私は、まだ三ヶ月にも満たない命を、自らの手で終わらせた。 けれど、婚約者はそのことを何も知らない。 彼は今、忘れられない初恋の女性と情熱を再燃させている真っ最中だった。 「彼女に帰ってきたって感じさせたいんだ」 そう言って、私たちの寝室だった主寝室を、何のためらいもなく彼女に明け渡した。 さらには—— 本来、私と彼の婚約披露宴として準備していた席を、彼女の歓迎パーティーに変えてしまった。 招かれた親戚や知人たちの前で、私はただの笑い者になった。 私は静かに婚約ドレスの裾を切り落とし、そして、見合い相手との結婚を受け入れた。
View More頭の中を、まるで走馬灯のように、凌翔との十五年分の記憶が駆け巡っていた。楽しかったことも、苦しかったことも——すべてが私の中に残っていた。気づけば、ぽろりと涙がこぼれ落ちていた。そうだよね、十五年も、彼しか見てこなかったんだもの。でも——私は決めたんだ。過去の自分と、ちゃんと決別すると。この日を境に、新しい人生を始めるの。ずっと凌翔の周りをぐるぐる回っていた朝見紗月は、もう今日で終わり。メイクをしていた化粧師が、私の涙に気づいて心配そうに声をかけてきた。私はハッとして、そっと涙を拭いながら微笑んだ。「大丈夫です。ちょっと、今日が夢みたいで」その時、ちょうど姉が部屋に入ってきた。でも姉は何も言わなかった。もう分かっているのだろう。もし私が凌翔と結ばれていたら、これからも理不尽な涙を何度も流していたはずだと。だから姉は、静かに笑ってこう言った。「うちの紗月、本当に綺麗だよ」メイクが終わり、私は手を引かれて結婚式のバージンロードを歩いた。こんな光景、昔はドラマの中でしか見たことがなかった。まさか、こんなに盛大な結婚式が、自分に訪れるなんて思ってもみなかった。式は滞りなく進み、慶介も常に私を気遣ってくれた。彼の優しさが、会場中をふわりと包んでいた。まるでドラマのような式場には、たくさんの人が訪れ、写真や動画が次々にSNSにアップされていた。私のスマホにも、見知らぬ人たちから「羨ましい」「素敵すぎる」などのメッセージが流れ込んでいた。結婚式が終わり、私は慶介と静かな新婚生活を始めた。彼は毎朝、出勤前に私のために丁寧に朝食を作ってくれる。そんな何気ない日常が、まさに昔から夢見ていた幸せの形だった。けれど、その穏やかな日々は、長くは続かなかった。ある日、慶介が私を友人に紹介するため、一緒に家を出たときだった。マンションの前に——見覚えのある影が立っていた。凌翔。無視して通り過ぎようとした。でも彼は、明らかに私を待っていた。私の姿を見つけると、慌てて駆け寄ってくる。声が震えていた。「紗月、やっと、見つけた。帰ろう。俺と、一緒に」そう言って、手を取ろうとしてきた。私は一歩下がって、その手を避けた。隠しきれるはずもなかった。式の
怒りを力に変えた姉は、私のために次々とドレスを選び、気づけば十着以上のウェディングドレスを試着させられていた。そんな時、叔母からビデオ通話がかかってきた。「紗月、あんた……出ていく時、凌翔に何も言わずに出てきたの?」「さっき急に彼が、まるで取り乱したみたいに私のところへ来てさ。紗月の居場所を必死に聞いてきたの。ああ、やっぱり言ってないんだなって思って、結婚のことは口に出せなかったよ。私、凌翔があんなに慌てふためいてる姿、初めて見たかもしれない」凌翔が叔母にまで探りを入れてきたことは、少し意外だった。でも私は、淡々とした声で答えた。「叔母さん、彼がどうなろうと、もう私には関係ありません」私のあまりに淡々とした態度に、叔母も「そうか」と何かを察したようだった。そして、少し寂しそうに微笑みながらも、はっきりと言った。「そうだね。もう関係ない。紗月が幸せになってくれれば、それでいいよ」そのとき、叔母の視線が私の姿に止まる。ウェディングドレスを着た私を見て、少しだけ目を輝かせて言った。「ちょっと、紗月、ウェディングドレス姿見せてくれる?」私は姉にスマホを持ってもらって、くるりとその場で回ってみせた。「どう?綺麗?」「うん、紗月が一番綺麗だよ」私は笑って言った。「安心してね、叔母さん。私、幸せになるから。愛がなくたって、心は軽いものだよ」「うんうん、それでいいのよ。ただ、一つだけ残念なのは、結婚式に出られないことだね」「大丈夫、動画でちゃんと見せてあげるから」そう言って、しばらく姉と一緒に叔母とおしゃべりをしてから、通話を切った。だけど心の奥では、妙に疲れが押し寄せていた。私は昔、何度も何度も「結婚する日」を夢見てきた。その夢の相手は、いつだって凌翔だった。誰よりも幸せな花嫁になると、信じて疑わなかった。それが、今は別の人と電撃婚を迎えている。最終的に私は、シンプルなデザインのドレスを選んだ。ドレスとメイクの予約を終えた後、姉と一緒に実家へ戻る。その夜はなかなか眠れず、スマホを眺めていた。ふと、澪奈のSNSが目に入った。そこに投稿されていた動画には——凌翔と澪奈が、海辺で肩を寄せ合いながら、夕焼けを眺めている姿が映っていた。投稿された時間を見て、私
空港のトイレに入った私は、ポーチを取り出し、手早く化粧を直した。鏡に映る自分は、疲れ切った顔をしていたけれど、ちゃんと整えればまだ平気だった。身なりを整えて外へ出ると、すぐに姉が私を見つけて、嬉しそうに駆け寄ってきた。「紗月!」そのまま、ぎゅっと私を抱きしめてくれる。懐かしい匂いに包まれて——ふと、胸が締めつけられるような気持ちになった。両親が事故で亡くなったあの頃、姉はまだ大学生で、私を引き取る余裕がなかった。だから私は、神原家に預けられることになった。姉が卒業して仕事が安定した頃、「一緒に暮らそう」と言ってくれた。でも、私は、その時すでに凌翔に恋をしていた。もし家を出たら、きっと彼とはもう二度と会えなくなる。そう思って、私は姉の申し出を断った。今思えば、本当に馬鹿だった。あんな、自分をズタズタに傷つける男のために、自分を目いっぱい大切にしてくれた人たちを拒むなんて。私は姉の頬を両手で包み、「ちゅっ」と音を立ててキスをした。その拍子に、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。「うわぁ、うちの紗月、どうしたのよ〜?」姉はまるで子どもをあやすように、笑いながら私の背中を撫でた。そのやさしさに、私は堪えきれず、声を上げて泣いてしまった。姉は目を真っ赤にして、慌ててもう一度抱きしめてくれた。「紗月、もし結婚したくないなら、今からでも桐沢家に断るからね。大丈夫、全部私に任せて」私は姉の胸の中で、力強く首を横に振った。それから顔を上げ、涙交じりに笑った。「大丈夫だよ。ただ、久しぶりに姉に会えて嬉しかっただけ。幸せの涙、ってやつ」姉は私の言葉に吹き出しながら、ホッとした表情を浮かべた。「もう、びっくりさせないでよ〜」それから、声を潜めるようにして言った。「今回のお見合い相手、絶対気に入ると思うよ。肩幅広いし、脚長いし、性格も良くて、あんたが前に好きだったアイドルグループの人たちにも負けてないかも」私はちょっと驚いたふりをして返した。「えっ、ほんと?それならちょっと楽しみかも」私の家には、「二十五歳までに結婚する」っていう、古くからの決まりのようなものがある。両親が亡くなる前も、そのことをずっと気にしていた。私は凌翔のせいで、長い間その話を引き延ばしてきた。姉は
スマホの画面を見ると——着信は凌翔からだった。しつこく鳴り続ける呼び出し音に、私は苛立ち、電源を切ってしまう。そしてアイマスクを着け、シートにもたれた。その夜、私はとても深く眠った。夢を見た。それは、甘くて、優しい夢。その世界には、最初から最後まで澪奈は存在しなかった。私は凌翔と、世間が想像していた通りに結ばれ、結婚していた。夢の中の私たちは、双子の赤ちゃんに恵まれ——彼は私をお姫様のように大切にしてくれて、よく一緒に海を見に行っていた。家族四人で過ごす日々は、本当に幸せそのものだった。目が覚めたとき——私はその夢があまりに幸せすぎて、知らず知らずに涙を流していた。なかなかに堪えた。私はしばらく、窓の外に広がる青空と白い雲を、ぼんやりと眺めていた。喉の奥がつまるように痛くて、今まで押し殺していた感情が、ついにあふれ出した。私だってそんなに悪くなかったはずなのに。なんで、あんな扱いされなきゃいけなかったの。言葉にすることもできず、私は腕に顔をうずめて、声を殺して泣いた。隣の座席のおばさんが、事情は分からないながらも、そっとティッシュを差し出してくれた。「ありがとうございます」私は小さくお礼を言い、窓に額を預けるようにして目を閉じた。心を静めようと、深く息を吸う。もしかしたら、さっきの夢こそが、もうひとつの世界にいる「朝見紗月」の幸せな人生だったのかもしれない。でも、私は今ここにいる。だから、前を向かなきゃ。飛行機が着陸し、スマホの電源を入れると——凌翔からの着信履歴と、99件を超えるメッセージ通知が画面にずらりと並んでいた。赤く染まった通知画面を見て、思わず苦笑が漏れた。今さらそんなに、私を気にしてくれるなんて。皮肉だね。私が本当に彼のもとを去った今になって、初めてそんな行動に出るなんて。私は適当にスクロールして、二三のメッセージを開いてみた。一番下に、中絶診断書の写真が添付されていた。どうやら、見たんだね。本当は、少し気になっていた。彼はそれを見て、どんな反応をしたんだろう。怒った?それとも、ホッとした?たぶん、後者だろう。「これで、もう妊娠を理由に結婚を迫られることはない」と、きっと安心したはずだ。これで思いきり澪奈と
私は首を横に振り、小さな声で答えた。「大丈夫」もうすぐここを離れるのだから、彼に知られる必要はない。凌翔はようやく肩の力を抜いて、どこか申し訳なさそうに言った。「紗月、ごめん。本当に知らなかったんだ。君がマンゴーアレルギーだなんて」知ってたでしょう。以前は、私の好みも体調も、何ひとつ忘れずにいてくれた。ただ、今はもう——忘れたフリをしているだけ。私は目を閉じ、何も答えなかった。彼はしばらく病室にいたが、すぐに澪奈から呼び出されて、帰っていった。私は点滴が終わったあと、自分で退院して帰宅した。いよいよ、最後の日。私は静かに荷物の整理を始めた。クローゼットを開けると、そこには赤ちゃんのために少しずつ準備してきた服がきれいに並んでいた。でも、もうその子はいない。私はそれらすべてをダンボールに詰めた。自分の服も、そして——毎年誕生日になるたび、凌翔がくれたプレゼントも。昔の私は、それを宝物のように大切にしていた。でも今は——一切の迷いもなく、それらすべてをマンションのゴミ置き場に捨てた。午後になって、凌翔が帰ってきた。部屋を見渡し、驚いたように声を上げる。「なんか、部屋、ずいぶん空っぽになってないか?赤ちゃんの服とか、どこにやった?あれ、俺があげたプレゼントも、全部ない?」私は水を飲んでいた手を止め、平然と嘘をついた。「湿気が多くて、カビが出たから、全部捨てた」彼は顔をしかめ、少し苛立ちを滲ませた声で言った。「俺のプレゼントまで?あれ、ずっと大事にしてたよな?」最初の数年はね。彼が丁寧に選んでくれたから、私も心から喜んでいた。でも、澪奈が戻ってきてからは、彼女がいらなくなったものをついでに渡されるだけだった。私はそっけなく「うん」とだけ返した。彼は慌ててゴミ置き場に向かったが、すでに収集が終わっていた。「十年以上集めたものなのに、何も言わずに捨てるなんて……」モノには執着するんだ。なら、私の流産のことや、他の男との結婚話を知ったら、どんな顔をするのかしら?私は黙ったままだった。彼はしばらく沈黙し、ふとため息をついた。そして私の背後から、そっと抱きしめてきた。「さっきは言い過ぎた。ごめん。全部捨ててもいいよ。また新しいの、買え
凌翔は、どこか探るような口調で言った。「紗月、誤解しないでくれよ。ただ……澪奈に誕生日プレゼントを用意できてなくて。あとで君にはもっといいものを買ってあげるから」「うん、分かってる。再利用ってやつでしょ」どうせ、私はもうすぐ別の人と結婚する身。この指輪を持っていたところで、不快なだけだ。凌翔は安堵の息をついた。それから改まった声で訊いてきた。「辞表、見たよ。急に辞めるなんて、どうしたんだ?」つまり、ずっと前から知っていたのに、今まで無視していただけだった。私は淡々と答えた。「疲れたの。少し休みたいだけ」彼はすぐに納得したように頷き、こう続けた。「それならちょうどいいじゃん。仕事辞めたなら、家でゆっくり安静にして、赤ちゃんのためにも身体を大事にしてよ。俺がちゃんと養うからさ。あとで一緒にご飯食べよう」思わず、もう何もいない下腹部に手を当てて——「うん」と答えてしまった。荷物をまとめ、タクシーで家へ戻る。料理なんてしないはずの凌翔が、ダイニングテーブルいっぱいに料理を並べていた。ちらりと見れば、全部辛い料理。私、胃炎持ちで、辛いものは一切食べられないのに。つまり、これも私のためじゃないってこと。凌翔は気づいてもいない様子で言った。「今日、澪奈の誕生日なんだ。外のごはんが苦手だって言うから、俺が作ってみたんだ。一緒に食べよう」「私、こういうの食べられないから。ふたりで食べて」背を向けて部屋へ戻ろうとしたその時——澪奈が、わざとらしく潤んだ瞳で口を開いた。「凌翔さん、紗月さん、私のこと歓迎してないのかな。だったら、私、帰るね……」凌翔の顔が一気に険しくなる。「紗月、いい加減にしてくれないか?ちゃんと説明したよな?澪奈の誕生日だからって。それを俺が手作りでごはん用意して、一緒に食べようって言ってるだけなのに。お前のその態度は何なんだよ」私は真っすぐに彼の目を見て、冷静に返した。「私、怒ってないよ。胃が悪いだけ」あんたのために、無理して酒を飲んで営業回ったあの頃の後遺症だけどね。でも、それを口にする気力すらなかった。納得してくれると思ったのに、彼はさらに不機嫌になって、ケーキの一切れを手に取った。「辛いのがダメなら、甘いのはいけるだろ?」私
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