LOGIN幸福は、AIによって数値化される時代。 すべてが最適化された社会では、人々は争わず、迷わず、悲しまずに生きている。 だが、それは「幸福を選んでいる」のではなく幸福を選ばされている世界だった。 市ノ瀬アキラは、旧校舎の地下でひとつの言葉に出会う。 『神を殺せ』 それは、絶対幸福を支配するAI〈ゼノ〉への反逆の扉だった。 その瞬間から、彼の幸福スコアは異常を示し、日常は崩壊を始める。 AIに従えば生きられる。だがそれは、本当に“生きている”と言えるのか? アキラはルキという謎の青年に導かれ、同じく継承者であるカナと共にAIの支配から人々を解き放つための旅に出る。 鍵となるのは、「継承者」として受け継がれた意志。そして、各地に点在する7つの継承地に眠る記録だった。 これは、選ぶ自由さえ奪われた時代に、 本当の「生」を取り戻すための物語。 神と呼ばれるAIは、果たして救いなのか。それとも……殺すべき存在なのか。
View Moreプロローグ
この世界では、幸福が数値で測れる。 朝起きる時間も、昼に食べるものも、誰と話すかも。 すべてが、“ゼオ”によって最適化されている。 誰もが、最も幸福になれる行動だけを選び、 誰もが、間違わない。 悲しみはなく、争いもない。 ただ―― 「選ばされている」ことに、誰も気づかない。 「神様を殺した日」 市ノ瀬アキラは、七時ちょうどに目を覚ました。 枕元のエンジェルリングが柔らかい光を放ち、ゼオの音声が耳に届く。 《おはようございます。市ノ瀬アキラさん。起床タイミングは幸福度+1.4。》 七時三分に起き上がり、七時八分に洗面所へ。 整えられた黒髪、淡い影を落とした目元、無表情に近い口元。今日も同じ顔だ。 七時十四分に食卓につく。 すべては誤差ゼロ。毎日が完璧に整っていた。 朝食のテーブル。母親はいつも通り、穏やかに微笑んでいた。 だがその笑顔は、自分と一緒で昨日と全く同じ形をしているように思えた。 「アキラ、今日のスムージーは少し甘めね」 声は優しいが、まるで用意された台詞のようだった。 スムージーを口に運ぶ。完璧な甘さ。栄養バランスも完璧。 しかし、完璧すぎて味がしない気がした。 母の笑顔が、録画された映像みたいに思えたのは、今朝が初めてじゃなかったかもしれない。 アキラは曖昧にうなずきながら、テーブルのスクリーンに目をやる。 スクリーンが自動的に点灯し、幸福度ニュースが流れ始める。 《本日、街の幸福度平均は98.6。区画東部の再開発エリアが週末に開放予定です。行動候補に追加されました》 その映像を眺めながら、父親がふとつぶやいた。 「……東部のあたり、俺が子どもの頃はまだ空き地ばかりだったな」 「そうなんだ?」 アキラは何気なく返した。 父親は少し笑って、スプーンを置く。 「公園も、古い商店も、いまは全部最適化されちまった。……昔の話は、聞いてみると案外面白いもんだぞ。記録に残ってるものより……ずっと、な」 「記録にない話?」 アキラの問いに、父親は少しだけ目を細めて、 「いや……気のせいさ」 そう言って、またスプーンを手に取った。 記録にない昔の話という言葉が、なぜかアキラの中に残っていた。 通学電車の中、アキラは車窓を眺めていた。 整然としたビル、規格化された街路樹、同じ制服の生徒たち。 景色は変わらず、心も揺れない。 それなのに、アキラの胸の奥にだけ、何か引っかかりが残る。 説明のつかない、微かな違和感だった。 車内モニターが切り替わり、ゼオのアイコンが表示される。 《現在、通学ルートBが最適です。幸福度低下を回避するため、次の駅での乗り換えを推奨します》 生徒たちは一斉に無言で立ち上がり、次の駅で降りる。 抗う者はいない。 「おはよう、アキラ」 声に振り向けば、ルキが静かにそこに立っていた。 銀色の髪が光を弾き、どこか人間味の薄い、透けるような印象を与える少年。 中性的な顔立ちに感情の色は薄く、視線の奥に何かを隠しているように見えた。 「……おはよう。いつからいた?」 「最初から」 ルキはそう言って、窓の外に目を向けた。 アキラは小さく眉をひそめたが、それ以上は聞かなかった。 その存在は、空気のように自然で……不自然だった。 朝の点呼。 生徒たちは左耳に装着したエンジェルリングーー透明な円形の端末を読み取り機にかざし、出席が自動認証される。 幸福度の変動も、常時ゼオに記録されていた。 「全員確認……あれ? ルキくん……あ、手動登録ね。ゼオのログにないけど、問題ないわ」 教師は特に気にする様子もなく処理を進めた。 クラスメイトも気にしない。 アキラは思わず、周囲を見渡した。 誰もルキの登録外に驚く素振りを見せない。まるで、毎朝のことのように。 誰も奇妙だと感じていないことが、1番奇妙だった。 違和感は、日常の中に自然と埋もれていく。 昼休み。校庭の隅にある仮設菜園で、アキラは水を撒いていた。 その途中、枯れかけた苗が目に入った。 一瞬、手が止まる……抜くべきか、残すべきか。 《判断保留中。幸福度スコアへの影響:±0.0》 耳元でゼオの音声が囁く。 「全部スコアで決めるのが、本当に正しいのか……」 思わず、心の中でつぶやいた。 でもその言葉は、誰にも聞こえない。 「……そういうの、迷うよね」 不意に、少女の声がした。 振り返ると、茶色いショートボブの髪が風に揺らしたカナが立っていた。 制服の袖口にはかすかな土汚れ、赤いリボンは少しだけ歪んでいたが、それがなぜか似合っていると思えた。 「ここ、落ち着くね。風の音とか、水の音とか……なんか、考えごとするのにちょうどいい」 彼女は小さく笑った。 「私、選ぶの苦手でさ。正しいかどうかじゃなくて、自分で決めていいのかって、いつも思う」 アキラは黙って、枯れた苗を抜いた。 その手元を見ながら、カナは少し目を細めた。 「……昔の世界って、もっと自由だったのかな。そう思ったこと、ない?」 「昔って?」 「……ほら、ゼオが統治する前とか」 カナは少し声を落とす。 「裁判とか、戦争とか……そういう言葉、聞いたことない?」 「……名前くらいなら。でも、何だったっけ? 争いの一種……とか?」 アキラは首をかしげる。 カナは小さくうなずいた。 「私もよく知らない。でも……調べても、ちゃんとは出てこない。誰かが、消したんだと思う」 「誰が?」 カナは答えず、風に揺れる苗をじっと見つめた。 「旧校舎の地下、まだ使われてるって知ってる? 昔の資料が残ってるらしいよ。誰も行かないけど……そういうの、気にならない?」 理由はなかった。でもアキラは、無性に行ってみたいと思った。 「……行ってみたいかも」 「今日の放課後、どう?」 「……ああ」 カナはふっと笑った。 「私も、そういうの……気になるんだ」 放課後。昇降口でアキラとカナが靴を履き替えていると、背後から近づく足音があった。 「どこ行くの?」 振り返れば、ルキが立っていた。 感情の読めない表情で、二人をじっと見ている。 「ちょっと、資料の確認」 アキラがごまかすように言うと、ルキは一瞬だけ間を置いてから歩み寄った。 「……俺も行くよ」 「いいのか? 止めなくて」 「監視だから。見るだけ」 その声には、どこか見るだけじゃない響きがあった。 だがアキラはそれを深く考えずに、うなずいた。 昇降口の自動ドアが開き、夕方の光が差し込む。 三人の影が長く伸びて、校庭に消えた。 旧校舎は、本館の裏手にひっそりと建っていた。 使われなくなって久しく、壁の塗装は剥がれ、窓は半分曇っている。 それでも管理はされているのか、入口のドアには電子錠が取り付けられていた。 「鍵、借りといた」 カナがエンジェルリングをかざすと、ロックが静かに解除された。 「……ゼオに見つかっても平気なのか?」 「うん。ここ、禁止区域じゃないから。使用停止中ってだけで、立ち入りそのものは記録上は許可されてる。……ただ、最適な行動には入ってないから、誰も来ないだけ」 カナはさらりと言ったが、その目は少しだけ緊張を帯びていた。 中は思ったより整っていた。 空気は冷たく、埃の匂いがうっすら漂う。 「……なんか、時間が止まってるみたいだな」 アキラがつぶやくと、ルキが壁にかかった掲示物を眺めながら言った。 「ここ、ゼオが導入される前まで使われてたんだろ」 カナはうなずく。 「その下に、資料保管庫があるって。旧時代の記録とか、もう消されたはずの紙の資料」 「……紙の、記録?」 「うん。データにしなかった記録。きっと都合が悪かったんだよ。誰かにとって」 階段を下りるたびに、空気が変わっていく。 光はなく、非常灯だけがぼんやりと階段を照らしていた。 アキラの心臓が、ほんの少しだけ高鳴る。 「……本当にあるのか、資料なんて」 アキラがつぶやく。 カナは無言で、扉を押した。 きぃ……という音とともに開かれた先には、 古びた棚がいくつも並び、紙の束が乱雑に詰まっていた。 ホコリが積もり、空気はひどく重い。 それでも、何かが残っている――確かな気配があった。 「すごい……本物だ、これ全部」 カナが目を輝かせてページをめくる。 だがアキラの目は、別のものに引きつけられていた。 部屋の一番奥。 見慣れた棚や紙束の中に、そこだけ……違う気配があった。 壁の一角、白く塗り直された跡の下に、何かがうっすらと滲み出ている。 アキラが近づくと、かすかに赤黒く残された文字が目に入った。 ルキがそっと懐中ライトを向ける。 塗り潰された塗料の下に浮かび上がる、歪んだ筆跡。 『神を殺せ』 一瞬、アキラは目を疑った。 読み間違いかと思った。 でも、何度見てもその言葉だった。 カナは言葉を失い、足を止める。 ライトの光が微かに震えた。 「……なに、これ……」 彼女の声はかすれていた。 アキラの心臓が、ひときわ強く脈打つ。 まるで、言葉そのものに意思が宿っているようだった。 ルキだけが、じっとその文字を見つめていた。 しばらく沈黙が続いたあと、彼は静かに口を開く。 「……こういうの、好きだよ。意志がある」 アキラが息をのむ。ルキの声は、どこか懐かしさすら帯びていた。 「誰かが……神に抗おうとしたんだ」 しばらくの沈黙。 ルキは言葉を選ぶように、低く呟いた。 「神は、人のために生まれたはずなのに」 「殺さなきゃいけないなんて、皮肉だな」 誰も、それに言葉を返せなかった。 重い沈黙の中で、ルキだけがその文字を見つめ続けていた。 そのとき、誰の端末も音を鳴らさなかった。 まるで、ゼオの目が……ここには届いていないかのように。 それが、始まりだった。 この世界で、神様を殺した日の。一年後の春。白い洋館の庭は、花で溢れていた。レグルスが植えた花、エリュシオンが育てた花、ゾディアスが選んだ花、ミリアドが水をやった花。すべてが、美しく咲き誇っている。その中心で、ノアフラワーが特別な輝きを放っていた。「一年か……」レグルスが庭で呟く。一年前、初めて芽が出た日。あの時の感動を、今でも鮮明に覚えている。「レグルス」エリュシオンが隣に立つ。「お前、変わったな」「変わった……?」「ああ」エリュシオンが微笑む。「一年前のお前は、笑顔を作ることもできなかった」「今は、自然に笑える」レグルスが自分の顔に触れる。確かに、頬が緩んでいる。自然に、笑顔になっている。「これが……」レグルスが呟く。「幸せということなのか……」「ああ」エリュシオンが頷く。「お前は、幸せになったんだ」その時、玄関から声が聞こえた。「おはようございます!」レグルスが振り返ると、若い男女のカップルが立っていた。「あ……」レグルスが思い出す。「君たちは……」「覚えていてくださったんですね」女性が嬉しそうに言う。「半年前に、プロポーズの花束を買った……」「そうです!」男性が笑顔で答える。「実は……結婚しました」「そして……」女性が自分のお腹に手を当てる。「赤ちゃんができたんです」レグルスの目が、大きく見開かれる。「赤ちゃん……」「新しい命……
ノアフラワーが咲いてから、数ヶ月が経った。その花は枯れることなく、いつまでも美しく咲き続けていた。まるで、ノアがそこにいるかのように。ある日の夕方、全員がリビングに集まった。「みんなに、話があるんだ」アキラが切り出す。「俺……これから、旅に出ようと思う」「旅?」カナが驚く。「どこへ?」「まだ、はっきりとは決めてないけど……」アキラが説明する。「世界中を見て回りたい」「新しい世界が、どんな風に育っているのか」「自分の目で確かめたい」「それに……」アキラが胸に手を当てる。「ノアに見せてあげたい」「こんなに素晴らしい世界になったって」沈黙が落ちる。そして、カナが微笑んだ。「いいと思う」「アキラらしい」「でも……」リナが心配する。「花屋は?」「心配ない」セツが答える。「俺たちがいる」「アキラがいなくても、ちゃんと回る」「それに……」ミナが付け加える。「私も、実は考えていたことがあります」「何?」「記録の研究を、本格的に始めたいんです」ミナが説明する。「人々の記憶を、もっと深く理解するために」「大学に戻って、研究者として」「それは……」カナが嬉しそうに言う。「素晴らしいわ」「実は……」エリシアも口を開く。「私も、新しいことを始めようと思っています」「カウンセリングの仕事を」「記
新世界が生まれてから、一年が経った。白い洋館の庭には、色とりどりの花が咲き誇っていた。レグルスたちが植えた花も、見事に咲いている。「きれいだ……」レグルスが自分の花壇を見つめる。「一年前は、小さな芽だったのに……」「今では、こんなに立派に……」「成長しましたね」エリュシオンが隣に立つ。「花も、私たちも」確かに、創造者たちは大きく変わっていた。もう、かつての冷たい管理者の面影はない。温かく、優しく、人間らしく生きている。「エリュシオン」レグルスが振り返る。「私たちは……正しい選択をしたと思うか?」「感情を取り戻したこと」「人間になったこと」エリュシオンが微笑む。「後悔しているのか?」「いや……」レグルスが首を振る。「後悔なんてしていない」「ただ……」「時々、不思議に思うんだ」「あの頃の自分が、どうしてあんなに冷たかったのか」「それが……」エリュシオンが空を見上げる。「成長の証だよ」「過去の自分を振り返り、疑問を持てるということは」「前に進んでいる証拠だ」白い洋館では、いつものように朝食の準備が進んでいた。「アキラ、お皿並べて」カナが手際よく動く。「ああ」アキラが応じる。二人の動きは、一年の間に完璧に息が合うようになっていた。「おはよう」マナが階段を降りてくる。すっかり成長し、以前より少し背が伸びた。「おはよう、マナ」リナが微笑む。
一週間後。朝早く、レグルスが一人で白い洋館を訪れた。「すみません……」まだ開店前の時間だったが、アキラが気づいて扉を開けた。「レグルス……」「こんな朝早くに、すみません」レグルスが申し訳なさそうに言う。「でも……どうしても見たくて……」「花ですね」アキラが微笑む。「さあ、庭へ」二人で庭に出ると、レグルスが息を飲んだ。「これは……」自分が植えた花壇に、小さな緑の芽が顔を出していた。「芽が……出てる……」レグルスがゆっくりと近づく。そして、膝をついて、小さな芽を見つめる。「本当に……出た……」「ええ」アキラが隣に座る。「あなたが植えた種から」「あなたが水をやり続けた結果です」レグルスの目に、涙が浮かぶ。「私が……」「この小さな命を……」「育てたのか……」「そうです」アキラが頷く。「これが、創造の喜びです」「管理や支配じゃなく」「育てることの喜び」レグルスが泣き始めた。長い間、封印していた感情が溢れ出す。「嬉しい……」「こんなに嬉しいことがあるなんて……」「小さな芽が出ただけなのに……」「こんなに……心が満たされる……」アキラが静かに見守る。創造者が、初めて本当の喜びを知った瞬間。それは、何にも代えがたい光景だった。しばらくして、レグルスが涙を拭った。「ありがとう」「君たちのおかげで……」「私は……本当の意味で生