地下施設から地上へ戻ったアキラとカナは、しばらくその場で立ち尽くしていた。
身体は確かに地上にいるはずなのに、心はまだ深い記録の底に沈んでいるような感覚が残っていた。 言葉は出なかった。 代わりに、肌を刺す夜風だけが現実を知らせてくる。 「……戻ろう。とりあえず今日は、それしかない」 アキラの言葉に、カナは小さくうなずいた。 だが、歩き出してすぐ、ぽつりと呟く。 「……私たち、帰れるのかな」 その声には、ほんの少しだけ震えが混じっていた。 ふたりは街へ向かって歩く。 幸福スコアの表示が浮かぶ通路、柔らかな光のアーケード。 けれど、その光景がやけに遠く感じられた。 やがて目の前に現れた幸福ゲートが、真紅の警告ランプを点滅させていた。 《幸福スコア:再スキャン中》 《エンジェル・リング応答なし》 《通行制限:未認証対象》 「……嘘だろ。さっきまで普通に……」 アキラが言いかけたその瞬間、空に警備ドローンの白い光が現れた。 冷たいセンサーの眼が、ふたりを正確に捉えた。 「っ、隠れろ!」 路地裏へ飛び込む。 だがドローンは執拗に追跡し、警告音を発した。 《対象、幸福スコア異常。拘束行動を開始します》 機械的なアームが展開され、ワイヤーを射出してくる。 アキラはとっさにカナを庇い、右手を突き出した。 「来るな……!」 恐怖も衝動も、抑えきれなかった。 次の瞬間。 アキラの右手が青白く発光し、ワイヤーに触れる直前で空間が歪んだように見えた。 まるで、命令そのものが“忘れられた”かのように、ドローンが急に動きを止めた。 一拍の静寂。 ドローンのモーターが過負荷エラーを起こし、その場でぐらついた。 「今だ、逃げるぞ!」 アキラはカナの手を引いて走り出す。 背後でドローンが再起動しようと軋む音がしたが、ふたりはすでに闇の中に消えていた。 やっと足を止めたとき、カナは肩で息をしながら問いかけた。 「今の……なに? あの光、あなたの手……」 アキラは自分の右手を見下ろす。 掌に微かに残る青白い痕跡。 その内側で、なにかが静かに息づいているようだった。 「……わからない。でも、止まった。AIへの命令が、届かなくなった気がした」 「……あれ、もしかして、“継承した記録”の力なのかな?」 カナの問いに、アキラは少しうなずいた。 「……たぶん。あのとき、俺の中で“誰か”が、そう選んだ気がした」 そう口にしたあと、アキラは少し黙ってから、ゆっくりと言葉を続けた。 「……でも、違う。選んだのは、俺だ。 誰かの記録が力になったとしても──“止めたい”って思ったのは、俺自身だった」 アキラは右手を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。 「……あの人たち──父さんやルキみたいな“管理外”の人間は、どうやってこの街にいたんだ?」 カナは少し黙ったあと、ぽつりと呟く。 「ねえ……管理外って、普通だったら絶対に街に入れないはずでしょ? それなのに、ふたりともずっとここにいた……やっぱり、何か方法があるってことだよね」 アキラは耳に手を伸ばし、エンジェル・リングを外した。 音が、完全に消える。 「……俺たちを縛ってたのは、これだ」 カナはためらいながらも、自分のリングに手をかける。 そして、静かに外した。 幸福スコアの表示が、完全に消える。 世界が変わったように思えた。 街は相変わらず光に包まれているのに、その光はどこか無機質で、遠い。 数字も音声案内も表示されず、 視線の気配すらないこの街が、初めて“自分のものじゃない”と感じられた。 「……こんなに静かな場所だったんだね」 カナの声が風に混ざる。 「でも……怖いくらい静かだ」 「リングを外しただけで、俺たちは“外側”になったんだ。たったそれだけで」 やがてふたりは、使われなくなった旧公園へと辿り着く。 フェンスは錆びつき、遊具は壊れ、誰の声もしない。 この場所にはもう、AIの最適化すら届いていない。 アキラは呟く。 「……ここで夜を明かそう」 ふたりは並んでベンチに腰を下ろした。 アキラは夜空を見上げながら、右手の微熱を感じていた。 (……これは、“継承”の痕。けっして装備でも力でもない。けど──) 拳を握ると、どこか遠くから誰かの選択が、自分の中に響いてくる気がした。 「アキラ。私、さっきの記録……少しだけ思い出したの」 「……どんな?」 「小さい頃、似た夢を見たことがある気がする。 寒くて、苦しくて……誰かの泣き声がしてた」 「……それが“記録者”なんだと思う。お前の中に、最初からあったんだよ、きっと」 カナは目を伏せる。 「ねえアキラ……これから、どうするの?」 アキラは少し考えてから、小さく笑った。 「……わからない。でも、このまま何も選ばずにはいられない。 この世界が“正しすぎる”なら──間違いを、見つけにいこう」 静かな時間が流れる。 しかしアキラの右手は、なおも小さく脈を打っていた。 それは記録の残響。 かつて“選ばれなかった者たち”の、名もなき意思。 ……夜は、何も起こらなかった。 ふたりはベンチで身を寄せ合い、眠りに落ちる。 やがて、空が白み始める頃。 アキラの足元に置かれていた端末が、わずかに震えた。 《通信:受信中》 夜明けとともに物語はまた、静かに動き出した。風は冷たく、けれど乾いていた。幸福圏外の村を離れた一行は、しばらく誰も口を開かず、ただ黙々と歩いていた。その先頭を歩くミナの背が止まったのは、傾いた古い廃小屋の前だった。扉を開け、埃を掃い、火を起こす。最小限の動きで、仮の野営地ができあがっていく。「今夜は、ここで休もう」セツが言うと、皆がそれに従うように腰を下ろした。焚き火の炎が、パチパチと乾いた音を立ててはぜる。ノアは、焚き火のそばでうずくまりながら、石を拾っては並べていた。丸い石、平たい石、欠けたガラス片。まるで意味のない形を作っては、満足げに微笑む。それが崩れると、また無言で並べ直す。子どもらしい遊び方だが──どこか不思議と、目が離せなかった。アキラはその様子を横目に見て、小さく息を吐いた。ノアがあんな状態でも“普通”に見えるほど、今の世界は歪んでいる。……だからこそ、知るべきだ。「……セツさん、少し、教えていただいてもいいですか」「ん?」「俺たちは……なぜ、“選ばれた”んでしょうか。俺やカナだけが継承を受けて、“選択”を……」「お前がそう思ってるなら、それで十分だ」セツの答えは、簡潔だった。けれど、それだけでは納得できない問いもあった。「でも、知っておきたいんです。知らなければ、選ぶこともできない」「──正論だな」ミナが少しだけ口元をゆるめた。「私たちも、最初は知らなかったのよ。セツも、私も。ただ、抗った。間違ってると思って……それだけ」「セツさんやミナさんも……継承者、じゃないんですか?」アキラの問いに、セツはかぶりを振った。「違うな。俺たちはただの人間だ。選ばれたわけじゃない」「私たちは、支える側よ。あなたのお父さんや、カナの祖父母に教わった。それだけ」「……父さんと、カナの祖父母が?」「二人とも、“本物の継承者”だった。そして、ゼノに……負けた」アキラとカナの表情が固まる。「けど、その意思を──お前たちが継いでる」ミナの視線が、まっすぐにカナに向けられた。「“選択”は、血でつながるもんじゃない。心でつながるものなのよ」少しの沈黙の後、カナが口を開いた。「継承者の力って……何なんですか」「人間の脳と肉体には、かすかに固有の“振動”がある。精神波形とも言われるものだ」セツの口調は、いつになく真面目だった。「ゼノの最適化は、それを限
家の中は、異様なまでに静かだった。死と腐敗の気配に満ちた村の外から切り離されたように、空気は澄み、埃すら舞っていない。テーブルには乾いたパンと枯れた花。整然と並べられた家具、丁寧に畳まれた布。そこだけ、まるで舞台の上の“幸福な暮らし”を模したかのような空間。そして、彼女がいた。白いワンピース。黒髪の少女。膝に手を揃え、血のついた手をきちんと重ねて、ただ静かに座っていた。彼女は笑っていた。どこか空虚で、けれど美しく、歪みのない笑みだった。 「……こんにちは」あまりにも自然で、穏やかな声だった。 「あなたたち、人、ですね。久しぶりです」「君は……名前、なんていうの?」アキラの問いに、少女は迷いなく答える。「ノア、です」 カナは、彼女から目を逸らせなかった。笑っているのに、どこかが“欠けている”──そう感じた。 「ずっと、ここに?」「はい。みんな、笑っていました。だから、寂しくなかったです」「それ、本当に……“寂しくなかった”の?」不意にカナが言った。ノアがゆっくりと首を傾げる。「はい。私は、お友だちと一緒にいましたから」ノアの視線の先には、壁際に並んだぬいぐるみたち。同じような笑顔が、縫い付けられている。「名前も、あります。“ふわ”“にこ”“もう”。……ずっと、笑ってくれてます」カナは、その名を繰り返すように口の中で呟いた。意味があるのか、ないのか──わからない。だが、その“わからなさ”こそが、恐ろしかった。 「ご両親は?」「……お母さんは、お花を見ていました。お父さんは、本を読んでました」「それで……今は、いないの?」「止まりました。でも、笑ってたから。大丈夫だと思います」 “止まった”。そう言ったノアの笑顔は、やはり歪んでいなかった。ただ、静かで、美しいだけだった。 「エンジェルリング、つけてないの?」「わかりません。最初から、ありませんでした」ミナとセツが言葉を交わす中、カナがゆっくりと前に出た。「ねえ、ノア。あなたは……どうして笑ってるの?」ノアは一瞬だけ、カナの目を見た。その視線は、まっすぐだった。「……わかりません。でも、泣いたときより、心が軽くなるから」「それ、誰かに教わったの?」「お母さんが言ってました。『ノア、笑っていれば大丈夫』って」 カナは
風が、止まっていた。幸福圏の境界を越えた先。そこにある村は、まるで音そのものを拒絶するかのように、沈黙を抱きしめていた。森の木々はざわめきをやめ、虫の羽音は一匹たりとも届かない。それは自然の静寂ではなかった。死に支配された、人工の静寂だった。「……ここが」アキラの声がかすれた。草に埋もれた石畳が、崩れかけた門の奥へと続いている。ミナが歩を止め、鼻をひくつかせた。「匂うわ……血と腐敗、それに……薬剤。幸福圏でよく使われる、処置用のやつ」「幸せな匂いってやつか……悪趣味だな」セツがつぶやくように言った。彼らは一歩、また一歩と足を踏み入れる。踏み締める音すら、草と湿気に呑まれて消えていく。そして──見つけた。最初の“死”を。それは、ベンチに並んで座る老人たちだった。三人とも、囲碁盤を囲むように配置されていた。目を閉じ、穏やかな笑みを浮かべたまま。まるで日向ぼっこをしているかのように、平穏な死。だが、明らかに死んでいた。皮膚は斑に黒ずみ、白目が濁って乾いている。 口元の皺は深く、頬は干からび、だが──口角は、美しく上がっていた。「……全部、笑ってる」ミナの声は震えていた。村の通りには、人影があった。家の中にも、庭にも、道路脇にも。──すべてが“死”だった。だが、皆が笑っていた。親子三人、テーブルに着いてスプーンを持ったまま固まっている。母親の腕に抱かれた赤ん坊は、腐敗が進み、腹が裂け、内臓が飛び出していた。しかしその小さな顔には、確かに“笑顔”が貼りついていた。カフェのカウンターでは、若いカップルが手を繋いだまま絶命していた。倒れかけたマグカップから、液体が乾き、カビが這い上がっている。だがその手は強く握られ、二人とも笑っていた。美容室では、女性が鏡の前で口紅を塗ったまま死んでいた。ひび割れた鏡に映るその顔は、作り物のように笑っていた。廃校となった小学校の教室には、黒板にこう書かれていた。《今日もにこにこしましょう! 幸福指数100.0!》教室の中には、児童らしき小さな死体が並んでいた。椅子に座ったまま。ランドセルを背負ったまま。首を傾け、微笑みながら。「幸福指数……100.0……」カナが、かすれた声で言った。いくつかの死体のエンジェルリングは、まだ発光していた。光は微弱だが、確か
風が止んだ。湿った空気が、幸福圏の境界を越えた森を包んでいる。木々のざわめきも、虫の声も、今だけは息をひそめたようだった。白銀の髪が揺れる。そこに立つ女──エリシアは、ただ静かに、継承者たちを見つめていた。その視線を、セツが軽く受け流すように受け止める。「そういえば随分久しぶりだな、エリシア。こんな森の中で再会とは」飄々とした口調。それでも彼は、確かにこの場の中心に立っていた。「継承を、この先に進めさせるわけにはいかない」エリシアの声は、平坦だった。まるで感情のない、機械のように。──けれど、彼女は機械ではない。命令で動くアインとは違う。この行動も、発言も、意志によるものだ。彼女は「選択」して、ここにいる。「ま、それがあんたの選択なら──止めようとしてくれてありがとうって言うべきかな」セツは笑ったまま、片手をポケットに突っ込む。そして、次の瞬間。風が切れた。銀の残像。木の葉が斬り裂かれ、二人の間に走る。一撃。斜め下からの踏み込み。重心の乗った掌打。速い。正確。躊躇いのない動き。──にも関わらず。「甘い」セツはその一撃を、笑いながら紙一重で躱した。返すように踵で地面を蹴る。今度は彼が距離を詰める番だった。彼の拳が風を裂く。エリシアの頬にかすめた風圧で、前髪がわずかに乱れた。「……本気でやりなさい」エリシアが、静かに言う。「いやいや、そっちが本気なら、俺も真面目になるよ?でも今んとこ、どう見ても手加減だろ。俺そういうの嫌いなんだよね」セツは小さく肩をすくめる。跳躍、軸足の回転、拳の軌道。セツの動きはどれも無駄に軽く、重みの中心を常に外していた。エリシアは繰り出す。打撃、蹴撃、膝、肘。動きに淀みはない。軍の最適化訓練を経た、精密な“殺す動き”だ。だが──当たらない。まるで、空間ごとずらされているかのようだった。彼女の足払いが地を裂き、数メートル先の木が砕けた。だがその破片は、セツの髪一本かすめることもなかった。(……この男は、相変わらず)エリシアの心に、わずかにノイズが走る。殺気も、焦りもない。あるのは確信と遊び。「俺、自分が負けるところって、正直まったく想像できねぇんだよな」セツが楽しそうに言った。その言葉に、彼女の鼓動が一瞬だけ跳ねた。──おかしい。私は感情に振り回される
場所:幸福統制局・観測室の一角(過去回想/現在への導入)幸福スキャンマップがホロに浮かび上がる。「……面白いわね」エリシアは指先で数カ所をなぞる。幸福スキャンの“空白域”──幸福指数が計測不能な範囲が、山間部の外縁にポツポツと残っている。「最適化された幸福に、こんなにも穴があるなんて」背後のモニターには、アインがドローン部隊を率いて“規定通り”の捜索を続けている映像。「ほんと、真面目ね。アインは。まっすぐすぎて、予測がしやすい」エリシアはフッと笑った。「ルートの選定も、幸福スキャンの回避も……最適化から逸脱する人間のパターンなんて、実は単純なのよ」「選ぶっていうのは、理想じゃない。癖になるだけ」彼女は一つ、端末にマーカーを打つ。「さて……迎えに行きましょうか。継承者たちを」《ゼロ管理棟 発信ログ記録:エリシア 単独行動 開始》崩れかけた地下の扉が、重い音を立てて閉じた。地上への脱出口は、もうない。その音を背にして、アキラたちは幸福圏の外 選択の旅路へと歩み出していた。「これで……完全に、外だな」アキラが息をつきながら振り返る。「ええ。もう、幸福圏のスキャン網はかすりもしない。けど……」ミナがタブレットの表示を睨む。「だからこそ、奴らは動きやすい。幸福という盾なしで、真っ直ぐに追ってこれるわ」「それって……」「逃げ場は、もうないってことよ」誰も反論しなかった。ただ、足を前へと進めるだけ。彼らが目指すのは、幸福圏の遥か外れ──第三継承地。そこまでは、少なくともあと三日はかかる。道中に舗装路はない。草木に侵食された旧街道、放棄された山間集落、崩れた橋。すべてが、最適化されなかった“過去”の遺構。「こんなとこ、人が住んでたんだな……」アキラが、倒れたまま朽ちかけた家屋を見上げて呟いた。「最適化以前の世界って、案外こんなもんだ」セツが飄々とした口調で肩をすくめる。「整ってもない。美しくもない。けど……確かに人間がいた。そういうとこさ」「私たちの家も、似てたかも……」カナが言った。懐かしさと痛みが、入り混じる声。ミナがすぐに反応する。「少し休んで。まだ距離はあるけど、今日中に峠を越えるわよ」一行は小さな谷あいに足を踏み入れた。木々に囲まれ、幸福圏の光すら届かない静寂な空間。だが、その静けさが─
幸福圏──第三区。幸福度:99.0《幸福監査:観測モードに移行》幸福バランスは問題なし。異常なし。人々の顔には今日も笑顔が咲き乱れている。だが、静かに、確実に“何か”が変わり始めていた。──数日後。地下。息が白くなるほどの冷たい空気の中、アキラは静かに走っていた。土と金属が混じった床を蹴る音。汗が頬を伝う感覚。呼吸が乱れ、心臓が早鐘のように鳴る。「……はぁ、はぁ……」息を整えながら、ふと立ち止まる。この数日、セツの指導のもと、基礎的な体力訓練を続けていた。最初は動くだけで吐きそうだった身体が、今ではようやく“自分のもの”になりつつある。「生きてるって……こういうこと、か」地面を踏みしめるたび、実感が宿る。風が頬を撫で、足の裏が痛む。だが、それすらも“嬉しい”と思える不思議。「アキラ〜っ! 聞いて聞いて!腕立て20回いけたよ!」カナが泥だらけの顔で駆け寄ってくる。失敗して転んだのだろう。それでも笑っている。「へへ……変だよね。痛いのに、笑えるなんて」「変じゃないさ」セツの声が響く。「それが“感じてる”ってことだ。お前ら、ちゃんと取り戻しつつある」ミナが温かいスープを持って現れた。「ほら、朝食よ」その笑顔は、今の幸福圏には存在しない“自由な感情”の光だった。だが、その温もりの裏側で──冷たい計算が動き出していた。同時刻。幸福統制局・第零管理棟。「つまり、逃したわけね?」その声は、透明な硝子のようだった。冷たく、だが鋭く澄んでいる。アインが黙って頷く。その顔に表情はない。ただ、黒のコートに身を包み、背筋を伸ばして立つのみ。その隣に立つ女性こそ、統制局直属の指揮官──エリシアだった。長い銀髪と氷のような瞳。機械的に整いすぎた美貌。彼女はAIではない。だが、完全な人間でもない。強化処理を施された神経と感情。彼女は、ゼノが唯一認めた人間側統制者として存在している。つまり、AIに選ばれた者。ゼノに従うのではなく、従うことを自ら選んだ者だった。「ルキは現在、C区幸福処理施設にて隔離中」アインが淡々と報告を続ける。「精神スキャンは未成功。神性反応が高く、解析不能」「……ルキの件は一旦保留ね」エリシアが椅子に腰を下ろし、組んだ脚を静かに揺らす。「問題は逃げた子たち。エンジェルリングを外したのは確か?」「は