LOGIN葛城美穂子(28歳)は、銀行員として真面目に働きながら、夫・忠則と義母・菊乃との結婚生活を送っていた。しかし、その日常は姑の陰険ないびりや雑用押しつけ、マザコン夫の冷たい態度で満ちていて、心身ともに疲弊していた。浮気相手らしき女性・夏希の影もチラつき、美穂子は耐えに耐えていた。ある日、突然の解雇通知を受け、絶望の底に落ちる美穂子。そこへ現れた謎の黒いセダン、そして意外な人物の登場が運命を変える。美穂子は「結城美穂子」として新たな人生を歩み始め、自身の強さと美しさを再発見していく。
View More私は今、窓口で200万円を越える大口現金取引の対応をしている。400万円……私の銀行員としての年収を遥かに上回る額で、指先が震え手に汗が滲んだ。札束の重みが掌にずっしりと伝わり、息を潜めながら一枚一枚丁寧に数える。顧客の視線が背中に刺さるように感じ、ミスは許されない緊張が全身を支配する。こんな大金を日常的に扱う世界があるなんて、入行した頃は想像もしていなかった。
「こちらの申込用紙にお名前、ご住所、連絡先と……あと……、なんでしたっけ?」
隣の同僚に聞いても素っ気ない態度で「係長にでも聞いてくれば?」と顎でしゃくった。私は慌てて立ち上がり、椅子は大きな音を立てて床に倒れた。クスクスと失笑が頭上から降ってくる。私は同僚にウケが宜しくない。葛城株式会社社長夫人という肩書も、ここではただの新入り扱い。一人の私を妬み、要するに虐められている。大人のイジメは陰湿だ。誰も表立って敵対しないのに、視線と小さな仕草でじわじわと追い詰めてくる。400万円の札束を前に震えていた指が、今度は恥ずかしさで熱くなった。
「運転免許証かマイナンバーカード……パスポートでも結構ですので、お顔が確認出来るものを」
男性はマイナンバーカードを差し出した。卯月真広、30歳。夫の忠則と同い年なのに、どこか落ち着いた大人の色気がある。いや……ただ単にマザコンの忠則がいつまでもガキっぽいだけなのかもしれない。
「ご職業は?」
「会社員だ」端正な顔立ちに深く澄んだ湖のような声色が重なる。思わず聞き惚れてしまい、頷くのが遅れた。
「失礼ですがご利用目的をお伺いしても宜しいですか?」
「売買……」 「はい?」卯月様は一瞬視線を逸らし、すぐに「自動車を購入する」と訂正された。声が少し上ずっている。400万円もの現金を車購入のためだけに持ち歩くものだろうか。ちょっと怪しい。胸の奥に小さな棘のような違和感が刺さった。
「ありがとうございます」
100万円の入った封筒がカウンターに山積みになる。次々と積み重なる札束の山が、まるで私を嘲笑うようにそびえ立つ。彼は持参したアタッシュケースを開くと、ぞんざいに札束を掴んで放り込み、ガチャンと蓋を閉めた。金属の音が静かな窓口に響き、周囲の視線が一瞬こちらに集まる。私は精一杯の笑顔を作ったが、脇の下には汗が滲んでいた。早くここから立ち去って欲しいと心から願った。
ところが卯月様はグラサンを掛け、私の顔をじっと覗き込んだ。レンズ越しの視線が鋭く、まるで心まで見透かされるようだった。
「あんたが葛城美穂子さんか?」
「は、はい。私が葛城でございますが……なにか不手際でもございましたでしょうか?」心臓が耳元でどくどくと鳴り、息が浅くなった。背中に冷や汗が一筋、ゆっくりと伝うのがわかる。
「いや、確認したまでだ」
取引が終わると、営業課長が係長と連れ立ちカウンターから飛び出してきて、卯月様に深々と頭を下げた。「ありがとうございました」私は黒いカラスのようなスーツの背中が遠ざかるまで、息を詰めて見送るしかなかった。この取引の違和感が、胸の奥で重く沈殿していく。なぜ私の名前を知っていたのか。その一言が、頭の中で何度も反芻される。
銀行の窓口が閉まり、シャッターがガラガラと下ろされ1日の終わりを告げる。私はインカムを外し、緊張で凝り固まった首をゆっくり回す。
窓口業務の同僚たちは挨拶もなしに椅子から立ち上がり、さっさと更衣室へ向かった。他の行員や上役には満面の笑みで「お疲れ様です」と会釈するのに、私には視線すらくれない。
私は彼女たちにとって見えない存在なのだろう。孤独感が胸を鋭く刺す。今日の卯月様の取引、あの「確認したまでだ」という一言が頭から離れない。誰かに話したいのに、誰も振り向いてくれない。この支店で、私は本当に一人きりだ。
そして案の定、ロッカールームの扉には一枚の落書きが貼られていた。黒いスーツ姿の男性とポニーテールの女性がキスをしている。幼稚すぎて言葉も出ない。卯月様と私を重ねたつもりなのだろう。嫉妬と嘲笑が混じった下品な落書きに、胸がざわつく。
私はコピー用紙を引き剥がし、力を込めてグシャグシャに丸めた。ゴミ箱に投げ込むとき、指先が震えた。そこには私の悔しさと、誰にも見せられない涙が積み重なっている。
同僚たちのクスクス笑いが背中に残り、今日の違和感と屈辱が1つに絡みつく。
私は壊れた窓ガラスを背に立ち、散らばった資料を静かに見下ろした。黒崎組の荒らし方は乱暴で、焦りが見えていた。「慌てた顔が目に浮かぶわ」 黒いUSBが朝日に反射する。 中身は湾岸プロジェクトの裏帳簿だけではない。黒崎組が結城組のシマに流し込んだ裏金、霧島を通じて私に近づいた経緯、そして黒崎開発の入札妨害工作の全記録が詰まっている。 私はゆっくりと微笑んだ。笑顔は冷たく、しかし確かに燃えていた。「卯月」「はい、お嬢様」「このUSBのコピーを、今日中に黒崎組の幹部全員と、湾岸プロジェクトの関係企業に匿名で送って。送信元は『黒崎内部の良心派』に見せかけて」 卯月は一瞬、目を細めたが、すぐに深く頭を下げた。「かしこまりました。……お嬢様は、報復をされないと決めたお祖父様の言葉を、こうして破るのですね」 私は窓の外に広がる街並みを見つめ、静かに答えた。「お祖父様は『報復はしない』と言った。でも、私は結城美穂子よ。誰かに傷つけられたら、ただ耐えるだけでは終わらない」 私は床に落ちていた自分の名刺を拾い上げ、指で軽く弾いた。「黒崎組は、私の血を狙い、卯月を傷つけ、霧島を使って私を騙した。なら、私は彼らの『表の顔』を、静かに、しかし完全に潰す」 卯月が低く言った。「湾岸プロジェクトの入札……黒崎開発はもう、信用を失いますね」私はUSBを握りしめ、冷たい笑みを浮かべた。「信用だけじゃないわ。資金の流れも、裏取引も、すべて明るみに出す。黒崎組は表の事業を失い、警察の目が一気に厳しくなる。そして——」 私は振り返り、卯月の目を見た。「霧島が生きているなら、彼にも同じものを届けて。『お前が私を裏切った代償よ』と」 霧島の失敗が露見すれば、彼は黒崎組からも制裁を受けるだろう。 卯月は静かに頷き、初めてわずかに微笑んだ。「お嬢様の逆襲は、静かで、冷たく、残酷ですね」 黒崎組の内部告発として、湾岸プロジェクト入札妨害や裏金の流れが一気に露呈した。警察の家宅捜索が入り、その様子を私は黒いセダンの窓から冷ややかに見つめた。 黒崎開発の本社ビル前に何台ものパトカーが並び、制服警官と鑑識が忙しく出入りしている。テレビ局のカメラが回り、記者たちがマイクを向けている。玄関では黒崎の幹部たちが青ざめた顔で連行されていく姿がはっきり見えた。 私は後部座席に深く体を
黒崎組の襲撃に対して、湾岸プロジェクトの妨げになると判断したお祖父様は「報復はしない」と決断した。幹部の中にはその決定に不満を持つ者もいたが、結城勝次郎の言葉は絶対だ。 私は書斎の隅でその話を聞き、胸の奥がざわついた。 卯月の傷がまだ癒えていない今、報復を控えるという判断は理に適っているのかもしれない。 だが、私の血は静かに煮えたぎっていた。 お祖父様は葉巻の煙をゆっくりと吐き出し、私を見て言った。「美穂子、今は耐えろ。湾岸の権利を黒崎に渡すわけにはいかんが、表立って抗争を起こせば警察の目が厳しくなる。時期を待て」 私は畳に視線を落とし、静かに答えた。「……わかりました。お祖父様の判断に従います」 しかし、心の中では別の炎が灯っていた。報復をしないということは、黒崎組に「結城は弱くなった」と見せつけることでもある。 霧島の裏切り、卯月の血、すべてを無駄にはしたくない。 その夜、卯月が私の部屋を訪れた。左腕はまだ包帯のままだったが、顔色は少し良くなっていた。「お嬢様、ご決断を」 私は彼の目を見て、静かに言った。「報復はしない。でも……黒崎の牙を折る方法は、他にもあるわ」 卯月はわずかに目を細め、深く頭を下げた。「私はお嬢様の影です。お望みのままに」 白檀の香りが漂う部屋で、私は静かに微笑んだ。結城美穂子として、私はもう誰かの決断にただ従うだけの女ではない。湾岸プロジェクトの裏側で、黒崎組の息の根を止める方法を、私は自分の手で探し始める。「......ひどい」 オフィスに入ると悲惨な惨状が目の前に広がった。窓ガラスは大きく破られ、冷たい風が吹き込んでくる。戸棚や机は倒され、観葉植物の土がカーペットに飛び散り、足の踏み場もないほど荒らされていた。 何かを必死に探したように、資料が床一面にばら撒かれ、数台のパソコンはハードディスクごと持ち去られていた。私はゆっくりと部屋の中央に立ち、荒らされた光景を静かに見渡した。「これを探していたのね」 私はスーツのポケットからUSBを取り出し、ほくそ笑んだ。 小さな黒いUSBは、湾岸プロジェクトの決定的な裏帳簿と、黒崎組との資金の流れを記録したものだ。本物のデータはすでに卯月が安全な場所に移してあり、ここに残していたのは囮だった。 私は壊れた窓枠に寄りかかり、冷たい風に髪をなびかせながら
温かい手に、ヌルリと熱いものを感じた。それは卯月のワイシャツの袖から染み出していた。鮮やかな赤だった。「……卯月!」 私は彼の手を握ったまま、階段の途中で足を止めた。卯月の顔は相変わらず冷静だったが、額にうっすらと汗が浮かび、唇の色が少し薄くなっている。「大丈夫です。お嬢様……早く地下へ」「大丈夫じゃないわ! 血が……」 彼の左腕から、銃創らしい傷が開き、血が絶え間なく流れ落ちていた。先ほどの追撃で被弾したのだ。防弾ガラスが防いだはずのドア側面を、至近距離で撃ち抜かれたらしい。 卯月は私の手を引き、地下の鉄扉の前まで来ると、舎弟の一人に短く指示を出した。「医務室を開けろ。お嬢様を先に中へ」 私は彼の腕を放さず、声を震わせた。「卯月、座って! 今すぐ手当てを……」 彼は弱く微笑み、私の肩を優しく押した。「お嬢様が無事なら、私は……」 言葉の途中で、卯月の体がふらりと傾いだ。私は慌てて彼の体を支え、血で滑る手で必死に抱き留めた。地下室の鉄扉が重く開き、舎弟たちが駆け寄ってくる。温かい血が、私の指の間を伝い落ちる感触が、胸を締めつけた。 暴力団の跡目として生きるということの本当の意味を知った。これまでは結城組の表の仕事に携わり、これでいいのだと思っていた。けれどその裏で、こうして卯月が支えてくれていたのだと改めて気付き、その現実の恐ろしさと、卯月の覚悟の重さに胸が締めつけられた。 地下室の薄暗い医務室で、私は卯月の左腕に巻かれた包帯をじっと見つめていた。血は止まったものの、彼の顔色はまだ優れない。舎弟たちが去った後、部屋には私と卯月だけが残された。「……ごめんなさい、卯月」 私は彼の右手をそっと握った。 自分の指がまだ震えているのがわかる。「私がもっと早く気付いていれば、あなたをこんな目に遭わせずに済んだのに」 卯月は弱く微笑み、逆に私の手を包み込んだ。熱はまだ残っているが、その手は確かで優しい。「お嬢様が無事なら、それで十分です。私は元々、お嬢様の影として生きる覚悟で結城に入った身。今日の傷など、たいしたことはありません」 私は唇を噛み、目を伏せた。「影……そうね。私はずっと、あなたを影だと思っていた。でも本当は、あなたがいなければ、私はとっくに潰れていたわ。葛城家でも、霧島の時も……いつもそばにいてくれた」 卯月は静か
ビルの車寄せに黒いセダンが停まる。いつものように後部座席を開けようとした卯月の手がピクリと止まった。防弾ガラス越しに彼の口元が「隠れて」と動いた。 私は咄嗟に座席に伏せ、周囲の様子を窺った。 空が青く、朝の光が眩しい。 次の瞬間、激しい衝撃が立て続けに車のドアにめり込み、防弾ガラスがビリビリと音を立てて震えた。卯月は運転席に滑り込み、アクセルを思い切り踏んだ。タイヤが地面を強く擦り、車体が急発進する。後部座席に体を押しつけられたまま、私は息を殺した。「伏せていてください、お嬢様!」 卯月の声は低く、しかし鋭い。バックミラーに映る彼の目は、いつもの冷静さを失わず、冷徹に周囲を睨んでいる。後ろから連続する乾いた銃声が響き、車体に何発も命中する音がした。 私は座席の隙間から外を見た。ビルの陰から黒いスーツの男たちが飛び出し、こちらに向かって走ってくる。黒崎組の人間だ。卯月はハンドルを切って車を急旋回させ、路地へと滑り込ませた。タイヤが悲鳴を上げ、車体が大きく揺れる。「霧島の息がかかった黒崎の残党ですね。霧島の報復が早かった」 私は歯を食いしばり、首筋の古い傷が疼くのを感じながら、低く言った。「卯月……このまま屋敷に戻る?」「いえ、まずは安全な場所へ。黒崎の連中はまだ諦めていません」 車は朝の街を猛スピードで駆け抜ける。後続の黒いワゴンが二台、執拗に追ってくる。この攻撃が、黒崎組との本当の戦いの始まりだった。 卯月はスピーカーフォンで結城組の事務所に連絡を入れた。「こちら卯月。お嬢様を連れて移動中だ。黒崎の連中が尾けてきている。最寄りのシマで退避する。第五事務所、すぐに受け入れ準備を」 この街には二十数ヶ所、大小の事務所がある。 それらは自分たちの”シマ”のトラブルを回避したり、経営しているバーやクラブからみかじめ料を徴収する拠点だ。表向きは建設会社の営業所や物流会社の倉庫を装っているが、実際は結城組の血が流れる縄張りそのものだった。 卯月はハンドルを切りながら、低く続けた。「第五事務所なら、地下に鉄扉の隠し部屋がある。お嬢様をそこへ匿います」 私は後部座席に体を低くしたまま、窓の外を睨んだ。後続の黒いワゴンがまだ執拗に追ってくる。銃声はもう聞こえないが、いつ再び始まるかわからない。「卯月……大丈夫なの?」「はい。お嬢様をお守りす