日本屈指の旅館の娘、斎藤菜々子。控えめな性格で、いつも可愛がられている異母妹の陰で生きてきた。 そんな時、父が企てた屈指の御曹司で世界的有名な建築家である、向井謙太郎と政略結婚をすることに。 「どうして、妹ではなく私なんですか?」 虐げられつつけて愛を信じられない菜々子に、愛されることを教えると決めた謙太郎。 ふたりの恋の行方は……。 斎藤菜々子 26歳 虐げられ令嬢 × 向井謙太郎 31歳 世界的な建築家 一級建築士× 虐げられ令嬢
もっと見る美しい池を中心に築山を築き、自然石や草木が配された見事な日本庭園。そして反対側には能舞台が目に入る。
ここは、日本有数の有名旅館、沙月亭。
趣のある和の中にも、現代の技術が集結した、究極の贅沢を提供する場所だ。 広大な敷地の中はいくつかに分かれている。 本館は高級だが、比較的泊まりやすい客室、そして二十棟ほどある離れは、一軒一軒にコンセプトがあり、全室スイートルーム。露天風呂、寝室、広間、縁側など、贅を極めた造りだ。そして、さらに二邸しかない最上級の部屋は、露天風呂はもちろん、サウナや岩盤浴まであり、プライベートが完全に守られていて、芸能人や政界の人たちも利用するほどだ。
そんな沙月亭の当主、斎藤唯太郎。私、斎藤菜々子の父であり、この旅館の八代目になる。
かなりの商才の持ち主で、父の代でここまで大きくした。 その反面、仕事にしか興味のない人で、家族を顧みるような人ではない。「先生、お願いできますか?」
そんなことを思ってしまった自分を戒めていると、父の声に我に返る。VIPをもてなすために建てられた、客室とは別の邸宅。
きっと、一枚板の見事なテーブルを挟んで、父は相手と向かい合っているはずだ。「どうして私を?」
廊下で待機している私には姿は見えない。彼が今どんな反応をし、何を考えているかはもちろん知る由もないが、その声は冷たく聞こえた。
父の対話の相手は、建築家の向井謙太郎氏。
私はその名前くらいしか知らなかったが、今の時代、彼ほどの人ならば、その気になればほとんどの情報は手に入ってしまう。確か年齢は三十一歳だったと記憶している。
ビシッとした、ひと目で高級だとわかるスリーピース。しかし、一般の会社員とはどこか違うセンスを感じる着こなし。髪型も今どきの、緩やかなカーブを描いたダークブラウンだ。キリッとした二重の瞳は、何を考えているか読み取れない。
それが昨日、私が初めて彼の写真を見た印象だ。父は官僚、母は元華族の出身、兄は父の秘書官で、妹は日舞の師範。
出生だけでもすごいのに、本人も日本で有名大学を卒業した後、一級建築士資格を取得。そして海外に渡り、たくさんのデザインを手がけ、数々の賞を受賞しているそうだ。和建築にも定評があり、このたび東京に新しくできる近代美術館の建築の指揮を取っていると、ニュースでも取り上げられていたことは記憶にあった。
しかし、名前だけでは、こんな若い男性だとは想像もしていなかった。過去と未来、そして良き日本をうまく引き出すデザインは、美しさの中に儚さと強さを感じる。
そのページにはそう書かれていて、数々の彼がデザインした建築物が載っていた。 その中には私が好きなものもあり、それが彼の建築だったことに驚いた。 そんな先生とアポが取れたと父から聞いたのは、数週間前。父は新しいエリアの増築を考えているようで、それを全面的にプロデュースしてもらうと話していた。
今、話題の有名な彼が、うちの旅館を手がけてくれれば、それは確かにすごい宣伝効果だ。
そしてさらに、この旅館の価値が上がり、箔がつく。そう、父は口にしていた。 その時はもう、決定事項のように話していた父を思い出す。「今いちばん有名な向井先生だからですよ。もちろん、報酬はお望みのままに」
いきなりお金の話をする父に、彼の芸術をそんなふうに言うなんて……。損得だけでしか動かない父らしい。
非難めいた思いがよぎるが、もちろん口にできるわけもない。返事をしない彼に、父は雰囲気を変えようとしたのか、パンと手を叩いた。
「瑠菜、先生にお茶を」襖の向こうで待機していた私に、案の定、想像どおりの声が聞こえた。
その後、母は泣きわめき、瑠菜は父に「もう一度話をするように」と泣き落としていた。甘やかされたとはいえ、ここまで自由で、思い通りになると思っている妹を、もはや尊敬すらしてしまう。「あの、菜々子さん」遠慮がちに聞こえたその声に、黙ってその場に座っていた私は振り返った。割烹着姿のスタッフがそこにいて、とても困った顔をしている。昼過ぎに先生は来たはずだったが──ハッとして時計を確認すると、いつの間にかチェックインのピーク時間は過ぎ、夕食も始まっている時間だった。「どうしたの?」この様子に、声をかけるのをためらっていたのだと悟る。「椿の間のお客様のご挨拶をお願いしたくて」「お父様、ご挨拶の時間です」椿の間は完全なプライベート邸で、今日は確か現警視総監ご一家がお泊まりのはず。私の声に、さすがの父も時計に視線を向けた。「瑠菜、お前にはもっといい縁談を用意する。きっとあの男は冷たくて、嫁など大事にするタイプじゃない」そんな男性に差し出す気だったのかと唖然としてしまうが、仕事のためなら娘などただの駒だと思っている父。「絶対よ!」初めは自分が相手だったということを忘れているのか、瑠菜はそう答えた。「菜々子、早いところ結婚を取り付けて、うちの仕事をしてくれるように頼むんだ」私の意志など関係なく、もうあの人との結婚は決定事項なのか。今までもいろいろなものを諦めてきたが、結婚までこんなふうに決まるなんて。自嘲気味な笑みがこぼれそうになったところに、追い打ちをかけるように瑠菜が私の前に立ちはだかる。「御曹司の気まぐれよ。お姉ちゃんのほうが都合がよさそうだから選ばれただけなんだから。いい気にならないことね」「わかってる」言われなくてもわかっている。彼もきっと父と同じで、結婚も政略的にするつもりだったのだろう。うちとの縁が欲しかっただけに決まっている。そして、自己主張の強い妹より、おとなしい姉のほうが扱いやすいと思ったに違いない。そんなこと──ずっと昔からわかっている。その後、母は泣きわめき、瑠菜は父に「もう一度話をするように」と泣き落としていた。甘やかされたとはいえ、ここまで自由で、思い通りになると思っている妹を、もはや尊敬すらしてしまう。「あの、菜々子さん」遠慮がちに聞こえたその声に、黙ってその場に座っていた私は振り返った。割烹着姿
「お母様、嫌よ! ちょっと離して!」そういえば、朝から母の姿も見えなかった──そんなことを思いつつ、廊下に目を向けると、母に連れられた瑠菜の姿が見えた。「どうして、私が見ず知らずの男と結婚しなきゃいけないのよ!」……やっぱり。彼の姿をまだ確認していなかったのかもしれないが、ばっちりと聞こえてしまったその声に、父が慌てた様子を見せる。「私は秘書に、仕事の話だと聞いて来ましたが……そうでないのなら、失礼します」決して声を荒げているわけではないが、地を這うような低い声に、彼の怒りはもっともだと思う。だまし討ちのような形で見合いの席を用意して、その娘が暴言を吐いているのだ。不愉快極まりないはずだ。「いや、君はすべての縁談を断っていると仲間内で聞いた。だからこの手段を……。きっと君もうちの瑠菜を見たら了承するはずだ」開き直ったような父に、呆れるやら恥ずかしいやら──。私は慌てて先生に頭を下げた。「先生、我が家が大変無礼な数々を……お許しくださいませ」そう言った私に彼が何か言う前に、いきなり甲高い声が聞こえた。「え? この方なの?」部屋の中の先生を確認したのか、瑠菜がいきなり入ってきて、彼の横に座る。「大変失礼しました。娘の瑠菜です」にっこりと、昔からすべての男性を虜にしてきた笑顔を浮かべる。私の初恋の人も、学校の同級生も、瑠菜のことしか見ていなかった。「お父様、申し訳ありません。遅れてしまいました」先生の容姿を見て、瑠菜は「この人なら」と思ったのだろう。いきなり声音すら変わった妹に、ため息が零れそうになる。しかし、予定通りなのだから、私はもう不要だ。そう思い、その場から去ろうとした時、彼の声が聞こえた。「確かに私にも妻が必要な年齢ですし、斎藤家との縁はありがたいですね」先ほど断った時と同じトーンで、彼は淡々と話す。やはり私ではなく、美しい瑠菜に心を奪われたのだ。この人も、ただの男の人か。建築に惹かれていただけに、少し残念な気持ちになりつつ無言で立ち上がると、そっと手を握られた。いきなり温もりを感じた私は、反射的に彼を見下ろすと、漆黒の瞳がそこにあった。「こちらのお嬢さんを頂けるなら、仕事を受けましょう」「え!!」父はもちろん、その場にいた誰もがそう声を上げていた。「どうしてお姉ちゃんなのよ!!」あの後、「これからのこ
瑠菜というのは、私の異母妹で、このあたりでも評判の美人。父の自慢の娘だ。反面、私といえば──26歳になった今まで男性経験もなく、魅力もない。身長159cm、体型も一般的で、どこにでもいるような人間だ。私もこの家で働いていることもあり、常に和服を着ていることが多く、今日も薄い紫の訪問着を着ている。妹と私は母親が違うせいか、まったく似ていない。瑠菜ならば、きっと先生の機嫌を取れると思ったのだろうが、今朝から瑠菜の姿が見えないから、私がここにいたのだ。しかたなく部屋に入り、角にある茶を点てる場所へと向かう。「菜々子!! どうしてお前が。瑠菜はどうした?」姿を見せた私に、父の怒声が飛ぶ。私にそんなことを言われても、どうしようもできない。そう思うが、反論しても仕方がない。しかし、父は本気で、瑠菜が茶を点てられると思っていたのだろうか。小さいころから、茶道や華道の先生から逃げてばかりいたのに。盲目的に可愛がり、なんでも完璧だと思っていたなんて──娘の何を見ていたのかと思ってしまうが、そんなこと、今さら言っても仕方がない。その声を聞こえないふりをして、いつもどおり背筋を正し、目を閉じる。いったん、父も茶は必要だと思ったのか、何も言わなくなった。私は精神統一を終えると、目を開けた。目の前の茶碗に抹茶を入れ、柄杓で湯を汲み、静かに注ぐ。静かな部屋に、茶筅の音だけが響く。明らかに先生の視線を感じるが、心を落ち着かせて点て終わったお茶を、菓子と一緒に彼の前に置いた。これで私の仕事は終わった。心の中で安堵してちらりと彼を見ると、意外そうな顔で私に視線を向けていた。瑠菜と違い、冴えない私のお茶は気を悪くしただろうか。一瞬そう思ったが、静かに礼をしてくれた彼に少し驚きつつ、私も頭を下げた。一連の流れを見ていた父だったが、キッと私を睨みつけ、「瑠菜はどうした!」と小声で問う。が、完全に彼にも聞こえているだろう。「いませんでしたので」それだけを答えると、舌打ちが聞こえそうなほどの苦虫を潰した表情を浮かべた父は、すぐにいつもの作り笑いで彼に向き直る。「先生、申し訳ありませんでしたな」機嫌を取るような物言いに呆れつつ、私は父から視線を外した。そんな時だった。「謝罪される必要はありません」慣れた所作で菓子とお茶を口にしていた先生だったが、飲み終えると
美しい池を中心に築山を築き、自然石や草木が配された見事な日本庭園。そして反対側には能舞台が目に入る。ここは、日本有数の有名旅館、沙月亭。趣のある和の中にも、現代の技術が集結した、究極の贅沢を提供する場所だ。広大な敷地の中はいくつかに分かれている。本館は高級だが、比較的泊まりやすい客室、そして二十棟ほどある離れは、一軒一軒にコンセプトがあり、全室スイートルーム。露天風呂、寝室、広間、縁側など、贅を極めた造りだ。そして、さらに二邸しかない最上級の部屋は、露天風呂はもちろん、サウナや岩盤浴まであり、プライベートが完全に守られていて、芸能人や政界の人たちも利用するほどだ。そんな沙月亭の当主、斎藤唯太郎。私、斎藤菜々子の父であり、この旅館の八代目になる。かなりの商才の持ち主で、父の代でここまで大きくした。その反面、仕事にしか興味のない人で、家族を顧みるような人ではない。「先生、お願いできますか?」そんなことを思ってしまった自分を戒めていると、父の声に我に返る。VIPをもてなすために建てられた、客室とは別の邸宅。きっと、一枚板の見事なテーブルを挟んで、父は相手と向かい合っているはずだ。「どうして私を?」廊下で待機している私には姿は見えない。彼が今どんな反応をし、何を考えているかはもちろん知る由もないが、その声は冷たく聞こえた。父の対話の相手は、建築家の向井謙太郎氏。私はその名前くらいしか知らなかったが、今の時代、彼ほどの人ならば、その気になればほとんどの情報は手に入ってしまう。確か年齢は三十一歳だったと記憶している。ビシッとした、ひと目で高級だとわかるスリーピース。しかし、一般の会社員とはどこか違うセンスを感じる着こなし。髪型も今どきの、緩やかなカーブを描いたダークブラウンだ。キリッとした二重の瞳は、何を考えているか読み取れない。それが昨日、私が初めて彼の写真を見た印象だ。父は官僚、母は元華族の出身、兄は父の秘書官で、妹は日舞の師範。出生だけでもすごいのに、本人も日本で有名大学を卒業した後、一級建築士資格を取得。そして海外に渡り、たくさんのデザインを手がけ、数々の賞を受賞しているそうだ。和建築にも定評があり、このたび東京に新しくできる近代美術館の建築の指揮を取っていると、ニュースでも取り上げられていたことは記憶にあった。しかし、
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