夫に捨てられた可哀想な奥様に、娘の桃まで譲るつもりはありません

夫に捨てられた可哀想な奥様に、娘の桃まで譲るつもりはありません

last updateLast Updated : 2026-10-17
By:  さんけいCompleted
Language: Japanese
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花と果物の領地を治める子爵夫人パルマのもとに、夫に捨てられたという女アエリアが転がり込んできた。 「何もできない」と泣く彼女を、婿である夫フェルナンは可哀想だとかばい続ける。 けれどアエリアは、なぜか上物の果物や柔らかいパンだけは迷わず選び、屋敷や領民の家から少しずつ食べ物や品物が消えていく。 そして祭りの前日、娘が楽しみにしていた桃にまで手が伸びた。 「夫に捨てられた人に、桃ひとつ譲れないのか」 そう言った夫を見て、パルマは決めた。 可哀想という言葉で、娘の皿まで差し出すつもりはない。

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1 もう、うんざりです
「もう、うんざりです」 パルマは、桃の箱の前で言った。 朝摘みの桃は、薄い藁の上に一つずつ並べられて、箱を開けただけで、甘い香りが倉の中へ広がる。明日の朝には、ちょうどよく熟れて市場へ出せる。 その箱の前に、アエリア・セルデスが立っていた。 腕にかけた籠には、すでに桃が三つ入っている。どれも大きく、色づきがよく、傷もない。「パルマ」 フェルナンが困ったように眉を寄せた。「桃ひとつふたつのことで、そんな言い方をしなくても」「桃ひとつふたつではありません」 パルマは箱の端に差してあった木札を立て直した。 ――祭り用。 娘のカティはまだ読めないその札を、昨日から何度も指でなぞっていた。祭りの日に、弟のロンと一緒に食べるのだと乳母に話していた桃だ。「それ、カティの桃」 小さな声がした。 振り向くと、四歳のカティは乳母のスカートを握って立っていた。乳母の腕には、二歳のロンベルトが抱かれている。ロンは桃の匂いに気づいたのか、まだ眠そうな顔のまま手を伸ばした。 アエリアの籠が、ほんの少し後ろへ下がる。 ち、と小さな音がした。 ロンの手が止まった。乳母の肩へ顔を押しつける。カティは目を丸くして、それからアエリアを見た。「今、アエリアさん、舌を鳴らした」「カティ」 フェルナンの声が強くなった。「そんなことを言ってはいけないよ。アエリアさんは今、とてもつらいんだ。旦那さんに置いていかれて、食事もあまり喉を通らないそうじゃないか」 アエリアは籠を胸の前で抱えた。「いいのです、フェルナン様。私が悪いのですわ。お嬢様の大事な桃とも知らずに……」 そう言いつつも、決して籠から桃を戻そうとはしない。 パルマは、その手を見ていた。何もできないと訴えるには似合いの、白く細い指だった。 けれど桃を選ぶ時だけは迷っていない。 香りの立ち方、色づき、実の張り。明日の市場で一番よい値がつくものを、アエリアは外さなかった。「戻してください」「え?」「その桃は、領地の子供たちに配る分です。あなたへのお見舞いではありません」 フェルナンが息を吸った。「パルマ、夫に捨てられた人に、桃くらい譲れないのか」 その言葉で、パルマは夫を改めて見る。 五年暮らした男だ。人当たりはよい。領民の話を聞くのも嫌がらない。畑で転んだ老人を家まで送ったこともあるし、
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2 やってきた若夫婦
 この春、セルデス夫妻は、エルデート子爵領の南端にある空き家へ入った。 古い果樹小屋を改めた家だった。 二部屋と小さな台所。裏には細い畑があり、井戸も近い。屋根は前年の秋に直してある。新しく住み着く夫婦へ貸すには、悪くない場所だった。 当初、その家を貸すと決めたのは、パルマだった。 そもそも、エルデート子爵家はパルマのものである。父の代から続く花と果物の領地を、彼女は婿を迎えて継いでいた。 夫のフェルナンは人当たりがよく、領民の訴えを聞いたり、怪我人の見舞いへ行ったり、冬前に薪の足りない家を見て回ったりするのに向いていた。 一方、土地と収益、倉の中身、市場へ出す果物の数、保存食の割り振り、職人や季節働きへの支払いは、すべてパルマが見ていた。 花は摘めば終わりではない。乾かす分、香油に回す分、薬草袋に入れる分がある。 果物も同じだ。市場へ出す上物、果実酒にするもの、干すもの、ジャムに煮るもの、賄いへ回す傷物。それぞれに行き先がある。 余って見えるものほど、すでに誰かの手と口へつながっていた。 だから、新しく住み着く者へ何を貸し、何を渡し、どの仕事へ入れるかは、パルマが決める。 * 最初にセルデス夫妻を見つけたのは、フェルナンだった。「若い夫婦だよ。セルデスというらしい」 夕食の席で、フェルナンはそう言った。 その日は、早生のプラムを煮たものが食後に出ていた。 カティは匙で皿の底をつつき、ロンは乳母の腕の中で眠りかけていた。パルマは翌朝の市場へ回す葡萄の数を頭の中で数えながら、夫の話を聞いた。「夫の方は、ジョバンニ・セルデス。手紙は書けるし、計算も少しできる。果樹の扱いは覚えたいそうだ。妻の方は…… アエリアさんといったかなぁ」 フェルナンは、その名を少し柔らかく言った。「実家で、あまりよい扱いを受けなかったそうだ」「扱い? どういう?」 パルマは匙を置いた。「細かいことまでは聞いていないんだが、どうも、家の者にずいぶん厳しくされたらしい。下働きのようなこともさせられ、何をしても叱られたと」「それで、この領へ?」「ああ。ジョバンニが連れ出したそうだ」 フェルナンは、少し誇らしげだった。「なかなか勇気のある男じゃないか。家から逃げてきた妻を守るために、知らない土地へ来たんだ」 パルマは夫に、すぐには返事をしなかった。
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3 よいものだけは分かるらしい
 だが一週間は、一週間で終わらなかった。 最初のうちは、パルマも急かさなかった。 知らない土地へ来たばかりの者を、すぐに畑へ出す必要はない。春の作業は多いが、手はほかにもある。 ジョバンニは、果樹園の下仕事へ入った。 枝を運び、根元の草を抜き、古い支柱を取り替える。言われたことはする。 少し不器用ではあったが、逃げるような男ではなかった。昼には他の男たちと同じ賄いを食べ、夕方には、借りた家へ戻っていく。 そしてその手には、いつも何かがあった。 麦の小袋。傷のある果物。乾燥花を束ねそこねたもの。余った薪。古い布。 どれも、最初に住み着く者へ渡す範囲のものだった。 帳面にも載せてある。返せる分は仕事で返してもらう。返せない分は、落ち着いてから別の軽い仕事へ回す。 ……そのはずだった。 けれど、アエリアはなかなか落ち着かなかった。 *「今日は、少し頭が重いそうなんだ」 フェルナンが言ったのは、十日ほど経った頃だった。 その日は、乾燥小屋で花の茎を揃える仕事を回す予定だった。座ってできる。花の向きをそろえ、傷んだものを分け、束ねる前の下仕事をするだけだ。 パルマは帳面の端に挟んでいた札を一枚抜いた。「では、明日にしましょう」「悪いな」「貴方が謝ることではありませんでしょう? アエリアさんの仕事です」 フェルナンは少し黙る。「そうなんだが、彼女はまだ、色々つらいらしい。実家でずいぶん厳しくされていたみたいで、仕事という言葉を聞くだけで身がすくむと……」「それをジョバンニさんが?」「いや、アエリアさんが」 パルマは札を戻した。 身がすくむ。なるほどそれは気の毒なことだ。 ただ、アエリアの身体は、果物の籠を受け取る時にはすくまない。 最初に渡した傷物のプラムは、二日後には別の果物に替えてほしいと言ってきた。酸味が強くて喉を通らなかったらしい。 そこでフェルナンは、台所へ寄り、賄いに回す予定だった梨を二つ持たせた。ところがそれも、少し固かったという。 次に出したのは、熟れの進んだ桃だった。売り物にはならない。今日中に食べなければ傷むものだ。 アエリアは、それはよく食べた。「桃なら食べられるそうだよ」 フェルナンは明るく言った。「よかったじゃないか。何も食べられないよりは」「ええ」 パルマは答えた
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4 傷つかない仕事
「傷つかない仕事を探しましょう」 パルマがそう言うと、フェルナンは少しだけほっとした顔をした。その顔を見て、パルマは筆を取り直す。 フェルナンは優しい。少なくとも、本人はそう思っている。困っている者に仕事を回し、麦を貸し、薪を渡す。その一つ一つに悪意はない。 ……悪意がないから、面倒だった。 * 翌日、パルマは紙折りの仕事を用意させた。 葡萄を包むための薄紙である。大きさをそろえて折り目をつけ、束にする。 この仕事に力はいらない。座ったままでいい。果物を選別するより、乾燥花を扱うより、よほど気を遣わずに済む。 昼前、アエリアは屋敷に来た。フェルナンが連れてきたのだ。「アエリアさん、ここで大丈夫かしら」 パルマが尋ねると、アエリアは小さくうなずいた。「はい。私にもできることがあるなら……」 声は細い。けれど、座る椅子を見る目は速かった。 その部屋には、作業用の長机と椅子が並んでいる。季節働きの女たちが、花を束ねたり、紙を折ったり、果物の包み紐を切ったりする部屋だった。椅子は丈夫だが、客間のものではない。 アエリアは一度、椅子の座面を見てから座ったが、すぐに紙へ手を伸ばすことはしなかった。「どうかしましたか」「いえ……」 アエリアは薄紙を一枚持ち上げた。「これを、こう折ればよろしいのですね」「見本の通りに」 パルマが示すと、アエリアは丁寧に一枚折った。 少し遅いが、できないことはない。 二枚目も折った。三枚目も折った。だが四枚目で、指が止まった。「すみません。紙の音が、少し」「紙の音?」「実家で、帳簿を写す時に、いつも……」 そこまで言って、アエリアは唇を噛んだ。するとフェルナンがすぐに身を乗り出す。「無理をしなくていい」 ――無理をしなくていい。 この言葉は便利だった。 パルマは、折られた紙を数えた。三枚。四枚目は途中で止まっている。葡萄一房にも足りない。「では今日はここまでにしましょう」「パルマ」「その代わり、今日の仕事代は出ません」 フェルナンか黙り、アエリアは顔を伏せた。「もちろんです。私、役に立てませんでしたもの」 そう言いながら、彼女は折りかけの紙をそっと机の端に置く。その指先が、その横に置いてあった小皿へ触れる。 小皿には、作業の合間につまむための干し葡萄が入っていた。季節働きの女
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5 リクローデの桃
 翌朝、パルマは市場へ出す葡萄の箱を見に行った。 エルデート領の市場は、領主館から馬車で半刻ほどの場所にある。 夏前のこの時期はまだ葡萄も桃も本番ではないが、早いものは出る。 花と果物の領地は、朝が早い。日が高くなる前に摘み、選び、箱に詰める。暑さが来る前に動かさなければ、実がすぐゆるむ。 市場の端には、他領から来る商人もいる。 パルマは、葡萄の箱を一つ開けさせた。粒はそろっている。皮に張りがあり、軸も青い。これなら予定通り出せる。「リクローデの方からも、今年は早い桃が来ているそうね」 何気ない顔でそう言うと、馴染みの果物商が顔を上げた。「ああ、来ておりますよ。まだ数は多くありませんが。あちらの桃は、やはり香りが違いますな」「リクローデ男爵領は、果樹の家が多いのでしょう」「多いですね。古くからの家がいくつもございます。ラグラス、オルネ、ヴェルナ…… あのあたりは、箱の詰め方まで家で癖が違う」 ラグラス。パルマは、葡萄の軸を確かめる手を止めなかった。「ラグラス家というと」「おや、奥様もご存じで?」「名前だけ。こちらへ来た者の故郷だと聞きました」 商人は一度、周囲を見た。 市場に噂は多い。多いからこそ、誰の耳に入れるかは選ぶ。パルマが領地の出荷を握っていることを、この男はよく知っていた。「ラグラスの娘さんが、ちょっとばかし前に家を出たとは聞きました」「家を?」「ええ。親の決めた縁談が嫌で、よその若い男と逃げたとか。まあ、あの手の話は尾がつきますから、どこまで本当か」「その娘さんの名は?」「たしか、アエリアとか」 パルマは葡萄の箱を閉じた。「そう」「奥様?」「いえ。リクローデの桃が入ったら、ひと箱見せてください。買うかどうかは、実を見てから決めます」「もちろんでございます」 市場を出る時、馬車の中に桃の香りが一つもないことに、パルマは少しだけほっとした。 * 屋敷へ戻ると、フェルナンが玄関前にいた。 外套も着ず、帽子だけ手にしている。どこかへ出るつもりだったらしい。「アエリアさんのところへ?」 パルマが聞くと、フェルナンは少し困ったように笑った。「様子を見てくるだけだよ。ジョバンニが今日は果樹園の方で長くなるそうだから」「ジョバンニさんは、昨日も長く働いていました」「ああ。よくやっている」「ええ。彼
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6 白パンと燻し肉
 その夜、フェルナンは戻りが遅かった。 戻った時、アエリアの家で夕食を取ってきたのだと言った。 食事と言っても、彼が持っていった白パンと燻し肉を少し分けただけだと。「白パンと燻し肉」 パルマは聞き返した。「台所から、客用のものが少し残っていたから」「客用の燻し肉は、明日の商会主との昼食に使います」「少しだよ」「少しずつ? 積み重なれば足りなくなりますよ」 フェルナンは疲れたように椅子へ座った。「……君は本当に、全部数えるんだな」「当然でしょう」 パルマは答えた。「数えないと、足りなくなった時に誰が困るか分からなくなりますから」 フェルナンは妻の言葉に、返事ができなかった。 * 翌朝、ジョバンニがいなくなったという報告が入った。 果樹園の者が、南端の家へ呼びに行ったが、戻ってきた時、門の前で帽子を脱いで言いにくそうにした。「セルデスさんが、いません」 パルマは、その時ちょうど市場へ出す梨の数を確認していた。梨は桃より涼しい香りがする。包丁を入れると水がしっとりと出る。「アエリアさんは?」「家にいます。泣いていて、話にならないと」「フェルナンは」「もう向かわれました」 早いことだ、とパルマは思った。 夫は、領地の倉の鍵を探す時より、外の女の涙へ向かう時の方が速い。 パルマは梨の箱に蓋をした。「馬車を用意して。乳母に、カティとロンを屋敷の奥から出さないよう伝えてください」 侍女が頷く。「それから、リクローデへ出す手紙は急がなくて結構です」「よろしいのですか」「ええ」 パルマは手袋をはめた。「向こうから、何か来るかもしれませんから」 * 南端の家へ着く前から、泣き声が聞こえた。 アエリアは、戸口の内側に座り込んでいた。髪は乱れ、薄いショールを肩にかけ、顔を覆っていた。 フェルナンはそのそばに膝をつき、何度も声をかけていた。「アエリアさん、大丈夫だ。落ち着いて」「どうして…… どうして私ばかり……」 アエリアは泣きながら言った。「あの人まで、私を置いていくなんて」 部屋の隅には、食べかけの白パンがあった。皿の上には、薄く切られた燻し肉が二枚残っている。古い椅子には、パルマが渡した厚布が敷かれていた。だがその上には誰も座っていない。 パルマは部屋を見回す。麦袋は口が開いたまま。豆壺には蓋がな
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7 奥様、うちの人が変なんです
 ジョバンニが消えてから三日目、最初に屋敷へ来たのは、果樹園で働く男の妻だった。 名はミラと言う。春から秋まで果物箱の藁を替え、冬には乾燥花の袋詰めを手伝う女だ。 子供が三人いて、いつもなら用件を短く済ませ、すぐ家へ戻るはずだ。なのにこの日、屋敷の裏口で帽子を両手に握っていた。「奥様」 呼ばれて、パルマは台所の帳面から顔を上げた。「どうしました」「その…… お聞きしてよいものか」「言ってください」 ミラは一度、台所の女たちを見た。女たちは手を止めない。だが耳は向いている。「……うちの人が、昨夜、南端の家へ行きました」「アエリアさんのところへ?」「はい。薪を割ってくると」 パルマは帳面を閉じた。「フェルナンから頼まれたのですか」「いいえ。うちの人が、アエリアさんは今ひとりで可哀想だからと」 ミラの声が少し固くなる。「そりゃあ私だって、可哀想なのは分かります。夫に置いていかれたと聞きましたから。でもうちにも子供がいるんですよ。夜の薪割りは、うちの分だって残っているんです。それを、あの人の家へ先に行くものだから」 ミラはそこで口をつぐんだ。「帰ってから、何か言われましたか」「女同士なら分かってやれ、と」 台所の奥で、鍋の蓋が小さく鳴る。パルマはミラを見ていた。「あとは?」「……今朝、うちの子の梨がありませんでした」「梨」「奥様から、賄いに回していただいた小さい梨です。下の子が楽しみにしていて。それをどうも、うちの人が持っていったそうです。アエリアさんは食べられるものが少ないから、少しくらい、と」 ――少しくらい。 フェルナンの言い方と同じだった。「分かりました。こちらで確認しましょう」「奥様、あれは領主家からのお達しなのですか?」「いいえ、違います」 パルマはすぐに答えた。「エルデート家から、アエリアさんの家へ私物や食料を持っていくよう命じたことはありません」 ミラは、そこでようやく息を吐いた。「なら、よかった」 よかった、と言いながら、顔は晴れない。「でも奥様、うちの人だけなら、私が叱ればいいんですが…… どうも、他にもいるようで」「他にも?」「はい。乾燥小屋のニナのところも、旦那さんが帰りに花を持っていったとか。売り物にならないものだと言っていたそうですが、ニナが見たら、香りのいい束だ
last updateLast Updated : 2026-10-17
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8 フェルナンは善意を配る
 フェルナンは、その夜から動き方を変えた。 パルマに相談する回数を減らし、代わりに朝早くに屋敷を出る。 昼前に一度戻り、また南端の家へ向かう。夕方には果樹園や乾燥小屋の男たちを呼び止め、何やら話している。 最初に気づいたのは、乳母だった。「奥様、旦那様が台所裏の古い籠をいくつかお持ちになりました」「何に使うと?」「アエリアさんの家へ、見舞いを届けるためだそうです」 パルマは、カティの髪を結っていた手を止めた。カティは鏡の中で目を瞬かせる。「アエリアさん、また桃たべるの?」「まだ分からないわ」 パルマはリボンを結んだ。「でも、カティの桃は別に置いてあるわよ」「ロンのも?」「ロンのも」 カティは安心したように頷いた。 * その日の午後、フェルナンは果樹園の男を三人連れて、南端の家へ向かった。 籠の中身は、梨、白パン、干し葡萄、薪、古い膝掛け。どれも一つずつなら騒ぐほどのものではない。 だが一つずつを、三人がそれぞれ持つと、立派な見舞いになる。 アエリアは戸口に出て、両手で口元を押さえた。「こんなに…… 私のために?」「ああ、皆が心配しているんだ」 フェルナンは言った。「君は一人ではないよ」 男たちは少し照れたように笑った。 妻に文句を言われた者もいたが、フェルナンに直接頼まれれば断りにくい。領主家の婿で、普段から気さくに声をかけてくれる男である。 アエリアは深く頭を下げた。「ありがとうございます。皆さまに、こんなによくしていただいて…… 私、何もお返しできませんのに」「今はいいんだ」 フェルナンはすぐに答えた。「立ち直ることだけを考えればいい」 ――今は。 * パルマがその言葉を聞いたのは、後で台所の女からだった。「旦那様がそうおっしゃっていたそうです」「そう」「それで、アエリアさんが泣かれたとか」 台所の女は、布巾を絞りながら口を曲げた。「泣きながら、干し葡萄の袋はしっかりお持ちになったそうで」 パルマはその言い方について、あえて咎めはしなかった。 * 翌日、フェルナンは見舞いの品を帳面に載せていなかった。パルマがそれを指摘すると、彼は少しだけ疲れた顔をした。「全部、売り物にならないものだよ」「白パンも?」「あれは昨日の残りだ」「客用の残りです」「捨てるよりいいだろう」「捨
last updateLast Updated : 2026-10-17
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9 舌打ちの音
 倉の鍵を替えた翌朝、フェルナンは不機嫌だった。 朝食の席で、カティが焼いたパンに蜂蜜を塗ってもらっている間も、ロンが匙を落として乳母に拾われている間も、彼はほとんど口を開かなかった。 パルマは、先に葡萄畑の報告書へ目を通す。早い房がいくつか色づき始めている。雨が少なかった分、実は締まるだろうが、乾きすぎれば粒が小さくなる。「ねえ、おとうさま、今日は帰ってくる?」 カティが尋ねた。フェルナンは、ようやく娘を見た。「もちろん帰るよ」「きのう、夜のスープのときいなかった」「ああ…… 少し用があったんだ」「アエリアさん?」 食卓の空気が、ほんの少し止まる。フェルナンは困ったように笑った。「カティにはまだ難しい話だよ」「むずかしくないよ。おとうさま、アエリアさんのところばっかり行く」 乳母が小さく息をのんだ。パルマは止めなかった。 フェルナンは、手にしていたナプキンを膝の上で畳み直した。「アエリアさんは今、ひとりで寂しいんだ。だから少し、助けてあげないといけない」「カティもさびしい」 その言葉に、フェルナンは返事をしなかった。 ロンが匙を握ったまま、父を見ている。まだ言葉は少ない。けれど、家の中で誰がいなくなるかくらいは分かる。 パルマはパンを置いた。「フェルナン」「何だい」「今日、子供たちと昼食を取れますか」「昼は…… 少し難しいかもしれない」「では夕食は」「戻るつもりだ」 ――つもり。 この頃のフェルナンは、そればかり言うようになっていた。 ――戻るつもり。 ――話すつもり。 ――すぐ済ませるつもり。 ――アエリアさんが落ち着けば終わるつもり。 つもりで、食卓の席は空くし、倉のものは減るし、子供は待たされる。「……分かりました」 パルマはそう答えた。 フェルナンは、少し不満そうに顔を上げた。責められると思っていたのかもしれない。責められれば、反論もできる。 だが、もう朝食の席で言うことではなかった。 * その日、フェルナンは自分の小遣いで町へ出た。 買ってきたのは、薄い茶葉と、小さな焼き菓子と、古本屋で見つけた詩集だった。どれも高いものではない。包み紙も簡素だった。 午後、彼はそれを持って南端の家へ行ったが、帰ってきたのは、思ったより早かった。「アエリアさんはどうでした?」 パルマが尋ね
last updateLast Updated : 2026-10-17
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10 お祭りの桃
 祭りの前日、桃の箱が倉へ入った。 朝のうちに摘んだものだった。まだ日が高くなる前、果樹園の者たちが一つずつ手で受け、薄い紙に包み、藁を敷いた箱へ並べたものだ。 今年の桃はよかった。 箱を開けると、倉の中の空気が変わる。甘いだけではない。皮のうぶ毛に残る青い匂いと、熟れはじめた果肉の香りが混じる。近づきすぎると、口の中にもう汁が広がるようだった。 パルマは箱の数を確認する。 市場へ出す上物。祭りで領地の子供たちへ配る分。屋敷の食卓へ回す分。 傷のある中で、今日中に煮た方が良い分。 それぞれに、木札を一つずつ差す。 ――祭り用。 その札を、カティは朝から何度も見に来ていた。「カティ、まだ食べられない?」「明日ですよ」 乳母が言うと、カティは唇を尖らせる。「明日、ロンと半分こ?」「ロン様の分もありますよ」「じゃあ、カティは丸いの。ロンはちいさいの」「お嬢様」 乳母がたしなめると、カティは慌てて言い直した。「ロンも丸いの」 ロンベルトは、乳母の腕の中で桃の箱を見ていた。 まだ二歳のロンには、祭りも木札も分からない。ただ、甘い匂いがすることだけは分かるらしい。小さな手を伸ばして、藁の端をつまもうとする。「明日よ」 パルマが言うと、ロンは手を引っ込めた。「もも」「そう。明日、桃を食べましょう」 カティは、うん、と大きく頷く。その顔を見るだけで、パルマは少しだけ肩の力が抜ける。 桃は食べ物だ。そして売り物でもある。領地の収入でもある。 だが、四歳の子供にとっては、楽しい明日を待つ理由だ。それを守ることも、家の仕事の一つだった。 * 昼前、フェルナンが倉へ来たが、ひとりではなかった。 アエリアが、少し後ろに立っていた。薄い夏のショールを肩にかけ、両手には小さな籠を持っている。 パルマは木札を差す手を止めた。「何か御用ですか」 フェルナンが先に口を開く。「アエリアさんが、少しなら桃が食べられそうだと言うんだ」「そうですか」「昨日からあまり食べていないらしい」 パルマが顔を上げると、アエリアは目を伏せる。「申し訳ございません、奥様。私、そんな、立派なものをいただこうなどとは思っておりませんの。売り物にならないもので結構です。ただ、甘い香りがすれば、少し喉を通るかもしれないと……」 ――売り物にならないもの
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