身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします

身代わり婚約者は白藤の女主人となる〜有馬子爵家に捨てられた私は、侯爵家に選ばれて家名でお返しします

last updateDernière mise à jour : 2026-06-10
Par:  中岡 始Mis à jour à l'instant
Langue: Japanese
goodnovel4goodnovel
Notes insuffisantes
10Chapitres
149Vues
Lire
Bibliothèque

Partager:  

Report
Overview
Catalog
Scanner le code pour lire sur l'application

榊原家の長女・紗和は、亡き母の形見である白藤の簪だけを支えに、「我慢できる娘」として生きてきた。 だが異母妹が嫌がった有馬子爵家との縁談を押しつけられ、身代わり婚約者として差し出される。 厳格な有馬家で尽くしても、待っていたのは冷遇と婚約破棄。 すべてを失った紗和の前に、母方の白藤商会から迎えが現れる。 彼女は捨てられた娘ではなく、白藤家が待ち続けた唯一の後継者だった。 帳簿、証文、家名を手に、紗和は自分を見下した家々へ静かに立場を覆していく。 さらに彼女を哀れむのではなく、女主人として認める侯爵家の男が現れ… もう、誰かの代わりにはならない。

Voir plus

Chapitre 1

1.白藤の簪(かんざし)

朝の光は、まだ薄かった。

障子越しに差し込む白い明かりは、部屋の隅まで届かず、畳の上に細く伸びて、箪笥の下で静かに途切れていた。榊原の帝都屋敷は、朝になるとよく冷える。磨かれた廊下も、きちんと拭き清められた柱も、どこか人の温もりを拒むような澄まし方をしていた。

紗和は鏡台の前に座り、櫛を取った。

鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらなかった。寝乱れた髪を整え、襟元を直し、帯の締め具合を確かめる。特別に目立つ装いではない。薄い鼠がかった藤色の着物は、古びてはいないが、新しくもなかった。柄も控えめで、座敷の端にいても邪魔にならない色だった。

華乃(かの)なら、きっと選ばない色だ。

そう思ってから、紗和は櫛を動かす手を少しだけ止めた。

比べるつもりはなかった。けれど、屋敷の中にいると、比べずにいられないものがいくつもあった。

華乃の部屋には、新しい反物が届く。明るい色の帯が置かれる。美佐乃が選んだ髪飾りが、季節ごとに増えていく。女中たちは華乃の部屋へ入る時、声の高さまで変える。戸を開ける前に名を呼び、返事を待ち、笑い声をこぼしながら支度を手伝う。

紗和の部屋にも、必要なものはある。

箪笥、鏡台、文机、針箱。どれも壊れてはいない。畳も障子も破れていない。けれど、そこにあるものは、みな静かだった。人の手が足りないというより、人の心が残りすぎないように整えられている部屋だった。

紗和は髪をまとめ、文机の引き出しを開けた。

奥に、薄い布に包んだ簪がある。

指先で布をほどくと、白藤の細工が朝の光を受けて、淡く浮かんだ。銀の地に、白い藤の花が小さく垂れている。派手な宝石は使われていない。遠目にはただの古い簪に見えるかもしれなかった。けれど近くで見ると、花びらの一枚一枚に細かな線が刻まれていて、先の細い房の揺れまで丁寧に作られていた。

母のものだった。

白藤千鶴。

その名を心の中で呼ぶと、紗和の指先はいつも少しだけ固くなる。

母の声を、紗和はもうはっきりとは思い出せない。抱き寄せられた腕の重さも、日ごとに遠くなる。けれど、ほんのわずかな記憶だけは残っていた。紙の匂い。乾いた木箱の匂い。母が何かを包む時の、迷いのない手つき。幼い紗和の髪を撫でる指が、いつも少し冷たかったこと。

そして、母がこの簪を手に取る時だけ、横顔がやわらいだこと。

白藤はね、強い花なのよ。

いつ聞いた言葉だったのか、紗和には分からない。母が本当にそう言ったのか、それとも長い年月の中で、自分がそうだったらいいと作った記憶なのかも分からなかった。

それでも、簪を見るたび、その声だけは胸の奥に戻ってくる。

紗和は簪を持ち上げ、鏡の前で髪に当てた。

白い藤が、黒髪の上で静かに垂れる。控えめなのに、そこだけ部屋の空気が変わったように見えた。

このまま挿していけば、美佐乃は何と言うだろう。

お母様のものを、まだそんなふうに。

耳の奥で、美佐乃の声がした気がした。実際にそう言われたことがあるわけではない。けれど、美佐乃は言葉にしないことを、表情だけで十分に伝える人だった。ほんのわずか眉を寄せる。視線を簪に落とす。口元だけを上げて、何も言わない。その沈黙が、紗和には言葉よりも長く残る。

華乃の前であれば、なおさらだった。

「姉様、その簪、少し地味ね」

華乃なら悪気なく言うだろう。そう言ってから、美佐乃の顔を見て、同じように微笑む。華乃はいつも、自分の言葉が誰かの胸に触れる前に、美佐乃の機嫌を確かめる癖があった。本人は気づいていないのかもしれない。けれど、紗和は知っている。

この屋敷では、誰が中心にいるかを間違えてはいけない。

紗和は簪をいったん下ろした。

けれど、そのまま布に包むことはできなかった。指先に残った冷たい重みが、手放してはいけないと言っているようだった。

少しだけなら。

紗和は髪の奥、正面からは見えにくい位置へ簪を挿した。白藤の房が、耳の後ろにひっそりと隠れる。鏡の中で首を傾けなければ見えないほどだった。

それでも、挿していると分かる。

自分だけには分かる。

そのことに、胸の奥がかすかに温まった。

戸の外で、控えめに声がした。

「紗和様。お支度はお済みでございましょうか」

女中の声だった。無礼ではない。決して粗末に扱われているわけではない。だが、その声には、早く用を済ませたいという薄い急ぎが混じっていた。

華乃の部屋へ向かう時の、あの弾むような声とは違う。

紗和は鏡から目を離した。

「ええ。今、参ります」

答えると、戸の向こうで衣擦れの音がした。

「奥様が、朝のお席に遅れぬようにと」

「分かりました」

それだけ言うと、女中は一礼した気配を残して去っていった。足音は軽く、廊下を曲がる頃にはもう別の誰かを呼んでいた。

紗和は立ち上がり、着物の裾を整えた。

声の調子に傷つくほど、幼くはない。女中たちにも暮らしがあり、屋敷の中の序列がある。誰に長く仕え、誰の機嫌を損ねてはならないかを、彼女たちはよく知っている。美佐乃に気に入られ、華乃に笑顔を向け、直清の前では静かに控える。

紗和にも、礼は尽くす。

ただ、それだけだった。

それだけで十分だと、いつから思うようになったのだろう。

紗和は文机の上に置いていた小さな袱紗を畳み直し、部屋を出た。

廊下の空気は冷えていた。素足に近い足袋越しに、磨かれた板の冷たさが伝わる。朝の屋敷には、炊事場から漂う湯気の匂いと、古い木の匂いが混じっていた。遠くで水を汲む音がする。障子の向こうから差す光はまだ弱く、廊下の端は青白く沈んでいた。

歩きながら、紗和は自然に背筋を伸ばした。

榊原の娘として、みっともない歩き方をしてはいけない。声を荒げてはいけない。戸を乱暴に開けてはいけない。人より先に笑いすぎてはいけない。困った顔を見せすぎてもいけない。

母が亡くなってから、その数は少しずつ増えた。

誰かに一度に命じられたわけではない。叱られたこともある。黙って見られたこともある。笑いを止められたことも、泣く前に部屋へ戻されたこともある。そうしているうちに、紗和の身体は自然と覚えていった。

どこで足を止めるべきか。

どこまで近づいてよいか。

何を欲しがってはいけないか。

廊下の先から、明るい笑い声が聞こえた。

華乃の部屋だった。

「まあ、華乃様、とてもよくお似合いですわ」

女中の声が弾んでいる。

「本当? お母様もそうおっしゃるかしら」

華乃の声は、朝の光より明るかった。軽く、少し甘えた響きがある。返事をする女中たちも、自然と笑っている。

紗和は足を止めた。

開いた襖の隙間から、鮮やかな色がわずかに見えた。淡い紅か、桃色か。華乃のために新しく仕立てられた着物かもしれない。部屋の中には、温かいものが集まっている気配がした。笑い声、衣擦れ、畳を歩く足音、女中が小物を差し出す音。そこでは、誰かが誰かを飾るために動いていた。

紗和は、そこへ入る用事がない。

姉なのだから顔を出してもよいのかもしれない。華乃に朝の挨拶をしても、不自然ではないはずだった。けれど、紗和の手は襖へ伸びなかった。

入れば、華乃は笑って呼ぶだろう。

「姉様、見て」

そう言って袖を広げるかもしれない。女中たちは少し身を引き、美佐乃がいれば、穏やかな顔でこちらを見るだろう。その時、紗和は褒めなければならない。明るく、自然に、少しも羨んでいない顔で。

それができないわけではない。

ただ、朝から自分の心をそこまで整えるには、少しだけ力が要った。

紗和は襖の前を通り過ぎた。

足音を立てすぎないように、けれど逃げるようには見えないように。廊下を曲がる直前、華乃の笑い声がもう一度背に届いた。

その声は、紗和を責めてはいなかった。

責めていないからこそ、紗和は胸の奥にある小さな空洞を、誰にも見せずに歩くしかなかった。

簪の先が、髪の奥でかすかに揺れた。

白藤の房は、外からはほとんど見えない。美佐乃にも、華乃にも、女中にも気づかれないかもしれない。けれど歩くたび、細工の重みが頭の奥で小さく存在を示す。

母は、ここにいる。

そう思うことだけが許されるなら、それでよかった。

紗和は朝の座敷へ向かった。襖の向こうには、父と美佐乃と華乃がいる。自分の席も用意されているはずだった。けれど、それが家族の輪の中にある席なのか、輪の端に置かれた場所なのかは、入る前から分かっていた。

それでも紗和は、乱れのない顔を作った。

そして、簪が見えないように首筋へ手を添え、静かに襖の前で膝をついた。

Déplier
Chapitre suivant
Télécharger

Dernier chapitre

Plus de chapitres
Pas de commentaire
10
1.白藤の簪(かんざし)
朝の光は、まだ薄かった。障子越しに差し込む白い明かりは、部屋の隅まで届かず、畳の上に細く伸びて、箪笥の下で静かに途切れていた。榊原の帝都屋敷は、朝になるとよく冷える。磨かれた廊下も、きちんと拭き清められた柱も、どこか人の温もりを拒むような澄まし方をしていた。紗和は鏡台の前に座り、櫛を取った。鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらなかった。寝乱れた髪を整え、襟元を直し、帯の締め具合を確かめる。特別に目立つ装いではない。薄い鼠がかった藤色の着物は、古びてはいないが、新しくもなかった。柄も控えめで、座敷の端にいても邪魔にならない色だった。華乃(かの)なら、きっと選ばない色だ。そう思ってから、紗和は櫛を動かす手を少しだけ止めた。比べるつもりはなかった。けれど、屋敷の中にいると、比べずにいられないものがいくつもあった。華乃の部屋には、新しい反物が届く。明るい色の帯が置かれる。美佐乃が選んだ髪飾りが、季節ごとに増えていく。女中たちは華乃の部屋へ入る時、声の高さまで変える。戸を開ける前に名を呼び、返事を待ち、笑い声をこぼしながら支度を手伝う。紗和の部屋にも、必要なものはある。箪笥、鏡台、文机、針箱。どれも壊れてはいない。畳も障子も破れていない。けれど、そこにあるものは、みな静かだった。人の手が足りないというより、人の心が残りすぎないように整えられている部屋だった。紗和は髪をまとめ、文机の引き出しを開けた。奥に、薄い布に包んだ簪がある。指先で布をほどくと、白藤の細工が朝の光を受けて、淡く浮かんだ。銀の地に、白い藤の花が小さく垂れている。派手な宝石は使われていない。遠目にはただの古い簪に見えるかもしれなかった。けれど近くで見ると、花びらの一枚一枚に細かな線が刻まれていて、先の細い房の揺れまで丁寧に作られていた。母のものだった。白藤千鶴。その名を心の中で呼ぶと、紗和の指先はいつも少しだけ固くなる。母の声を、紗和はもうはっきりとは思い出せない。抱き寄せられた腕の重さも、日ごとに遠くなる。けれど、ほんのわずかな記憶だけは残っていた。紙の匂い。乾いた木箱の匂い。母が何かを包む時の、迷いのない手つき。幼い紗和の髪を撫でる指が、いつも少し冷たかったこと。そして、母がこの簪を手に取る時だけ、横顔がやわらいだこと。白藤はね、強い花なのよ。いつ聞いた言葉だったのか、
last updateDernière mise à jour : 2026-06-07
Read More
2.奥座敷の席
朝餉の膳が下げられたあとも、奥座敷にはまだ茶の香りが残っていた。障子越しの光は、紗和の部屋に届いていたものよりずっと明るかった。庭に面した座敷はよく磨かれ、床の間には季節の花が生けられている。白い花器に挿された枝ものの影が、畳の上に細く落ちていた。茶器は揃いで、菓子皿には淡い色の干菓子が並ぶ。すべてが整っている。けれど、どこに座るかで、人の居場所は決まる。紗和は、床の間に近い上座ではなく、少し下がった場所に座っていた。父はすでに書斎へ下がっている。奥座敷には、美佐乃と華乃、そして紗和が残された。女中が茶を入れ直し、まず美佐乃の前へ置き、次に華乃、最後に紗和の前へと茶碗を運ぶ。順番は、いつも同じだった。女中の手つきは丁寧で、茶碗を置く音も静かだった。誰も紗和を粗末に扱っているわけではない。ただ、そこに迷いがないだけだった。美佐乃は、薄い藤鼠の訪問着をまとっていた。年齢を重ねた女の肌に似合う、控えめで品のよい色だった。帯留めの真珠が、障子の光を受けて小さく光る。動きの一つひとつに余裕があり、茶碗を取る指先にも隙がない。華族夫人のように見える。紗和は、幼い頃から何度もそう思ってきた。榊原家は華族ではない。けれど美佐乃は、まるで最初からその場に属している人のように振る舞うことができた。声を荒げない。笑いすぎない。叱る時も、言葉を細く選ぶ。だからこそ、その言葉は長く残った。「華乃、その帯はやはりよく似合いますね」美佐乃が言うと、華乃はぱっと顔を明るくした。今日の華乃は、淡い紅梅色の着物を着ていた。袖口には細かな花の刺繍が入り、帯は若草色に近い。朝の光の中で見ると、座敷の空気まで華やぐようだった。髪には新しい飾りが挿されている。まだ使い慣れていないのか、華乃は時折、指先でそっと位置を確かめていた。「本当ですか、お母様。少し子どもっぽくありませんか」「今のあなたには、その明るさがよいのですよ。若い娘らしくて、座敷が華やぎます」「では、お稽古にもこの帯で参ってよろしいでしょうか」「汚さぬように気をつけるならね」「はい。ああ、でも、お琴のお稽古の時は少し袖が邪魔かしら」華乃は笑いながら袖を持ち上げた。女中がすぐに身を寄せ、袖の流れを整える。「お琴の爪も、新しいものが欲しいわ。先のものは少し使いにくくて」「先月替えたばかりでしょう」「でも、
last updateDernière mise à jour : 2026-06-07
Read More
3.父の書斎
華乃の文を清書し終えた頃には、障子に映る光が少し高くなっていた。紗和は筆を置き、墨が乾くのを待った。文机の上には、華乃の下書きと、書き直した返書が並んでいる。華乃の文字は丸みがあって可愛らしいが、行の終わりになるほど少しずつ詰まり、言葉の運びもところどころ幼かった。紗和はそれを直しすぎないように気をつけた。華乃らしさを残しながら、先方に失礼のない形へ整える。それが、いちばん波風の立たないやり方だった。小間物屋への返事も書き終え、使いに渡すための包みを整える。美佐乃の好みに合い、華乃の年頃に似合い、なおかつ出入りの者が不快に思わぬ言葉を選ぶ。たった一通の返事にも、気を遣う先はいくつもあった。紗和は最後に自分の指先を見た。墨はついていない。爪の間も汚れていない。けれど、筆を持ち続けた指にはかすかな強張りが残っていた。そこへ、戸の外から声がした。「紗和様。旦那様が書斎へおいでになるようにと」紗和は顔を上げた。父が。胸の奥が、ほんの少しだけ持ち上がる。「すぐ参ります」返事をして、書き上げた文を乱れないようにまとめた。華乃の用向きは女中に託し、紗和は部屋を出た。父の書斎へ向かう廊下は、奥座敷へ向かう時とは空気が違っていた。人の出入りが少なく、足音も控えめになる。壁際には古い刀掛けがあり、今は刀ではなく、拵えだけが飾られていた。榊原家がまだ武家だった頃の名残だと、幼い頃に父から聞いたことがある。紗和はその前を通るたび、少し背筋を伸ばす。自分も榊原の娘なのだと、そう思いたかった。書斎の前で膝をつき、声をかける。「紗和でございます」中から、直清の穏やかな声がした。「入れ」紗和は襖を開け、静かに頭を下げた。書斎には、墨と古い紙の匂いが満ちていた。壁一面の書棚には、先祖代々の書付や漢籍、家の記録が並んでいる。大きな文机の上には、硯箱、筆立て、封書、いくつかの帳面が置かれていた。床の間には、先代が大切にしていたという書が掛けられている。力強い筆跡だった。紗和にはその書の意味をすべて読み解けるわけではない。けれど、そこに込められた重さだけは伝わってくる。榊原という名の重さ。父が守ろうとしているもの。自分が、その端にでも触れていたいと思ってきたもの。直清は文机の向こうに座っていた。痩せた面立ちに、静かな疲れがある。美佐乃のように整えた笑みを
last updateDernière mise à jour : 2026-06-07
Read More
4.我慢できる娘
夕方の光は、廊下の端からゆっくり赤みを帯びていった。紗和は文机の前で、最後の帳面を閉じた。昼過ぎに父へ見せるはずだった贈答品の控えはすでに整え、古い器の数も蔵番の覚えと照らし合わせておいた。返書の清書も済ませ、封をするばかりになっている。華乃の稽古先への文と、小間物屋への返事も片づけた。一つひとつは大きな用ではない。けれど、筆を置き、硯箱の蓋を閉めた時、肩の奥に鈍い重さが残っていた。朝からずっと、誰かの言葉を整え、誰かの用を先に済ませてきた気がする。紗和は指先を軽く揉んだ。墨を使い続けたせいで、右手の親指の付け根が少し張っている。痛いと言うほどではない。ただ、その小さな張りが、今日一日自分が何をしていたのかを静かに教えていた。その時、廊下を走りかけて止まる足音がした。「紗和お姉さま」華乃の声だった。紗和は手を止め、姿勢を正した。「はい」襖が少し開き、華乃が顔をのぞかせた。夕方の光を受けて、紅梅色の着物がいっそう明るく見える。昼間より少し髪飾りが傾いていたが、それも華乃には愛嬌になっていた。「今、少しよろしいかしら」「どうしました」「明日のお稽古に持っていくものなのですけれど」華乃は遠慮しているような顔をした。けれど、その遠慮は断られることを恐れるものではなく、甘える前に形だけ整える時の表情だった。紗和は、すでに嫌な予感を覚えていた。「お琴の譜と、先生へのお礼の品をまとめておかなくてはいけないの。あと、佐伯のお嬢様にお借りした本も返すので、文を添えたいのだけれど」華乃はそこで、少し困ったように笑った。「私、こういう細かいことは苦手なの。何をどこへ入れたらよいか、すぐ分からなくなってしまって」紗和は、机の上に積まれた父の書付を見た。返書はまだ封をしていない。夜までに確認し直すつもりだった。美佐乃に頼まれた袱紗のほつれも、針箱の横に置いたままだ。ほんの少しだけ、今日はもう休みたいと思った。その気持ちは、声
last updateDernière mise à jour : 2026-06-08
Read More
5.子爵家からの使い
昼下がりの屋敷に、いつもとは違う足音が入った。紗和は、奥座敷へ運ぶための書付を抱え、廊下の角で足を止めた。玄関の方から、低い男の声が聞こえる。出入りの小間物屋でも、親類筋の使いでもない。女中たちの動きが、普段より少し速かった。襖の開け閉めの音も、廊下を渡る衣擦れも、どこか浮き足立っている。客が来たのだろうか。紗和は抱えていた書付を少し持ち直した。父へ渡すはずの返書の控えだった。急ぎではないが、夕方までには目を通してもらう必要がある。だが、今このまま書斎へ向かってよいものか、少し迷った。玄関先から戻ってきた若い女中が、紗和に気づき、慌てて頭を下げた。「紗和様」「何かあったのですか」「有馬子爵家のお使いの方が、お見えになりました」有馬子爵家。その名は、廊下の空気を一瞬で変えた。紗和は、すぐには言葉を返せなかった。子爵家といえば、華族である。榊原家は旧士族の家ではあっても、華族ではない。帝都へ屋敷を借り、親類や知人を通じてそれなりの付き合いをしていても、爵位を持つ家とは、やはり隔たりがある。「旦那様と奥様が、奥でお話しになっています」女中の声にも、かすかな高揚があった。「そうですか」紗和はうなずいた。そのまま下がればよかった。用が済むまで、自室に戻って待てばよい。けれど、抱えていた書付は父に渡すものだった。奥座敷の近くまで行けば、女中へ預けられるかもしれない。紗和は足音を抑え、廊下を進んだ。奥座敷の襖は閉じられていた。けれど、父の声はいつもよりよく通っている。障子越しの昼の光が廊下に落ち、畳の匂いと、客用に焚かれた香の匂いが混じっていた。「有馬子爵家から、正式にそのようなお話が来るとは」直清の声だった。紗和は襖の手前で足を止めた。立ち聞きをするつもりはなかった。だが、耳に届いた言葉が、身体をその場に縫いとめた。「ええ。仲介のお方も、たいそう前向きなお話ぶりでしたわ」美佐乃の声が続く。いつもの柔らかさの奥に
last updateDernière mise à jour : 2026-06-08
Read More
6.華乃の支度
有馬子爵家からの使いがあった翌日から、榊原家の空気は目に見えて変わった。朝から女中たちが反物を運び、奥座敷と衣装部屋の間を行き来している。箪笥の引き出しが開けられ、たとう紙が畳の上にいくつも並べられた。普段は大切にしまわれている帯や、まだ袖を通していない着物まで出され、部屋には絹の匂いと、畳に落ちる昼の光が満ちていた。華乃の部屋は、まるで春が先に訪れたようだった。薄紅、若草、淡い山吹、霞がかった藤色。華乃のために選ばれた色は、どれも明るく、柔らかく、若い娘の頬をさらに華やかに見せるものばかりだった。鏡台の前には髪飾りの箱が置かれ、珊瑚の玉、細い銀の簪、花をかたどった小さな飾りが、日を受けて控えめに光っている。紗和は、反物の端を整えながら、その色の多さを静かに見ていた。華乃は鏡の前に座り、女中に髪を梳かせながら、何度も振り返る。「ねえ、お母様。子爵家のお方にお会いするなら、やはり明るい色の方がよいでしょうか。それとも、少し落ち着いた色の方が大人らしく見えるかしら」美佐乃は、畳に広げられた着物を見比べていた。いつもより声も表情もやわらかい。だが、そのやわらかさの下には、ぴんと張った期待がある。「華乃には明るい色が似合います。けれど、ただ華やかであればよいというものではありません。相手は有馬子爵家です。軽く見えてはいけませんよ」「はい」華乃は素直に返事をしたが、その声には隠しきれない弾みがあった。「子爵家だなんて、まだ少し夢のようですわ。私、本当に華族のお家へ嫁ぐかもしれないのですね」「まだ決まったわけではありません」美佐乃はたしなめるように言った。けれど、口元は笑っていた。「だからこそ、今のうちに隙をなくしておくのです。立ち居振る舞い、言葉遣い、挨拶の仕方。お琴もお茶も、これまで以上に気を入れなさい。華族のお家では、少しの粗も目につくものです」華乃は鏡の中で、わずかに背筋を伸ばした。「私、頑張ります。お母様に恥をかかせたくありませんもの」「榊原の名にかかわることです」美佐乃はそう言
last updateDernière mise à jour : 2026-06-08
Read More
7.子爵家の内情
夕方の奥座敷には、昼間の華やぎとは違う静けさが降りていた。庭に面した障子の向こうで、暮れかけた光が薄く滲んでいる。朝から広げられていた反物はすでに畳まれ、衣桁に掛けられていた着物も奥へしまわれた。茶器はきちんと揃えられ、菓子皿には手をつけられた跡の少ない干菓子が残っている。紗和は座敷の端で、湯の冷めた茶碗を下げる時機を見ていた。この場に呼ばれたわけではない。だが、昼過ぎに来た仲介役の帰ったあと、奥座敷には直清と美佐乃、華乃が残り、女中たちも少し遠巻きに控えていた。華乃の支度に使った文箱を片づけるため、紗和も座敷の隅にいた。出ていくには、少し時機を逸していた。直清は、座卓の上に置かれた書状を眺めていた。有馬子爵家から直接届いたものではない。縁談を取り持つ家からの知らせと、今日聞いた話をまとめた覚えだった。直清はそれを二度ほど読み返し、重々しく息をついた。「やはり、有馬家との縁は大きい」その声には、まだ高揚が残っていた。「子爵家だ。榊原が帝都で名を立て直すには、こういう縁を逃してはならん」美佐乃は扇子を膝の上で閉じたまま、静かにうなずいた。「もちろんでございます。華乃にとっても、榊原にとっても、ありがたいお話に違いありませんわ」そう言いながらも、昼間までのような弾んだ響きは少し薄れていた。紗和は、茶碗へ伸ばしかけた手を止めた。有馬家の名が出ると、華乃の顔が明るくなる。それが、この数日の奥座敷の空気だった。けれど今、華乃は母の隣で袖口を指先に巻きつけながら、どこか落ち着かない顔をしている。「でも、お母様」華乃が小さく言った。「有馬家のお屋敷は、あまり新しくないのですか」直清の眉がわずかに動いた。美佐乃が先に答える。「古いということは、それだけ格式があるということでもあります。華族のお家は、ただ新しければよいというものではありませんよ」「それは分かっていますけれど」華乃は唇を尖らせる手前で、なんとか表情を整えた。「仲介のお
last updateDernière mise à jour : 2026-06-09
Read More
8.子爵家では足りない
夜の奥座敷から、華乃の声が響いた。紗和は廊下の端で、手にした盆を少し持ち直した。美佐乃に頼まれていた茶を運んできたところだった。けれど襖の向こうの声が思いのほか強く、入る時機を失ってしまった。「お母様、私、やはり嫌です」華乃の声は、いつもの甘えを含みながらも、どこか張りつめていた。紗和は思わず足を止めた。奥座敷の襖は閉じられている。中にいるのは直清と美佐乃、そして華乃だろう。廊下には行灯が置かれ、薄い明かりが板張りの床に揺れていた。昼間の賑やかさはもうなく、屋敷の奥へ夜の冷えが降りてきている。盆の上の茶碗から、まだ細い湯気が立っていた。「華乃」美佐乃の声が低く聞こえた。「そのように強い言い方をするものではありません」「でも、お母様だってお聞きになったでしょう。有馬家は思ったほど豊かではないのだわ。お屋敷も古くて、使用人も減っていて、それなのに有馬夫人はとても厳しい方だなんて」華乃は一息に言った。「そんなお家へ嫁いだら、私、苦労するだけではないの?」襖の向こうで、直清が小さく咳払いをした。「華乃、物事を楽か苦労かだけで考えるな」「けれど父上」「有馬家は子爵家だ。爵位を持つ家との縁を、そう簡単に退けられると思うのか」直清の声には、苛立ちが混じっていた。紗和は廊下に膝をつき、盆をそっと横へ置いた。茶を運び入れるべきなのだろう。だが、今入れば場の空気をさらに乱す気がした。中からは畳の擦れる音も、扇子を閉じる微かな音も聞こえない。三人とも、座ったまま言葉だけをぶつけ合っているようだった。華乃がまた言った。「私は華族のお家に嫁ぐのが嫌だと言っているのではありません。ただ、どうせなら、もっと上のお家がいいのです」その言葉は、廊下の冷気の中でもはっきり響いた。「華乃」美佐乃がたしなめる。だが、その声は先ほどより弱かった。華乃は母にすがるように続けた。「だって、子爵家で
last updateDernière mise à jour : 2026-06-09
Read More
9.もう一人の娘
その夜、榊原家の書斎には、いつもより遅くまで灯りが残っていた。紗和は廊下の曲がり角で、その明かりを見つけて足を止めた。手には、昼のうちに整えた返書の控えを抱えている。父に急ぎで見せるよう言われていたものだったが、夕餉のあと、書斎へ運ぶ前に美佐乃から華乃の稽古道具の片づけを頼まれ、遅くなってしまった。屋敷の奥は静まり返っている。昼間は反物や文箱、女中たちの足音で満ちていた廊下も、夜になると古い木の匂いだけが濃くなる。行灯の灯りが板の上にぼんやり伸び、障子の向こうの庭からは、虫の声がかすかに聞こえた。紗和は書斎の前まで進み、声をかけようとした。その時、中から美佐乃の声が聞こえた。「旦那様、このまま華乃を無理に進ませるのは、やはり考えものでございます」紗和の手が止まった。襖は完全には閉じきっていなかった。ほんのわずかな隙間から、灯りが細く廊下へ漏れている。立ち聞きをしてはいけない。そう思ったのに、足が動かなかった。直清の声が低く返る。「では、どうする。有馬家へ断りを入れろと言うのか」「断るとは申しておりません」美佐乃の声は抑えられていた。昼間のような華やかさはない。けれど、その分だけ言葉の一つ一つが慎重だった。「ただ、華乃には少し荷が重いのではないかと申し上げております。有馬夫人が噂どおり厳しい方なら、あの子は嫁いでから苦労いたします」「嫁げば、どこの家でも苦労はある」「それは分かっております。けれど、華乃はまだ世慣れておりません。おっとりしていて、思ったことがすぐ顔に出ます。有馬夫人のような方に仕えるには、あまりに素直すぎますわ」紗和は、抱えていた書付を胸元でそっと持ち直した。美佐乃の言葉は、華乃を庇っていた。華乃は苦労に向かない。厳しい姑には耐えられない。だから別の道を考えたい。言葉は遠回しだったが、向かっている先ははっきりしていた。直清はしばらく黙った。書斎の中で、紙を置く音がした。「有馬家との縁は、榊原にとって得難いものだ。華乃
last updateDernière mise à jour : 2026-06-09
Read More
10.大切な話
朝から、紗和は落ち着かなかった。障子の向こうの光はいつもと変わらず、廊下を渡る女中たちの足音も、炊事場から漂う湯気の匂いも、榊原家の朝としては何一つ珍しいものではなかった。けれど屋敷の空気だけが、昨日までとはわずかに違っている。華乃の部屋からは、いつもより明るい声が聞こえた。「今日は、お茶のお稽古はお休みでもよいのでしょう? お母様が、無理をしなくてよいとおっしゃったの」華乃の声は軽かった。有馬家の縁談を嫌がっていた時の曇りが、少し薄れている。紗和は廊下の端で、華乃の文箱を女中へ渡しながら、その声を聞いた。胸の奥に、小さな硬いものが沈む。華乃さんは、もう安心しているのだろうか。そう思った瞬間、紗和は自分を叱るように視線を伏せた。まだ何も決まったとは聞かされていない。昨夜、父と美佐乃の話を聞いてしまっただけだ。正式に命じられたわけではない。自分の名が出たとしても、それがそのまま決定になるとは限らない。そう思おうとしても、胸の奥は冷えたままだった。朝餉の後、美佐乃は紗和へいつもより柔らかく声をかけた。「紗和さん、昨夜は遅くまでご苦労でしたね」「いいえ」紗和は頭を下げた。「華乃の支度のことも、あなたがいてくれると本当に助かります。今日は少し、無理をしないでくださいね」その言葉は優しかった。けれど紗和には、その優しさが薄い絹のように感じられた。手に取ればなめらかで美しい。けれど、その下に何が隠されているのかは見えない。美佐乃の目は穏やかだった。昨夜、書斎で紗和を見た目と同じ、何かを測るような深さがある。「ありがとうございます」紗和はそれだけ答えた。美佐乃は満足げに微笑み、華乃の方へ歩いていった。屋敷の中で、誰も紗和に何も告げない。それなのに、皆が何かを知っているように見えた。華乃は身軽そうに笑い、美佐乃はいつもより優しく、女中たちは有馬家の支度に関する品を少しずつ片づけ始めている。華やかに広げられていた反物も、髪飾りの箱も
last updateDernière mise à jour : 2026-06-10
Read More
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status