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第1473話

Author: 夏目八月
乾陽殿の静寂に、わずかに聞こえるのは紙を繰る音だけだった。樋口寮長と小林御典医が壁際に控え、玄武と吉田内侍が寝台の傍らに立つ中、丹治先生が診察を終えた後の沈黙が重く垂れ込めていた。

丹治先生は過去の診察記録と処方箋について尋ね、小林御典医が恭しく資料を差し出した。

「丹治先生、ご査収ください」

宮中では御典医たちが皆、控えめで礼儀正しく振る舞っていた。誰一人として自らを神医と称する者はいない。

先帝の一件以来、典薬寮もまた血の粛清を経験していたのだ。

丹治先生が記録を受け取り、一枚一枚丹念に目を通していく。殿内には、その紙音以外何も響かない。

針一本落ちても聞こえそうな静寂の中、誰もが息を殺していた。これが最後の希望なのだと、皆分かっていた。もし丹治先生でさえ「あと三ヶ月」と告げるならば、それが真実となってしまうのだ。

清和天皇は表面上は平静を装っていたが、瞳孔がわずかに収縮し、掌には汗が滲んでいる。

運命の宣告を待つ身として……

丹治先生は一字一句見逃すことなく、全てに目を通し終えると顔を上げた。「診察記録によると、一ヶ月余り痛みが続き、夜も眠れず、食事も喉を通らない状態とありますね」

これは確認の言葉だった。記録に残っている通りなので、一同は頷いて肯定した。

しかし皆が本当に聞きたいのはそんなことではない。彼に妙手があるのかどうか、それを知りたかった。

ところが丹治先生はそれ以上何も言わず、再び最初から薬の記録を読み返し始めた。

樋口寮長と小林御典医は特に緊張していた。用薬が不適切だったなどと言われはしないかと戦々恐々としている。

というのも、いくつかの治療方針は通常の処方ではなく、新たな手立てを模索したものだったからだ。残念ながら、大した効果は得られなかったのだが……

「丹治伯父、いかがでございますか」

玄武の声に張り詰めた緊張が滲んでいた。気がつくと寝台の縁に腰を下ろし、その大柄な体躯で天皇をかばうように身を寄せている。

意識せずに取った行動だったが、不敬を働いたかもしれないという思いは微塵もなかった。

清和天皇は咎めるどころか、胸の奥に温かいものが宿るのを感じていた。

丹治先生が診察記録と処方録を静かに閉じる。「これまでの薬は病の進行を遅らせる効果はありました。しかし、この病はいずれ悪化するもの……私の申す悪化とは、肺
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