同じ端末に、看護師長の移転タグがついているんですか」「発注元の管理端末が、朝霧様の移送手配と、長野にいる旧看護師長・狭山氏の転居手配を同じ作業枠で処理していた可能性があります。康生氏側が、証人である狭山氏を先に動かして隠そうとしているということです」 高瀬さんと相良さんが警察および現地調査班との連携に動く中、私はふと、隣にいる律がさっきからずっと黙っていることに気づいた。 律は黒い仮面の奥から、私の左手首に残る赤い圧迫痕だけをじっと見つめていた。
だが、次の呼吸で、私の側のドアが半分開いた。患者のふりをしていた男が、その隙間から私の左腕へ手を伸ばした。 車内で律が上体を起こす気配がした。相良さんがもう一人の男へ向き直るのが、窓越しに見えた。 ドアの取っ手には、係員のような顔をした三人目の手がかかっていた。窓越しの運転手へ注意を向けている間に、私の側へ回っていたのだ。 手首を掴まれる。 冷たい指だった。 身体が、一瞬で昔の階段へ戻りかけた。 掴まれる。引かれる。倒される。見られる。 違う。 今は違う。 私は肩を引かず、逆に手首を内側へ回した。コンビニの夜勤で、酔客に腕を取られた時、店長から一度教わった外し方だ。完全には外れない。けれど、相手の力がずれた。「相良さん」 声は震えていた。 でも、出た。 次の瞬間、相良さんが男の手首を押さえ、車のドアから引き離そうとした。男が踏ん張り、靴底が舗装を擦った。 律が車内から低く言った。「朝霧さんから手を離せ」 声が荒いわけではなかった。 それなのに、男の指が一瞬だけ強張った。 車椅子に座っている。黒い仮面で顔を隠している。噂に守られ、噂に閉じ込められてきた人。その人の低い声が、今は私の腕に食い込む指を止めていた。 男の指が緩んだ隙に、私は掴まれていない右手で、スマートフォンのカメラを窓の外へ向けた。 録画は続いている。画面の端に、偽送迎車のナンバーと、窓の外にいる運転手の端末が映っていた。「その画面、消さないでください」 言ってから、ようやく左腕が痛いことに気づいた。記録を残さなければと考えている自分が、他人のようだった。 自分の声が、病院前の空気に響く。 窓の外の運転手が、反射的に端末を伏せようとした。 相良さんは私の腕を掴んだ男の手首を押さえたまま、運転手に「そのままで」とだけ言った。 私は録画画面を見て、ナンバーが入っていることを確認した。「今、表示されてる予約番号と発注元、見えています」 録画画面の文字が揺れていた。左腕を掴ま
車の窓の外では、朝の街が薄く流れていく。通勤の人たちが横断歩道に立ち、コンビニの前では配送トラックがバックランプを点けていた。三年前、夜勤明けに見ていた景色と似ているのに、今の私はスーツの上にコートを着て、榊家の車に乗っている。 窓の外は明るいのに、車内だけ時間の流れが遅いようだった。 変な感じがした。 救われたからここにいる、ではない。 自分でここまで歩いてきて、途中から律が隣を歩くようになった。それがたぶん、今いちばん正確だった。「朝霧さん」「今度は何ですか」「病院に着いたら、少し待ってください」 律はそこで言葉を切った。短い間のあと、声を落とした。「……一人で行かないでほしい」「どうするかは、その時の状況を見て決めます」「でしょうね」 張り詰めていた呼吸が、ようやく緩んだ。律も、それ以上は何も言わなかった。 病院の正面玄関前は混んでいた。 タクシー、送迎車、介護車両、一般車。人の声とタイヤの音、車椅子のブレーキ音が重なっている。入口の自動ドアが開くたび、消毒液の匂いが外へ薄く流れてきた。 本来の榊側車両は地下駐車場へ入る予定だった。 けれど、その手前で、前の車にいる相良さんからの連絡を、運転手が受けた。「正面に出ました」 前席から、運転手が小さく言う。 窓の向こうに、黒いワンボックス車が停まっていた。病院の送迎車に見えるよう、側面には白いマグネットシートが貼られている。ロゴはある。だが、マグネットの端が浮き、急いで貼ったように傾いていた。 それだけなら、私には分からなかったと思う。 でも、降りてきた運転手の男は、病院の制服ではなく、濃いグレーのブルゾンを着ていた。胸の名札には、会社名の一部だけが印字されている。 彼は入口を見回し、こちらの車へ近づいてきた。「朝霧様ですね。葵様のご面会、病棟変更になっております。こちらへ」 声が、妙に滑らかだった。 私はドアを開けず、窓を少しだけ下げた。バッグからスマートフォンを取り出して録画を始め
翌朝の榊邸では、いつもどおり朝食が並んだ。けれど、私はトーストの半分も食べられなかった。 皿の上では、食べかけのトーストのバターが溶け残っていた。今日は紙の上の予定ではなく、私自身が外へ出て相手の前に立つ。 冷めた茶の色が、白い磁器の底で濃く見えた。 玄関ホールには、相良さんと警備担当が二人。廊下の先には宮野さんが立ち、私のコートの裾を見て、小さく眉を寄せた。「その靴でよろしいですか」「走りやすい方にしました」「走る予定はありません」「予定通りにいかない人がいるので」 宮野さんは一度息を吐き、それ以上は言わなかった。代わりに、手袋を差し出してくれる。薄い革の、指先まで動かしやすいものだった。 受け取ると、内側が少し温かい。たぶん、出る直前まで彼女が手に持っていたのだと思った。「ありがとうございます」「朝霧様が無事にお帰りになることが、今日の第一目的です」「葵さんに会うことじゃなくて?」「それは、無事の次です」 淡々とした声だったが、語尾には張りつめたものが残っていた。 私は手袋をはめた。指を曲げると、革が小さく鳴る。その音で、ようやく自分の手が冷えていることに気づいた。 律は玄関の少し奥で待っていた。黒い仮面と車椅子。外へ出る時の、いつもの姿。けれど、昨夜からその見え方が少し変わっている。 噂のための姿。 守るための距離。 そして、隠し方を間違えた人。「中止にする最後の機会です」 律が言った。「朝から脅さないでください」「脅しているつもりはありません。……あなたの口から、もう一度聞きたかった」「答えは昨日と同じです。行きます」 律は私を見た。 止めたい顔だった。たぶん、そうだ。今度は、その顔をごまかさなかった。「行ってほしくない、とは思っています」 思いがけず正直な言葉に、返事が一拍遅れた。「だから、行くなって言うんですか」 わざと試すような言い方になった。行くと決めたのは私な
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし