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第537話

Author: 夏目八月
守は夕美を見つめながら、彼女が失った二人の侍女のことを思い出し、胸が締め付けられた。「沙布と喜咲のことは、申し訳ない。俺が守れなかった」

「私はあなたの心の中で、どんな位置にいるのか聞いているの」夕美は拳を握りしめ、執着的に問いただした。「話をそらさないで」

守は傍らの木に寄りかかり、深く息を吸って、先ほどの怒りを鎮めようとした。静かな声で言った。「話をそらすつもりはない。ただ......二人の死を深く悔やみ、惜しむばかりだ。お前が俺の心の中でどんな位置かと言えば、それは当然、正妻としての位置だ」

「ただの正妻の位置だけなの?」夕美は諦めきれない様子で追及した。腫れぼったい目に涙が溜まっている。「私に少しの愛情もないの?一度も心が動いたことはなかったの?」

その問いに守は一瞬言葉を失った。夕美を見つめながら口を開きかけた。本当は言いたかった。彼らの結婚は穂村夫人の取り持ちで、天皇の意向もあっての両家の縁組みだと。互いを敬い合える関係であれば十分なはずだと。

しかし、今にも零れ落ちそうな夕美の涙を前に、その言葉を口にすることはできなかった。

彼は親房夕美がこのような愛について問うとは、これまで一度も考えたことがなかった。

夕美は彼が長い間何も言えずにいるのを見て、全てを悟ったかのように、悲しげな笑みを浮かべた。「つまり、愛情は微塵もなく、ただの夫婦の情だけなのね」

守は苦しげな目で言った。「俺はお前の夫として、必ずお前を敬い、守る......」

「刺客が沙布と喜咲を殺し、私を狙った時、あなたが命がけで守ってくれたのは、ただの責任から?」夕美は一歩後ずさり、目に深い悲しみの色を浮かべた。「ただそれだけなの?」

「俺は......お前は俺の妻だ。守るのは当然のことだ」守は以前の上原さくらへの態度を思い出し、自信なさげにその言葉を口にした。

清如は極限まで失望し、手で涙を拭いながら言った。「この家に嫁いでから、家事を切り盛りし、姑様に仕え、義妹を我慢し、あの醜く邪悪な平妻さえも耐えてきた。なのに今、あなたは私への愛情など微塵もないと仰る。それなのに、どうして私があなたにここまで尽くす価値があるというの?」

守は答えようがなく、ただ茫然と彼女を見つめ、しばらくしてようやく尋ねた。「では、俺にどうしろと?」

「どうしろですって?よくもそんなことを」夕美
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