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選びたいと思ったから

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-07-12 21:31:25

風が吹き抜ける屋上。まだ朝靄が残る中、アキラとカナは並んで立っていた。

ふたりとも無言でストレッチをしているが、明らかに緊張の色が濃い。

「……で、肝心の人は?」

「うん……まだ寝てる」

少し離れた鉄骨の上で、セツは大の字で寝転んでいた。

シャツはくしゃくしゃ、口は半開き。まるでこの世界の緊張感から置き去りにされた存在のようだ。

「……本当に、この人が訓練担当なんだよね?」

「ルキの信頼はあるっぽいけど……ちょっと、不安だな……」

ふたりが小声で話していると、セツが欠伸混じりに起き上がった。

「ん〜、よく寝た。あー、今日から訓練だっけ」

 まるで散歩にでも行くような調子で立ち上がり、ポケットからタブレットを取り出して噛み砕く。

「さ、やるか。最初にちょっとだけ説明な」

「記録者の力ってのは、見るもんじゃない。感じさせるもんだ」

「感じさせる……?」

「過去の記憶を、人に“体験”させる力。

何が起きたかじゃなく、“その時、どう思ったか”を継がせるんだよ。記録は、未来を動かすんだ」

 アキラは真っ直ぐに頷いた。

「……それで、俺は何をすればいいんですか?」

セツは肩をすくめて笑う。

「うーん……とりあえず、力が出るまで追い込んでみるか」

「不安しかない……」

 そして、始まった。

 最初の一撃で、アキラの身体は吹き飛ぶ。

 風を切る音。肩に掠っただけで視界が揺れる。

 立ち上がるたびに、次の痛みが叩きつけられる。

「どうした、“市ノ瀬”アキラ。選ばれたんだろ?」

 息が乱れ、意識が遠のく。

 けれど──拳は、まだ地を掴んでいた。

「もういいか?」

 セツの声が静かに降る。

「やめるか? 選んでいいぞ。やめるのも選択だ」

 その言葉を聞いた瞬間、カナが思わず前に出そうになる。

「──もうやめてよ……!」

 堪えきれず絞り出すように声を上げる。

 アキラの背中はまだ、倒れたまま。

 それでも、彼女にはわかった。

 彼は、諦めてなんかいない。

「アキラ……っ」

 その声が届いたのかはわからない。

 けれど──

 アキラは顔を上げ、喉を震わせた。

「……やめるか」

 その瞬間──世界が軋んだ。

 空間が割れ、目に見えない圧が炸裂する。

 風が跳ね、鉄が軋むような音が響いた。

 セツが目を細め、数歩後退する。

「……出たな」

 中心にいたアキラは、肩で息をしながら呟く。

「やめません。……俺が、自分の道を、自分で選びたいって思ったから」

「セツ、もうやめなさい!」

凛としたその声に、場が静まる。

階段の上に、ひとりの女性が立っていた。

銀色のロングコートが風に揺れ、その下から見えるシャツと黒のスラックスが、すらりとした体のラインを強調している。

胸元はふくよかで、腰は引き締まり、脚はまっすぐに伸びていた。

大人の女性らしい曲線が、はっきりとわかる体つきだ。

顔立ちは整っていて、長い黒髪が肩まで流れている。

知的で落ち着いた雰囲気を持つその目は、少しだけ厳しく、それでいて優しさを感じさせた。

その場にいた誰もが、思わず目を奪われるような──

強く、美しく、そしてどこか安心感のある人だった。

彼女はアキラに歩み寄り、しゃがみ込む。

「……よく頑張ったわね。立てる?」

「えっ、あ、はいっ……」

香り、距離、微笑み──綺麗すぎて、アキラは目を逸らした。

女性はそっとアキラの手を取って支えながら、穏やかに微笑む。

「私はミナ。記録者を導く立場よ。

 ……と言っても、案内と補佐くらいだけどね。よろしくね、アキラ、カナ」

その様子を見ていたカナが、むすっと口をとがらせる。

「……なに、見とれてんのよ」

「え、いや、別に……」

「ふーん……」

セツが割って入る。

「おーおー、青春か? いいねえ〜」

「うるせぇ」

ミナが微笑んで、カナに向き直る。

「あなたに預かっていたものがあるの」

透明な端末──記録者専用イヤーカフ。

「誰からかは秘密。でも、あなたにしか渡せないと決まってた」

カナが受け取り、装着した瞬間──左目が淡く光った。

《記録者ナンバー:C-03》

《記録接続準備中……》

脳内を記録の奔流が駆け巡る。

第一継承──瓦礫の中で叫ぶ女。

第二継承──崩れゆく都市と鳴り響く銃声。

「……あれは……」

カナは膝をつき、涙をこぼす。

「記録って……ただの映像じゃない。

私……この人たちの“願い”を感じた。

忘れちゃいけないって、叫ばれてるみたいだった……!」

ミナがそっと肩を抱く。

「今日は、休みなさい。頭の整理が先よ」

カナは目を拭きながら、強く頷いた。

「怖い……でも、逃げてたら記録も想いも守れない。

私も、ちゃんと戦えるようになりたい。アキラに、任せきりじゃいられないから」

屋上の端で、ミナとセツが並ぶ。

「こいつ、ちゃんと教えるから安心しな。俺と違って真面目だから」

「……あなたが適当すぎるのよ」

セツはアキラを振り返る。

「そっちは俺が担当だ。アキラ、続きやるぞ」

「……はい。お願いします」

セツが顎を引き、にやりと笑う。

「これは仮説だけどな。空間に“選択の圧”を生んでる気がする。

拒むんじゃなくて、“再選択”させる。……そんな力だ」

アキラは拳を握り直し、静かに言った。

「それが……俺の力なら、ちゃんと受け止めます」

セツが背中を向けたまま言う。

「強くなれ、継承者。選び続けるってことは、それだけ傷つくってことだ」

夕暮れの屋上。

セツとミナが、遠くの空を見つめながら立っていた。

「……あの二人、どう思う?」

「さぁな。秘めてる力はすごいけど、戦闘意識が低すぎる」

「怒ったことも、喧嘩したこともない。

そうやって、管理されて生きてきた子たちだもの」

「……苦労するだろうな」

ミナはしばらく黙っていたが、ふっと笑った。

「そう思うなら、そばにいてあげなさい。あなたの言葉、案外響いてるから」

セツが天を仰ぐ。

「……俺はな、教えるの下手なんだよ。壊しちまいそうでさ」

「でも、壊さなきゃ届かないものもある。

私たちは“残す”だけじゃない。“育てる”側なのよ」

遠くで、風が重く鳴った。

「選んだ責任は……私たちが背負わなきゃ」

「分かってるよ」

セツは立ち上がり、いつもの気だるげな笑みを浮かべた。

風が、世界をなぞるように吹き抜けていった。

風の中、アキラは自分の手をふと見た。

手のひらの奥で、微かに浮かび上がったのは

意味のわからない数字と記号の羅列だった。

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