Masukその子は、誰の子だ。
長い息の詰まるような沈黙の末、結菜ははっきりと首を横に振った。5年前に彼に突き放された時と同じ絶望を押し殺して、母親としての覚悟を決めた声で告げる。
「あなたには、関係のないことです」
その一言は、智輝にとって彼女が下した「判決」のように聞こえた。
「樹、行きましょう」
「うん……」
結菜はそれ以上何も言わず、樹の小さな手を引いて、智輝を一度も振り返ることなく部屋を去っていく。
樹だけが最後にドアの隙間から、不思議そうな顔で智輝を見つめていたが、やがてその姿も完全に消えた。◇ ぱたん、と閉まるドアの乾いた音が、智輝の心に突き刺さる。張り詰めていた緊張が切れて、彼は一瞬、近くの本棚に手をついて体重を支えた。(関係ない、だと……?)
結菜の言葉が、頭の中で嘲笑うように反響する。
(あの瞳…&
「人事部の連中が何日もかけて出せなかった答えを、君はたった数十分で、いとも簡単に見つけ出してしまった。さすがは元優秀な司書殿だ」「い、いえ。私はただ、自分が母親としてどう感じるか、司書として何ができるかを考えただけで……」 結菜が照れ隠しに視線を落とすと、智輝は身を乗り出して結菜の手を取った。 彼の大きく温かい手が、結菜の指先を包み込む。「その『ただ考えたこと』が、我が社にとってどれほどの価値を持つか、君は分かっていない」 智輝の銀灰色の瞳が、強い光を放っていた。「親子の時間をサポートするライブラリー。これは単なる福利厚生の枠を超える。従業員の生活の質を根本から向上させる、強力な武器になる」 彼は結菜の手を握る力を、少しだけ強めた。「結菜。君を、この社内託児所新設プロジェクトの専属アドバイザーに任命したい」「えっ……私が、ですか?」 予想外の言葉に、結菜は声が上ずった。「私がKIRYUのプロジェクトに口を出すなんて、いくら何でもおこがましいわ。それに私はただアイデアを出しただけで、実際の運営や管理のことなんて何も……」「君のアイデアがなければ、このプロジェクトはただの箱モノで終わっていた。絵本の選定やライブラリーの空間作りに関して、君以上の適任者はいない。実務的な問題は俺と社員たちがサポートする」 智輝の言葉は、有無を言わせない響きを持っていた。 けれど強引なだけではない。結菜の専門性に対する強い信頼が込められていた。「君の力を貸してほしい。うちの社員たちと、その子供たちのために」 正面から見据えられて、結菜は喉の奥に張り付いた乾きを飲み込んだ。 KIRYUホールディングスという巨大企業のプロジェクト。その規模の大きさに足がすくみそうになる。 結菜は既に読み聞かせボランティアのプロジェクトに関わっている。 これ以上、CEO夫人の立場で手を出していいものかと悩んだ。 しかしその恐れと悩み以上に、自分の司書としての経験が、どこかの誰かの親子の時間を温かいものにできる
智輝は顔を上げて、不思議そうに結菜を見た。「これは……託児所に図書館を作るということか?」 結菜は姿勢を正した。 心臓の鼓動が少し早くなる。自分の考えが、この巨大企業のCEOにどこまで伝わるだろうか。 結菜は視線をそらさず、彼の目を見つめ返した。 これからの言葉は夫婦の対話ではない。 元司書としての矜持と、2人の子を持つ母親としてよりよい場所作りをするためのプレゼンだ。「はい。ただのプレイルームではなく、『ライブラリー』を併設するべきだと思います」「理由は?」「先ほど、智輝さんは『親の罪悪感』の話をされましたよね。子供を遅くまで預けっぱなしにしてしまうことへの申し訳なさ。それを少しでも軽くできるのが、絵本だと思うんです」 結菜の言葉に、智輝は腕を組んで先を促すように無言で頷いた。「子供たちが親のお迎えを待つ間、ただおもちゃで遊ぶだけではなく、保育士さんから質の高い絵本の読み聞かせをしてもらう。それは立派な『情操教育』になります。親は『ただ預けている』のではなく、『良い教育の場に通わせている』と思えるはずです」 智輝の表情がわずかに変化した。経営者としての思考が回転し始めているのが分かる。「なるほど。一時預かりの場から、教育の場への昇華か」「それだけではありません。私が提案したいのは、『貸出システム』の導入です」 結菜はバインダーの別の付箋を指差した。「仕事が終わってクタクタになってお迎えに来た後、そこから本屋や図書館に寄って子供に絵本を選んであげる余裕なんて、ほとんどの親にはありません」 結菜の声に熱がこもる。「だから、託児所の中にライブラリーを作るんです。お迎えの時に、子供が『今日これ読んだの!』『パパ、ママ、これお家で読んで!』と本を持ってくる。親はそのままその本を借りて帰る。そして、寝る前のほんの十分でいい。借りてきた絵本を、子供に読んであげるんです」 結菜は両手を胸の前で軽く組み合わせた。「そうすれば、親子の間に自然
「最近、うちの会社で優秀な社員の離職が相次いでいてね。特に30代の、これから管理職として会社を引っ張っていってもらいたい世代だ。理由はほぼ全員、育児と仕事の両立が困難になったから、というものだ」 智輝の顔から父親の顔が消えて、経営者としての険しい表情が浮かび上がる。「昨日も、重要なプロジェクトのリーダーを務めていた女性社員から退職願を出された。彼女の子供が通う保育園は、延長保育の枠が常に埋まっているらしい。毎日、定時で仕事を切り上げて走って迎えに行かなければならない。チームのメンバーに申し訳ない、これ以上迷惑はかけられない、と彼女は泣きながら言っていたよ」 結菜は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。 その女性社員の焦りや罪悪感が手に取るように分かる。 彼女自身も樹を1人で育てていた頃は、常に時間に追われて、誰かに謝ってばかりいた記憶があるからだ。「だから、この社内託児所の計画を前倒しで進めているんだ。本社内に子供を預けられれば、通勤時間も一緒にいられるし、急な残業にも対応できる。離職の歯止めになるはずだと思ってね」「とても良い対策だと思います。会社がそこまで考えてくれるなんて、社員の方々は心強いはずよ」「……だが、今日の会議で人事部から上がってきた意見は、手厳しいものだった」 智輝は両手で顔を覆い、深い息を吐き出した。「『ただ子供を預かるだけの施設を作っても、根本的な解決にはならない』と指摘された。親は、子供を長時間施設に押し込めていることに強い罪悪感を抱く。結局、子供に寂しい思いをさせているという思いが拭えなければ、会社を辞めるという選択は変わらない、とな」 結菜は口を閉ざした。 人事部の指摘は的確だった。 どんなに安全で綺麗なおもちゃがたくさんあっても、親と離れて過ごす時間は子供にとって寂しいものだ。 そして、その寂しそうな顔を見るのは親にとって何よりも辛い。「安全第一のプレイルームを作ればいいと考えていたが、どうやら俺の認識は甘かったようだ。付加価値が必要なんだ。親が『ここなら預けてもいい』と心から思えるような、何か特別な理由が」
プレイルームの備品リストにあるのは、プラスチック製のすべり台、ボールプール、有名キャラクターの玩具の数々。 子供を「安全な場所に預かっておく」という機能は完璧に満たしている。 しかし、そこには子供の心を豊かに育むための視点が欠けているように思えたのだ。(本が1冊もないなんて) 元司書としての血が騒いだ。 子供が何時間も過ごす場所に絵本がない。 それは結菜にとって、美味しい料理が並んだテーブルにカトラリーが一切ないのと同じくらい、不自然な光景だった。 結菜はピンク色の付箋にペンを走らせた。「絵本コーナーの設置」と書き込み、備品リストのページの端に貼り付ける。 1つ貼り始めると、次から次へと改善案が湧いてきた。「結菜、柚葉、ただいま」 不意に背後から声がした。 結菜の肩がビクッと跳ねる。手にしていた赤ペンが、テーブルの上に転がった。 振り向くと、スーツ姿の智輝が立っていた。 時計をちらりと確認すれば、時刻はまだ夕方の4時を回ったばかり。いつもならオフィスで会議をこなしている時間だ。 彼は首元のネクタイを緩めながら、疲労の色を隠せない顔でため息をついた。「おかえりなさい。今日はずいぶん早いのね」「パパー!」 柚葉が積み木を放り出して、智輝の足元へ駆け寄っていく。 智輝は片膝をつき、娘の小さな体を抱き上げた。「ただいま、柚葉。いい子にしていたかい?」 彼の銀灰色の瞳が、娘を見つめる時だけは柔らかな光を帯びる。 結菜は慌ててテーブルの上のバインダーを閉じようとした。「ごめんなさい、智輝さん。今朝忘れていった資料、つい気になって中を見てしまって」「ああ、それか。構わないよ。機密情報というわけでもないからな」 智輝は柚葉を抱いたまま、ダイニングチェアに腰を下ろした。 結菜の前に置かれたバインダーと、そこからはみ出している何枚ものピンク色の付箋を見て、彼は少しだけ目を細めた。「随分と熱心に読んでく
初夏の陽気が、開け放たれた窓から心地よい風を運び込んでいた。 桐生邸の広々としたダイニングルームで、結菜はテーブルの端に座っている。ノートパソコンの画面と向かい合っていた。 少し離れた床の上では、3歳になった柚葉がカラフルな木製の積み木を積み上げていた。カチャ、カチャと楽しげな音が室内に響く。「ママ、みて。たかーいおしろ」 見れば大きな積み木はたくさん積まれて、お城の形になっている。「わあ、本当。とても上手ね」 結菜が声をかけると、柚葉は満足げな笑顔を浮かべて、さらに上に三角のパーツを乗せようと手を伸ばした。 先日の読み聞かせ支援のプロジェクトは、順調な経過を見せていた。 ボランティアたちへのシステム化とマニュアル化は、現場の負担を減らしてくれた。 経験の薄いボランティアも、システムとデータベースの支援を受けて良い仕事に取りかかれる。 小さなトラブルはいくつかあったが、概ね問題ない経過を見せている。 結菜主導の時は過ぎて、今はもう各地のボランティアたちが自発的に動き始めていた。 柚葉から目を離して、結菜の視線は手元のバインダーへと戻る。 それは今朝、智輝がダイニングテーブルに置き忘れていったものだ。 黒い革製のバインダーの表紙には、『KIRYUホールディングス 社内託児所新設プロジェクト概要』という堅苦しいタイトルが銀色の文字で印字されていた。 夫の仕事の資料を勝手に見るべきではない。そう頭では分かっていた。 ただ、「託児所」という文字が、結菜の興味を強く惹きつけたのだ。 少しだけなら、と自分に言い訳をしてページをめくったのが30分前。 今や結菜は手元に付箋と赤ペンを用意して、すっかり内容を読み込んでいた。(……これは、とてももったいないわ) 結菜は眉間にしわを寄せ、企画書の1ページを指先でなぞった。 計画自体は素晴らしいものだ。 KIRYUホールディングスでは近年、子育て世代の離職が問題になっている。 彼らを引
「頭を上げてください、代表さん。現場で長く活動されている皆様の率直なご意見があったからこそ、私たちもアプリの方向性を明確にすることができたんです。これからも、ぜひお力をお貸しください」「ええ、もちろん! 早速、うちの団体のメンバー全員にあのアプリを登録させます。選書リストも、次の病棟訪問で使わせてください」 代表が明るい顔で頷いた。 その横で、タブレットを持った佐藤が興奮気味に駆け寄ってくる。「結菜代表! アプリのダウンロード数が急激に伸びています。今日のイベント参加者だけでなく、口コミで広がっているようです。オンライン掲示板にも、早速『今日の読み聞かせで学んだこと』の書き込みが殺到しています!」「本当? よかった……」 結菜は胸を撫で下ろした。 彼女の思いは、確実に現場の人々に届き広がり始めている。◇ 全てのプログラムが終了し、参加者たちを見送った後。 閑散としたホールに、結菜と家族だけが残っていた。「ママ!」 遠くから樹が駆け寄ってきて、結菜の足元に抱きついた。「ママ、すっごくすっごく上手だった! 僕が読んでもらった時より、もっと楽しかった!」「ふふ、ありがとう、樹。樹が応援してくれたおかげよ」 結菜はしゃがみ込み、息子を強く抱きしめた。 智輝が、柚葉を抱きかかえながら近づいてくる。彼の銀灰色の瞳は、心底誇らしげな光をたたえていた。「最高のイベントだったよ、結菜。子供たちも、大人たちも、みんな君の作る物語の世界に引き込まれていた」「智輝さん……。KIRYUの技術チームのおかげよ。あの空間演出がなかったら、あそこまでの一体感は出せなかったわ」「技術は裏方さ。君という本物の司書がいたからこそ、あのシステムは活きたんだ」 智輝の言葉に、結菜は胸がじんと熱くなるのを感じた。 鏡子が静かな足取りで歩み寄り、結菜の前に立った。







