LOGIN父は「たくましい男を育てる」という教育理念を信条としていた。 幼い頃、二科目で満点を取った僕に、父はこう言い放った。 「成績など何の意味もない。本物の男なら、五階から飛び降りてみろ」 その後、見ず知らずの人を助けて表彰されたときも、父は鼻で笑った。 「かすり傷ひとつ負っていないのに、何が表彰だ?」 僕は、父なりに僕を鍛えようとしているのだと思っていた。 だが大晦日、父は「特訓」の名のもとに、僕をたった一人で雪山へ置き去りにした。 テントも与えず、火種ひとつ残さずに。 そのうえ父は得意げに、親戚や友人たちへ自分の教育法を吹聴していた。 「本当の男ってのは、絶境の中でこそ生まれ変わるものだ!ちゃんと言ってやったんだ。頂上まで這い上がってこなければ、父親と呼ぶな、と!」 だが、彼の携帯に表示されている、僕の位置を示すGPSの赤い点は、すでに三時間も動いていなかった。 僕はとっくに、雪の中で凍え死んでいた。 手には一枚の紙片を握りしめ、そこには父への遺言が綴られていた。 そして僕の魂は、食卓の上に漂いながら、父が自分のやり方を誇らしげに語る様子を見下ろしていた。
View Moreかつて「誰よりも根性がある」「五キロ走ったことがある」と豪語していた彼は、今や車椅子なしでは生きられない廃人となっていた。法廷では、車椅子に座ったまま、中身のないズボンの裾が、エアコンの風に揺れている。被害者遺族として出廷した母は、その向かいに立っていた。以前より痩せていたが、眼差しは揺るがなかった。「被告人、小野田剛を、過失致死の罪により懲役七年に処します」裁判官の木槌が下ろされた。父は反応しなかった。ただずっと、自分の切断された脚を見つめている。ふいに顔を上げ、不気味な笑みを浮かべた。「はは……俺の勝ちだ」虚空に向かってそう呟く。目は焦点を失っている。「俺の方が一時間長く耐えた……俺は……誰よりもたくましい父親だ……」傍聴席がざわめいた。誰もが化け物を見るような目をしていた。だが母だけは分かっていた。彼は完全に壊れたのだと。現実ではなく、自分の妄想の中で生きている。二度と覚めることのない悪夢の中で。収監前、彼は一つだけ要求した。墓に行かせてほしい、と。警察はそれを許可した。車椅子のまま、彼は僕の墓の前に連れて来られた。墓石の前に、一枚の写真が置かれていた。彼が一度も見たことのない写真。それは母と僕が公園でこっそりアイスクリームを食べている姿だった。写真の中の僕は、屈託なく笑っていた。目は月のように細く、口元にはクリームがついていた。彼の知らない僕。「たくましい男を育てる教育方法」に汚されていない、ただの子どもの僕。父はその写真に手を伸ばし、僕の頬に触れようとした。だが指先は、何も掴めなかった。……刑務所で、父は有名な狂人になっていた。毎日、壁に向かって話しかけ、空気に箸を伸ばす。「安弘、肉を食え。しっかり食べないと強くなれないぞ。今日は何キロ走った?いいぞ、成長してるな」囚人たちは彼を嫌い、時に殴った。だが彼は抵抗しない。ただ頭を抱え、呟き続ける。「顔はやめてくれ……明日は息子を特訓に連れて行くんだ……」雪が降る夜になると、足の痛みが骨の奥まで突き刺さる。その痛みは、かつての僕の痛みだった。彼は一晩中叫び続けた。寒い、助けてくれ、と。それは、僕の痛みが彼に移った結果だった。僕は彼に、あの大晦日のすべてを生き直
会社からも解雇通知が届いた。理由は、【社会的道徳に著しく反し、会社の名誉を毀損したため】。彼が誇りとしていた仕事は、消えた。あの家族の栄光も、もうどこにもない。彼は空っぽになった家に一人で座っていた。壁には、僕の幼い頃からの表彰状が貼られていた。【優等賞】【学級委員表彰】【数学コンテスト最優秀賞】……その一枚一枚の陰には、彼の「教育」という名の暴力だ。すべてはベルトで叩きながら作り上げた成果だ。「一位じゃなければ飯は抜きだ!……泣くな!男は泣かない!……この程度の苦しみも耐えられないなら、将来どうやって人の上に立つ!」父はそれらの賞状を見つめながら、酒を飲み続けた。一本、また一本と。酔うと、幻聴が聞こえるようになった。「父さん、寒いよ……父さん、もう歩けない……父さん、置いていかないで……」「うるさい!やめろ!」耳を塞ぎ、家の中を暴れ回った。花瓶を倒し、椅子を蹴り飛ばした。暖房を最大にし、布団を二枚かぶっても、それでも寒かった。僕が死ぬ前に味わった苦しみが、少しずつ彼へと返っていった。……父は壊れた。あるいは、崩壊の淵でようやく見つけた、最後の自己救済だったのかもしれない。彼は頑なに信じていた。あの雪山にもう一度行き、僕が経験した苦しみを自分も味わえば、僕に許してもらえるはずだと。あるいは、自分の理論が正しかったと証明できるはずだと。「安弘を迎えに行く」鏡の前で呟いた。髭は伸び放題で、目は狂気に濁っていた。「父さんが迎えに行く。服も持ってきたぞ」彼は僕と同じリュックを背負った。中にはダウンジャケット、カイロ、保温ボトルが詰め込まれていた。かつて、僕には一つも与えなかったものだ。彼は一人で、あの雪山へ向かった。その日は、大晦日の夜よりも激しい吹雪だった。第一キャンプ場に着いた瞬間、すでに呼吸が乱れ始めた。高山病のような症状で、喉を掴むように苦しんだ。彼は初めてそれを知った。一歩ごとに、肺が裂けるような痛み。「安弘……」吹雪の中で僕の名を呼んだ。返事はなかった。あるのは風の音だけ。彼はよろめきながら登っていった。それは僕が辿った死の道だった。やがて、あの岩の裂け目に辿り着いた。僕が死んだ場所だ。
それはノートから引きちぎられた一枚の紙だった。端はぎざぎざで、血が滲み、雪に濡れた跡が残っている。文字は歪み、震えていた。極寒の中、凍えた指で無理やり書いたものだと、一目で分かる。父は手を伸ばし、震えながらそれを受け取った。何が書かれていると思ったのか。自分への非難か。それとも呪いか。あるいは、助けを求める叫びか。紙切れを広げた。僕も、その傍へと漂った。それは、僕が死ぬ直前、最後に残ったわずかな意識で書いた言葉だった。そこには、たった一行だけ。【父さん、ごめんなさい。もう登れません。恥をかかせてしまいました】父の体が、完全に固まった。その一行を見つめ、目を見開いたまま動かない。「俺に、謝ってる……?」ぽつりと漏れた声。「俺に、ごめんなさいって……」やがて、その男の目から、初めて涙が溢れた。だがそれは、僕のためではない。自分のためだ。自分のくだらない自尊心が、このみじめな謝罪によって、粉々に砕かれたからだ。彼は、僕が恨むと思っていた。罵ると思っていた。そうであれば、まだ言い訳ができた。「出来の悪い息子だ」「恩知らずだ」と。だが違った。僕は、死ぬその瞬間まで、彼に認められようとしていた。自分が足りなかったのだと、悔いていた。彼の顔を潰してしまったのだと、気にしていた。最後まで、彼の面子を守ろうとしていた。「ああああああっ!!」父が突然、絶叫した。そのまま地面に額を打ちつけた。一度、二度、三度……額が裂け、血が流れても止まらない。「安弘……安弘……!父さんが悪かった!俺は人間じゃない……畜生だ……!」涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、僕の手にすがろうとした。だが、強がそれを強く払いのけた。「触るな!」目を赤くし、怒鳴った。「お前に触れる資格はない!恥だと言ったな?あいつがどれだけ粘ったか、分かってるのか!バッテリーを節約するためにライトもつけず、三時間も雪の中を這い続けたんだぞ!その装備じゃ、特殊部隊の兵士でもとっくに諦めている!あの子はな、お前に認めてもらうために、お前に恥をかかせないために……凍え死んだんだ!」父はその場に崩れ落ちた。「知らなかった……」まだ、言い訳を続けている。無知という殻に逃
叔父もついに我慢の限界に達し、手にしていた酒杯を床へ叩きつけた。「もういい加減にしろ!兄さん、それは一つの命だぞ!どうしてそんなことが言えるんだ!体が弱いからって、死地に追いやるのか!?それは教育じゃない、殺人だ!」父は取り乱したように叫んだ。「俺は殺してなんかいない!全部あいつのためだ!強くするためだ!この社会で生きていけるようにするためだ!俺が間違ってるのか!?なあ、俺が悪いのか!?」部屋の中をぐるぐると歩き回り、そこにいる全員を指差す。「お前らに何が分かる!俺を妬んでるだけだろ!俺のやり方が気に入らないんだろ!俺の覚悟が妬ましいんだろ!少し問題が起きたくらいで、寄ってたかって俺を責めやがって!」そして、狂気じみた声で吐き捨てた。「まだ息がある限り、俺の負けじゃない!まだ鍛え直せるんだ!」僕は、宙からその姿を見下ろしていた。この男は、信じていないのではない。信じることができないのだ。僕が死んだと認めた瞬間、自分が僕を殺したと認めた瞬間、彼が誇ってきた「教育法」も、築き上げてきた「強い父親像」も、すべてが音を立てて崩れ去った。だから彼は、僕が演技しているのだと信じ込もうとした。僕が弱かったのだと、根性がなかったのだと。たとえ、僕がすでにただの亡骸になっていたとしても。個室の扉が、再び開いた。制服姿の警察官たちが数人、無言で入ってきた。その後ろには、顔色を青くした救助隊隊長の強が立っていた。彼の手には、見覚えのあるリュックが握られている。血と雪に汚れた、僕のリュックだった。警察官が父を冷ややかに見据え、手錠を取り出した。「小野田剛さんですね。過失致死の容疑で、署までご同行願います」父はそれを見た瞬間、初めて明確に狼狽した。後ずさりし、椅子を蹴倒した。「いや!行かない!俺は人を殺してない!俺は父親だぞ!親が子を教育するのは当然だ!警察に口出しされる筋合いはない!」警察が二人、前に出た。抵抗する間もなく、父はテーブルに押さえつけられた。冷たい手錠が、その手首を締め上げた。「連行する」父は引きずられるように外へと連れて行かれた。母の前を通り過ぎるときも、なお叫び続けていた。「なあ!お前からも言ってくれ!それは特訓だったんだ!俺はあいつ
そして僕は祈っていた。あの狼が、少しでも早く食べ終わってくれるようにと。せめて、父が、僕の死体に向かって、あの吐き気のするような教育を施す機会など、二度と与えられないように。時間は一秒一秒、容赦なく過ぎていく。壁の掛け時計は、十一時五十分を指していた。部屋の空気は、どこか異様に歪み始めている。あの赤い点は、あの短い移動を最後に、二度と動いていない。第一キャンプ場から四百メートルの地点で、ぴたりと止まったままだった。父は酒が回り、時間を一瞥すると、スマートフォンをテーブルに叩きつけた。「あと十分だ」親戚たちを見回すその目は、焦点が定まらず、それでいて妙に熱
「見ろ、やっぱりあいつは死んだふりをしてただけだ!俺と心理戦をやってるつもりなんだ!」母は顔を上げ、先ほどまで色を失っていた目に、かすかな希望の光を宿した。「動いたの?本当に……?」四つん這いになって近づき、画面を覗き込もうとする。父は今度は突き放さず、むしろ得意げに見せつけた。「よく見ろ!まだ動いてる!しかもペースも悪くない!」ゆっくりと移動する赤い点を指差しながら、父は鼻で笑った。「俺が相手にしないから、生活費を本当に止められると思って焦ったんだろうな。根性のないやつだ。こうやって追い込まなきゃダメなんだよ!」母はその赤い点を見つめ、再び涙をこぼした。だ
母は青ざめた顔で、震える声を振り絞った。「三時間も動いてないのよ!こんな寒さの中で、三時間もじっとしていたら、どんな人だって凍え死んでしまう!あの子、きっと何かあったのよ!」父はスマートフォンをひったくり、ろくに画面も見ようとしない。「くだらん!休んでるだけだ!体力を温存してるんだよ!お前に野外サバイバルの何が分かる!これは戦術的な休憩だ!誰もがお前みたいに、少し歩いただけで音を上げると思うな!」母は首を振りながら、声を震わせた。「違うの……安弘は言ってたの……雪の中で三十分以上止まっていたら、それはもう歩けなくなってるって……必ず助けてほしいって、約束した
僕は顔を背け、窓の外を見た。闇が天地を飲み込み、その向こうで……僕の体はゆっくりと硬直し、やがて一塊の氷へと変わりつつあった。それに比べて、この部屋はどうだ。杯を交わし、笑い声が絶えず、暖かさに満ちている。本当に、いいものだ。父さん。そんなに絶体絶命の状況が好きなら。きっと気に入るだろう。僕が用意した、この新年の贈り物を……そのとき、激しく扉を叩く音が鳴り響き、けたたましい呼び鈴の音と重なって、テレビから流れていた歓声を一瞬でかき消した。部屋の中の笑い声は、ぴたりと止まった。伯父の指に挟まれていた煙草が小さく震え、灰がズボンの上に落ちた。父は不機嫌そ
reviews