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第2話

Author: 天ノ誠也
あの夜は、何度寝返りを打っても眠れなかった。眠ろうと努力して、あの二人は本当にただの仕事の話だったのだと、自分に言い聞かせようとした。

でも、やっぱり――騙せなかった。

三年間、隣で眠ってきた人が、あんな裏切りをするなんて。想像するだけで吐き気がこみ上げてきて、胸の傷がズキンと痛み、思わず涙がこぼれそうになった。

トイレへ駆け込み、吐き気を堪えきれずに何度も嘔吐した。

そして洗面台の前で顔を上げると、鏡に映ったのは、乱れた髪、やつれた顔、何の感情も浮かばない目。

でも、そのとき私の頭に浮かんだのは彼のことじゃなかった。ちゃんと、身だしなみを整えようかな。不思議と、そう思った。

その瞬間、気づいたの。燃えるように愛した思い出でも、捨てるのは案外難しくないんだって。

どんなに熱く美しい思い出でも、それは「過去」でしかない。

愛って、突然消えるものじゃない。少しずつ積み重なった失望が、ある日、限界に達したとき――ふっと消えるのよ。

ちょうど今の私みたいに、柊弥への想いが、跡形もなく消えた。そろそろいいかもしれない。

たくさん溜め込んだ失望を切符にして、この関係から旅立つ時が――来たのかもしれない。

彼は聡明で冷静な人。

私があれだけ怒りをぶつけたあと、鈴木愛蘭には一切の希望を持たせないようにした。

でも、それでも私はもう――離婚したいと本気で思っていた。だからこそ、きちんと離婚協議書をまとめて、彼と向き合うつもりだった。

でも私は、ひとつだけ大きな誤算をしていた。愛蘭が彼の中で占める存在の「大きさ」を、見誤っていたのだ。

秘書の座を外された彼女は、研修生として基本的な仕事を一から始めるしかなかった。以前はフロント業務も任されていたのに、今ではその機会すら与えられていない。

私は何も指示していない。ただ、彼女自身がこれまで傲慢だった報いを受けているだけ。

……そう、私は思っていた。

でも彼は、違った。たった半月で、仕事の落差と心理的打撃に耐えられないせいか、愛蘭はみるみる痩せていった。

真冬に膝の出たスーツを着て、凍えた足を我慢しながら、必死に立ち続けていた。そして偶然――柊弥に、その姿を見られてしまったのだ。

「葛城社長……」彼女の目から、涙が一粒、静かに零れ落ちた。

その一滴が、彼の心にも落ちたのだろう。

たった半月で、あの明
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