純金の簪を新調し、箱に納めて屋敷に戻った。使用人に尋ねると、涼子は母の部屋にいるとのことで、そのまま母の居室へ向かった。案の定、涼子は装飾箱を抱えて座っていた。守が入ってくるのを見ると、すぐに立ち上がり、警戒するような目つきで問いかけた。「守お兄様、今夜は当直のはずでは?どうしてお戻りに?」「これを」守は箱を差し出し、淡々と告げた。「手当が出たから、お前に簪を買ってきた」涼子は疑わしげな表情を浮かべた。「私に?どうして突然、簪など......」彼女は自分の装飾箱をさらに強く抱きしめた。ここ数日、頭飾りの返却を迫られていたのに、なぜ今更新しい簪を......「お前の嫁入り道具のためだ。それに、この数日、母の看病を頑張っているからな......まあ、受け取っておけ」守は身を翻すと、床に横たわる北條老夫人に向き直った。「母上、今日のご容態はいかがですか?」北條老夫人も息子の突然の振る舞いに驚いた様子で、「涼子は本当によく面倒を見てくれているわ。今日は少し楽になって、明日は起き上がれそうな気がするわ」と答えた。「では、今から少し歩いてみませんか」守は布団をめくり、母を支えようと手を差し伸べた。その様子を見た涼子は、ようやく紅玉の頭飾りの箱から手を離し、兄から贈られた箱を開けた。中には確かに純金の簪が収められていた。手に取ってみると、なかなかの重みがある。意匠も美しく、一見すると金鳳屋の品のようだった。しかし、よく見ると金鳳屋特有の細工とは少し異なり、おそらく金屋の製品だろう。少し期待外れではあったが、純金である以上、損はない。涼子は顔を上げ、「ありがとうございます、お兄様」と守に告げた。「試しに挿してみろ」守は母を支えながら言った。涼子が母の化粧台に向かおうとした時、背後で母の悲鳴が響いた。「守!何をするつもりなの!」涼子は勢いよく振り返った。そこには、母から手を離した兄が紅玉の頭飾りを手にする姿が目に飛び込んできた。涼子の心臓が喉元まで跳ね上がった。「守お兄様、何をなさるおつもりで?」守は冷ややかな声で告げた。「平陽侯爵家の側室となるお前に、この紅玉と純金の頭飾りは相応しくない。返品してくる」言い終わるや否や、守は身を翻した。「やめて!」涼子は叫び声を上げ、兄に飛びかかった。「返してください!」だ
北條守が屋敷に戻った時には、侍女たちがようやく二人を引き離していた。しかし、二人とも惨めな姿となっていた。髪は乱れ、着物は破れ、顔には爪痕と平手打ちの跡が残り、まるで市井の喧嘩女のような有様だった。老夫人は息を切らしながら椅子に座り、夕美を睨みつけた。「もうすぐ嫁ぐ娘の顔に傷をつけて、人様にどう会わせるというの?」夕美は地面に座り込んだまま、耐えきれない屈辱に声を上げて泣いていた。守は大股で部屋に入ると、夕美を起こし、束になった藩札を差し出した。「紅玉の頭飾りを返品してきた。この銀子を受け取ってくれ」「守、正気なの?」老夫人は激怒して立ち上がった。「買った品を返すなんて、将軍家の面目はどうなるの?」「返して!返品なんかしないで!」一息ついたばかりの涼子が兄に飛びかかり、その胸を打ち叩いた。みっともない姿だった。守はただ黙って妹の暴力を受け止めていた。冷淡な表情のまま、動じる様子もない。このような日々に、もう十分すぎるほど嫌気が差していた。夕美は藩札を手に呆然と立ち尽くし、泣くことさえ忘れていた。しばらく兄を叩き続けた涼子は、今度は夕美が持つ藩札を奪おうと襲いかかった。夕美は素早く藩札を背後に隠し、数歩後ずさりながら「何をするつもり?」と声を上げた。「あなたが私にくれたものよ。あなたが買いたいって言ったのよ!」涼子は声を震わせ、憎しみの篭った声で叫んだ。「後悔している」夕美は虚ろな声でそう呟いた。紅玉の頭飾りを買ったことか、それとも他のことか。自分でも本当の気持ちが分からなかった。これは彼女が望んでいた生活ではなかった。この将軍家は、腐った漬物樽のよう。そして彼女は、その中に真っ逆さまに落ちてしまった。だが、この縁談は彼女には決める権利がなかった。最初に仲人として訪れた穂村夫人との一件で、母は様々な事情を説明してくれた。断ることは不可能ではなかったが、兄の出世に差し障りが出るのは明らかだった。そして、あの頃の彼女は長い間孤独だった。傍にいて温かく自分を理解してくれる人が欲しかった。かつての十一郎のような人を。北條守もそんな人だと思っていた。でも、違った。将軍家は天方家にも及ばない。天方家の人々は皆良い人たちで、特に義母の裕子は実の娘のように接してくれ、朝夕の挨拶も免除し、付き添いの仕事も免除してくれた。
守は水のように冷たい眼差しで、静かに口を開いた。「鹿背田城での出来事が、すべて嘘だと言ってくれないか」琴音は冷笑を浮かべた。「私を嫌うのは、鹿背田城のことが理由?違うでしょう。薩摩山で捕虜になったこと、この顔が醜くなったこと、私が清らかさを失ったと思っているからでしょう。でも言っておくわ、私は何も穢れてなどいない」守は首を振った。「違う。薩摩城外での出来事については、ただ心が痛むだけだ。だからこそ、お前の代わりに杖打ちも受けた。俺が受け入れられないのは、鹿背田城でお前がしたことすべてだ」「自分を欺くのはやめなさい」琴音は相変わらず冷笑を浮かべていた。「鹿背田城での私の行動が、本当に間違っていたと思うの?」「お前は自分が間違っていたと思わないのか?」守は深い息を吸い込んだ。「今になっても、自分の過ちに気付かないというのか?」琴音はベールを外していた。灯りが彼女の歪んだ顔を照らし、その瞳には燃えるような炎が宿り、野心を隠そうともしなかった。「北條守、功を立てたいのはあなただけじゃない。私だって同じよ。私は大和国初の女将軍。たとえ上原さくらが邪馬台で何か功を立てようと、私の地位は揺るがない。鹿背田城での私の功績があってこそ。あの時、あんなことをしなければ、どうやって私の地位を確立できたというの?」琴音は簪を抜き、灯心を掻き上げた。醜く歪んだ顔の片側が、より恐ろしげに浮かび上がる。「それらの大将軍たちが残虐なことをしていないとでも?戦場で生き残れる者に、優しい心なんてないわ。上原洋平だって若くして北平侯爵になれたのは、ただ勇敢に敵を倒しただけだと思う?違うわ。その裏にどれほどの闇が隠されているか、私たちには知る由もない。あなただけ、愚かにも命を賭けて戦功を上げようとする。でも、そんなことをしても、親房甲虎にはなれないわ」「そうは思わない」守は首を振った。琴音は簪を髪に差し直した。「強がらないで。あなたにも分かっているはずよ。なぜ親房甲虎が影森玄武に取って代われたのか。能力のせい?違うわ。爵位があり、先祖代々の功績という庇護があったから。私たちも官位を上げ、爵位を得て、子孫に恩恵を残したいの。私たちが勲貴になれば、私たちの子供たちも、上原さくらや親房甲虎のように、自分で苦労せずとも全てを手に入れられる人間になれるのよ」守は彼女の瞳に燃える炎
「たとえ平安京の民でも、一般の民だ」守は言い返した。「我々には民を傷つけない約束がある。それは為政者から民への誓いだ。両国の民にとって良いことなのに、お前は村を殺戮した。関ヶ原の我が民も同じように殺される可能性があることを考えなかったのか?」琴音は嘲笑うように鼻で笑った。「武将でありながら、そんな質問ができるなんて。守、あなたは戦場向きじゃない。優しすぎて、実行力がない。あの時、私がいなければ、あなたに功績なんてなかったはず。佐藤大将の前でさえ、鹿背田城の穀倉を焼く提案ができたのは、私が傍で懸命に説得したからでしょう。その功績すら、私がいなければ得られなかったはず」「あなたが功績を立てられたのは、私が功を立てたからよ。私が和約を結び、あなたは援軍の主将として私の功績を分けてもらった。それなのに今更、私の功績を非難するの?自分がいかに卑劣で恥ずかしいか、分からないの?」琴音の言葉に込められた嘲りと軽蔑は、守の自尊心を地に叩きつけ、踏みにじるようだった。守は茫然と立ちすくんだ。彼女の言葉が間違っていることは分かっているのに、どう反論すればいいのか分からなかった。「もう何も言えないでしょう?」琴音は笑みを浮かべた。まるで長年の冤罪が晴れたかのように、さらに責め立てた。「私があなたのために何を捧げたか、あなたにも分かるはず。でも、あなたは私のために何をしてくれた?言ってみなさい。私は当時、引く手数多で華やかな立場にいたのに、あなたの平妻になることを承知した。あなたが落ちぶれた時も見捨てなかった。それなのにあなたは、離縁の後で親房夕美を娶った」「あなたは上原さくらを裏切ったと思っているの?違うわ。裏切られたのは私よ」彼女の声は穏やかだったが、その中に計り知れない不満が潜んでいた。涙が頬を伝い落ちる。「天皇陛下からの賜婚で、私たちの未来のために全てを計画した。さくらはあなたのために何を計画したというの?あなたが私を平妻に迎えようとした時、手のひらを返したように、離縁の勅許を求めてあなたの顔に叩きつけ、持参金を持って出て行った。情も義理も投げ捨てて。それなのに、今でも彼女のことをそんなに大切に思うの?上原さくらが、あなたのために何をしたというの?将軍家の家事を切り盛りした?家族に贈り物や季節の衣装を贈った?母の世話をした?でもそれは、彼女の当然の務めで
守は帳を上げ、琴音と左右に分かれて外に向かった。足音は殆ど聞こえないほど静かで、外からも物音一つ聞こえなかった。しばらくして守が扉を開け、素早く扉の陰に身を隠した。何の動きもないことを確認してから、急いで外を覗き見た。その一瞬で、彼の血が凍りついた。廊下の行灯が照らす階段には、三つの亡骸が横たわっていた。琴音の側仕えの侍女たちだった。全員が一刀のもと喉を突かれ、悲鳴一つ上げる暇もなく絶命していた。血が石段を伝い流れ、階段一面が深紅に染まっていた。守は突然、上原家の一族皆殺しの事件を思い出し、「父上、母上......!」と叫びかけた。飛び出そうとした彼を、琴音が引き止めた。琴音の顔は蒼白で、唇が震えていた。「おそらく......私を狙っているのよ」守は即座に理解した。平安京のスパイたちが彼女への復讐に来たのかもしれない。先ほどまで自分の行いは正しかったと主張していた彼女の言葉が、急に虚しく響いた。守の頭は一瞬で冷静さを取り戻した。あの弁解は、あまりにも偽りに満ちていた。琴音は先ほどまで自分を正当化していた時と同じほどの激しさで、今は恐怖に震えていた。四つの黒い影が静かに中庭に降り立った。黒装束に身を包み、顔を覆い、骨まで凍りつくような冷たい眼だけを覗かせていた。四人の男、四振りの剣。刀身から放たれる冷気と、濃密な血の匂い、殺意に満ちた気配が押し寄せ、琴音の剣を握る手が微かに震えた。突如として四振りの剣が一斉に襲いかかり、二人は素早く部屋に飛び込んで扉を閉ざした。一人が閂をかけ、もう一人が灯りを消す。部屋の中は瞬く間に暗闇に包まれた。二人は背中合わせに立ち、剣を構えた。剣の光が、二人の鋭く警戒する瞳を照らしていた。守は京に戻ってから禁衛府に配属され、今では一般の禁衛として当直に就いていた。その当直勤務での訓練は確かに効果があった。外からは物音一つしなかったが、窓際に危険を感じ取っていた。窓に向かって剣を構えた瞬間、予想通り窓が蹴り破られ、黒い影が飛び込んできた。先機を制した守が一閃、しかし黑衣の刺客は剣気を察知して跳び上がった。それでも、守の剣は相手の両足を掠めそうになった。残りの三人も窓から侵入し、数回転がって即座に態勢を整えた。部屋中に剣戟の音が響き渡る。しかし琴音は三回やりあううちに、自分が彼らの相手
親房夕美が状況を把握する前に、血染めの剣を持った黒衣の刺客たちが闖入してきた。明らかに人を殺しながらここまで来たのだ。彼女は悲鳴を上げ、振り返って扉を叩きながら叫んだ。「葉月!開けて、開けて!」喜咲と沙布は全身を震わせながら夕美を守ろうとした。「近寄らないで......」黒衣の刺客の剣が、一閃のもと彼女たちの首筋を薙いだ。首筋に冷たさを感じた瞬間、血しぶきが飛び散り、血が噴き出した。一撃で喉を断たれ、声すら上げることができないまま、二人は崩れ落ちた。夕美は地面に崩れ落ち、両手で耳を塞ぎながら泣き叫んだ。「助けて!誰か助けて!」黒衣の刺客の長剣が夕美に向かって伸びた瞬間、守が空中から蹴りを放ち、刺客を吹き飛ばした。即座に剣を構え、夕美の前に立ちはだかる。「中に隠れろ!」守は必死の形相で夕美を押しやった。「葉月が扉を閉ざしているの!」夕美は泣きながら叫んだ。守は扉を蹴ったが、びくともしない。戦いながら怒鳴る。「葉月琴音!開けろ!」室内の琴音は顔を強張らせ、震える手で剣を握ったまま、守の声を完全に無視していた。扉を開ける気配すら見せない。束の間に、守は一太刀を受けた。慌てて身を躱すが、禁衛府での修練の成果がなければ、既に命を落としていたかもしれない。人のいない中庭に刺客たちを誘おうとしたが、明らかに彼らの標的は葉月琴音だった。三人が扉を破ろうとする中、守は残る一人と戦うだけでも手一杯だった。状況を目の当たりにした夕美は、気を失いそうになりながら、這いずり回って隅に身を隠した。駆けつけた屋敷の護衛たちも、今や将軍家には多くの人を抱える余裕がなく、刺客たちの相手にならなかった。数合で全員が重傷を負って倒れた。守も二か所を切られながら、なおも抵抗を続けた。武将としての意地と強さで、傷から血を流しながらも必死に戦い続ける。おそらく刺客たちには守を殺す意図はなく、数度も致命傷を避けて手加減していた。ただ退くよう促すだけだったが、それにも手間取っていた。騒ぎが大きくなり、北條次男家からも人が駆けつけた。京都奉行所に勤める文官の次男・北條剛も、形だけの武芸しか習っていない二人の息子を連れて助けに来ていた。長男の北條義久も息子たちの北條正樹と北條森を連れて駆けつけたが、七、八人もの人々が血まみれで倒れている様子を目に
二人は必死に応戦したが、たちまち劣勢に追い込まれ、血しぶきを散らしながら苦戦を強いられた。刺客たちは戦いを引き延ばすつもりはなかった。一人が北條次男の父子三人を相手取る中、残る三人が鋭い剣を琴音の胸元へと突き出した。琴音は慌てふためき、咄嗟に剣を投げ捨てると、守を掴んで自分の盾にした。「やめて!」老夫人と夕美が悲鳴を上げた。守は夢にも思わなかった。琴音にこんな仕打ちを受けるとは。負傷した体を琴音に両腕を掴まれ、剣を振るうこともできず、ただ目の前で三振りの剣が自分の心臓を貫こうとするのを見つめるしかなかった。誰もが凍りついたように動けず、老夫人は目を背けた。我が子が刺客の手にかかる惨状を見る勇気もなかった。その危機一髪の瞬間、「シュッ」という音とともに一振りの桜花槍が空中から飛来し、見事に三振りの剣を弾き飛ばした。刺客たちは手の付け根を痺れさせながら、慌てて後退した。一つの影が空から舞い降り、つま先で地面を素早く蹴って桜花槍を回収すると、躊躇することなく銀光の如く槍を振るい、三人の刺客を押し返した。誰が来たのか見極める暇もない。その人物は既に刺客たちと戦いを始めており、槍さばきは速く、力強く、正確で、一切の無駄がなかった。刺客たちは連戦連敗を強いられ、先ほどまでの鋭い剣さばきも、桜花槍の前ではまったく通用しなかった。わずか十合、刺客たちの剣はことごとく地に落ちた。二十合目には、刺客たちは全員地に倒れていた。手足の筋を切られ、丹田の気も尽き果て、剣すら持ち上げられない状態だった。夏の夜風が、その人物の乱れた髪を揺らした。廊下の灯りに照らされて顔を上げた時、皆がようやくその正体を認識した。「上原さくら?」震え上がっていた夕美が思わず声を上げた。さくらは白い衣装に身を包み、真珠の刺繍が施された靴を履いていた。広袖の長衣が、すらりとした体つきを引き立てている。ただ、その眉目には未だ殺気が残り、白い衣装には刺客の血が点々と付き、雲鶴緞子の上で椿の花のように滲んでいた。全員が驚きで凍りついている中、北條次男の北條剛が即座に前に出て命じた。「彼らを縛り上げ、京都奉行所に引き渡せ」「医者を!早く医者を!」老夫人が急いで駆け寄り、蒼白な顔をした守を支えながら叫んだ。「どこを傷つけられたの?どこが?」守は充血した目でさく
「正気か!」北條剛は激怒した。「もう縛り上げたではないか!役所で誰の差し金か問い詰めねば、後患を断つことはできんぞ!」琴音は顔を上げ、さくらと視線を交わした。その眼差しは複雑で凶暴な色を帯び、歯を食いしばって言った。「将軍家から追い出された元妻風情が、何の資格があってここに戻ってきた?」さくらは琴音の血まみれの顔を見て眉をひそめた。「平安京のスパイだと思っているのか?まったく愚かな」琴音の顔色が変わり、その目には一層の怨毒が滲んだ。その通りだった。彼女は平安京のスパイであることを恐れていた。もし京都奉行所で厳しく尋問されれば、必ず鹿背田城での出来事が明らかになる。今のところ天皇からの譴責もなく、僥倖を期待していたのに。もしこの件が役所の取り調べで明らかになれば......彼女にはその賭けに出る勇気はなかった。さくらは琴音の心中を完全に見透かしていた。琴音はその思いを見抜かれた屈辱感に苛まれた。一刻の後、山田鉄男が禁衛を率いて到着し、さくらを見るや敬礼した。「副将様」「刺客は既に死んでいる。後は頼んだ」さくらは桜花槍を引きずるように持ち、振り返ることなく立ち去った。「承知」背後から山田鉄男の声が響き、守の視線がさくらの後ろ姿を追い続けた。その視線は容易に離れようとしなかった。さくらが空から現れ、悠然と去るまで、わずか一刻ほどの出来事だった。副将とはいえ、結局は将軍家を離縁で出た身。玄甲軍の実務も担当していない。長居は適切ではなかった。山田鉄男が刺客たちの面覆いを剥ぎ取る中、琴音は冷ややかに傍観していた。表面は平静を装っていたが、心中は激しく波立っていた。平安京の者ではない!平安京の者でないなら、誰が彼女を殺そうとしたのか?平安京の者だけが、彼女をここまで憎んでいるはずなのに。たとえ刺客が平安京の者でなくとも、平安京が雇った可能性は否定できない。医師が到着し、山田鉄男は先に治療を済ませてから事情聴取することにした。守の体には十箇所以上の傷があり、それを見た北條老夫人はぽろぽろっと涙を流した。「なんて残酷な......一体何者たちなの?」守は黙り込んでいた。犯人の正体は掴めないが、確実に琴音が標的だったことは分かる。しかし今の彼の心を占めているのは、なぜさくらが今夜、救いに来たのかという衝
三姫子も侍女の織世を連れて姿を見せた。娘が平手打ちを食らったと聞き、まず娘の様子を見に行った。頬は腫れ上がり、細い傷まで付いていたが、国太夫人が既に薬を塗ってくださったと知る。娘を二言三言なだめた後、急いで書雅館へ戻り、国太夫人にお礼を述べた両夫人が席に着くと、さくらが仲介役として事の経緯を詳しく説明した。説明を終えると、斎藤礼子と親房文絵、そして証人となる数名の学生たちを呼び寄せ、両夫人からの問いただしに備えた。景子夫人の表情は明らかに険しかった。一つには、分別のない娘が書院でこのような話を持ち出したことへの憤り。もう一つには、天方十一郎が礼子など眼中にないなどと、親房文絵が放った言葉への腹立ちだった。そんな噂が広まれば、娘の評判に関わる。とはいえ、娘の斎藤礼子が手を上げた以上、口論とは訳が違う。景子は仕方なく頭を下げ、そっけない謝罪の言葉を三姫子に向けた。「確かに、若い娘たちの言い争いとはいえ、不覚にも娘が手を出してしまい申し訳ございません。どうか寛大なお心で」三姫子は礼子を一瞥した。まるで自分が被害者であるかのように、礼子の顔には今なお不満げな表情と、理不尽な扱いを受けたような悔しさが浮かんでいた。「もう元服も済ませた娘です。子どもではないのですから、自分の行動には責任を持つべきでしょう。手を上げたのは礼子様なのですから、謝罪するのもまた礼子様自身であるべき。その後、許すか許さないかは私の判断にお任せください」景子は内心、西平大名家が斎藤家の立場を考慮するはずだと踏んでいた。上原さくらがこうして両家を呼び寄せたのも、穏便に解決を図りたいという配慮からに違いない。しかし、自分が譲歩したにもかかわらず、三姫子がこれほど頑なとは。他の生徒たちの前で面目を潰されたも同然だ。生徒たちは必ずや家に帰って今日の出来事を話すだろう。景子は背筋を伸ばした。事を荒立てたいというのなら、とことんまで話し合おうではないか。事情は承知していたものの、威厳ある態度で生徒たちに尋ねた。発端は何だったのか、なぜ口論になり、どうして暴力に発展したのか。生徒たちは塾長の前で、たとえ斎藤礼子の味方であっても贔屓はできず、事の次第を最初から順を追って説明するしかなかった。「まあ」景子は文絵の発言に食いつき、冷笑を浮かべた。「文絵お嬢様、天方十一郎様の弁護と
「厳罰」の二文字に、向井玉穂たちは慄いた。こぞって後ずさりし、礼子との距離を取ろうとする。礼子は涙を流しながら、さらに怒りを爆発させた。「私だって故意じゃない。あの子が余計なことを……伯母様があんな恥ずべきことをしたのに、まだ天方十一郎の味方をするなんて。恥知らずも甚だしいわ」文絵は平手打ちを受けた時も泣かなかったのに、この言葉を聞いた途端、大粒の涙をポロポロと零した。他の生徒の肩に顔を埋めて、声を上げて泣き始めた。教師たちが次々と呼ばれ、さくらまでもが事態の収拾に駆けつけた。先ほどまで激しく対立していた両陣営の生徒たちは、今や罰を恐れて声もなく佇んでいた。先刻の剣を交えんばかりの怒気は、すっかり消え失せていた。事の顛末を聞いた相良玉葉の、普段は冷静な表情に冷たい色が浮かんだ。「度重なる騒動に、今度は暴力行為まで。学ぶ意志が見られません。書院の風紀を守るため、退学処分が相応しいかと」礼子は確かに学びたくはなかったが、自ら辞めることと追放されることは意味が違った。それに皇后様から託された役目もまだ果たしていない。どうして追い出されなければならないのか。追い詰められた礼子は、玉葉に向かって毒づいた。「分かってますよ、なぜ私を追い出そうとするのか。だって先生は天方十一郎と縁談があったのに、断られて。今度は私が選ばれたから、嫉妬してるんでしょう。私情を挟んでいるのは先生の方です」国太夫人は眉を寄せた。「斎藤家の教養とは、このようなものなのですか。人を誹謗し、手を上げ、でたらめを並び立てる。是非をわきまえぬ。私も退学処分に賛成いたします」一呼吸置いて、国太夫人は少し和らいだ口調で付け加えた。「自ら退学なさることをお勧めします。噂が広まれば、あなたの縁談にも差し障りがございましょう」「私も賛成です」武内京子は厳しく言い放った。規律を司る立場として、彼女たちの本質を見抜いていた。学問への意志など微塵もない。ただ騒動を起こすためだけに来ているのだ。以前は噂話を散布した時も見逃し、その後の騒ぎも手の平打ちで済ませた。まさか今度は暴力行為にまで及ぶとは。このまま放置すれば、雅君女学は規律も品位もない、ただの混沌とした場所と見なされかねない。深水青葉と国太夫人も同意を示し、斎藤礼子の退学処分は全会一致で決定された。さくらは静かに頷き、礼
「黙きなさい!」景子は慌てて娘の口を押さえた。「そんな下品な物言いを。伯父上のお耳に入ったら、どんな叱責を受けることか」斎藤家は厳格な家柄。一族の子女には、一言一行に至るまで上品な振る舞いが求められていた。礼子は首を振って母の手を払いのけた。「伯父様など、自分のことも正せないくせに、私たちにどんな説教ができるというの?もう怖くなんてありませんわ」「黙きなさい!」景子は厳しく叱った。「まったく子供じみた考え。外の人々が伯父様のことを噂するのを、私たちは必死で隠しているというのに。それでも式部を取り仕切り、娘婿は今上の陛下。どれだけの役人の運命が伯父様の手の中にあると思うの」礼子は鼻を啜り、口を尖らせた。式部卿の件についてはもう口を噤んだものの、「とにかく、あの天方十一郎なんて大嫌い。無能で意気地なし。自分の妻が浮気して大恥を晒したのに、一言も言い返せないような男」「これは皇后様のご意向なのよ。従っておけば間違いないわ」景子は娘の手に薬を塗りながら、向井三郎と天方十一郎に嫁ぐ場合の違いを丁寧に説明した。礼子は普段から皇后を崇拝していたが、この件だけは納得がいかなかった。あの日、皇后が突然この話を持ち出したことにも違和感があった。「もしかして、天方十一郎が陛下に何か言ったの?あの天方家が、私たち斎藤家と縁組みを?身の程知らず。あの武家の人たちって大嫌い。汗臭くて野暮ったくて」景子は強情な娘の性格を知っていたため、これ以上の説得を諦めた。どのみち、まだ何も決まっていない。太后様の承認も必要だ。その時になってからでも遅くはない。しかし、礼子の怒りは収まらなかった。雅君女学に戻ると、向井玉穂たちに十一郎が自分を娶ろうとしていることを告げ、侮蔑的な言葉を重ねた。玉穂はこの話を面白おかしく他の生徒たちに語り広めた。嘲笑って盛り上がる者もいれば、十一郎は朝廷に大功を立てた英雄であり、そのような侮辱は許されないと反論する者もいた。両者の言い争いは次第に激しさを増していった。もちろん、ただの見物人として無関心を装う生徒もいた。しかし、議論は激しい口論へと発展し、やがて本や筆を投げ合う騒ぎとなり、教室は混乱の渦に巻き込まれた。武内京子が戒尺を手に慌てて駆けつけた時、礼子は既に親房文絵の頬を平手打ちしていた。平手打ちを受けた文絵は、三姫
さくらが部屋に足を踏み入れると、その鋭い眼差しに三人は一斉に俯いた。さくらの目を直視する勇気などなかった。玉葉は救世主でも現れたかのように、安堵の息を漏らした。「まだここにいるの?」さくらの声が鋭く響いた。「さらに回数を増やすか、退学するか、どちらが良いのかしら?学ぶ気がないなら席を空けなさい。あなたたちの代わりに、真摯に学びたい人はいくらでもいるわ」玉穂と羽菜は震え上がり、慌てて礼子の袖を引っ張った。目配せで「早く行きましょう」と促す。二十回が三十回になり、このまま居座れば四十回、五十回と増えかねない。しかし、斎藤家の箱入り娘として甘やかされて育った礼子は、若気の至りもあって、このような屈辱を受け入れられなかった。不満と挑戦的な眼差しを隠すのに時間がかかったが、さくらが「四十回」と言い出す前に、二人を連れて踵を返した。廊下に出ると、礼子の頬は怒りで真っ赤に染まっていた。皇后姉様の命令がなければ、こんな場所にいる必要などない、と。文字を読めれば十分。余計な学問など意味がない。嫁入り後の家事や使用人の扱い方を学んだ方が、よほど役に立つというものだ。玉葉は立ち上がり、礼を取った。「王妃様」「こんな生徒を持つと、頭が痛いでしょう?」さくらは穏やかな笑みを浮かべた。「数人だけですから、何とかなっております」玉葉も微笑み返しながら、さくらを席に案内し、机の上の教案を整理した。「ただ、彼女たちの騒ぎだけなら良いのですが……女学校の本格的な運営を快く思わない方々がいらっしゃるのではと」玉葉の瞳には疑問の色が浮かんでいた。「王妃様は、誰がそのような……」「女学校の発展を望まない人は大勢いるものです」さくらは確信めいたものを感じながらも、慎重に言葉を選んだ。「詮索するより、私たちがなすべきことをしっかりとこなすことの方が大切ではないでしょうか」「おっしゃる通りです」玉葉は頷いて微笑んだ。「本来は彼女たちの件でお呼びしたのに、謝罪もありましたし、お手数をおかけしただけになってしまいました」「時々様子を見に来るのも私の役目ですから」さくらは穏やかに答えた。実のところ、今日来なくても良かったのだが。些細な騒動とはいえ、退学させるほどの過ちではない。かといって、全く罰せずに済ますわけにもいかない。「他は順調に進んでおります」玉葉
さくらと紫乃は宮を後にすると、紫乃は工房へ、さくらは女学校へと向かった。以前、斎藤礼子に警告を与えたばかりだった。これ以上問題を起こせば退学処分にすると。しかし、束の間の平穏はすぐに崩れ去ったようだ。国太夫人はさくらを見るなり、礼子の件で来たことを察した。「あの子には学ぶ意志がないようです。自ら退学するよう促してはいかがでしょう。縁談の話も出ている娘のことです。穏便に済ませた方が……」斎藤家など恐れるはずもない国太夫人だが、礼子のことを真摯に案じているのは確かだった。雅君書院から追い出されれば、その評判は取り返しがつかないだろう。国太夫人は若い娘たちへの情が深かった。良縁に恵まれなければ、一生を棒に振ることになりかねない。それを誰よりも知っていた。「そう焦らずとも」さくらは穏やかに答えた。「まずは事の次第を確認してから、本人と話をさせていただきます」「大きな問題というわけではないのですが……」国太夫人は溜息交じりに説明を始めた。「あの子と仲間の娘が授業の邪魔をして。特に玉葉先生の講義中はひどい。下で騒いで、皆の顰蹙を買っているんです。玉葉先生も困っておられます。まだお若いので、こういった事態の対処に慣れていないものですから」さくらは思った。相良玉葉は対処法を心得ているはずだ。ただ、この妨害行為が単なる個人的な問題ではなく、女学校の存続そのものを望まない者の仕業かもしれないと察していたのだろう。そうなると、一教師の判断で軽々しく動けるものではない。さくらが玉葉を訪ねようとした時、偶然、斎藤礼子が親友の向井玉穂と赤野間羽菜を連れて中にいるのを目にした。意外なことに、彼女たちは謝罪に来ていたのだ。礼子を先頭に、三人は玉葉に向かって深々と頭を下げた。悔恨の表情を浮かべ、言葉には誠意が溢れていた。「これまでの私の不埒な振る舞い、先生にご迷惑をおかけして申し訳ございません。どうかお叱りください。今後二度とこのような行為は致しません。どのような罰でも、写経でも手の平打ちでも、甘んじて受けさせていただきます」さくらは部屋には入らず、入口から様子を窺っていた。この突然の改心を、さくらは信じなかった。騒ぎを起こしていた生徒たちが、何の前触れもなく悔い改めるなど、不自然すぎる。裏で何かを企んでいるか、誰かに指示されているかのどちらか
激怒した皇后は、手元の茶碗を叩きつけた。「いつも邪魔ばかり。まったく目障りな存在ね」「でございますね」蘭子は静かに進言した。「太后様の勅命で女学校を創設し、雅君女学の塾長となられてから、京の奥様方の間で持て囃されておりまして。今や都の貴族半数の婦人方が一目置いているとか。簡単には手が出せませぬ」皇后は冬至の日のことを思い出していた。あの時、参内した貴婦人たちが揃って上原さくらを褒め称えていた。夫婦仲の良さを賞賛し、その才覚と手腕を誉め、女性の鑑だと持ち上げていた。彼女が女性の鑑なら、皇后である自分は何なのか。その思いが、さらなる憎悪を掻き立てた。「太后様は以前、葉月琴音こそが女性の鑑だとおっしゃっていたのに。今や自分でその称号を得て、恥ずかしくもないのかしら」「皇后様」蘭子は慎重に言葉を選んだ。「今は確かにあの方が世間の注目を集めておられます。しかし、風が吹けば桶屋が儲かるとはよく言ったもの。今この時期に敢えて手を出すのは得策ではございません。何事も極まれば必ず反転する道理。その時こそが災いの始まり。それに太后様がお守りになっている以上……」「太后様が庇っているのは、ただあの方の母上との昔なじみゆえでしょう」皇后は冷ややかに言い放った。「女学校は太后様のご意向。陛下だってあまり賛成なさっていなかったもの。ただ孝行のためにお認めになっただけよ。あの女、塾長だなんて本当に思い上がったものね。自分が幾つの文字を知っているのか、恥ずかしくないのかしら?太后様があれほど女学校を重んじていらっしゃる。もし学院の評判を落としでもしたら、果たしてまだ庇ってくださるかしら」「礼子様に女学校の先生方を困らせるように仕向けたことは、太后様のお耳に入らなければよいのですが……」蘭子は心配そうに進言した。「これ以上過激な行動は慎むべきかと。太后様のご立腹を買えば、陛下も皇后様のお味方にはなって下さいますまい」蘭子の言葉は皇后の逆鱗に触れた。「むやみに動くつもりなどないわ」皇后は苛立たしげに言った。「たとえ何かするにしても、自分の立場は守れるわ。まさか礼子に危険な真似をさせるほど愚かではないでしょう。もう少し考えてみるわ。余計な心配は無用よ」ここ最近、皇后は天方家との縁組みばかり考えていた。天方十一郎こそが最適な人選だった。朝廷の総兵官たちの中で、未
「まあ、お覚えいただけるとは、礼子にとってこの上ない光栄でございます」皇后は微笑を浮かべながら答えた。「確かに今年元服いたしまして、十五歳半になります。叔母上も縁談をお探しで、私にもご相談がありましたところです」「そうそう、わたくしも聞いておりましてね。広陵侯爵家の三郎君との縁談を望んでおられるそうじゃないの。わざわざ人に調べさせたところ、才気煥発で品行方正な若者だそうよ。年頃も似つかわしいし、まことにいい組み合わせじゃないかしら」太后の鋭い眼差しに見透かされ、皇后の表情が一瞬にして曇った。しかし、なんとか取り繕おうと、「婚姻は重大な事柄でございます。礼子も納得してこそ……」と言葉を濁した。太后は穏やかに頷いた。「おっしゃる通りよ。だからこそ、わたくしも降嫁の勅命は控えることにしたの。あの子が自分で気に入った相手を見つけてからでも遅くはないわ。その時になったら、皇后の顔を立てて、お墨付きを与えてあげてもいいと思っているのよ」皇后の表情が一層険しくなった。これでは事実上、自分にも降嫁の権限を認めないという意味ではないか。一体誰が密告したのだろう。昨日やっと天方家に使いを出したばかりで、今朝になって裕子を呼び寄せた矢先、まだ話も始められぬうちに、太后からこのような暗示めいた言葉を投げかけられるとは。「他にはないわ。ただこの件についてあなたの考えを聞きたかっただけよ。叔母上にもそう伝えなさい。礼子が自分で良い人を見つけるまで待つようにって。結婚は親の一存だけで決めるものではないのだからね」太后は皇后を帰そうとした。皇后は立ち上がり、深々と一礼した。「はい。実家の事にまでご配慮いただき、恐れ入ります。これにて退出させていただきます」吉備蘭子も同じく礼をし、皇后に外套を着せると、共に退出していった。二人が去ると、さくらと紫乃が姿を現した。彼女たちは屏風の陰に隠れ、太后と皇后の会話を全て聞いていたのだ。「太后様」紫乃は好奇心に駆られて尋ねた。「どうして斎藤礼子と広陵侯爵の三郎さんを、すぐにお結びにならないのですか?」太后は目を細めて紫乃を見つめた。「まあ、お馬鹿さんね。婚姻は慎重に決めるべきものよ。相思相愛でない夫婦は、後々怨み合うことになる。それこそ二人とも不幸になってしまうわ。礼子のことはまあいいとして、女学校であんな騒ぎ
西連寺内侍は藩札も茶葉も懐に収めたものの、口元は固く閉ざされたままだった。「参内なさればおのずと分かることです。誥命を賜った方なのですから、礼を失することなどございますまい」「はい、ごもっともでございます」執事は笑みを浮かべながら答えたが、内心では舌打ちをしていた。よほどの重大事でもなければ、これほど頑なに口を閉ざすことはあるまい。さくらは今日、女学校に赴くつもりだった。斎藤礼子がまた何か騒動を起こしたらしく、昨夜、国太夫人から使いを寄越され、収めるようにとの依頼があったのだ。ところが、屋敷を出たところで天方家の駕籠が急ぎ足で近づいてくるのが目に入った。何か重要な用件があるらしい。さくらは足早に駆け寄り、「天方家の方ですか?」と声をかけた。簾が開き、天方夫人が慌ただしく顔を出した。「王妃様、裕子叔母様が皇后様にお召しになりました。斎藤家四男家の礼子と十一郎の縁談のことかと……母は皇后様が降嫁の勅命を下されるのを懸念しており、どうかお力添えを」「斎藤礼子?雅君女学の?」さくらは初耳で、思わず目を丸くした。「はい、雅君女学の。昨日、縁談の話が持ち込まれまして、叔母様は承諾しかねると」天方夫人は焦りを隠せない様子で答えた。事態を察したさくらは、すぐに紫乃を呼び寄せ、太后様に御機嫌伺いに参内すると告げ、二人で馬を走らせた。一方、裕子は既に西連寺内侍と共に馬車で宮中へ向かっていた。さくらと紫乃は裕子より一足早く、太后の御前に伺候した。太后は皇后と王妃たちへの配慮から、通常は朔日と十五日の参内のみを求めていた。清和天皇は既に早朝の御機嫌伺いを済ませ、退出されていた。さくらの報告を聞いた太后は、思わず舌打ちをした。「縁結びを勝手に仕組むとは。あの方の魂胆が分からぬとでも?」所詮は十一郎の兵権を利用して、大皇子の後ろ盾になろうとする魂胆に過ぎなかった。あの日以来、大皇子が潤を見下したことで、太后は心中穏やかではなかった。子供とは言えども、もう幼くはない。師匠に礼儀作法を習っているというのに、礼儀知らずで気ままな振る舞い。鼻高々で、誰を見ても上から目線なのだ。あの一件以来、天皇と皇后も大分躾に力を入れ、太后への御機嫌伺いの際も、形式通りに振る舞うようになった。しかし、幼い心の内などはお見通しだった。形だけの礼儀作法の裏に
哉年は刑部での任務に就いた。当初は父王のことを詮索されるのではないかと戦々恐々としていたが、数日経っても玄武に会うことすらなく、誰一人として尋ねてくる者もいなかった。次第に、その緊張も薄れていった。むしろ、刑部大輔の今中具藤が時折声をかけてくれた。今中は温和な性格で、何かと指南を買って出てくれる。哉年も深く感謝し、分からないことがあれば、職制を超えて今中に助言を求めるようになっていた。これまでまともな仕事など経験したことのない哉年は、司獄としての職務を全うしようと必死だった。学ぶべきことは山積み、配下の獄卒たちの統率も必要で、毎日が慌ただしく過ぎていった。玄武は今中に指示を出していた。今は彼を追及せず、まずは職務に専念させよ。分からないことがあれば助け、成功体験を積ませ、自ら進むべき道を選択させるのだと。冬至を過ぎると、天方家には仲人が続々と訪れるようになった。裕子は息子の十一郎の嫁探しに心を砕いていた。子孫繁栄はさておき、せめて身の回りの世話をしてくれる良き伴侶が必要だと考えていた。息子が死の淵から生還して以来、裕子は子孫のことをさほど重視しなくなっていた。この先、穏やかな人生を送れさえすれば、それで十分だと。親房夕美の一件もあり、今度は嫁選びに際して、何より人柄を重視することにしていた。以前話の出ていた六品官の娘は、才徳兼備だったものの、親房夕美と村松光世の一件が露見してから、話は立ち消えになってしまった。今では縁談が増えてきたが、裕子にはそれぞれの娘の人柄を即座に見極めることはできず、じっくりと調べようと思っていた矢先、斎藤家から縁談が持ち込まれた。斎藤礼子、斎藤家四男の末娘で、裳着の儀を済ませてまだ半年、十六にも満たない。裕子は人柄を知る以前に、年齢があまりにも若すぎると感じた。これまで候補に挙がっていた娘たちは、みな十八を過ぎていた。確かに十八を過ぎても未婚の娘は少なかったが、家の喪中で婚期を遅らせている者や、一度婚約が破談になった者もいた。もちろん、破談に至った事情も詳しく調べる必要があった。再婚の女性も候補に入れていた。裕子は決して再婚を忌避してはおらず、相性が合えばそれで良かったのだが、残念ながら適当な人は見つからなかった。斎藤家には「身分が釣り合いませんし、礼子様はお若すぎます。うちの息子