この度は離縁状をありがとうございます

この度は離縁状をありがとうございます

last updateDernière mise à jour : 2026-05-07
Par:  雫石しまComplété
Langue: Japanese
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葛城美穂子(28歳)は、銀行員として真面目に働きながら、夫・忠則と義母・菊乃との結婚生活を送っていた。しかし、その日常は姑の陰険ないびりや雑用押しつけ、マザコン夫の冷たい態度で満ちていて、心身ともに疲弊していた。浮気相手らしき女性・夏希の影もチラつき、美穂子は耐えに耐えていた。ある日、突然の解雇通知を受け、絶望の底に落ちる美穂子。そこへ現れた謎の黒いセダン、そして意外な人物の登場が運命を変える。美穂子は「結城美穂子」として新たな人生を歩み始め、自身の強さと美しさを再発見していく。

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Chapitre 1

職場でのいじめ

 私は今、窓口で200万円を越える大口現金取引の対応をしている。400万円……私の銀行員としての年収を遥かに上回る額で、指先が震え手に汗が滲んだ。札束の重みが掌にずっしりと伝わり、息を潜めながら一枚一枚丁寧に数える。顧客の視線が背中に刺さるように感じ、ミスは許されない緊張が全身を支配する。こんな大金を日常的に扱う世界があるなんて、入行した頃は想像もしていなかった。

「こちらの申込用紙にお名前、ご住所、連絡先と……あと……、なんでしたっけ?」

 隣の同僚に聞いても素っ気ない態度で「係長にでも聞いてくれば?」と顎でしゃくった。私は慌てて立ち上がり、椅子は大きな音を立てて床に倒れた。クスクスと失笑が頭上から降ってくる。私は同僚にウケが宜しくない。葛城株式会社社長夫人という肩書も、ここではただの新入り扱い。一人の私を妬み、要するに虐められている。大人のイジメは陰湿だ。誰も表立って敵対しないのに、視線と小さな仕草でじわじわと追い詰めてくる。400万円の札束を前に震えていた指が、今度は恥ずかしさで熱くなった。

「運転免許証かマイナンバーカード……パスポートでも結構ですので、お顔が確認出来るものを」

 男性はマイナンバーカードを差し出した。卯月真広、30歳。夫の忠則と同い年なのに、どこか落ち着いた大人の色気がある。いや……ただ単にマザコンの忠則がいつまでもガキっぽいだけなのかもしれない。

「ご職業は?」

「会社員だ」

 端正な顔立ちに深く澄んだ湖のような声色が重なる。思わず聞き惚れてしまい、頷くのが遅れた。

「失礼ですがご利用目的をお伺いしても宜しいですか?」

「売買……」

「はい?」

 卯月様は一瞬視線を逸らし、すぐに「自動車を購入する」と訂正された。声が少し上ずっている。400万円もの現金を車購入のためだけに持ち歩くものだろうか。ちょっと怪しい。胸の奥に小さな棘のような違和感が刺さった。

「ありがとうございます」

 100万円の入った封筒がカウンターに山積みになる。次々と積み重なる札束の山が、まるで私を嘲笑うようにそびえ立つ。彼は持参したアタッシュケースを開くと、ぞんざいに札束を掴んで放り込み、ガチャンと蓋を閉めた。金属の音が静かな窓口に響き、周囲の視線が一瞬こちらに集まる。私は精一杯の笑顔を作ったが、脇の下には汗が滲んでいた。早くここから立ち去って欲しいと心から願った。

 ところが卯月様はグラサンを掛け、私の顔をじっと覗き込んだ。レンズ越しの視線が鋭く、まるで心まで見透かされるようだった。

「あんたが葛城美穂子さんか?」

「は、はい。私が葛城でございますが……なにか不手際でもございましたでしょうか?」

 心臓が耳元でどくどくと鳴り、息が浅くなった。背中に冷や汗が一筋、ゆっくりと伝うのがわかる。

「いや、確認したまでだ」

 取引が終わると、営業課長が係長と連れ立ちカウンターから飛び出してきて、卯月様に深々と頭を下げた。「ありがとうございました」私は黒いカラスのようなスーツの背中が遠ざかるまで、息を詰めて見送るしかなかった。この取引の違和感が、胸の奥で重く沈殿していく。なぜ私の名前を知っていたのか。その一言が、頭の中で何度も反芻される。

 銀行の窓口が閉まり、シャッターがガラガラと下ろされ1日の終わりを告げる。私はインカムを外し、緊張で凝り固まった首をゆっくり回す。

 窓口業務の同僚たちは挨拶もなしに椅子から立ち上がり、さっさと更衣室へ向かった。他の行員や上役には満面の笑みで「お疲れ様です」と会釈するのに、私には視線すらくれない。

 私は彼女たちにとって見えない存在なのだろう。孤独感が胸を鋭く刺す。

 今日の卯月様の取引、あの「確認したまでだ」という一言が頭から離れない。誰かに話したいのに、誰も振り向いてくれない。この支店で、私は本当に一人きりだ。

 そして案の定、ロッカールームの扉には一枚の落書きが貼られていた。黒いスーツ姿の男性とポニーテールの女性がキスをしている。幼稚すぎて言葉も出ない。卯月様と私を重ねたつもりなのだろう。嫉妬と嘲笑が混じった下品な落書きに、胸がざわつく。

 私はコピー用紙を引き剥がし、力を込めてグシャグシャに丸めた。ゴミ箱に投げ込むとき、指先が震えた。そこには私の悔しさと、誰にも見せられない涙が積み重なっている。

 同僚たちのクスクス笑いが背中に残り、今日の違和感と屈辱が1つに絡みつく。

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職場でのいじめ
 私は今、窓口で200万円を越える大口現金取引の対応をしている。400万円……私の銀行員としての年収を遥かに上回る額で、指先が震え手に汗が滲んだ。札束の重みが掌にずっしりと伝わり、息を潜めながら一枚一枚丁寧に数える。顧客の視線が背中に刺さるように感じ、ミスは許されない緊張が全身を支配する。こんな大金を日常的に扱う世界があるなんて、入行した頃は想像もしていなかった。「こちらの申込用紙にお名前、ご住所、連絡先と……あと……、なんでしたっけ?」 隣の同僚に聞いても素っ気ない態度で「係長にでも聞いてくれば?」と顎でしゃくった。私は慌てて立ち上がり、椅子は大きな音を立てて床に倒れた。クスクスと失笑が頭上から降ってくる。私は同僚にウケが宜しくない。葛城株式会社社長夫人という肩書も、ここではただの新入り扱い。一人の私を妬み、要するに虐められている。大人のイジメは陰湿だ。誰も表立って敵対しないのに、視線と小さな仕草でじわじわと追い詰めてくる。400万円の札束を前に震えていた指が、今度は恥ずかしさで熱くなった。「運転免許証かマイナンバーカード……パスポートでも結構ですので、お顔が確認出来るものを」 男性はマイナンバーカードを差し出した。卯月真広、30歳。夫の忠則と同い年なのに、どこか落ち着いた大人の色気がある。いや……ただ単にマザコンの忠則がいつまでもガキっぽいだけなのかもしれない。「ご職業は?」「会社員だ」 端正な顔立ちに深く澄んだ湖のような声色が重なる。思わず聞き惚れてしまい、頷くのが遅れた。「失礼ですがご利用目的をお伺いしても宜しいですか?」「売買……」「はい?」 卯月様は一瞬視線を逸らし、すぐに「自動車を購入する」と訂正された。声が少し上ずっている。400万円もの現金を車購入のためだけに持ち歩くものだろうか。ちょっと怪しい。胸の奥に小さな棘のような違和感が刺さった。「ありがとうございます」 100万円の入った封筒がカウンターに山積みになる。次々と積み重なる札束の山が、まるで私を嘲笑うようにそびえ立つ。彼は持参したアタッシュケースを開くと、ぞんざいに札束を掴んで放り込み、ガチャンと蓋を閉めた。金属の音が静かな窓口に響き、周囲の視線が一瞬こちらに集まる。私は精一杯の笑顔を作ったが、脇の下には汗が滲んでいた。早くここから立ち去って欲しいと心から願った。
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歪んだ日常
 ポニーテールを揺らし、石段を駆け上がる。葛城の屋敷は良く言えば洋風、実際は近所の小学生には『お化け屋敷』と呼ばれる昭和初期の威厳を保っている。苔むした石垣と蔦の絡まる壁が、夕暮れの薄闇に溶け込む。重厚な玄関ドアを開けると、夫の忠則はまだ帰っていない。靴を脱ぎながら、今日の出来事を誰かに話したい衝動に駆られるのに、ここにも私の味方はいない。母屋の奥から義母の視線が刺さるような気がして、背筋が冷える。 親戚の勧めでお見合いをしたのは3年前、まだ25歳だった私は訳もわからずに高砂の席に座っていた。忠則は従業員1000人を抱える葛城株式会社の社長らしく、重々しい佇まいと落ち着いた口調で周囲を圧倒していた。 けれど、新婚旅行の計画を立てる段になると、義母が「忠則は私がいないと何もできない子なの」と笑いながら割り込み、忠則はただ「母さんの言う通りだ」と頷くだけ。結局、ハネムーンは義母同伴の三人の旅になった。 毎朝の着替えすら義母が選び、食事の好みも義母の意見が優先される。社長室には義母の写真が飾られ、重要な決断の前には必ず「母さんに相談する」と電話をかける。 私の誕生日さえ、義母の機嫌を損ねない日取りに変えられた。この屋敷で、私はいつも義母の影に隠れた忠則の妻でしかない。「ただいま帰りました」 義母の部屋の襖を開けると、線香の煙が私にまとわりつく。仏壇の前で正座していた義母は、大島紬の着物の裾を優雅に直しながら、ゆっくりと私に向き直った。「お帰りなさい」そこには張り付いたような笑顔が浮かんでいたが、目は笑っていない。いつものことだ。部屋の空気が重く、忠則の幼い頃の写真が並ぶ棚が視界に入る。義母は立ち上がり、細い指で私の肩の埃を払うふりをして、耳元で囁く。「今日も遅かったのね」その声には、探るような棘が隠れている。「残業が……あとお買い物をしてきました」 義母は私の隣に置かれたスーパーマーケットの袋を鋭い目で見た。袋からは白く太い大根が顔を覗かせている。「美穂子さん、その袋はなに?」「……え?」「エコバッグはどうしたの?」「銀行に忘れてしまいました」「なんてこと!こんな袋に5円も払ったの!?」 義母の声が一瞬高くなり、線香の煙の中でその顔が歪んだ。たかが5円なのに、まるで私が家計を崩壊させたような非難の視線。私はただ俯くしかなく、指先が冷たくなる。
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女の影
 忠則は「風呂に入る」とネクタイを解き、ソファに投げ捨てた。スーツやワイシャツも脱ぎ散らかしたまま、バスルームへ向かう。いかに菊乃さんが彼を甘やかして育ててきたかが、こんな些細なことからも窺い知れる。 私はそのセミの抜け殻のような服を黙って拾い、シワにならぬよう丁寧にハンガーに掛けた。薔薇の香水の匂いがまだ強く残り、襟元に触れる指先がわずかに震える。忠則の足音が遠ざかる中、私はバスルームの脱衣所に一人残された。この家で、私の役割はいつも後片付けだけだ。 そして私の疑惑を煽るように、シャワーの湯がバスルームのドアを激しく叩きつける。この違和感を忠則に尋ねるべきなのか……気を悪くするのではないか……脳裏にさまざまな思いが去来する。「あ、あの……忠則さん」 私の声は彼の耳には届かず、忠則は風呂から上がると、すぐに自室へ向かった。薔薇の香水の匂いがまだバスルームに残り、私の鼻をくすぐる。私は脱ぎ散らかされたスーツをクローゼットにしまいながら、ポケットに手を入れると、小さな紙片が指先に触れた。 ホテルの領収書だ。今日の日付で、バーでの2名分の料金。 接待にしては遅すぎる時間。胸がざわつく。リビングに戻ると、菊乃さんがテレビを見ながら私をちらりと見た。「忠則ちゃん、今日は随分疲れているようね」 その言葉に、匂いのことを聞きたい衝動が湧くのに、口は開かない。私はただ「お休みなさい」と呟いて階段を上る。普段、忠則と会話がない私は、いけないことだと知りながら、彼のLINEを覗く癖がついてしまっていた。寝室で忠則のスマートフォンを握る。指先が震える。息が止まる。パスワードが変わっていた。夫の浮気疑惑が、夜の闇の中で膨らんでいく。 そして、菊乃さんは「孫はまだか」と度々訊いてくるが、それはコウノトリが運んでくれなければ難しい話だ。寝室はナイトテーブルを挟んだツインベッドで、私と忠則は互いの温もりを知らない。 結婚当初こそ同じ布団で寄り添った夜もあったが、彼と本当に眠った日は指で数えるほど。ここ2年は手を繋いだことさえない。 忠則はすぐに背を向け、寝息を立てる。私は天井の暗がりを見つめながら、ツインベッドの間で目を閉じる。眠りは浅い。薔薇の香水の残り香が、まだ鼻の奥に絡みついている。 翌朝、忠則がいつものように早い出勤で家を出た後、私は彼の書斎に忍び込んだ。菊乃さ
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決意の朝
 ツインベッドの暗闇で目を閉じても、忠則の寝息だけが規則正しく響く。私は過去を遡る。 新婚当初、忠則はまだ少しは私を見てくれた。披露宴の後、義母同伴の新婚旅行から帰ると、彼は私を抱きしめ「美穂子、ありがとう」と囁いた。あの頃は菊乃さんの目が届かない夜、忠則は社長の仮面を外し、ただの30歳の男に戻った。寝室で私の髪を撫で、恥ずかしそうにキスを重ねた日もあった。 けれど、葛城株式会社の業績が傾き始めた頃から変わった。忠則は毎晩遅く、帰宅すると菊乃さんの部屋に直行した。「母さんに相談がある」と。ある夜、私は廊下で二人の会話を盗み聞いた。菊乃さんが「忠則ちゃん、あの子は所詮よそ者よ」と言い、忠則が「でも母さん、俺は……」と弱々しく返す声。 あの時、忠則は私を選べなかった。それ以来、彼は私に触れなくなった。会社の重圧と菊乃さんの影に押し潰され、別の温もりを求めるようになったのかもしれない。 菊乃さんの影響は、この家を息苦しくする根源だ。 忠則は30歳を過ぎた社長なのに、菊乃さんの前ではいつも10歳の少年に戻る。朝の挨拶すら「母さん、おはよう」と甘えた声で、菊乃さんが「忠則ちゃん、今日のネクタイはこれがいいわ」と選ぶのを素直に聞く。 会社の重要な契約の前夜も、菊乃さんの部屋で膝を突き合わせて相談し、私の意見など求めもしない。 新婚の頃、私が「忠則さん、少しは自分の考えで」と口を滑らせた途端、菊乃さんが廊下から現れ「美穂子さん、忠則ちゃんは私が育てたのよ。余計な口出しはしないで」と静かに釘を刺した。あれ以来、忠則は私と二人きりの時でさえ、菊乃さんの言葉を盾にするようになった。「母さんがこう言ってるから」と繰り返し、私の存在を薄めていく。 菊乃さんは家事も私に押しつけ、自分は仏壇と茶の湯だけ。けれど、この屋敷の空気すべてを支配している。忠則の浮気さえ、きっと気づいていながら黙認しているのだろう。私を「よそ者」として遠ざけ、『忠則ちゃん』を永遠に自分の傍に置いておきたいだけだ。この家で、私は菊乃さんの影に押し潰され続けている。 私はベッドからそっと起き上がり、ツインベッドの忠則の寝顔を睨んだ。薔薇の香りがまだ微かに残るシーツに、吐き気が込み上げる。もう我慢できない。 翌朝、忠則が出勤し、菊乃さんが仏壇の前に座る時間を見計らい、私は彼の書斎に再び忍び込んだ。スーツ
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さよなら昨日までの私
「おはようございます」 更衣室で挨拶をした私に、同僚たちは目を見開いた。いつもポニーテールで幼く見せ、目立たぬ薄化粧に徹していた私が、ウェーブがかった髪を肩に垂らし、唇を深紅に彩っている。視線を逸らすことなく、余裕の笑みを浮かべる私の姿に、彼女たちは驚きを隠せなかった。クスクスという嘲笑が一瞬止み、休憩室の空気が張り詰める。「おはようございます」と穏やかに声をかけると、誰もすぐに返事をせず、ただ私を値踏みするように見つめるだけ。昨日まで後ろ指を指していた相手が、急に別人のように振る舞う姿に、彼女たちは戸惑っている。 私はロッカーに貼られた幼稚な悪戯書きの紙を、彼女たちの目の前でそっと剥がし、嫌がらせの中心人物と思しき先輩に差し出した。「コピー用紙の無駄遣いです、もうやめて下さい」 彼女は眉を顰め、悪戯書きをひったくると勢いよくクシャクシャに丸め、ゴミ箱に投げ入れた。いつものクスクス笑いは起きず、更衣室が一瞬静まり返る。私の中に悔しさや涙はもうない。代わりに冷たい決意だけが胸に満ちていた。 私は「お先に失礼します」と静かに言い、更衣室のドアを閉めた。背後でゴミ箱を蹴り上げる音が響いたが、振り返る気は起きない。 廊下を歩きながら、ポケットのホテルのカードキーに触れる。今日から、私を嘲る者も、裏切る者も、誰も怖くない。 私は相変わらず一人で弁当箱の蓋を開けたが、背後のヒソヒソと囁く声は全く気にならなかった。背筋を伸ばし、窓の向こうの椎木を眺めゆったりとランチを楽しんだ。すると目の前に食堂の湯呑み茶碗が置かれ、湯気が立ち上った。 顔を上げると、向かいの支店から出向中の女性社員・佐藤さんが微笑んでいた。 普段は広報課でほとんど顔を合わせない彼女が、なぜか私のテーブルに座り「お昼、一緒にいいですか?」と小声で言った。驚きながらも頷くと、彼女は自分の弁当を広げ「髪、下ろすと雰囲気変わりますね。素敵です」と囁いた。その優しい視線に、胸の奥が少し温かくなる。今日の私を変えたのは、ただの髪型じゃない。もう誰も私を小さくさせることはできない。 銀行のシャッターが降り、私はいつものようにインカムを外す。凝り固まった首をゆっくりと回していると、隣の同僚が帰り支度をして椅子から立ち上がった。いつもは受け身だった私は、思い切って彼女に声をかけた。「お疲れ様でした」 彼
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忠則の絶望
 バスのステップを降りる足が震えていた。それは夜の冷たい風のせいではない。私の中で燃える炎に身悶えている武者震いだ。「……すごい」 高級ホテル街はイルミネーションで華やかに煌めき、すれ違う客の装いも上質なものばかりだ。エントランスではポーターが恭しく荷物を運び、車寄せには黒い高級車が並んでいる。ガラス扉の向こうに広がる大理石のロビーは、シャンデリアの光が柔らかく反射し、別世界のようだ。 私はポケットのカードキーを握りしめ、深呼吸を繰り返す。忠則がここで誰と会っているのか、薔薇の香りの女性がどんな顔をしているのか。今夜、すべてを知る。震える足を必死に抑え、ホテルの自動ドアが開く音と共に、一歩を踏み出した。「このカードキーはこちらのホテルのものでしょうか?」 ポケットからカードキーを取り出すと、レセプションのスタッフに手渡した。スタッフは訝しげそうに私を一瞥した。銀行の制服ではなく私服に着替えれば良かったと後悔したが、時既に遅しで、彼は私を値踏みするように顔を凝視した。「こちらは私共のホテルのカードキーではございません」 私は息を詰め、カードキーを受け取った。指先が冷たくなる。デザインは確かにこのホテルのものに似ていたのに。スタッフの視線が背中に刺さる中、私はロビーを引き返し、ガラス扉の外へ出た。夜風が頰を打つ。違うホテル……? 忠則はどこで、あの薔薇の香りの女性と会っているのか。カードキーを握りしめ、近くの別の高級ホテルのネオンを見上げる。まだ諦めない。今夜こそ、答えを見つける。 私は隣接する高級ホテルのレセプションでそのカードキーを取り出した。どのホテルのスタッフも訝しげな顔をした。「私共のホテルのカードキーではございません」足は棒のようになり、パンプスの踵が靴擦れで痛んだ。 諦めかけた6軒目のホテルで、若い女性スタッフがカードを手に取り、端末で何か確認した後、初めて頷いた。「こちらは当ホテルのスイートルームのキーです。お客様のお名前を頂けますか?」 私は息を詰め、咄嗟に「葛城……美穂子です」と答えた。スタッフは画面を凝視し、わずかに眉を寄せたが、すぐに微笑みを戻した。「確認できました。どうぞあちらのエレベーターをお使いください。32階でございます」 胸が激しく鳴る。忠則の名前ではなく、私の名前が登録されていた? 薔薇の香りの女性と、ど
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菊乃の微笑み
 私は息を殺して社長室の扉から忠則の苦悶する姿を見ていた。社長としての威厳は微塵もなく、母親からのプレッシャーに押しつぶされそうな10歳の子供。葛城株式会社の経営はそこまで深刻なのだろうか。 声をかけようか迷ったが、私がここにいること自体が不自然だ。位置情報アプリで行動を監視されていると知ったら気分の良いものではないだろう。 それに……黒髪の女性との関係を有耶無耶に、証拠を隠滅するかもしれない。それだけは避けたかった。 忠則は再び頭を抱え、引き出しから分厚いファイルを取り出した。表紙に「極秘」と赤いスタンプ。指が震えながらページをめくる姿に、胸が締めつけられる。彼はスマホを握り、誰かに電話をかけるか迷っている様子で、結局画面をオフにした。部屋の空気が重く、私の存在に気づかないまま、忠則はため息を漏らし、デスクに突っ伏した。 私はそっと後ずさり、廊下へ引き返した。エレベーターで下り、深夜のビルを出る。外の冷たい風が頰を刺すが、頭の中は薔薇の香りとカードキー、忠則の絶望的な背中で渦巻く。浮気か、それとも会社の危機か。黒髪の女性は、どこに絡んでいるのか。家に帰っても、菊乃さんの視線が待っているのに、今夜はもう一歩も踏み出せない気がした。 ◇◇◇「ただいま帰りました」 玄関で靴を脱いでいると、珍しく菊乃さんが出迎えた。今朝の遣り取りに腹を立て、小言の1つも言いに来たのかと息を呑んだがそうではないようだ。着物の襟もとを整えながら、菊乃さんは細い目を細く、目尻を下げて微笑んだ。「あら、今夜はホテルにお泊まりじゃなかったの?」「……ホテル?」 ポケットの冷たいカードキーに指が触れた。あのスイートルームを私の名前で予約したのは菊乃さんだった。忠則さんが『美穂子に大切な話があるんだ……母さん、ホテルの部屋を予約しておいて』とあのホテルを指定したという。けれど忠則さんはあのホテルに現れず、会社で頭を抱えていた。私はゆっくりと顔を上げ、菊乃さんの瞳をまっすぐ見つめた。いつもなら視線を逸らしてしまうのに、今夜は違う。「どうして私の名前で予約されたんですか?」 菊乃さんの微笑みが、一瞬凍りついた。廊下の古い置時計の針が、静かに時を刻む音だけが響く。彼女は小さく息を吐き、着物の袖で口元を隠すようにして笑った。「さあ? 忠則ちゃんが、あなたを喜ばせようとしたんじゃない
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菊乃さんが与えた試練
 菊乃さんは「もう遅いわ、早くおやすみなさい」と、線香の香を残して廊下の奥に消えた。やはり彼女は忠則の浮気を、見て見ぬふりをしていた。全て『大事な忠則ちゃん』の機嫌を損なわないように、愚鈍な母親を演じていたのだ。 私は悔しさで唇を噛んだ。血の味が口の中に広がるほど強く。階段を上りながら、ポケットのカードキーがまだ冷たく残っている。菊乃さんが私の名前で予約した理由は、きっと私を試すためか、忠則を私から引き離すための罠か。 寝室に入ると、ツインベッドの忠則の側は空っぽ。まだ会社にいるのか、それともあの女性の元か。スマホを開き、位置情報アプリを確認する。赤い丸は屋敷の敷地内に静止していた。帰っていたのに、私を避けて別の部屋にいるのか。それともいつものように、菊乃さんの部屋に向かったのか。 私はベッドに座り、カードキーを握りしめた。もう耐えられない。この家で、菊乃さんの影に怯え、忠則の裏切りに目を瞑る日々は終わりだ。 浮気が確定した今、すべきことは黒髪の女性が誰かを突き詰める。私はあのカフェで2人の姿を写真に撮らなかったことを悔やんだ。けれどどこかに証拠はあるはずだ。まず、バーのレシート2枚をファイルに挟み、日付を確認する。同じホテル内のバー、二名分、同じような時間帯。薔薇の香りが鼻に蘇る。 スマートフォンを取り出し、忠則のインスタグラムを開く。彼は会社の公式アカウントと、自身の裏アカウントを持っている。裏アカウントを見つけたのは偶然だった。ある夜、会社アカウントに掲載されるはずの創立記念パーティーの写真が、誤って彼のプライベートにアップされ、すぐに削除された。 私は裏アカウントで、レシートの日付に投稿された写真を探した。「あった……」 ワイングラスを傾ける女性の手元。指に光るリングは、忠則が去年『取引先のクリスマスパーティーで貰った』と言い訳したプラチナのものと瓜二つだ。胸が締めつけられる。これで、ほぼ確定。バーで忠則と一緒にいたのは黒髪の女性だ。私はレシートとインスタグラムのスクリーンショットを保存し、静かに息を吐いた。 その時、軋む音を立て、忠則が階段を上ってきた。 私は慌ててスマートフォンの電源を切り、ファイルをトートバッグに入れた。髪を整え、スカートを整える。耳元で心臓の鼓動が響く。部屋に緊張の糸が張られたようだ。蝶番が鈍い音で開く。私がまだ
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逆転劇
 忠則の言葉に、私は息を詰めた。菊乃さんの試練とは、私が夫の浮気を許すか、それとも壊れるか。カードキーを発見させるよう仕組まれ、ホテルに行けば浮気の現場を目撃するはずだった。けれど忠則はホテルには行かず、会社で母親の指示に初めて背いた。「……あの女の人は誰だったの?」 黒髪の女性は忠則の秘書だった。菊乃は忠則に女性秘書と付き合う振りをさせ、「美穂子を試せ」と強要したらしい。忠則は拒めず、薔薇の香りをまとわせ、私の反応を報告させられた。私は菊乃さんの策略に嵌り、意気消沈していたという訳だ。 これはこの結婚を『不適切』と証明し、離婚を迫るための陰謀。菊乃さんは忠則ちゃんを永遠に自分のものにしようと、私を追い出そうとしているのだ。私は拳を握りしめ、声を震わせた。「……それで、あなたは私を選ぶの?」「……」 忠則の目が、初めて本物の涙で濡れた。私はツインベッドの端に座り、忠則の涙を見下ろしながら、静かに息を吐いた。もう泣かない。怒りも悲しみも、すべて冷たい決意に変わった。 私は菊乃さんへの反撃を思いついた。この屋敷の古い書斎に、葛城家の家計簿と会社の裏帳簿があるはず。忠則が『極秘』と隠していたファイルの続きを探す。菊乃さんが私を『よそ者』扱いするなら、私も『嫁』ではなく『敵』として動く。 そして、忠則への一撃。彼が本当に私を選ぶ気があるなら、菊乃さんから離れろと迫る。選ばないなら、すべてを公にする。裏アカウントの投稿、ホテルの記録、菊乃さんの愚かな企みの証拠を、親戚や取引先に匿名で送る準備も整える。たとえ偽りの浮気だったとしても、部下の秘書との親密な関係は葛城株式会社の不祥事、命取りだ。 私は立ち上がり、窓の外の雨を見つめた。もう縮こまるのは終わり。菊乃さんが私を試したなら、今度は私がこの家のすべてを試す番だ。明日の朝、髪を下ろし、口紅を濃く塗って出勤する。そして、静かに、確実に、反撃を始める。 翌朝、菊乃さんの「おはよう」の声が廊下に響く前に、私は書斎に滑り込んだ。古い金庫の鍵は、忠則の机の引き出しに隠されていた。開けると、予想通り、葛城家の家計簿と、会社の裏帳簿の束が出てきた。ページをめくる手が震える。脱税ルート、架空取引、菊乃さんの実家への不正送金――すべてがここにあった。これを暴けば、菊乃さんはもう忠則を盾にできない。 私はスマホで重要なペー
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黒いセダン
 私は解雇通知書を握りしめたまま、銀行の外に出た。 佐藤さんが真っ赤な傘を持って追いかけて来てくれた。「事情があって……銀行を辞めることになったの」「……そうなんだ……せっかく仲良くなれたのに……残念だわ」「色々、ありがとう」 私たちは互いの連絡先を交換し、別れを告げた。 霧雨が頰を濡らし、制服の肩に細かい雫を落とす。足元がふらつき、近くのベンチに崩れ落ちた。スマートフォンを取り出す手が震える。クラウドに保存した裏帳簿の写真は、もう開けない。アクセス権が剥奪され、「このアカウントは存在しません」と冷たいメッセージだけが表示される。 菊乃さんは完璧だった。 隠しカメラだけでなく、私のスマートフォンにも遠隔で侵入していたのだ。証拠はすべて消去され、残ったのは私の一方的な「不正アクセス」と「機密資料の盗撮」だけ。 ポケットからカードキーが落ちた。あのスイートルームの、無意味になったプラスチック片。拾い上げて、指で強く握る。痛みが走るほど力を込めた。 こんな時、両親が生きていれば相談も出来ただろう……。けれど父も、母も、私が赤ん坊だった頃、交通事故でこの世を去った。親戚に預けられた私は、いつも孤独と隣り合わせだった。この見合い話を受けたのも、『家族』という温かみに飢えていたのかもしれない。「……まさかあんなマザコンだとは、思わなかったけど」 失笑が漏れる。でも、まだ終わっていない。私は立ち上がり、霧雨の中を歩き始めた。髪は濡れ、口紅は滲んでいる。それでも、足は止まらない。菊乃さんは、私がここで壊れると思っている。でも、私はもう壊れない。嫁として、銀行員として失ったものは大きいけれど、美穂子という一人の女は、まだここにいる。 真っ赤な傘は、アメリカ楓のレンガ通りを真っ直ぐに歩いた。時計台の公園がある広場に差し掛かった時、黒塗りの高級セダンが私の行手を阻んだ。何台もの車が公園の路肩に横付けされる。勢いよく開く車のドア。中からスーツを着こなした、厳つい男たちが次々と降り、私の前にずらりと並んだ。「え、なに!?」 男たちは膝に手をつき腰を屈め、両脇に広がった。霧雨に濡れたアスファルトに、黒い影が整然と並ぶ。まるで映画のワンシーンのようで、私は息を詰めて後ずさった。 中央の一台、後部座席のドアがゆっくり開く。現れたのは、予想外の人物……卯月真広だった
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