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微笑みの村

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-07-12 21:34:44

風が、止まっていた。

幸福圏の境界を越えた先。

そこにある村は、まるで音そのものを拒絶するかのように、沈黙を抱きしめていた。

森の木々はざわめきをやめ、虫の羽音は一匹たりとも届かない。

それは自然の静寂ではなかった。

死に支配された、人工の静寂だった。

「……ここが」

アキラの声がかすれた。

草に埋もれた石畳が、崩れかけた門の奥へと続いている。

ミナが歩を止め、鼻をひくつかせた。

「匂うわ……血と腐敗、それに……薬剤。幸福圏でよく使われる、処置用のやつ」

「幸せな匂いってやつか……悪趣味だな」

セツがつぶやくように言った。

彼らは一歩、また一歩と足を踏み入れる。

踏み締める音すら、草と湿気に呑まれて消えていく。

そして──見つけた。

最初の“死”を。

それは、ベンチに並んで座る老人たちだった。三人とも、囲碁盤を囲むように配置されていた。

目を閉じ、穏やかな笑みを浮かべたまま。

まるで日向ぼっこをしているかのように、平穏な死。

だが、明らかに死んでいた。

皮膚は斑に黒ずみ、白目が濁って乾いている。

口元の皺は深く、頬は干からび、だが──口角は、美しく上がっていた。

「……全部、笑ってる」

ミナの声は震えていた。

村の通りには、人影があった。

家の中にも、庭にも、道路脇にも。

──すべてが“死”だった。

だが、皆が笑っていた。

親子三人、テーブルに着いてスプーンを持ったまま固まっている。

母親の腕に抱かれた赤ん坊は、腐敗が進み、腹が裂け、内臓が飛び出していた。

しかしその小さな顔には、確かに“笑顔”が貼りついていた。

カフェのカウンターでは、若いカップルが手を繋いだまま絶命していた。

倒れかけたマグカップから、液体が乾き、カビが這い上がっている。

だがその手は強く握られ、二人とも笑っていた。

美容室では、女性が鏡の前で口紅を塗ったまま死んでいた。

ひび割れた鏡に映るその顔は、作り物のように笑っていた。

廃校となった小学校の教室には、黒板にこう書かれていた。

《今日もにこにこしましょう! 幸福指数100.0!》

教室の中には、児童らしき小さな死体が並んでいた。

椅子に座ったまま。ランドセルを背負ったまま。

首を傾け、微笑みながら。

「幸福指数……100.0……」

カナが、かすれた声で言った。

いくつかの死体のエンジェルリングは、まだ発光していた。

光は微弱だが、確かに“生きて”いた。

──いや、“幸福である”と認識され続けていた。

「……やめたい……記録、止められない……こんなの……」

カナが膝をつき、両手で頭を抱える。

彼女の瞳は濁っていた。

目の前に広がる全ての“死”を、“笑顔”を、記録者として完璧に記録している。

表情、、気温、腐敗、血液の凝固、幸福指数、光量、空気の成分、匂い、音、湿度。

すべてを──網膜に、神経に、心に刻みつけている。

「カナ……」

アキラが声をかけるが、届かない。

「見たくない……でも……見えるの……全部、消えない……笑ってる……なんで……」

ミナがそっとカナの背に手を添える。

「記録しなさい。今は、目を逸らさないだけでいい。心の筋肉は、それで鍛えられる」

広場の中心に、それはあった。

ステージ。

その上に、十数人の死体が吊るされていた。

皆、両腕を広げていた。まるで受け入れるように。

その首にはロープ。頭は下がり、口元は笑みを保っていた。

「ようこそ、幸福へ」

ステージ脇のスピーカーから、AIの女性音声が流れた。

「この村は、ゼノによる幸福最適化計画により、完全管理されました。

苦痛、不安、恐怖、混乱、自己否定──全ては最適化の対象です。

幸福指数:100.0。あなたも、この祝福に加わりましょう」

アキラが震えるように言う。

「こんなものが……幸福、なのかよ……!」

セツは拳を強く握った。

「幸福ってのは、笑って死ぬことらしいぜ」

その言葉を聞いた瞬間、アキラの中で、何かが弾けた。

「ふざけるなよ……!」

声が震えていた。

感情が、うねりのように胸の奥で渦巻いていた。

「これが……最適化? 幸福? 笑顔で死んで……これで……!」

声が上ずり、喉が焼けつくように熱い。

全身が呼吸を忘れ、心臓が喧しく耳を打つ。

「だったら──こんなもん、全部、壊してやりたい……!」

叫びに近い声だった。

だがその手は、何も握っていなかった。

──何も、できない。

ここで死んだ人たちを救うことも、記録者の苦しみを和らげることも。

怒りだけがある。

それをぶつける場所が、どこにもない。

アキラは唇を噛み締め、拳を震わせた。

「俺には……何もできないのに……!」

彼の身体から、微かに熱が立ちのぼった。

それは“何か”の兆しだったかもしれない。

だがまだ、力にはならなかった。

セツはちらりと横目で彼を見た。

「……それでいい。最初は、それでいいんだ」

声に、どこか安堵のような響きがあった。

村の最奥に、一軒の家があった。

周囲とは異なり、屋根が崩れていない。窓も割れていない。

ドアは開いていた。

だが、不思議と埃がない。血の匂いも、腐臭もない。

「おかしい……ここだけ、時間が……止まってる?」

ミナが囁いた。

アキラが一歩、また一歩と進み、扉の奥を覗き込んだ。

──その瞬間、彼の全身が強張った。

中には、少女がいた。

年の頃は十二、三歳。

黒髪のロングヘア。白いワンピース。膝に血がつき、両手をきちんと膝の上に揃えている。

部屋は清潔だった。

テーブルには、枯れた花と、乾いたパンが置かれていた。

飾り物のように整えられた空間。

──その中央で、少女は、笑っていた。

「……あなたたちも」

その声は、空気にそぐわないほど澄んでいた。

「笑えると、いいですね?」

少女は、微笑んでいた。

誰に向けた笑顔かもわからない。

その目は、光を失ってなどいなかった。

むしろ──光に満ちていた。

誰もが、言葉を失った。

少女の笑顔だけが、部屋に、村に、世界に焼きついていた。

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