LOGIN花と果物の領地を治める子爵夫人パルマのもとに、夫に捨てられたという女アエリアが転がり込んできた。 「何もできない」と泣く彼女を、婿である夫フェルナンは可哀想だとかばい続ける。 けれどアエリアは、なぜか上物の果物や柔らかいパンだけは迷わず選び、屋敷や領民の家から少しずつ食べ物や品物が消えていく。 そして祭りの前日、娘が楽しみにしていた桃にまで手が伸びた。 「夫に捨てられた人に、桃ひとつ譲れないのか」 そう言った夫を見て、パルマは決めた。 可哀想という言葉で、娘の皿まで差し出すつもりはない。
View More離縁は、秋の初めに成立した。夏祭りから、既にひと月半ほど経った頃だった。 フェルナンは実家へ戻ったまま、エルデート領へ来ることはなかった。 離縁状には彼の署名と、実家の兄の署名が添えられていた。子供たちとの面会については、当面、パルマの許可と乳母の同席を条件とする、と決められた。 カティはにその話をしたが、ふうん、という顔のまま、問いかけてきた。「お父様、遠く?」「ええ。お父様のご実家にいます」「ごはんの時、来ない?」「来ません」「ほんと?」「本当です」 カティは少し考えてから、ロンベルトの皿へ葡萄を一粒置いた。「じゃあ、ロン、食べていいよ」 ロンはそれをつまみ、薄い皮を歯で破った。甘い果汁が口に広がったのか、目を丸くして、もう一粒と手を伸ばす。 カティは笑った。 その笑い声が食堂に戻ってきた時、パルマはようやく、ひとつ息をついた。 屋敷は静かになった。けれど、暗くはなかった。 倉の鍵は元の数に戻り、台所の出入りはしばらく記録が続けられた。 領民の家から持ち出された梨や薪や蜂蜜漬けについては、ラグラス家から弁済が届いた。フェルナンの実家からも、彼が促した分について別に謝罪と金が送られてきた。 * 女たちは、最初のうちこそ怒っていた。「うちの梨、ほんとに腹が立ちましたよ」「蜂蜜漬けなんて、嫁が産後に食べる分だったんですから」「花くらい、ですって。花を干す手間を知らないから、そんなことが言えるんですよ」 台所や乾燥小屋でそう言い合っていたが、金が戻り、パルマが一軒ずつ詫びと説明を入れると、怒りは少しずつ畑や市場の忙しさに溶けていった。 よい季節は、人を待たない。桃の次は、葡萄が来る。 その葡萄が本格的に色づき始めた頃、リクローデから厚い手紙が届いた。 差出人は、ラグラス家のメリーナだった。 封を切ると、桃の花を押した小さな紙片が一枚、挟まれていた。香りはほとんど残っていない。ただ、薄く乾いた花びらの形だけが、丁寧に残されている。 パルマは窓辺の机で、手紙を広げた。 *** エルデート子爵夫人パルマ様 先日は、娘アエリアの件で大変なご迷惑をおかけいたしました。 改めて、ラグラス家より深くお詫び申し上げます。 お約束した弁済金は、第一便としてお送りいたしました。 残りについては、ジョバンニの借り分、娘が
「母上……!」「実家へ戻りなさい。パルマ様の家に、今のあなたを置いていただくわけにはいきません」「でも、僕は」「まだ夫のつもりでいるのですか!」 その言葉に、フェルナンは黙った。フェルナンの兄が、引き取るように言う。「離縁の手続きに入る。それはこちらで預かる。お前が勝手に戻らないよう、俺が見る」「兄上、そんな……」「お前はそこまでのことをしたんだ」 兄の声は地を這うように低い。「お前は女にうつつを抜かしただけではないんだ。家の物を流し、領民の家も巻き込んだ。それに子供を傷つけた。これで、まだ自分が屋敷に残れると思っているなら、昨日までのことの意味が何も分かっていない」 フェルナンは、両手で顔を覆う。その仕草に、パルマは少し前なら胸を痛めたかもしれない。 だが今の彼女は泣く彼を見て、何かを差し出す人間でいる余裕はない。「子供たちには……」 フェルナンが、手の中から声を出した。「カティとロンには、会わせてもらえるだろうか?」 応接室の扉の向こうで、遠くカティの声がする。乳母に何か読んでもらっているのだろう。昨日より少し明るい声だった。「当面は認めません」 フェルナンが顔を上げた。「パルマ」「カティは昨日、あなたに嘘つきという意味のことを言われました。ロンは、アエリアさんを見ると乳母に隠れました。あなたはその二人の前で、何をどう謝るのか、まだ分かっていません」「……分かっている!」「いいえ」 パルマは首を振った。「今のあなたは、謝って自分自身が許されたいだけです」 フェルナンは言葉を失った。「子供たちに会う話は、離婚の手続きが進み、あなたが実家で落ち着いてからです。乳母と私が同席し、短い時間から始めるかどうかを決めます」「僕は、父親なのに……」 フェルナンの呟きは、ほとんど子供のようだった。「昨日、父親でいなかったからです」 パルマの言葉に、フェルナンの母が、目を閉じた。 兄嫁がそっと彼女の背に手を添える。フェルナンの兄は、もう弟を見ていなかった。卓の上の鍵の束を見ていた。 鍵は、返された。しかし返されたからといって、開けてしまったものが元に戻るわけではない。「荷物は、今日中にまとめさせます」 パルマは続けた。「私物だけです。書類、帳面、印章、領地に関わるものは持ち出せません。あなたの衣服、本、身の回り
翌朝、花飾りは外された。 広場に残っていた薄紅の花は、夜露を吸って重くなっていた。まだ香るものは乾燥小屋へ回し、傷んだものは畑へ戻す。 祭りの翌日は、いつも少し静かだ。子供たちの笑い声も、昨日ほどは聞こえない。 カティは乳母と一緒に、奥の部屋で絵本を見ていた。ロンベルトは朝食の途中で眠くなり、そのまま乳母の膝でうとうとしている。 フェルナンは、朝食のテーブルには来なかった。来られなかったのだろう。 パルマは、いつも通り朝の帳面を開く。 祭りに使った桃、戻した皿、割れた杯、余った花、配り終えた干し葡萄。ひとつずつ線を引く。 昨日、アエリアが強く握った桃も、祭り用の箱からは外してあった。 皮に指の跡がついたものは、子供たちの皿にも、客の皿にも載せない。市場にも出せない。けれど、捨てるほど傷んでいるわけではない。「その桃は、傷のついたところを落として、台所で食べてちょうだい」 朝のうちに、パルマは台所頭へそう命じた。「カティとロンには、別の桃を」「はい、奥様」 台所頭は、それで十分に分かった顔をした。 果物は、同じように見えても行き先が違う。客へ出すもの。子供へ出すもの。市場へ出すもの。賄いに回すもの。傷のところを薄く落として、その場で食べるもの。 傷がついたものを、傷のないものと同じ箱へ戻してはいけない。 けれど、食べられるものまで捨てる必要もない。終わったものは、終わったものとして閉じる。使えるものは、使える形へ回す。 それが済んでから、パルマは応接室へ向かった。 * 部屋にはすでに親族が揃っていた。 パルマの母は、窓に近い椅子へ座り、母方の叔父は、扉近くに立っていた。 フェルナンの母と兄夫婦は、向かいの席に並んでいる。 そしてフェルナンは、ひとりだけ少し離れた椅子に腰を下ろしていた。 昨日より顔色が悪い。眠れなかったのだろう。上着も着ているが、袖口のボタンがひとつ外れたままだった。「お待たせしました」 パルマがそう言って席につくと、叔父が短く頷いた。「それでは始めよう」 フェルナンが顔を上げた。「パルマ、その前に」「話は伺います。ただし、順に」 パルマは卓上へ小さな束を置いた。昨日、フェルナンが返した鍵である。 倉、台所、保存室、書庫、冷えた部屋。小さな札がそれぞれにつけられている。五年の間に、夫婦と
その年の祭りには、親族も来ていた。 パルマの母と母方の叔父。隣領へ嫁いだ従姉。フェルナンの実家からは、兄夫婦と年老いた母が来ていた。 例年なら、祭りの席は賑やかに終わる。 広場で桃を配り、花飾りを見て、子供たちが走り回り、夕方には屋敷で軽い食事を取る。親族はそこで、今年の実りや子供たちの成長を笑い合って帰る。 だが、今年は違った。 ラグラス家の馬車が去ったあと、広場にはしばらく妙な静けさが残った。 男たちは片づけの手を動かしながら、時々顔を見合わせる。 さっきまで自分たちが「可哀想な奥様」だと思っていた女が、馬車の中から悪態を吐き散らして帰っていったのだ。何を言えばよいか分からない顔をしている。 女たちは、分かっている顔をしていた。「だから言ったでしょう」 乾燥小屋の女が小さく言った。「泣く人が、いつも弱いとは限らないのよ」 それを聞いていたフェルナンの兄嫁が、黙って頷いた。 彼女は祭りの途中から来ていた。幼い甥と姪に菓子を渡そうとして、倉の騒ぎを少し見た。その後、広場でアエリアの悪態を聞いた。 フェルナンの兄は、弟のそばへは来ない。今行けば、殴るかもしれないと思ったのだろう。 パルマの母は、カティのそばにいた。 先代子爵夫人である彼女は、もう領地の実務から退いている。だが、花と果物の家で何が大事かは、誰よりも知っていた。「カティ」 母が呼ぶと、カティは桃の皿を持ったまま顔を上げた。「怖かったでしょう?」「ちょっと」「ロンは?」「こわかった。アエリアさん、チッってしたから」「そう……」 母は、それ以上かわいそうとは言わなかった。代わりに、カティの皿を見た。「その桃はおいしい?」「おいしい」「なら、よかった。カティの桃だものね」 カティは強く頷いた。「ロンのもある」「ええ。ロンのも」 その会話を、少し離れた場所でフェルナンの母が聞いていた。 彼女は白髪の多い女だった。病弱ではないが、年相応に動きはゆっくりしている。普段は穏やかで、息子を責めるようなことをあまり言わない。 その母が、フェルナンの前に立った。「フェルナン」 フェルナンは、はっとしたように顔を上げた。「は、母上……」「あなた、あの子に謝らせようとしたのですってね」 フェルナンの顔が強ばる。「それは…… 聞き間違いで人を」「聞