Masuk「ごめんね、急に席外しちゃって」
そう言いながらリビングに戻った。 けれど、湊さんの顔をまっすぐ見ることができなかった。 目が合ったら、何かを悟られてしまいそうで。 いや、もうとっくに気づかれているのかもしれない。 それでも、見なければなかったことにできる気がした。 手に残るスマートフォンのぬくもりが、さっきの通話が現実だったことを、静かに証明していた。 「いいけど……大丈夫? なんか顔色……」 湊さんの声は、いつもと変わらずやさしかった。 私の中の何かが、ぎゅっと縮こまる。 心配してくれていると分かっているのに、その気持ちに応える余裕が、今の私にはなかった。 私は笑うふりをして、首を小さく振った。 笑顔の形だけを口元に貼りつけて、なんとかやり過ごそうとした。 「もちろん、全然だよ。大した用事じゃ、」 言いかけて、言葉が喉の奥でつかえた。<「そんな事ないよ」 必死に否定したけれど、声は震えていた。自分でも隠しきれていないのが分かる。 怖いと認めたくない一心で口にした言葉だったが、湊さんの視線は優しくも鋭く、私の心の奥を見透かしているようで落ち着かない。 「ほんとかなぁ」 軽く笑うような声に、胸がざわめいた。からかわれていると分かっていても、図星だから余計に恥ずかしい。 頬が熱くなり、視線を逸らす。彼の余裕ある態度が、私の必死さを際立たせる。 「全然怖くない」 強がりを込めて言った。けれど、声は震え、顔は引きつっていた。 「じゃあ、離れてても見れる?」 試すような問いかけに、心臓がさらに速くなる。湊さんは私の気持ちを分かっていて、わざとそう言ってるんだ。 「…意地悪ばっかり」 そう呟きながら、私は湊さんの腕をそっと離した。指先に残る彼の温もりが消えていく瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられる。 「え?」 湊さんが少し驚いたようにこちらを見た。 私の反応が予想外だったのだろう。彼にとっては、ほんの軽い冗談、ちょっとした意地悪のつもりだったのかもしれない。けれど、私にとってはその一言が胸に突き刺さる。 気づかないフリをしてくれたっていいじゃない。 彼が優しく笑って流してくれれば、私はまだ強がりを続けられたのに。私の必死さはもう隠せない。 「湊さんの言う通りだよ。私、怖いの見れないの。でも子供だと思われたくなくて、必死に我慢してた」 必死に強がっていたのに、結局は耐えきれずに認めてしまった。 「彩花」 名前を呼ばれると、心臓が跳ねた。優しい響きなのに、逃げたくなる。 「もういいです」
「なんだか、寒くない?」怖いと言えない私は、寒いと誤魔化すように口にした。実際、部屋の空気は少しひんやりしている気もしたけれど、それ以上に心臓が早鐘を打つように速くなり、体が震えていた。「そう?暖房つけようか?」湊さんの優しい声に胸が温かくなる。私の言葉をそのまま受け止めてくれていることが嬉しい。けれど、暖房をつけてもこの震えは止まらない。怖さを隠すためについた嘘が、彼を動かそうとしていることに罪悪感を覚える。「そ、そうじゃなくて、その…」声が震え、言葉が詰まる。唇を噛みながら勇気を振り絞った。私はそっと彼の腕に手を回し、抱きしめた。体温がじんわり伝わってきて、胸の奥が少し落ち着く。「こうして見ちゃだめ、ですか?」声は小さく震えていた。彼の腕に寄り添いながら、心臓の鼓動が耳に響くほど速くなる。「いいけど…あ、怖い?」湊さんの問いかけに胸が跳ねた。図星を突かれ、心臓がさらに速くなる。「違う!寒いから!決して怖いとかじゃない」声が少し大きくなってしまった。必死に否定することで、逆に怖さが伝わってしまった気がする。「怖いなら正直に言っていいのに。見るのやめとく?」湊さんは私が必死に隠している気持ちを、もう全部分かってしまっているんだ。「大丈夫。最後まで見る」声は震えていたけれど、強く言い切った。怖さを隠してでも、湊さんと一緒にいる時間を守りたいと思った。「そう。そこまで言うなら」湊さんの言葉に胸が少し安心した。けれど、その安堵は長く続かなかった。映像はより刺激的になり、暗闇の中から突然現れる影や不気味な音が、心臓を締め付けるように迫ってくる。「ひっ…いやぁ。想像以上に迫力あるなぁ」思わず声が漏れた。自分でも情けないと思うほど、反射的に声が震えてしまう。画面
ソファーに腰を下ろすと、ふわりと沈む感覚と同時に、湊さんの隣にいる安心感が広がった。 静かな部屋に二人きり、時計の音だけが響いていて、時間がゆっくり流れていくように感じられた。 「何する?映画でも観る?」 沈黙を破るように、湊さんが口を開いた。その声は穏やかで、私の心を少し軽くしてくれる。 「うん」 湊さんの横顔を見つめながら、私は小さく頷いた。 「どんな映画が好き」 湊さんの問いかけに、胸が少し緊張した。好きな映画を答えればいいだけなのに、なぜか心臓が速くなる。 少し考えるふりをしたけれど、答えはもう決まっていた。 「湊さんと見れるなら、何でもいい」 その言葉を口にした瞬間、顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしいくらいに素直な本音だった。 湊さんと一緒なら、映画のジャンルなんて関係ない。そんなことを言う自分が少し子供っぽく思えて、視線を逸らした。 ソファーの端を指でつまみながら、心臓の鼓動を落ち着けようとした。 「そんな可愛いこと言って。それじゃあ俺が好きな映画観る?」 湊さんの声は少し笑みを含んでいて、私の胸をさらに熱くさせた。 可愛いと言われたことが恥ずかしくて、頬が赤くなる。けれど、同時に嬉しくて、心臓が跳ねるように高鳴った。 「ぜひ」 私は笑顔を作りながら答えた。 声は少し高くなってしまい、緊張が隠せなかった。けれど、湊さんの好きなものを一緒に楽しめることが嬉しい。 彼の指がリモコンを操作する音が、静かな部屋に響いた。ソファーのクッションを抱きしめるようにして、彼の動作を見守った。 「これなんだけど…」 画面に映し
「うん。会議が長引いて疲れただけだよ。心配かけてごめんね」 その言葉は優しい響きを持っていたけれど、どこか表面的に感じられた。 心配をかけまいとするその態度が、逆に本当のことを話してくれていないのではと疑念を呼び起こす。 私は信じたい。彼が言う「疲れただけ」という言葉をそのまま受け止めたい。けれど、目の奥に沈む影がどうしても気になってしまう。 「それじゃあ、早く寝た方がいいね」 私はそう言いながら、心の奥で複雑な感情が渦巻いていた。 「そうしようかな」 湊さんの返事は穏やかで、疲れを隠しきれない響きを含んでいた。 …まだ1時間しか一緒にいられてないのに。 彼の疲れを理解しているからこそ強くは言えないけれど、心の奥ではもっと一緒にいたいという気持ちが膨らんでいく。 なんて、だめだめ。寂しさを押し付けるなんて、子供じゃないんだから。迷惑なんてかけられない。 「彩花?」 湊さんが私の名前を呼んだ瞬間、心臓が跳ねた。 彼が私の気持ちに気づいているのかもしれないと思うと、隠していた寂しさが一気に表面に浮かび上がる。 「ん?」 返事をしながら、声が少し震えていた。 「どうしてそんな悲しそうな顔するの」 なるべく表情に出さずに過ごしてきたはずなのに。なのに、彼には見抜かれてしまう。 隠していたつもりの寂しさが、湊さんにははっきりと伝わっていたんだ。 「そんなことないよ」 必死に誤魔化そうとした。けれど、声は弱々しく、説得力を欠いていた。 心の奥では寂しいと認めてしまっているのに、口では否定する。
「え?この服湊さんが買ってくれたんだよ。あんまり外に行かないから大丈夫だって言ったんだけど、それなら家で着たらいいって…」 「そうだったっけ」 短い返事。声は落ち着いているけれど、どこか上の空に聞こえる。 「もー。そうだよ。沢山買ったから忘れちゃった?」 冗談めかして笑いながら言ったけれど、心の中では少し寂しさを感じていた。 湊さんが覚えていないこと自体は仕方ない。人は誰だって忘れるし、湊さんは毎日忙しいのだから当然だ。 でも、私にとっては大切な思い出だった。 「そうかも…あの、さ」 湊さんの声が急に真剣な響きを帯びる。私は胸がきゅっと縮むのを感じた。 「ん?」 首を傾げながら問い返す。心臓の鼓動が速くなる。 「彩花は、俺の事、好き?」 突然の問いに、思考が一瞬止まった。 いつもなら、軽い冗談みたいに笑いながら聞いてくるのに。 今日の湊さんは違った。 ほんの気まぐれで確かめたいだけじゃなくて、本気で答えを求めているように見えた。 瞳の奥が真剣で、逃げ場のない視線に胸が締め付けられる。 「当たり前でしょ?どうしてそんなこと聞くの?」 私は少し強めに言ってしまった。湊さんの問いかけがあまりにも唐突で、胸の奥に不安が広がったから。 好きかどうかなんて、答えるまでもないことなのに。 「何となく。…今日のご飯も美味しいね。俺の好物ばっかりだし」 湊さんは少し笑みを浮かべながら言ったけれど、その笑みはどこか弱々しい。 「好きな物を作ったら、喜んでくれると思って」 私は少し照れながら言った。
あの日から、心が少し楽になった。 お義母様の影に怯えていた日々から、ほんの少し解放されたようだった。 まだ不安は完全には消えていないけれど、以前のように押し潰されそうになることはなくなった。 「湊さん!おかえりなさい!」 玄関の扉が開いた瞬間、思わず声が弾んだ。 「ただいま」 短い返事なのに、湊さんの声には安心感があった。 「お仕事お疲れ様」 湊さんの顔色を見て、思わず労いの言葉が出た。 眉間に寄せられた皺、少し重たい足取り。相当疲れているのだろうと胸が痛む。 「ありがとう」 その声は確かに私の胸に届いたけれど、どこかいつもよりテンションが低いように感じられた。 普段なら玄関に入った瞬間、すぐに抱きしめてくれるのに、今日はただ立ち尽くしている。 「会いたかった」 その不安を打ち消すように、思わず本音がこぼれた。 「…俺も」 少し間を置いて返されたその言葉に、どこか違和感を感じた。 湊さんの声は落ち着いていたが、ほんのわずかに沈んでいるように感じられた。 「湊さん?」 私は思わず問いかけた。 玄関に立つ彼の姿が、いつもの湊さんとはあまりにも違って見えたからだ。 普段なら軽やかな笑みを浮かべて、私を安心させるように抱きしめてくれるのに、今日はその気配がない。 目の奥には疲労の影が濃く、肩は少し落ちていて、まるで重たい荷物を背負っているようだった。 彼の沈黙が長く続けば続くほど、胸の奥に広がる不安は大きくなる。 「ごめん。ちょっと疲れちゃって、お風呂入ってくる
「冷めないうちにどうぞ」湊さんの声は、どこか誇らしげで、でも照れくさそうだった。朝食を作ってくれたことも、こうして勧めてくれることも、全部が新鮮で、どこか不思議で。でも、嬉しかった。「い、いただきます」少しだけ声が震えた。緊張していたわけじゃない。ただ、感情が溢れそうで、言葉にするのが難しかった。目の前のパンは、見慣れた形なのに、湊さんが焼いたというだけで、まるで別物に見えた。私はそっと
謝ってすむ問題じゃない。そんなこと、分かってる。謝罪の言葉が、どれほど無力かなんて、もう何度も思い知らされてきた。それでも、心の奥から湧き上がる「ごめんなさい」は、止められなかった。まるで、それだけが私を人間として保ってくれる最後の糸のようで。それが、どれほど情けなくて、どれほど苦しいか。分かっているのに、言わずにはいられなかった。何か他にできることがあれば、どんなことでもしたかった。記憶を戻す薬があるなら、命
「え、そんなに驚くこと?キスの一つや二つぐらい、もうとっくの昔にしてるでしょ?」 その言葉があまりにも軽くて、あまりにも自然で、私は一瞬、現実感を失った。 キスの一つや二つなんて、まるで当たり前のように言うけれど、私たちの間にはそんなもの、これまで一度もなかった。 湊さんは、私に触れることすら避けていた。 視線すら合わせてくれなかった。 「し、してる訳ないじゃないですか!」 反射的に声を荒げてしまった。 湊さんの顔を直視できないほど、動揺していた。 顔を
「湊さんは…私と夫婦だって知って、その…嬉しいですか…?」 その言葉を口にした瞬間、私は自分の愚かさを痛感した。 すぐに後悔した。 こんなこと聞かなければよかったって。 人は記憶を失っても、根っこの性格は変わらない。 記憶喪失という偶然が、彼の言葉を少し変えただけ。 心の奥底にあるものは、きっと何も変わっていない。 それなのに… 「すごく嬉しいよ?」 その言葉が、あまりにも予想外すぎて、私は一瞬呼吸を忘れた。 夫婦だっ







