LOGIN榊原家の長女・紗和は、亡き母の形見である白藤の簪だけを支えに、「我慢できる娘」として生きてきた。 だが異母妹が嫌がった有馬子爵家との縁談を押しつけられ、身代わり婚約者として差し出される。 厳格な有馬家で尽くしても、待っていたのは冷遇と婚約破棄。 すべてを失った紗和の前に、母方の白藤商会から迎えが現れる。 彼女は捨てられた娘ではなく、白藤家が待ち続けた唯一の後継者だった。 帳簿、証文、家名を手に、紗和は自分を見下した家々へ静かに立場を覆していく。 さらに彼女を哀れむのではなく、女主人として認める侯爵家の男が現れ… もう、誰かの代わりにはならない。
View More朝の光は、まだ薄かった。
障子越しに差し込む白い明かりは、部屋の隅まで届かず、畳の上に細く伸びて、箪笥の下で静かに途切れていた。榊原の帝都屋敷は、朝になるとよく冷える。磨かれた廊下も、きちんと拭き清められた柱も、どこか人の温もりを拒むような澄まし方をしていた。
紗和は鏡台の前に座り、櫛を取った。
鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらなかった。寝乱れた髪を整え、襟元を直し、帯の締め具合を確かめる。特別に目立つ装いではない。薄い鼠がかった藤色の着物は、古びてはいないが、新しくもなかった。柄も控えめで、座敷の端にいても邪魔にならない色だった。
華乃(かの)なら、きっと選ばない色だ。
そう思ってから、紗和は櫛を動かす手を少しだけ止めた。
比べるつもりはなかった。けれど、屋敷の中にいると、比べずにいられないものがいくつもあった。
華乃の部屋には、新しい反物が届く。明るい色の帯が置かれる。美佐乃が選んだ髪飾りが、季節ごとに増えていく。女中たちは華乃の部屋へ入る時、声の高さまで変える。戸を開ける前に名を呼び、返事を待ち、笑い声をこぼしながら支度を手伝う。
紗和の部屋にも、必要なものはある。
箪笥、鏡台、文机、針箱。どれも壊れてはいない。畳も障子も破れていない。けれど、そこにあるものは、みな静かだった。人の手が足りないというより、人の心が残りすぎないように整えられている部屋だった。
紗和は髪をまとめ、文机の引き出しを開けた。
奥に、薄い布に包んだ簪がある。
指先で布をほどくと、白藤の細工が朝の光を受けて、淡く浮かんだ。銀の地に、白い藤の花が小さく垂れている。派手な宝石は使われていない。遠目にはただの古い簪に見えるかもしれなかった。けれど近くで見ると、花びらの一枚一枚に細かな線が刻まれていて、先の細い房の揺れまで丁寧に作られていた。
母のものだった。
白藤千鶴。
その名を心の中で呼ぶと、紗和の指先はいつも少しだけ固くなる。
母の声を、紗和はもうはっきりとは思い出せない。抱き寄せられた腕の重さも、日ごとに遠くなる。けれど、ほんのわずかな記憶だけは残っていた。紙の匂い。乾いた木箱の匂い。母が何かを包む時の、迷いのない手つき。幼い紗和の髪を撫でる指が、いつも少し冷たかったこと。
そして、母がこの簪を手に取る時だけ、横顔がやわらいだこと。
白藤はね、強い花なのよ。
いつ聞いた言葉だったのか、紗和には分からない。母が本当にそう言ったのか、それとも長い年月の中で、自分がそうだったらいいと作った記憶なのかも分からなかった。
それでも、簪を見るたび、その声だけは胸の奥に戻ってくる。
紗和は簪を持ち上げ、鏡の前で髪に当てた。
白い藤が、黒髪の上で静かに垂れる。控えめなのに、そこだけ部屋の空気が変わったように見えた。
このまま挿していけば、美佐乃は何と言うだろう。
お母様のものを、まだそんなふうに。
耳の奥で、美佐乃の声がした気がした。実際にそう言われたことがあるわけではない。けれど、美佐乃は言葉にしないことを、表情だけで十分に伝える人だった。ほんのわずか眉を寄せる。視線を簪に落とす。口元だけを上げて、何も言わない。その沈黙が、紗和には言葉よりも長く残る。
華乃の前であれば、なおさらだった。
「姉様、その簪、少し地味ね」
華乃なら悪気なく言うだろう。そう言ってから、美佐乃の顔を見て、同じように微笑む。華乃はいつも、自分の言葉が誰かの胸に触れる前に、美佐乃の機嫌を確かめる癖があった。本人は気づいていないのかもしれない。けれど、紗和は知っている。
この屋敷では、誰が中心にいるかを間違えてはいけない。
紗和は簪をいったん下ろした。
けれど、そのまま布に包むことはできなかった。指先に残った冷たい重みが、手放してはいけないと言っているようだった。
少しだけなら。
紗和は髪の奥、正面からは見えにくい位置へ簪を挿した。白藤の房が、耳の後ろにひっそりと隠れる。鏡の中で首を傾けなければ見えないほどだった。
それでも、挿していると分かる。
自分だけには分かる。
そのことに、胸の奥がかすかに温まった。
戸の外で、控えめに声がした。
「紗和様。お支度はお済みでございましょうか」
女中の声だった。無礼ではない。決して粗末に扱われているわけではない。だが、その声には、早く用を済ませたいという薄い急ぎが混じっていた。
華乃の部屋へ向かう時の、あの弾むような声とは違う。
紗和は鏡から目を離した。
「ええ。今、参ります」
答えると、戸の向こうで衣擦れの音がした。
「奥様が、朝のお席に遅れぬようにと」
「分かりました」
それだけ言うと、女中は一礼した気配を残して去っていった。足音は軽く、廊下を曲がる頃にはもう別の誰かを呼んでいた。
紗和は立ち上がり、着物の裾を整えた。
声の調子に傷つくほど、幼くはない。女中たちにも暮らしがあり、屋敷の中の序列がある。誰に長く仕え、誰の機嫌を損ねてはならないかを、彼女たちはよく知っている。美佐乃に気に入られ、華乃に笑顔を向け、直清の前では静かに控える。
紗和にも、礼は尽くす。
ただ、それだけだった。
それだけで十分だと、いつから思うようになったのだろう。
紗和は文机の上に置いていた小さな袱紗を畳み直し、部屋を出た。
廊下の空気は冷えていた。素足に近い足袋越しに、磨かれた板の冷たさが伝わる。朝の屋敷には、炊事場から漂う湯気の匂いと、古い木の匂いが混じっていた。遠くで水を汲む音がする。障子の向こうから差す光はまだ弱く、廊下の端は青白く沈んでいた。
歩きながら、紗和は自然に背筋を伸ばした。
榊原の娘として、みっともない歩き方をしてはいけない。声を荒げてはいけない。戸を乱暴に開けてはいけない。人より先に笑いすぎてはいけない。困った顔を見せすぎてもいけない。
母が亡くなってから、その数は少しずつ増えた。
誰かに一度に命じられたわけではない。叱られたこともある。黙って見られたこともある。笑いを止められたことも、泣く前に部屋へ戻されたこともある。そうしているうちに、紗和の身体は自然と覚えていった。
どこで足を止めるべきか。
どこまで近づいてよいか。
何を欲しがってはいけないか。
廊下の先から、明るい笑い声が聞こえた。
華乃の部屋だった。
「まあ、華乃様、とてもよくお似合いですわ」
女中の声が弾んでいる。
「本当? お母様もそうおっしゃるかしら」
華乃の声は、朝の光より明るかった。軽く、少し甘えた響きがある。返事をする女中たちも、自然と笑っている。
紗和は足を止めた。
開いた襖の隙間から、鮮やかな色がわずかに見えた。淡い紅か、桃色か。華乃のために新しく仕立てられた着物かもしれない。部屋の中には、温かいものが集まっている気配がした。笑い声、衣擦れ、畳を歩く足音、女中が小物を差し出す音。そこでは、誰かが誰かを飾るために動いていた。
紗和は、そこへ入る用事がない。
姉なのだから顔を出してもよいのかもしれない。華乃に朝の挨拶をしても、不自然ではないはずだった。けれど、紗和の手は襖へ伸びなかった。
入れば、華乃は笑って呼ぶだろう。
「姉様、見て」
そう言って袖を広げるかもしれない。女中たちは少し身を引き、美佐乃がいれば、穏やかな顔でこちらを見るだろう。その時、紗和は褒めなければならない。明るく、自然に、少しも羨んでいない顔で。
それができないわけではない。
ただ、朝から自分の心をそこまで整えるには、少しだけ力が要った。
紗和は襖の前を通り過ぎた。
足音を立てすぎないように、けれど逃げるようには見えないように。廊下を曲がる直前、華乃の笑い声がもう一度背に届いた。
その声は、紗和を責めてはいなかった。
責めていないからこそ、紗和は胸の奥にある小さな空洞を、誰にも見せずに歩くしかなかった。
簪の先が、髪の奥でかすかに揺れた。
白藤の房は、外からはほとんど見えない。美佐乃にも、華乃にも、女中にも気づかれないかもしれない。けれど歩くたび、細工の重みが頭の奥で小さく存在を示す。
母は、ここにいる。
そう思うことだけが許されるなら、それでよかった。
紗和は朝の座敷へ向かった。襖の向こうには、父と美佐乃と華乃がいる。自分の席も用意されているはずだった。けれど、それが家族の輪の中にある席なのか、輪の端に置かれた場所なのかは、入る前から分かっていた。
それでも紗和は、乱れのない顔を作った。
そして、簪が見えないように首筋へ手を添え、静かに襖の前で膝をついた。
応接室の扉が、再び開いた。紗和は廊下の途中で足を止めた。先ほど貴臣と向き合った窓辺から、ほんの数歩進んだところだった。障子越しの午後の光は、少し傾きを増している。廊下の木目に沿って長く伸びた影が、応接室の扉の前まで届いていた。出てきたのは、有馬忠成だった。その顔には、深い疲労があった。応接室へ入ってきた時の、華族当主としての整えられた顔とは違う。先代の筆跡を見、証文を見、礼状を見、有馬家の名が白藤の記録の中に残っていることを受け止めた男の顔だった。けれど、崩れてはいなかった。忠成は廊下へ出ると、一度だけ息を整えた。それから紗和の方へ向き直る。寿美子は、その少し後ろにいた。扇を持つ手はまだ硬い。顔には形だけの落ち着きが戻っているが、目の奥にあった高慢な光は、以前のようには立っていなかった。何かを言いたそうで、しかし言えば自分の立場をさらに損なうことを知っている顔だった。貴臣はさらに後ろに立っている。先ほどの廊下での会話の余韻を、まだ抱えたままのようだった。紗和を見る目に、言葉にならないものが浮かんでいる。けれど彼もまた、何も言わなかった。有馬家の三人が、同じ廊下にいる。紗和は、その前に立っていた。かつて有馬家の座敷で、自分は言葉を飲み込んでいた。寿美子に何を言われても、貴臣が何も言えなくても、忠成が重く沈黙していても、自分だけが声を小さくし、目を伏せ、場を乱さぬようにしていた。今は違う。黙っているのは、有馬家の方だった。忠成は、紗和の前で足を止めた。「白藤様」その呼び方に、紗和の胸がかすかに震えた。榊原紗和ではない。貴臣の元婚約者でもない。白藤家の主として、呼ばれている。忠成は、ゆっくりと頭を下げた。深くへりくだる礼ではない。華族当主としての体面を残した、抑えた礼だった。けれど、それは先ほど応接室へ入る時の形式的な挨拶とは違っていた。白藤家の記録を確認した後の礼。有馬家が、白藤家へ向き合うための礼。
寿美子は、応接室の扉の内側で、しばらく動けずにいた。机の上には、つい先ほどまで証文と帳簿と礼状が並んでいた。岩倉正倫が確認の記録を整え、有馬忠成が低い声で今後の返答について応じている。佐伯源蔵は白藤家の証文箱を閉じ、書類の順を乱さぬよう、静かに確かめていた。すべてが、丁寧だった。その丁寧さが、寿美子には耐えがたかった。誰も有馬家を罵らなかった。声を荒げる者もいなかった。白藤紗和も、勝ち誇った顔などしていなかった。ただ、紙が示され、筆跡が確認され、礼状が読まれた。それだけだった。それだけで、有馬家は白藤家を見下す言葉を失った。寿美子は、扇を持つ指に力を込めた。力を入れすぎていることに気づき、すぐに緩める。扇の骨が鳴れば、動揺を見せることになる。ここは有馬家の奥座敷ではない。女中たちが寿美子の気配を読んで動く場所でもない。岩倉が整えた、記録を扱うための場だった。寿美子の沈黙を、誰も慰めてはくれない。扉の外から、かすかに声が聞こえた。貴臣の声だった。寿美子は、反射的に顔を上げた。「紗和さん」その呼び方が、扉越しにも聞こえた気がした。寿美子の胸の奥で、鋭い苛立ちが動く。貴臣が、紗和を追った。確認の席が終わるや否や、母である寿美子のそばにいるのではなく、父の横に控えるのでもなく、白藤紗和を追って廊下へ出た。以前なら、すぐに止めただろう。貴臣、と呼んだはずだった。あるいは、扇の陰から紗和へ向けて言ったかもしれない。いまだに貴臣に未練がおありなの。白藤の名を得たからといって、有馬家の嫡男に近づくのはお控えなさい。有馬家を出た方が、今さら何を望むのです。言葉はいくつも浮かんだ。かつてなら、それらは自然に口から出た。声を荒げる必要などなかった。寿美子は、穏やかな笑みと整えた言葉だけで、紗和を一歩下がらせることができた。榊原家から来た、前妻の娘。商家の血を引き、有馬家に迎えられる立場をわきまえるべき娘。
紗和は、貴臣の謝罪を最後まで聞いた。廊下には、午後の光が静かに差していた。障子越しに見える庭の木々は、風に揺れている。応接室の扉は少し離れたところにあり、その向こうではまだ岩倉と有馬忠成が低い声で言葉を交わしている気配があった。けれど、この場所だけは別の静けさに包まれていた。貴臣は、紗和の前で頭を下げた。以前にも、彼は謝ったことがある。有馬家の座敷で、婚約破棄を告げられたあの日。寿美子の言葉がすべて終わったあと、貴臣は苦しそうな顔で「すまない」と言った。まるで自分も傷ついているのだと伝えるように。けれど、あの時の謝罪は紗和を守るものではなかった。今日の謝罪は、それとは違う。貴臣は、自分の弱さを言葉にした。母に逆らえなかったこと。紗和が傷ついていると分かっていたこと。分かっていながら、止めなかったこと。守らなかったこと。それを聞いて、胸が痛まないわけではなかった。紗和は、ゆっくり息を吸った。貴臣は悪人ではなかった。それは、紗和にも分かっている。彼は寿美子のように、紗和を真正面から見下す言葉を投げたわけではない。紗和の母の形見を取り上げようとしたわけでもない。わざと紗和を苦しめて楽しんだわけでもない。有馬家にいた頃、貴臣は時折、優しい言葉をかけてくれた。疲れていないか、と聞いたこともある。母上も悪気があるわけではない、と困ったように笑ったこともある。紗和が言葉を飲み込んでいると、申し訳なさそうな顔をしたこともあった。その顔に、紗和は何度も縋りかけた。貴臣様だけは分かってくださるのではないか。いつか、寿美子の前で自分の側に立ってくれるのではないか。この人がいるなら、有馬家でもやっていけるのではないか。そう思おうとした日が、確かにあった。だからこそ、痛かった。優しい顔をしているのに、守ってはくれない。苦しそうにしているのに、選んではくれない。謝ってくれるのに、何も変えてはくれない。
貴臣は、何から言えばよいのか分からなかった。廊下の窓から、午後の光が差している。応接室の中にあった重い空気とは違い、ここには庭からの薄い明るさがあった。障子越しに木々の影が揺れ、どこか遠くで人の足音が一度だけ聞こえて、また静かになる。声を荒げるには、あまりに静かな場所だった。そして、言葉を誤るには、あまりに遅すぎる場所だった。貴臣は、目の前に立つ紗和を見た。白藤紗和。そう呼ぶべき人なのだと、先ほど応接室で思い知らされたばかりだった。父が筆跡を否定できなかった証文。白藤商会の帳簿。先代の礼状。有馬家が、白藤家に助けられていたという事実。それらは、貴臣がこれまで見ようとしなかったものを、いくつも照らし出した。白藤という名。紗和が大切にしていた簪。母が軽んじたもの。自分が守らなかったもの。紗和は、静かに立っていた。かつて有馬家の奥で見ていた彼女とは違う。あの頃の紗和は、いつも一歩引いていた。母の言葉を受け、使用人たちの視線を受け、自分が何を言えるのかを測るように、静かに目を伏せていた。今も静かではある。けれど、伏せてはいない。貴臣はそのことが、胸に痛かった。「紗和さん」もう一度名を呼んだ。紗和は答えない。ただ、こちらを見ている。その目は冷たいわけではなかった。けれど、かつてのように貴臣の言葉を待って揺れる目ではない。有馬様。先ほどそう呼ばれた時、貴臣は自分の立っている場所を知らされた気がした。婚約者ではない。彼女の味方であったこともない。白藤家の主に対する、有馬家の嫡男。その距離が、たった一言で置かれた。「僕は……」声が詰まった。謝らなければならない。そう思っていた。応接室で証文を見た時から。父が先代の筆跡を認めざるを得なかった時から。礼状の文面を聞いた時から。いや、
夕方の光は、廊下の端からゆっくり赤みを帯びていった。紗和は文机の前で、最後の帳面を閉じた。昼過ぎに父へ見せるはずだった贈答品の控えはすでに整え、古い器の数も蔵番の覚えと照らし合わせておいた。返書の清書も済ませ、封をするばかりになっている。華乃の稽古先への文と、小間物屋への返事も片づけた。一つひとつは大きな用ではない。けれど、筆を置き、硯箱の蓋を閉めた時、肩の奥に鈍い重さが残っていた。朝からずっと、誰かの言葉を整え、誰かの用を先に済ませてきた気がする。紗和は指先を軽く揉んだ。墨を使い続けたせいで、右手の親指の付
華乃の文を清書し終えた頃には、障子に映る光が少し高くなっていた。紗和は筆を置き、墨が乾くのを待った。文机の上には、華乃の下書きと、書き直した返書が並んでいる。華乃の文字は丸みがあって可愛らしいが、行の終わりになるほど少しずつ詰まり、言葉の運びもところどころ幼かった。紗和はそれを直しすぎないように気をつけた。華乃らしさを残しながら、先方に失礼のない形へ整える。それが、いちばん波風の立たないやり方だった。小間物屋への返事も書き終え、使いに渡すための包みを整える。美佐乃の好みに合い、華乃の年頃に似合い、なおかつ出入りの者が不快に思わぬ言葉を選ぶ。たった一通の返事にも、気を遣う先はいくつもあっ
朝餉の膳が下げられたあとも、奥座敷にはまだ茶の香りが残っていた。障子越しの光は、紗和の部屋に届いていたものよりずっと明るかった。庭に面した座敷はよく磨かれ、床の間には季節の花が生けられている。白い花器に挿された枝ものの影が、畳の上に細く落ちていた。茶器は揃いで、菓子皿には淡い色の干菓子が並ぶ。すべてが整っている。けれど、どこに座るかで、人の居場所は決まる。紗和は、床の間に近い上座ではなく、少し下がった場所に座っていた。父はすでに書斎へ下がっている。奥座敷には、美佐乃と華乃、そして紗和が残された。女中が茶を入れ直し、まず美佐乃の前へ置き、次に華乃、最後に紗和の前へと茶碗を運ぶ。順番は
朝の光は、まだ薄かった。障子越しに差し込む白い明かりは、部屋の隅まで届かず、畳の上に細く伸びて、箪笥の下で静かに途切れていた。榊原の帝都屋敷は、朝になるとよく冷える。磨かれた廊下も、きちんと拭き清められた柱も、どこか人の温もりを拒むような澄まし方をしていた。紗和は鏡台の前に座り、櫛を取った。鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらなかった。寝乱れた髪を整え、襟元を直し、帯の締め具合を確かめる。特別に目立つ装いではない。薄い鼠がかった藤色の着物は、古びてはいないが、新しくもなかった。柄も控えめで、座敷の端にいても邪魔にならない色だった。華乃(かの)なら、きっと選ばない色だ。そう思ってから、