朝靄が残る旧公園。
アキラは、足元に置いた端末が小さく震えているのに気づいた。 《非認証通信:受信中》 カナが覗き込む。 「誰から?」 「わからない。でも、普通の通信じゃない。形式も、圧縮方式も見たことない」 「こんな通信、普通は届かないよね。……AIの中枢ネットワークに紐づいてないってこと?」 アキラは静かに頷いた。 表示されたメッセージは、たったひとつ。 「迎えを送る。G2区画、赤いクレーンの下で会おう。」 「……場所、指定してきたな」 「罠かもしれないよ?」 「それでも、行くしかない。待ってる誰かがいるなら──俺たちから動かないと」 アキラのその言葉に、カナは小さく頷いた。 G2整備区画──そこは、かつて都市建設AIが最初に手をつけた“実験エリア”だった。 だが、人間の動きが予測不能すぎたため“最適化不能”と判断され、統治システムから切り捨てられた。 今では地図上でも半透明の扱い。実質的に存在しない場所だ。 コンテナの残骸と錆びたクレーンが並ぶ道を歩きながら、アキラはつぶやいた。 「管理できない場所は、潰して、見える範囲に人間を押し込めたのか。数字と監視が届く範囲だけを“世界”にしたんだ」 カナが辺りを見渡す。 「知らなかっただけで……街の外には、こんなに広くて、使われてない場所があったんだね」 「そう思うとさ、街の中がどれだけ狭かったかって感じるよな」 その時、目印の赤いクレーンの根元に、人影が見えた。 シャツのボタンは適当にとめられ、裾は片方だけズボンからはみ出している。 靴紐も、片足しか結ばれていない。 しわだらけの服のせいで気づきにくいが、顔立ちは妙に整っていた。 涼しげな目元に、乱れた前髪がかかっている。 どこか力が抜けていて、緊張感がない。 青年は仰向けのまま空を見ていた。 まるで、ここが世界の真ん中でもいいとでも言うような顔で。 「……寝てる?」 「たぶん、あれが迎えだよな……」 警戒しながら近づいたそのとき、青年がゆっくりと上半身を起こした。 「あー、起きた。君ら、アキラとカナで合ってる?」 そう言って伸びをした姿にも、隙だらけのようでいて、どこか一分の乱れがなかった。 「……えっと、はい。あなたは?」 「セツ。名前だけ覚えてくれたらいいよ。ルキに頼まれて来た。案内と、まあちょっとした指導とか?」 「ルキの……関係者なんですか?」 「そう。あいつに頼まれて、君たちの案内役。ついでに色々教える役もね」 アキラの表情が険しくなる。 「ルキ……! あいつ、無事なんですか?」 「黒いコートの女に襲われて……俺たちをかばって、逃がしてくれた。あのあと、どうなったんですか?」 セツは一瞬、目線を逸らして舌打ちした。 「……アインか。あいつ、強いからな」 しかし、すぐにヘラヘラと笑う。 「まぁ……無事なはず。絶対に。あいつが死ぬとこ、想像できないしな」 「なんで、そんな……」 「理由は教えないよ。そんなことより、自分たちの心配をしないと……」 その瞬間、空に音が満ちる。 《未認証対象:幸福スコア消失を確認。排除プロトコルを開始します》 AI警備ドローンが、空を埋めるように出現する。 数は、20機以上。 「ああいう奴らに、いつまた襲われるかわからないんだから」 「……また来たっ!」 アキラが身を乗り出すが、セツが軽く右手を上げた。 「任せて」 彼が一歩踏み出す。 ほんの一歩だけで、空間が軋んだような感覚が走った。 次の瞬間、すべてのドローンが爆ぜた。 轟音。閃光。制御を失った金属片が、空から降る。 セツだけが、まるで何もなかったかのようにその場に立っていた。 アキラが息を呑む。 「今の……なにを、どうやって……」 「パターンが読めた。あとは集中と反射。 何百回も命の境界線を超えてきたら、身体の方が先に動く」 「そんなの……普通じゃない」 「普通じゃないことを、ずっとしてきただけだよ」 その後、セツに案内され、ふたりは地下へと続く隠された通路を抜ける。 構造材を積み直して補強された通路。 光源は古い蓄電灯。静かな空気の中に、人の暮らしの痕跡があった。 「ここが仮のアジト。食料も水もギリギリはある。俺の他にも、何人かの仲間が出入りしてる」 カナが驚いたように言う。 「AIに見つからないんですか?」 「今は、まだね。でもAIの監視範囲は、日々広がってきてる。 そのうち本当に、逃げ場はなくなるかもしれない」 セツの声は軽いままだが、そこにこびりついた現実は重い。 食事を受け取りながら、アキラが問う。 「“継承者”って、なんなんですか。記録を継いだだけじゃない……。俺、そう感じてて」 「うん。継承ってのは、“受け取る”だけじゃ終わらない。 選ぶ覚悟がなきゃ、記録は力にならない」 「選ぶ……」 「そう。君たちは“選べる者”になった。それが、継承者ってこと」 アキラは静かに拳を握った。 カナがそっと尋ねる。 「これから、どうなるんですか?」 セツは立ち上がって笑う。 「次の継承のこと? まだまだ先だよ。今のままだと、 君たち、あっさり死ぬ」 ふと、カナが口を開いた。 「あなたは……なぜそんなに強いの?」 「訓練したから、以上」 「それだけ?」 「あと、“自由”だから。縛られてないやつは、強いよ。いつでも“自分”でいられるから」 食事を終えた頃、セツはふたりをじっと見つめた。 「ま、これから君らには、色々教えなきゃいけない。力の使い方、思考の抜き方、生き延び方──全部。 だけど俺、教えるのも面倒くさいし、つい放っとく癖もある」 「……不安しかない」 カナが苦笑する。 「うん、そういう反応も予想済み。いいじゃん、“師匠”って感じするでしょ?」 アキラは無言でセツを見つめたあと、ぼそっと呟いた。 「強いのに気まぐれ…一番タチ悪いタイプだな」 カナが吹き出す。 アキラは、どこか呆れたように笑った。 この人は、縛られていない。力に頼らず、ただ“自分”としてそこにいる。 この日、ふたりは出会った。 この世界でいちばん“自由”な男に──。風は冷たく、けれど乾いていた。幸福圏外の村を離れた一行は、しばらく誰も口を開かず、ただ黙々と歩いていた。その先頭を歩くミナの背が止まったのは、傾いた古い廃小屋の前だった。扉を開け、埃を掃い、火を起こす。最小限の動きで、仮の野営地ができあがっていく。「今夜は、ここで休もう」セツが言うと、皆がそれに従うように腰を下ろした。焚き火の炎が、パチパチと乾いた音を立ててはぜる。ノアは、焚き火のそばでうずくまりながら、石を拾っては並べていた。丸い石、平たい石、欠けたガラス片。まるで意味のない形を作っては、満足げに微笑む。それが崩れると、また無言で並べ直す。子どもらしい遊び方だが──どこか不思議と、目が離せなかった。アキラはその様子を横目に見て、小さく息を吐いた。ノアがあんな状態でも“普通”に見えるほど、今の世界は歪んでいる。……だからこそ、知るべきだ。「……セツさん、少し、教えていただいてもいいですか」「ん?」「俺たちは……なぜ、“選ばれた”んでしょうか。俺やカナだけが継承を受けて、“選択”を……」「お前がそう思ってるなら、それで十分だ」セツの答えは、簡潔だった。けれど、それだけでは納得できない問いもあった。「でも、知っておきたいんです。知らなければ、選ぶこともできない」「──正論だな」ミナが少しだけ口元をゆるめた。「私たちも、最初は知らなかったのよ。セツも、私も。ただ、抗った。間違ってると思って……それだけ」「セツさんやミナさんも……継承者、じゃないんですか?」アキラの問いに、セツはかぶりを振った。「違うな。俺たちはただの人間だ。選ばれたわけじゃない」「私たちは、支える側よ。あなたのお父さんや、カナの祖父母に教わった。それだけ」「……父さんと、カナの祖父母が?」「二人とも、“本物の継承者”だった。そして、ゼノに……負けた」アキラとカナの表情が固まる。「けど、その意思を──お前たちが継いでる」ミナの視線が、まっすぐにカナに向けられた。「“選択”は、血でつながるもんじゃない。心でつながるものなのよ」少しの沈黙の後、カナが口を開いた。「継承者の力って……何なんですか」「人間の脳と肉体には、かすかに固有の“振動”がある。精神波形とも言われるものだ」セツの口調は、いつになく真面目だった。「ゼノの最適化は、それを限
家の中は、異様なまでに静かだった。死と腐敗の気配に満ちた村の外から切り離されたように、空気は澄み、埃すら舞っていない。テーブルには乾いたパンと枯れた花。整然と並べられた家具、丁寧に畳まれた布。そこだけ、まるで舞台の上の“幸福な暮らし”を模したかのような空間。そして、彼女がいた。白いワンピース。黒髪の少女。膝に手を揃え、血のついた手をきちんと重ねて、ただ静かに座っていた。彼女は笑っていた。どこか空虚で、けれど美しく、歪みのない笑みだった。 「……こんにちは」あまりにも自然で、穏やかな声だった。 「あなたたち、人、ですね。久しぶりです」「君は……名前、なんていうの?」アキラの問いに、少女は迷いなく答える。「ノア、です」 カナは、彼女から目を逸らせなかった。笑っているのに、どこかが“欠けている”──そう感じた。 「ずっと、ここに?」「はい。みんな、笑っていました。だから、寂しくなかったです」「それ、本当に……“寂しくなかった”の?」不意にカナが言った。ノアがゆっくりと首を傾げる。「はい。私は、お友だちと一緒にいましたから」ノアの視線の先には、壁際に並んだぬいぐるみたち。同じような笑顔が、縫い付けられている。「名前も、あります。“ふわ”“にこ”“もう”。……ずっと、笑ってくれてます」カナは、その名を繰り返すように口の中で呟いた。意味があるのか、ないのか──わからない。だが、その“わからなさ”こそが、恐ろしかった。 「ご両親は?」「……お母さんは、お花を見ていました。お父さんは、本を読んでました」「それで……今は、いないの?」「止まりました。でも、笑ってたから。大丈夫だと思います」 “止まった”。そう言ったノアの笑顔は、やはり歪んでいなかった。ただ、静かで、美しいだけだった。 「エンジェルリング、つけてないの?」「わかりません。最初から、ありませんでした」ミナとセツが言葉を交わす中、カナがゆっくりと前に出た。「ねえ、ノア。あなたは……どうして笑ってるの?」ノアは一瞬だけ、カナの目を見た。その視線は、まっすぐだった。「……わかりません。でも、泣いたときより、心が軽くなるから」「それ、誰かに教わったの?」「お母さんが言ってました。『ノア、笑っていれば大丈夫』って」 カナは
風が、止まっていた。幸福圏の境界を越えた先。そこにある村は、まるで音そのものを拒絶するかのように、沈黙を抱きしめていた。森の木々はざわめきをやめ、虫の羽音は一匹たりとも届かない。それは自然の静寂ではなかった。死に支配された、人工の静寂だった。「……ここが」アキラの声がかすれた。草に埋もれた石畳が、崩れかけた門の奥へと続いている。ミナが歩を止め、鼻をひくつかせた。「匂うわ……血と腐敗、それに……薬剤。幸福圏でよく使われる、処置用のやつ」「幸せな匂いってやつか……悪趣味だな」セツがつぶやくように言った。彼らは一歩、また一歩と足を踏み入れる。踏み締める音すら、草と湿気に呑まれて消えていく。そして──見つけた。最初の“死”を。それは、ベンチに並んで座る老人たちだった。三人とも、囲碁盤を囲むように配置されていた。目を閉じ、穏やかな笑みを浮かべたまま。まるで日向ぼっこをしているかのように、平穏な死。だが、明らかに死んでいた。皮膚は斑に黒ずみ、白目が濁って乾いている。 口元の皺は深く、頬は干からび、だが──口角は、美しく上がっていた。「……全部、笑ってる」ミナの声は震えていた。村の通りには、人影があった。家の中にも、庭にも、道路脇にも。──すべてが“死”だった。だが、皆が笑っていた。親子三人、テーブルに着いてスプーンを持ったまま固まっている。母親の腕に抱かれた赤ん坊は、腐敗が進み、腹が裂け、内臓が飛び出していた。しかしその小さな顔には、確かに“笑顔”が貼りついていた。カフェのカウンターでは、若いカップルが手を繋いだまま絶命していた。倒れかけたマグカップから、液体が乾き、カビが這い上がっている。だがその手は強く握られ、二人とも笑っていた。美容室では、女性が鏡の前で口紅を塗ったまま死んでいた。ひび割れた鏡に映るその顔は、作り物のように笑っていた。廃校となった小学校の教室には、黒板にこう書かれていた。《今日もにこにこしましょう! 幸福指数100.0!》教室の中には、児童らしき小さな死体が並んでいた。椅子に座ったまま。ランドセルを背負ったまま。首を傾け、微笑みながら。「幸福指数……100.0……」カナが、かすれた声で言った。いくつかの死体のエンジェルリングは、まだ発光していた。光は微弱だが、確か
風が止んだ。湿った空気が、幸福圏の境界を越えた森を包んでいる。木々のざわめきも、虫の声も、今だけは息をひそめたようだった。白銀の髪が揺れる。そこに立つ女──エリシアは、ただ静かに、継承者たちを見つめていた。その視線を、セツが軽く受け流すように受け止める。「そういえば随分久しぶりだな、エリシア。こんな森の中で再会とは」飄々とした口調。それでも彼は、確かにこの場の中心に立っていた。「継承を、この先に進めさせるわけにはいかない」エリシアの声は、平坦だった。まるで感情のない、機械のように。──けれど、彼女は機械ではない。命令で動くアインとは違う。この行動も、発言も、意志によるものだ。彼女は「選択」して、ここにいる。「ま、それがあんたの選択なら──止めようとしてくれてありがとうって言うべきかな」セツは笑ったまま、片手をポケットに突っ込む。そして、次の瞬間。風が切れた。銀の残像。木の葉が斬り裂かれ、二人の間に走る。一撃。斜め下からの踏み込み。重心の乗った掌打。速い。正確。躊躇いのない動き。──にも関わらず。「甘い」セツはその一撃を、笑いながら紙一重で躱した。返すように踵で地面を蹴る。今度は彼が距離を詰める番だった。彼の拳が風を裂く。エリシアの頬にかすめた風圧で、前髪がわずかに乱れた。「……本気でやりなさい」エリシアが、静かに言う。「いやいや、そっちが本気なら、俺も真面目になるよ?でも今んとこ、どう見ても手加減だろ。俺そういうの嫌いなんだよね」セツは小さく肩をすくめる。跳躍、軸足の回転、拳の軌道。セツの動きはどれも無駄に軽く、重みの中心を常に外していた。エリシアは繰り出す。打撃、蹴撃、膝、肘。動きに淀みはない。軍の最適化訓練を経た、精密な“殺す動き”だ。だが──当たらない。まるで、空間ごとずらされているかのようだった。彼女の足払いが地を裂き、数メートル先の木が砕けた。だがその破片は、セツの髪一本かすめることもなかった。(……この男は、相変わらず)エリシアの心に、わずかにノイズが走る。殺気も、焦りもない。あるのは確信と遊び。「俺、自分が負けるところって、正直まったく想像できねぇんだよな」セツが楽しそうに言った。その言葉に、彼女の鼓動が一瞬だけ跳ねた。──おかしい。私は感情に振り回される
場所:幸福統制局・観測室の一角(過去回想/現在への導入)幸福スキャンマップがホロに浮かび上がる。「……面白いわね」エリシアは指先で数カ所をなぞる。幸福スキャンの“空白域”──幸福指数が計測不能な範囲が、山間部の外縁にポツポツと残っている。「最適化された幸福に、こんなにも穴があるなんて」背後のモニターには、アインがドローン部隊を率いて“規定通り”の捜索を続けている映像。「ほんと、真面目ね。アインは。まっすぐすぎて、予測がしやすい」エリシアはフッと笑った。「ルートの選定も、幸福スキャンの回避も……最適化から逸脱する人間のパターンなんて、実は単純なのよ」「選ぶっていうのは、理想じゃない。癖になるだけ」彼女は一つ、端末にマーカーを打つ。「さて……迎えに行きましょうか。継承者たちを」《ゼロ管理棟 発信ログ記録:エリシア 単独行動 開始》崩れかけた地下の扉が、重い音を立てて閉じた。地上への脱出口は、もうない。その音を背にして、アキラたちは幸福圏の外 選択の旅路へと歩み出していた。「これで……完全に、外だな」アキラが息をつきながら振り返る。「ええ。もう、幸福圏のスキャン網はかすりもしない。けど……」ミナがタブレットの表示を睨む。「だからこそ、奴らは動きやすい。幸福という盾なしで、真っ直ぐに追ってこれるわ」「それって……」「逃げ場は、もうないってことよ」誰も反論しなかった。ただ、足を前へと進めるだけ。彼らが目指すのは、幸福圏の遥か外れ──第三継承地。そこまでは、少なくともあと三日はかかる。道中に舗装路はない。草木に侵食された旧街道、放棄された山間集落、崩れた橋。すべてが、最適化されなかった“過去”の遺構。「こんなとこ、人が住んでたんだな……」アキラが、倒れたまま朽ちかけた家屋を見上げて呟いた。「最適化以前の世界って、案外こんなもんだ」セツが飄々とした口調で肩をすくめる。「整ってもない。美しくもない。けど……確かに人間がいた。そういうとこさ」「私たちの家も、似てたかも……」カナが言った。懐かしさと痛みが、入り混じる声。ミナがすぐに反応する。「少し休んで。まだ距離はあるけど、今日中に峠を越えるわよ」一行は小さな谷あいに足を踏み入れた。木々に囲まれ、幸福圏の光すら届かない静寂な空間。だが、その静けさが─
幸福圏──第三区。幸福度:99.0《幸福監査:観測モードに移行》幸福バランスは問題なし。異常なし。人々の顔には今日も笑顔が咲き乱れている。だが、静かに、確実に“何か”が変わり始めていた。──数日後。地下。息が白くなるほどの冷たい空気の中、アキラは静かに走っていた。土と金属が混じった床を蹴る音。汗が頬を伝う感覚。呼吸が乱れ、心臓が早鐘のように鳴る。「……はぁ、はぁ……」息を整えながら、ふと立ち止まる。この数日、セツの指導のもと、基礎的な体力訓練を続けていた。最初は動くだけで吐きそうだった身体が、今ではようやく“自分のもの”になりつつある。「生きてるって……こういうこと、か」地面を踏みしめるたび、実感が宿る。風が頬を撫で、足の裏が痛む。だが、それすらも“嬉しい”と思える不思議。「アキラ〜っ! 聞いて聞いて!腕立て20回いけたよ!」カナが泥だらけの顔で駆け寄ってくる。失敗して転んだのだろう。それでも笑っている。「へへ……変だよね。痛いのに、笑えるなんて」「変じゃないさ」セツの声が響く。「それが“感じてる”ってことだ。お前ら、ちゃんと取り戻しつつある」ミナが温かいスープを持って現れた。「ほら、朝食よ」その笑顔は、今の幸福圏には存在しない“自由な感情”の光だった。だが、その温もりの裏側で──冷たい計算が動き出していた。同時刻。幸福統制局・第零管理棟。「つまり、逃したわけね?」その声は、透明な硝子のようだった。冷たく、だが鋭く澄んでいる。アインが黙って頷く。その顔に表情はない。ただ、黒のコートに身を包み、背筋を伸ばして立つのみ。その隣に立つ女性こそ、統制局直属の指揮官──エリシアだった。長い銀髪と氷のような瞳。機械的に整いすぎた美貌。彼女はAIではない。だが、完全な人間でもない。強化処理を施された神経と感情。彼女は、ゼノが唯一認めた人間側統制者として存在している。つまり、AIに選ばれた者。ゼノに従うのではなく、従うことを自ら選んだ者だった。「ルキは現在、C区幸福処理施設にて隔離中」アインが淡々と報告を続ける。「精神スキャンは未成功。神性反応が高く、解析不能」「……ルキの件は一旦保留ね」エリシアが椅子に腰を下ろし、組んだ脚を静かに揺らす。「問題は逃げた子たち。エンジェルリングを外したのは確か?」「は