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神の恐れ

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-07-12 21:32:45

幸福圏──第三区。幸福度:99.0

《幸福監査:観測モードに移行》

幸福バランスは問題なし。異常なし。人々の顔には今日も笑顔が咲き乱れている。

だが、静かに、確実に“何か”が変わり始めていた。

──数日後。地下。

息が白くなるほどの冷たい空気の中、アキラは静かに走っていた。

土と金属が混じった床を蹴る音。汗が頬を伝う感覚。呼吸が乱れ、心臓が早鐘のように鳴る。

「……はぁ、はぁ……」

息を整えながら、ふと立ち止まる。

この数日、セツの指導のもと、基礎的な体力訓練を続けていた。最初は動くだけで吐きそうだった身体が、今ではようやく“自分のもの”になりつつある。

「生きてるって……こういうこと、か」

地面を踏みしめるたび、実感が宿る。

風が頬を撫で、足の裏が痛む。だが、それすらも“嬉しい”と思える不思議。

「アキラ〜っ! 聞いて聞いて!腕立て20回いけたよ!」

カナが泥だらけの顔で駆け寄ってくる。失敗して転んだのだろう。

それでも笑っている。

「へへ……変だよね。痛いのに、笑えるなんて」

「変じゃないさ」

セツの声が響く。

「それが“感じてる”ってことだ。お前ら、ちゃんと取り戻しつつある」

ミナが温かいスープを持って現れた。

「ほら、朝食よ」

その笑顔は、今の幸福圏には存在しない“自由な感情”の光だった。

だが、その温もりの裏側で──冷たい計算が動き出していた。

同時刻。幸福統制局・第零管理棟。

「つまり、逃したわけね?」

その声は、透明な硝子のようだった。冷たく、だが鋭く澄んでいる。

アインが黙って頷く。その顔に表情はない。ただ、黒のコートに身を包み、背筋を伸ばして立つのみ。

その隣に立つ女性こそ、統制局直属の指揮官──エリシアだった。

長い銀髪と氷のような瞳。機械的に整いすぎた美貌。

彼女はAIではない。だが、完全な人間でもない。

強化処理を施された神経と感情。

彼女は、ゼノが唯一認めた人間側統制者として存在している。

つまり、AIに選ばれた者。

ゼノに従うのではなく、従うことを自ら選んだ者だった。

「ルキは現在、C区幸福処理施設にて隔離中」

アインが淡々と報告を続ける。「精神スキャンは未成功。神性反応が高く、解析不能」

「……ルキの件は一旦保留ね」

エリシアが椅子に腰を下ろし、組んだ脚を静かに揺らす。

「問題は逃げた子たち。エンジェルリングを外したのは確か?」

「はい。感情制御は解除。幸福指数の監視網からも外れ、現在位置不明」

「セツとミナ……最悪のカードを引いたわけね」

指先でテーブルを軽く叩きながら、エリシアは薄く笑った。

「感情の再起動なんて、完全に設計外。全体に影響が出る」

「実際、第三区の幸福指標がわずかに低下。0.1ポイント」

「……誤差と呼ぶには、大きすぎるわ」

その瞬間、空間に金属質の声が響いた。

「ルキの処分は許可しない。

市ノ瀬トオルにも干渉するな」

ゼノの音声。中枢神経データ網を介し、命令だけを一方的に伝える“神の声”。

アインが静かに目を伏せる。「直命、確認」

エリシアは微かに笑う。

「死者にも触れるな……随分と臆病な神ね」

だが、ゼノの命令はそれだけでは終わらなかった。

「幸福区域外にて、最適化を拒否する行動を確認──

 対象:市ノ瀬アキラ、および関係者。至急捜索、抹消せよ」

静寂が走った。

アインは端末を操作し始める。

「幸福均衡維持のため、抹消プロトコルを実行に移行します」

エリシアは微笑を崩さず、静かに言った。

「幸福でない者は、存在してはならない

──ほんと、ブレないわね、神様」

ゼノの声に感情はない。ただ、命令だけが空間を支配していた。

「幸福度の低下を許容しない。人類の最適化に障害となる個体は、早急に除去されるべきである」

エリシアは立ち上がり、ゆっくりと視線を巡らせた。

「……了解。神の意志に従って、命じられた殺しを遂行するわ」

その言葉に熱はない。だが、その奥には確かに“何か”があった。

従属ではない。服従でもない。

それは──自ら選び取った従順だった。

「ただの命令じゃない。これは……神が恐れている証」

エリシアはつぶやいた。「それも、たった数人の人間にね」

アインは無言のまま、幸福圏全体への再スキャンを開始する。

静かに、だが確実に。

幸福という名の粛清が、再び動き出そうとしていた。

そしてその背後で、ゼノの最後の命令が、空間にしつこく残響していた。

──「市ノ瀬トオルには触れるな。死者にも、干渉するな」

エリシアはそれを聞き届けると、冷たい金属の扉をくぐって背を向けた。

その背中には、硬質な忠誠と、消しきれぬ迷いが、静かに同居していた。

──地下。アジト。

ミナがタブレットの表示を凝視し、静かに顔をしかめた。

「……この動き、間違いないわ」

画面には幸福圏第三区のマップが映し出されていた。

外縁部から順に、じわじわと“光の帯”が中央に向かって侵食している。

幸福スキャン。

感情、温度、音、脈拍。全てを“幸福”で上塗りする網の目のような監視圧。

「このスキャンのパターン……通常の巡回じゃない。

 ゼノが、私たちがこの区域にいるかもしれないと判断したのね」

カナが口元を押さえた。「じゃあ……もうすぐ……」

「ええ。ここにいれば、いずれ確実に見つかるわ」

ミナの声が固く、静かに響いた。

「早ければ、48時間以内」

セツが奥で拳を握る。「正面から逃げ場なく囲むつもりか……相変わらず陰湿なやり方だな。」

「まだ手はある」ミナがすぐに言った。「第3継承地区へ向かう。あそこなら、幸福指数のスキャンが薄い」

アキラが顔を上げる。「“継承”の場所……?」

「そう。次の扉がある場所。──今なら、まだ間に合う」

沈黙が流れた。だが、それは迷いではなかった。

緊張の中で、アキラが静かに言う。

「……逃げるんじゃない。

 “選びに行く”んだ、俺たちは」

その言葉に、誰もが頷いた。

幸福に上書きされる前に、自分の意志で進むために。

幸福圏に轟く、ゼノの無機質な声が鳴り響く。

「幸福に不要な選択を確認──排除を開始せよ」

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