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第3話

池田海音
直樹の母が担任の先生を伴って、冷たい表情で教室に入ってきた。

 「白石由美はどこ?」

 彼女は鋭い目つきで周囲を見回し、生徒たちは誰も声を出せなかった。

 隣に座っていた由美は眉をひそめ、机の中のスマホを素早く操作した後、落ち着いて立ち上がった。

 「私ですが、あなたはどなたですか?」

 直樹の母は細い眉を寄せ、じっと由美を上下に見つめた。

 由美の顔が次第に赤くなり、少し戸惑った様子だった。

 「あなたがうちの息子と付き合って、彼を悪い道に引き込んでいるの?」

 由美は思わず否定しようとしたが、言葉が出る前に直樹の母から一発の平手打ちを受けた。

 「その手口は私の前では通用しないから、控えておいた方がいいわ。あなたの狙いは見えているから!

 まだ若いくせに、心の中はずいぶんと狡いわね!」

 由美の美しい顔には、赤くなった手のひらの跡がくっきりと残っていた。

 彼女は驚きと怒りを隠せず、直樹の母を睨みつけて叫んだ。「おばさん、どうして私を叩くの?」

 直樹の母は冷たく笑みを浮かべた。「あなたはまだ若いのに、まともに勉強もせず、わざとうちの息子を誘惑しているからよ。

 うちの子は素直で真面目だったのに、あなたのせいでタバコを吸ったり、酒を飲んだり、喧嘩までして、親に逆らうようになったのよ。あなたが自分を堕落させるのは勝手だけど、なんでうちの息子まで巻き込むの?」

 由美は、学校でみんなに崇められる存在。そんな自分に「誘惑」なんて言葉が使われることは、彼女のプライドが許さなかった。

 「素直?ふん、おばさん、直樹は一人の人間よ。彼には独立した考えがある。そんな彼を、どうして犬みたいに『素直』だなんて表現できるの?」

 由美は強引に言い返した。

 直樹の母は怒りで顔を歪め、由美の髪を力強く引っ張った。

 「うちの子をどう教育するかは私の問題よ。あなたに口を挟まれる筋合いはない!」

 その瞬間、直樹がついに駆けつけた。

 彼は母親を強く押し返し、必死に由美を自分の背後に隠した。

 担任の先生がやっとのことで直樹の母を止め、息を切らしながら落ち着かせようとした。

 「母さん、何をしているんだ?由美と一緒にいるのは僕の意思だ。もし叩きたいなら、僕を叩いてくれ。

 試合を辞退したのも、僕自身の選択で、由美には全く関係ない」

 直樹の母は、素直で優しかった息子が大勢の前で自分に反抗するなんて思ってもみなかった。彼女は怒りで体を震わせ、ふらついた。

 担任の先生が慌てて彼女を支えた。

 「母さん……」

 直樹も、母がこれほど怒りで動揺している姿を見て驚き、心配そうに呼びかけた。

 「私を母さんと呼ばないで!こんな親に逆らう息子なんて、私にはいない!」春子は、直樹の頬に一発の平手打ちを食らわせた。

 彼女は人混みの中で私を指さして言った。「恋愛をするなとは言わない。でも、せめて菜乃のような良い子を選びなさい。ちゃんとみて、由美なんて、どうしようもない人間だって分かるでしょ。君は私たちをこんなにも怒らせて、どうするつもりなの?」

 突然名前を呼ばれた私は、その場で思わず動けなくなってしまった。

 前世では、こんなことは一度も起きなかったからだ。

 直樹と由美の関係を知っていても、直樹の母は学校に来るどころか、静かに彼を海外へ送り出し、二人を無理やり引き離しただけだった。

 しかし、今回は何かが違った。直樹の母は、みんなの前で二人を公然と侮辱するという、予想外の行動に出たのだ。

 私の名前を出された瞬間、教室中の視線が一斉に私に向けられた。

 その時、由美は何かに気づいたように急に怒りの表情で私を睨みつけた。

 「菜乃、あんたでしょ?密告したのは!

 約束したじゃない!言わないって。なんで裏切ったの?それで何か得るものでもあるわけ?」

 直樹もまた、私を見つめる目に警戒と怒りが混じっていた。

 私は無言で鼻を軽く触った。どうせ直樹は恋愛に夢中だから、疑うことなく信じ込んでいるんだろう。

 全く、今回は彼の運命を尊重しようと思って、余計なことは一切言わなかったというのに。

 それなのに、問題が起きて結局全部私のせいにされるなんて。

 私は肩をすくめて言った。「この件、私には本当に関係ないよ。私はあなたたちのことに口を出さないって約束したし、その約束を守ってる。

 もしまだ口論するなら、外でお願い。ここだと他の生徒の勉強の邪魔になるから。

 それに、おばさん、密告したのは私じゃないって、ちゃんと説明してもらえますか?」

 でも由美は、私が告げ口したと思い込んでいるようだった。

 「もういい、みんな静かに。直樹の母に話したのは私なんだから」

 担任の先生が眉を揉みながら前に進み出た。

 「みんな冷静に。話があるなら教室じゃなくて職員室でやりなさい。他の生徒の迷惑になるから」

 私たちは担任の先生に連れられ、職員室へ向かった。授業中だったので、職員室には誰もいなかった。

 担任の促しで春子さん(直樹の母)は椅子に座り、冷たい視線を直樹に向けた。「先生が教えてくれなかったら、あなた、まだ私に隠し通すつもりだったの?

 こんなにも色々隠しておいて、父さんと私にどう言い訳するつもり?」

 「まあまあ、子供に話すときは冷静に。あまり感情的にならないで」担任は春子さんにお茶を差し出しながら、優しく手を叩いてなだめた。

 担任と春子さんは昔からの知り合いで、とても仲が良い。そのおかげもあって、ようやく春子さんは怒りを抑えることができた。

 春子さんも担任も、情報が私から漏れたわけではないと認めてくれたので、ようやく疑いが晴れた。

 「これで私の関わることはないので、先に教室へ戻ります。まだやらなきゃいけない問題集がたくさん残っているので」

 大学受験も近いし、時間を無駄にはできない。

 それにしても、学校内の噂が広がる速さを甘く見ていた。

 この件は瞬く間に学校中に知れ渡ってしまった。

 学校での恋愛なんて珍しいことじゃないし、親が学校に乗り込んでくることもたまにある。

 でも、今回ほど騒がれたことはなかった。

 噂では、その日春子さんは直樹に2つの選択肢を迫ったという。

 1つは留学、もう1つは由美の転校。

 由美は自分の顔とスタイルがあれば、適当に芸術系の学校に受かると思っていたので、直樹との恋愛を自由に楽しんでいた。

 けれど、彼のために転校するほどの愛はなかった。

 由美は涙を浮かべ、悔しそうに直樹の背後に隠れた。

 「大丈夫、由美。僕がお前を守るから」

 直樹は、自分のせいで由美が母親に恥をかかされたと勘違いしていたのだろう。

 そして、直樹は母に連れて帰られ、家ではさらに激しい口論が繰り広げられた。

 由美との関係を守りたい一心で、直樹は大切にしていたイーゼルを叩き壊し、さらには絶食して抗議を始めた。

 そして、1週間後、私は久しぶりに直樹を目にした。

 その日は、2ヶ月ぶりの晴天だった。

 ふと窓の外を見ると、直樹が窓際で絵を描いているのが見えた。

 由美と付き合うようになってから、彼が絵を描く姿はほとんど見ていなかった。

 だが、描きかけのキャンバスを前に、彼は途中で筆を投げ出してしまった。

 その夜、静寂を引き裂くように、救急車のサイレンが鳴り響いた。

 両親は慌てて上着を羽織り、隣の家へと駆けつけた。

 そこでは、直樹の父が直樹を背負って走り出してきた。春子さんは後ろで息を切らしながら、嗚咽を漏らしていた。

 直樹の右手は父の肩越しに垂れ下がり、ポタポタと血が滴っていた。

 「早く救急車に!昭夫、手を貸すよ!」

 父はすぐに駆け寄り、意識が朦朧とした直樹を支えながら、昭夫さんと一緒に救急車へ向かった。

 直樹は父親の肩に力なくもたれかかり、顔は真っ青だったが、その目にはどこか満足そうな笑みが浮かんでいた。

 私の横を通り過ぎるとき、彼は薄く笑いながら静かにこう言った。

 「この人生、僕は由美のために生きるんだ。菜乃、邪魔しないでくれ。さもないと、どうなるか分かってるよな」

 その言葉はまるで冷たい水を頭から浴びせられたかのようで、私はその場で凍りついた。

 直樹の手の腱は切断されていて、幸い治療が早かったため命に別状はなかったものの、その手はもう二度と使えなくなってしまった。

 昭夫さんも春子さんも、最終的には二人の関係を認めざるを得なかった。

 直樹は、もう絵を描くことはできない。それでも、彼自身はまるで気にしていないかのようだった。

 誰かがそのことを話題にすると、直樹は得意げに手首の長い傷跡を見せ、笑顔でこう言うのだ。

 「これが由美を愛してる証さ、僕の青春そのものなんだよ!」

 でも、私だけが知っている。この手が、かつて唯一無二の絵を描ける特別な手だったということを。

 彼は本来、アートに満ちた環境で、みんなの羨望の眼差しを楽しむことができるはずだった。

 しかし、春子さんが学校に来た影響で、由美は私から最も遠い席に移動した。

 二人は堂々と付き合っているが、周囲には気を使わない様子だ。

 噂によれば、何度か別れ話があったものの、最終的には直樹が由美をなだめて復縁させたらしい。

 由美は、まるで松本家の嫁であるかのように振る舞っている。

 春子さんの華やかさを見た由美は、今の質素な生活に不満を抱き、高額なプレゼントを直樹にせがむことが増えていた。

 それでも、直樹は彼女と一緒にいたいという気持ちを変えようとはしないので、昭夫さんと春子さんは失望し、直樹の生活費を絶ってしまった。

 直樹は家を出て、由美と共に学校の近くでアパートを借りて生活している。

 彼はこの数年間で多くのコンペに参加し、賞金をたくさん手に入れていたおかげで、さらに年末年始に親戚からもらったお年玉もあり、二人はしばらくの間、まあまあ豊かに過ごしていた。

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