LOGIN夫の霧島景一(きりしま けいいち)のそばには、常にフランス語通訳の女性・水野玲奈(みずの れいな)が付き添っている。 酷い時には、出張の際、二人が同じホテルの同じ部屋に泊まることすらあった。 妻である私・霧島静香(きりしま しずか)は、当然その関係が気になって仕方がなかった。 だが景一は、面倒そうに言い訳をした。 「水野の仕事は、常に俺のそばにいることなんだ。何を勝手に疑ってるんだ? 君が疑いすぎなんだよ。だから何でも怪しく見えるんだ」 自分でも、考えすぎなのかもしれないと思った。 けれどある日、玲奈が私の目の前で、フランス語で景一にこう言った。 「ねえ、今夜もあのおばさんに付き合うつもり?」 景一は、軽く笑って答えた。 「まさか、そんなわけないだろ。適当に言い訳を作って、今夜は君と過ごすよ」 そのとき二人は、私がフランス語を理解できないと思い込んでいた。
View More「水野に君の地位を脅かす資格などない。彼女はそんな度胸もないし、これから先も二度とそんな真似はしない」景一は歩み寄って私の手を握った。その口ぶりはやけに誠実そうだった。まるで、これがごく当たり前のことだと言わんばかりに。私は彼を見つめたが、十年前の面影はもうどこにも見つからなかった。彼の愛は、こうして腐り果てていったのか。「霧島景一、そんなのもうどうでもよくなったわ」私は手を引き抜き、足早に車へ乗り込んだ。景一は慌てて追いかけてきた。でも車はすぐに走り出し、彼はただ後ろから、私の名前を呼び続けるしかなかった。私は振り返らず、心が動くことさえもなかった。本当の別れには、涙なんて必要ないのだと、そのとき初めて知った。私は景一との縁を完全に断ち切った。電話番号もスマホも新しくして、新しい家に引っ越した。新しく始めた仕事が、私に新しい生き方を見せてくれた。毎日が楽しかった。景一という人のこともあの十年間のすべても、少しずつ忘れていった。澄はいつの間にか、私の日常のすべてになっていた。何をするときも、彼はいつも隣にいた。ある夏のごく普通の夜に、彼は私に告白してくれた。彼の手から花を受け取ったとき、周りから歓声が上がった。ふと、目の前の景色が19歳のあの夏と重なったような錯覚に陥った。でも、私が今、飛び込もうとしているのは、あの頃とは違う懐だ。景一とは、もう二度と会うことはない。――霧島景一の視点――静香が離れてから、俺は何もかもがどうでもよくなった。あんなに大人しくて優しかった彼女が、どうして玲奈一人のことで、俺との離婚まで決めたのか、俺にはまったく分からなかった。玲奈なんかに、彼女の居場所を脅かせるはずがない。彼女は、これからもずっと俺の妻のはずだった。19歳のあの日に誓った言葉のとおり、俺の気持ちは一生変わらないはずだった。でも彼女は、俺を信じなかった。彼女を失うと分かっていたなら、もっと用心すべきだった。静香は、俺が思っていたよりずっと冷静で、ずっと冷たかった。子供さえできれば、彼女を引き留められると思っていたのに。まさか、玲奈のひと言だけで、あの子を堕ろすとは思わなかった。どうして、こんなことになったんだろう?あんなに素直で俺の言うことに
澄は昔から、景一にいい顔をしたことがなかった。殴るときも、手加減など一切しなかった。それでも景一は、離婚協議書にサインしようとしなかった。とうとう玲奈が我慢の限界を超え、彼に報復した。彼女は二人の私的な関係をすべて公にし、ネット上で大きな騒動を引き起こしたのだ。景一自身も、会社も、一気に世間の批判の的になった。ここに至ってようやく、景一は私と離婚届を提出した。「静香、身の回りのことを片付けたら、必ず迎えに来るから、待っていてくれ……」私は一瞥もせず、澄の車に乗り込んだ。バックミラーの中に、景一の苦しげな眼差しと、崩れ落ちそうな表情が映った。けれど、少しの痛みも感じなかった。彼を愛さなくなったら、こんなにも心が軽くなるものなのか。「彼とのことは片付いたことだし、俺と一緒に海市で生活しないか?俺の会社、あそこで上場するんだ」私は笑って答えた。「いいよ」澄の眼差しの奥に、何か別の感情が見え隠れしていた。だが彼はそれを口にせず、ただ優しく私を見つめて言った。「静香、俺たちはずっと家族だ」分かっているよ。彼の視線の奥に潜んで、言葉にならない想いも分かってる。この町を離れたあとに、別の答えが見えてくるのかもしれない。でも、それはまだ遠い先の話だった。……景一がまた現れた。あれは引っ越しの準備を進めていたときのことだった。以前より顔がやつれ、目には光が見えなくなった。玲奈が暴露したスキャンダルのせいで、彼の会社の評判は一気に落ちたらしい。そしてこれまで築き上げてきたイメージは、一夜にして崩れ去った。どの取引先も彼との関わりを恐れて離れていったらしい。彼は玲奈を歯ぎしりするほど憎んで、心身ともに追い込まれているようだった。それでも私が引っ越すと知ると、無我夢中でここまで駆けつけてきたのだった。「静香、話がしたいんだ」澄は察して車に乗り、私たちに距離を置いてくれた。けれど、彼が近づいてくるのを見て、私は思わず一歩下がった。「静香、俺たちの間って、もうそんなに余所余所しくなったのか」私は答えず、ただ黙っていた。景一の目には苦しさと動揺が見えてる。「実は、後悔してることがあるんだ」私は、てっきり彼が世論に押されて離婚したことを後悔していると
玲奈は私よりも景一のことを理解している。そして私が何を一番大切にしているのかも知っている。だからこそ、私はこんなことを許すわけにはいかない。まして、この子をこんな家庭で育てるつもりもなかった。玲奈からのメッセージが、その決意をさらに固めた。景一は、私の表情がどこかおかしいことに気づいたらしい。「静香、何を考えてるんだ?」と彼が聞いてきた。何を考えてるって?玲奈の望みどおりにしてあげようと思っただけよ。もう、迷いはなかったから。……景一が気づき、病院に駆けつけたときには、私はすでにあの子を堕ろしていた。彼は目を赤くして、私に詰め寄った。「なんでだ!なんでなんだ!静香、なんて残酷なことを……!もう一度やり直そうって約束しただろう。なんで俺を騙したんだ!」その言葉を聞いて、思わず笑いがこみ上げた。まるでブーメランとなって彼自身に突き刺さっているようになったね。私も19歳のとき、彼が永遠に私を愛してくれると信じていた。結局永遠というのは、たった十年のことだったらしい。彼の誓いも約束も、告白したあの夜の波にさらわれて、とうの昔に海の底へ沈んでいたのだ。今彼はただ、裏切った誓いが自分のところへ返ってきただけだった。私は静かに言った。「景一、あなたはどう思う?あなたの嘘は、私が思っていたよりずっと上手だった。私なんて流石にかなうはずないね。水野があなたのことを全部話してくれたわ、本当に感謝してるよ。おかげで、決心がついたんだから」水野という名前を聞いた瞬間、景一の目に驚きの色がよぎった。「水野が?あいつ、よくもそんな真似を……君に何を言ったんだ?」その顔を見れば、すべてが分かった。景一は、玲奈と完全に手を切ってなどいなかったのだ。私の見えないところで、あの誓いをまた玲奈に囁いていたのかもしれない。幸いなことに、もう彼にこれっぽっちの期待も抱いていなかった。「静香、あれは水野が適当に言っただけだ。俺は何も言ってない!誓うから、これからは絶対に会わない。あいつを俺たちの前から完全に消してみせる!」私は表情ひとつ変えずに言った。「あなたたちのことは、私には関係ない」これ以上、彼の言葉を聞くつもりはなかった。この先も何かが関わることがあるなん
「もう、あなたを愛してない」と私は静かに言った。景一は信じられないという顔で、私の肩をつかんだ。「そんなはずない!静香、意地になってるだけだろ。君が本気で俺を手放せるわけがない!」私はその手を振りほどいた。これ以上、彼と関わるつもりはない。この馬鹿げた離婚訴訟さえ終われば、もう二度と顔を合わせることもないでしょう。そんなことを考えながら歩き出した瞬間、何の前触れもなく、目の前が暗くなった。「静香!静香、どうした!」目が覚めると、病院のベッドの上だった。景一は嬉しそうに私を見つめていた。「静香、これはきっと運命なんだ」意味が分からないまま、私は呆然と彼を見返した。景一は私の手を握り、優しく言った。「離婚なんてしないさ。だって君は、俺たちの子供を身ごもってるんだから」その言葉を聞いた瞬間、全身が凍りついたようになって、指一本動かせなかった。ここ二ヶ月食欲がなかった、離婚のことで心身ともに疲れ切って、体調が悪いせいかと思っていた。まさか、妊娠しているなんて、考えもしなかった。「静香、もう喧嘩はやめよう。子供ができた以上、これまでのことは水に流して、俺が君と子供をちゃんと守っていくから」頭の中が真っ白になり、考えがまとまらなかった。タイミングが悪すぎる。私たちの関わりは、ここで終わるはずだったのに。どうして私にこんな意地悪な運命を突きつけるの?お腹の中のこの子は、この世に生まれたがっているかのようだ。体の中で分泌されるホルモンのせいなのか、心まで少しずつ揺らいでいく。脳裏に「この子を産もうか」という思いがよぎってしまう。だめだ、絶対にだめ。この子は、こんな時に生まれてきちゃいけない。心の中で、迷いが始まった。澄が迎えに来たとき、景一に病室の前で止められた。「霧島、どういうつもりだ。なんで静香を帰さない!彼女は今妊娠中なんだ。家族として、俺にはちゃんと面倒を見る責任がある」澄は遠くから私を見つめ、返事を待っていた。「澄、先に帰ってて。私のことは、自分でなんとかするから」私がそう言うと、景一の目元がふっと緩んだ。「静香、きっと分かってくれると思ってたよ」彼の顔に喜びが広がり、目まで嬉しそうだった。私はただ、自分の手を引っ込めて、それ
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