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Novels by Hayama

捨てられた私が、契約結婚で冷徹な彼に愛されるようになるまで

捨てられた私が、契約結婚で冷徹な彼に愛されるようになるまで

婚約破棄され居場所を失った私は、冷徹と噂される彼との契約結婚を選んだ。 愛はなく、互いの利害だけで結ばれたはずの関係。 そうして始まったはずの生活だった。 彼の冷たい視線、無関心な態度に心を閉ざしながらも、ふとした瞬間に見せる優しさに、どうしても胸が高鳴ってしまう。 近づけば傷つくと分かっているのに、彼の言葉に救われ、彼の仕草に惹かれていく。 これはただの契約なのか、それとも本物の愛なのか──。 偽りから始まった関係が、やがて甘く危険な恋へと変わっていく。
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Chapter: 第187話
「教えて。どうして亮介なんかに借金を作ってしまったのか」 私が真実をすべて受け止める覚悟を示すように問いかけると、母はテーブルの上でギュッと両手を握りしめた。そして、過去の記憶をポツリポツリと語り始めた。 「あの時、亮介くんに裏でこっそり呼び出されて言われたのよ。『ひよりは、僕たちの家系に見合う人間ではない』って……」 見合う人間ではない? 私を都合のいい家政婦として無給でこき使っておきながら、裏で私の母を呼び出し、そんな屈辱的な言葉を投げつけていたというのか。 私の怒りは頂点に達し、嫌悪感が込み上げてきた。 「私の知らないところで、お母さんにそんな酷いことを言っていたの?」 母は悲しげに視線を伏せ、力なく首を縦に振った。母がどれほど惨めな思いでその言葉を聞いたか想像するだけで、胸が張り裂けそうになる。 「彼はこう言ったわ。『僕はひよりちゃんと結婚したいけれど、親が猛反対している。もっと釣り合いの取れる令嬢と結婚しろとうるさいんです』って」 母の口から語られた亮介の言葉は、どこまでも白々しいものだった。 「両親に反対されてるなんて話、私には一度もしなかったのに」 私が怒りに顔を歪めると、母はひどく掠れた声で弁解した。 「最初は、亮介くんもひよりを悲しませまいと気遣って、親である私にだけこっそり相談してくれたのだと思い込んでいたの」 亮介の本性を知る前、私も同じように操られていた。「君のためだ」「君を悲しませたくないから」なんて甘く優しい言葉でコーティングしながら、それは結局、すべて彼自身の都合を押し通すための身勝手な言い訳に過ぎなかった。 それなのに私は……彼のその底の浅い嘘に騙され、愛されていると錯覚し続けていた。 「それで……ご両親を説得するための条件として、彼から提示されたのがお金の話だったのよ」 「お金……?いくらだったの」 私が低く尋ねると、母は震える唇からその途方もない金額をこぼした。 「彼は平然とした顔で一億だと言ったわ」 私は怒りを通り越して呆れ果て、鼻で短く笑って吐き捨てるように言った。 「馬鹿みたい。そんな大金があるわけないことくらい、あの人だって最初から分かっていたくせに」 「私が払えないと泣いて謝ると、彼が『僕が肩代わりして手配するから大丈夫だ』と言い出したのよ」 一億円なんて、普通の家庭で暮ら
Last Updated: 2026-10-31
Chapter: 第186話
「智哉さんとどうやって知り合ったか、詳しいことは話せない。でも、これだけは信じて。私は心からあの人を愛してるの」母はそれ以上出会いのきっかけについて深く追及することはなかった。代わりに、張り詰めていた母の肩からふっと力が抜け、その瞳にようやく柔らかい光が宿り始めた。「それなら、智哉さんのどんなところに惹かれたの? 私が知る限り、彼はとても冷徹で情を持たない恐ろしい方だと……」「それは…」どうしてそんな質問をするのだろう。単に母親として気になったのか、あるいはまだ疑われて……。「あ、疑っているわけじゃないのよ。ただ、母親として純粋に気になってしまって」智哉さんのどこが好きか。そんなの、数え上げればキリがない。不器用な優しさ、誰よりも重い責任を背負って立つその背中、たまに見せる意地悪な笑顔。私は自然と口角が緩んでしまうのを抑えきれないまま、母に彼の本質を言葉にした。「あの人は、世間が噂するような恐ろしい人なんかじゃない。私が一番辛かった時に、私の意志を尊重して、私に本当の愛情を与えてくれた人なの」ゴシップ誌で語られる彼は、冷徹な合理主義者であり、情を挟まずに敵を切り捨てる氷の御曹司だ。だからこそ母も、彼がただの金と権力で娘を支配しているのではないかと恐れていたのだろう。まぁ、情を挟まない合理主義者というのは、あながち間違いではないけれど。「本当の愛情……?」母の問いかけに、私は深く頷いた。かつての私を都合のいい家政婦として扱い、私の心や自尊心を少しずつ削り取っていった亮介との生活。あれは決して愛などではなく、ただの支配だった。けれど、智哉さんは違う。彼は私に婚約者としての役割を求めながらも、私が傷つかないように、でも自分の足で立てるよういつも一番近くで静かに見守ってくれている。「どんなに私がみっともない姿を見せても、理不尽に噛み付いても、決して見捨てずに私を守ってくれた」私がそう語ると、母は亮介の影を思い起こしたようだった。
Last Updated: 2026-10-30
Chapter: 第185話
「……だ、誰から聞いたわけじゃないわ。ただ、私が色々と考えて、想像しただけで……」 私の追及から逃れるように、母は視線を不自然に泳がせた。 テーブルの上で組まれた母の指先が、落ち着きなくギュッと白くなるほど握りしめられている。 「もしかして……茶髪で背の高い、チャラついた雰囲気の男?」 私がその特徴を口にした瞬間、母の肩が大きく跳ねた。その分かりやすすぎる反応が、私の推測が的を射ていたことを証明していた。 「あの人と知り合いな…あっ……」 母は慌てて自分の口を両手で塞いだ。けれど、一度こぼれ落ちた真実はもう隠せない。 「やっぱり。まさかあの人、うちの借金のことまで話してきたの?」 もし、彼が私たちの抱えていた多額の借金の事実や、それを智哉さんが肩代わりしたという詳細まで把握しているのだとしたら。 焦燥感に駆られ、私はすがるような眼差しで母の次の言葉を待った。 「ち、違うの。あの人から直接、借金のことについて言われたわけじゃないわ。ただ、その……」 その言葉に、私は張り詰めていた息をわずかに吐き出し、胸の奥で安堵の息を漏らした。 どうやら、借金の全貌を掴んでいるわけではなく、カマをかけるために母に接触してきたようだ。 でも、だからといって安心できない。母が少しでも隙を見せたり、不用意な発言をしていれば、それを言質として利用されてしまう危険性があるから。 「隠さないでちゃんと言って。その男に、どこで何を言われたの?」 「近所のスーパーで野菜を選んでいる時に、急に横から話しかけてきてね。『娘さん、可哀想ですね』って」 私の身辺を調べるだけでなく、母の生活圏まで尾行し、彼女が一人になるタイミングを見計らって接触してきた。同情を装ったそ
Last Updated: 2026-10-29
Chapter: 第184話
待ち合わせに指定されたのは、昔よく足を運んでいた、少し古びた静かな喫茶店だった。 カランとドアベルを鳴らして店に入ると、窓際の席に座る母の姿がすぐに目に入った。 久しぶりに顔を合わせた母は、私が記憶しているよりも少しだけ肩が小さく、白髪も増えたように見えた。 「お母さん、久しぶり」 そう言い向かいの席に腰を下ろすと、母はテーブルの上で両手をぎゅっと握り合わせ、私の顔をすがるように見つめてきた。 「久しぶり、元気だった?」 どこか遠慮がちな、それでいてひどく心配そうな声で口を開いた母の瞳は、微かに潤んでいる。 「うん。お母さんも元気にしてた? なかなか会えなくて、ごめんね」 智哉さんの婚約者としての振る舞いや、あの華やかな世界に適応するのに必死で、母を気遣う余裕が全くなかった。 「謝らないで。……私は、元気だったわよ」 私の謝罪を聞いた母は、慌てたように首を横に振って微笑み返してくれた。 「そっか……。それならよかった」 「……あの家で、苦労しているんでしょ。ねぇ、ひより。今からでも戻っておいで」 沈黙を破った母の口から飛び出したのは、私を連れ戻そうとする切実な懇願だった。身を乗り出し、私の手を両手で包み込むように握りしめてきた母の指先は、小刻みに震えていた。 「お母さんの気持ちは嬉しいけど、私は戻らないよ。あの家で、智哉さんの隣で生きていくって決めたから」正確に言えば、彼と契約を結んでいる期間だけは、だけど。 「彼が借金を肩代わりしてくれたから?それなら、これから親子二人で慎ましく暮らして、借金はどうにかして私が返していくから……」 私は母の手を振り払うのではなく、優しく包み込むようにして握り返した。 「違うよお母さん。私が智哉さんを好きなのは、お金を出してくれたからなんかじゃな
Last Updated: 2026-10-28
Chapter: 第183話
「初めてお会いした時は、智哉さんのことを恐ろしい人だと決めつけていました。でも、実際にこうしてそばで接していくうちに、冷たい言葉の裏に隠された温かくて不器用な優しさを知って……」 そこまで言いかけて、私は一度言葉を切った。 これ以上一気に言葉を紡げば、必死に抑え込んでいる本心が、すべて溢れ出してしまいそうだった。 「一人の人間として、尊敬の意味を込めて好きだと思っているのは本当のことですから」 「人間として好き、か。俺の性格を身をもって知っておきながらそう言い切るとは、お前も随分と物好きな変人だな」 彼特有の皮肉めいた言い回しに、私は張り詰めていた緊張が少しだけ解けていく。 「そんなことないですよ。私はただ、智哉さんを正しく理解しただけです」 私のささやかな反論を聞いた智哉さんは、低く喉を鳴らしてククッと笑い目を細めた。 「それにしても、短い期間で驚くほどの変わりようだな」 私自身としては、彼に対する印象が大きく変わったことは自覚しているものの、自分の態度がそこまで劇的に変化したつもりはなかった。 むしろ、彼に迷惑をかけまいと必死に完璧な婚約者を演じようと空回りしている現状を思うと、根本的な不器用さは何も変わっていないのではないかと思ってしまう。 「そうですか……?」 私が不思議そうに聞き返すと、智哉さんは呆れたように短く息を吐き出した。 「あぁ。出会って間もない頃のお前は、常に俺に反発して、隙あらば噛みついてきそうな目をしていたからな」 噛みついてきそうな目というあんまりな表現に、私は思わず目を見開いた。 確かに、最初は彼の冷酷な態度に腹を立てることも多かったけれど、いくらなんでもそこまで野犬のように反抗的だっただろうか。 私は慌てて両手を振り、過去の自分の無礼を取り繕うようにして必死に否定の言葉を口にした。 「まさか! 私が智哉さんに反発だなんて、そんな恐れ多いこと……」 「よく言う。俺のことを疑って、
Last Updated: 2026-10-27
Chapter: 第182話
智哉さんはヘッドボードに背を預け、どこか面白がるような笑みを唇に浮かべた。 「俺以外誰も目に入らない、と」 顔はもちろんのこと、耳の先から首筋までが真っ赤に染まっていく。あの時は諦めてもらうために、周りの目も気にせず無我夢中で言い放ったけれど、本人の口から反復されると心臓が破裂しそうになる。 「そ、そこからなら…まぁ……」その前にこぼしてしまった切実で痛々しい本音さえ聞かれていないのであれば、まだギリギリこの羞恥心にも耐えられる。私がホッと密かに安堵の息を吐き出したのも束の間、智哉さんが、私のその微かな気の緩みを見逃すはずがなかった。智哉さんはさらに私を追い詰めるように、身体を少しだけ前へ傾けた。 「その前はどんな話をしたんだ」 智哉さんのその低い問いかけに、私はピタリと息を止める。 「えっと…それは……っ」 私は激しく動揺し、視線を泳がせながら必死に言葉を濁した。 「智哉さんに迷惑をかけないために自分の想いを隠している」だなんて、絶対に口が裂けても言えない。 「あいつがあそこまで感情を荒らげたのは珍しい。初めて……いや、これで2度目だな」 「わ、私はただ……朝倉さんに智哉さんとの仲を執拗に疑われたので、必死に誤魔化しただけです」 私の言葉を聞き、智哉さんはピクリと片側の眉を吊り上げた。 「お前も、随分と演技が上手くなったんだな」 私がどれほど情熱的に愛を叫ぼうとも、彼にとってそれは契約を守るためのお芝居に過ぎない。 都合の良い建前を望み、その後ろに隠れて自分の本心を誤魔化すことを選んだはずなのに、彼から直接そう言われると、どうしようもない悲しさが込み上げてくる。 朝倉さんに向けて放ったあの言葉に、嘘は混じっていなかった。 私はベ
Last Updated: 2026-10-26
私の事が大嫌いだったはずの旦那様が記憶喪失になってから、私を溺愛するようになったのですがこれは本当に現実ですか!?

私の事が大嫌いだったはずの旦那様が記憶喪失になってから、私を溺愛するようになったのですがこれは本当に現実ですか!?

かつて冷たく私を突き放していた旦那様が、記憶を失ってからというもの、まるで恋に落ちたかのように優しくなった。今では、私を誰よりも大切にしてくれて、どうやら私の事が好きすぎて仕方がないらしい。
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Chapter: 第228話
「『彩花ちゃんは預かった。無事に返して欲しければ、今すぐ俺の会社まで飛んでこい』…ってね」颯斗さんは悪戯っ子のように片目をつむってみせた。 ソファーに軽く腰を掛け長い脚を組むその姿は、誘拐犯という物騒な言葉とはひどく不釣り合いなほど優雅だった。 からかわれているのだと頭では理解しつつも、彼のあまりにも堂々とした物言いに、私は少しだけ戸惑いを隠せなかった。 「そんな誘拐犯みたいなセリフ……。もしかして、湊さんをここに呼び出すために私を連れてきたんですか?」 彼の表情には微塵の悪意もなく、純粋にこの状況を楽しんでいるような、余裕に満ちた柔らかな微笑みが浮かんでいた。 「ははっ、まさか。ただ、あいつがどんな顔をするか、ちょっとからかってみたかっただけだよ」 その悪気のないあっけらかんとした口調に、私は大きな安堵の溜め息をつくと同時に、ほんの少しだけ呆れたような視線を彼に向けた。 「湊さん、怒ってないといいんですけど……」 心底心配そうに眉を下げて呟く私を見て、彼は「殴られるかもしれないね」と事もなげに笑い飛ばした。 そして、ふいにその切れ長な目元から悪戯っぽい光を消し去り、スッと背筋を伸ばして声のトーンを一段階落とした。 場の空気が、弛緩した日常のそれから、プロフェッショナルとしてのピンと張り詰めたものへと一瞬にして切り替わるのを肌で感じた。 「まあ、湊の機嫌は一旦置いておくとして。ここからが彩花ちゃんを呼んだ本当の本題なんだけどね」 彼の静かな、それでいて確かな熱を帯びた声色に促されるように、私は無意識のうちに背筋を伸ばし居住まいを正した。 膝の上で両手を軽く握り締め、彼の言葉を一言も聞き逃すまいと真剣な眼差しを返す。 「俺がウェディングドレスのデザインをしてることは知ってくれてるよね?」 その問いかけに対し、私は迷うことなく力強く何度も頷いた。颯斗さんが女性の一生に一度の晴れ舞台のためにどれほどの時間と情熱を費やし、一本の糸、一枚の布にまで妥協のないこだわりを持っているかを、私はこれまでの関わりの中で痛いほど理解しているつもりだった。 「はい、もちろん存じています。女性の憧れをそのまま形にしたような、本当に素敵なウェディングドレスですよね」 私の心からの賛辞を受け取った彼は、照れ隠しのように前髪をふわりと掻き上げながら、どこか誇
Last Updated: 2026-07-03
Chapter: 第227話
「どうしてですか?」私の純粋な疑問の声が空気を震わせた直後、突然、静寂を切り裂くようにして電子音が鳴り響いた。颯斗さんは面倒くさそうにゆっくりとポケットからスマートフォンを取り出した。「げ…噂をすれば湊だ」颯斗さんの口から飛び出したその名前に、私の心臓が大きく跳ねた。颯斗さんは一向に応答ボタンを押そうとせず、ただ画面をじっと見つめたていた。その様子があまりにも不自然で、私は思わず彼の顔と携帯を交互に見比べてしまった。「取らなくていいんですか?」着信音は依然として鳴り止まず、周囲の空気をじりじりと焦がしていくように感じられる。普通ならすぐに出るはずなのに、どうしてこんなにも躊躇っているのだろうか。「まぁ、いいかな」颯斗さんはそう言って、携帯をパタンと裏返してテーブルの上に置いてしまった。何か重要な用事でかけてきているかもしれないのに、そんなにあっさりと切り捨ててしまっていいのだろうか。すると、今度は私の携帯が鳴った。画面には『湊さん』の文字がはっきりと表示されている。「あ、私にも…」そう言いながら、応答ボタンに指を伸ばそうとした。突然、横からすっと伸びてきた大きな手が、私の携帯を素早く取り上げてしまった。「えっ?」間の抜けた声を出す私の目の前で、彼は何事もなかったかのように涼しい顔をした。「携帯預かっとくね」「え、でも」食い下がるようにそう声を絞り出すのがやっとだった。「実際に見てもらう方がいいからさ」颯斗さんの言葉は、さらなる混乱を私にもたらした。彼の意図が読めず、私はただ呆然とその顔を見つめ返すことしかできなかった。颯斗さんの口元には、かすかに面白がるような笑みが浮かんでいるように見える。まるで、これから起こるであろう波乱の展開を期待し、楽しんでいるかのような、そんな意地悪な笑みだった。
Last Updated: 2026-05-21
Chapter: 第226話
「いや、なんでもない。これ言ったら本気で怒られる気がする」颯斗さんは何かを言いかけて、笑みを浮かべたまま言葉を濁した。ちょうどその時、コンコンと控えめで上品なノックの音と共に、扉が開かれた。「失礼致します」先程の女性が部屋に入ってきた。手には淹れたてのコーヒーが乗ったトレイを持っている。ふわりと、どこかフローラルで上品な香水の匂いが私の鼻先をかすめた。とてもいい匂いで、彼女の魅力をより引き立てている。デザイン会社の秘書というだけあって、彼女の服装は単なるオフィスワークの制服のようなものではなく、洗練されたオフィスカジュアルで非常にオシャレだった。かっちりしすぎず、かといって砕けすぎない絶妙なバランス。社内全体に漂うこの自由な感じが、のびのびとした環境を作り出しているのだろう。こういう型にはまらない空気感があるからこそ、世間の目を惹きつけるようないい作品が次々と生まれるのだろうなと感心しながら、彼女の無駄のない動きを見つめていた。「ありがとうございます」私の前にも静かにカップが置かれ、上品な湯気が立ち上る。私は彼女の丁寧な気遣いに心から感謝しながら、小さく頭を下げてそのカップを両手で包み込むように持ち上げた。 ふうっと軽く息を吹きかけてから、火傷しないようにそっとひとくち飲んでみた。舌の上に広がったのは、大人びた強い苦味だった。思わず眉がほんの少しだけ寄ってしまいそうになるのを誤魔化すように、私はゆっくりと息を吐き出しながらカップをソーサーに戻した。「颯斗さんの会社、相変わらずオシャレですね」苦いコーヒーの余韻をごまかしつつ、私は室内を改めてぐるりと見渡した。どこを見ても一枚の絵になるような、計算し尽くされた空間美に圧倒されてしまう「相変わらず?」初めて来たはずの私が、どうして以前から知っているような口ぶりをしたのか不思議に思うのは当然だ。颯斗さんの表情を見て、私は慌てて自分の記憶の出処を説明しなければと思い、少しだけ早口になりながら次の言葉を探す。「あ、雑誌で見たことがあって。その時から素敵だと思ってたんですが、実際に見れるとは思っていませんでした」写真越しでも十分に伝わってくるその洗練された空気感にすっかり惹きつけられ、何度もページをめくっては隅々まで眺めていたことを思い出す。「えー、言ってくれたらすぐ招待したのに」颯
Last Updated: 2026-05-20
Chapter: 第225話
颯斗さんに案内されてたどり着いたのは、都心の一等地に建つガラス張りの洗練されたオフィスビルだった。エントランスを抜けた瞬間から漂うスタイリッシュな空気に、私は思わず足取りが重くなる。すれ違うスタッフたちから次々と丁寧に挨拶される颯斗さんの姿を見て、彼がトップデザイナーであり、この会社のトップなのだとまざまざと見せつけられた気がした。最上階へ向かうエレベーターの中で、私は自分のカジュアルすぎる服装を少し後悔しながら、悟られないように小さく息を吐き出した。やがて到着したふかふかの絨毯の廊下の奥。一際目を引く重厚な扉を颯斗さんがスマートに開け放ち、振り返って私に優しく微笑みかけた。 「どうぞ」颯斗さんの優しくも余裕のある声に促され、私は思わず小さく肩をすくめてしまった。目の前で静かに開いた重厚なガラス扉の奥には、私が普段足を踏み入れることのないような洗練された空間が広がっていて、入るのを一瞬ためらってしまうほどだ。そんな私の緊張を察したのか、颯斗さんは軽い足取りで先へと進み、手で柔らかく中を示す。彼の背中を追いかけるようにして、部屋に足を踏み入れた。 「失礼します…」緊張でガチガチになっている私とは対照的に、颯斗さんはとてもリラックスした様子で部屋の奥へと進んでいく。そして、ごく自然な動作でスッと手のひらを向け、向かいの席に座るよう促してくれた。私はそのエスコートに導かれるまま、おずおずとソファーに浅く腰を掛けた。 「コーヒーでいい?」その不意の問いかけに、私はビクッと肩を揺らしてしまった。ただでさえこんな立派で洗練された空間に招き入れてもらって、場違いなところに迷い込んでしまった迷子のような気分でいるのに、これ以上の厚遇を受けるなんて申し訳なさが勝ってしまう。「あ、はい。でも、お気遣いなく」颯斗さんは私の戸惑いなどお見通しだという風に少しだけ首を傾げながら、柔らかいけれど有無を言わせない声でピシャリと遮った。
Last Updated: 2026-05-19
Chapter: 第224話
「パーティー以来だね。元気にしてた?」フロントガラスから差し込む午後の光を浴びながら、ハンドルを握る颯斗さんが何気なくそう言った。その軽やかなトーンが、あの一晩の華やかな喧騒を瞬時に私の脳裏に蘇らせた。あの日以来の再会だけど、まさかこんな風に彼の車の助手席に滑り込むことになるなんて。「はい。颯斗さんも、相変わらずお元気そうで」私のちょっとからかうような返答に対して、颯斗さんは前方を見つめたまま、やっぱりいつもの少年のような笑みを浮かべた。「まーね」いたずらっぽく笑う彼のその一言で、車内の空気は一気に穏やかな空気になった。そういえば…。今こうして彼が私を車に乗せて走らせている状況への純粋な疑問が、すとんと胸に落ちてくる。「しばらくの間は日本にいらっしゃるんですか?」世界中の花嫁が憧れるウエディングドレスを次々と生み出す、超多忙なトップデザイナーで、世界を股に掛けて飛び回っているのが日常のはず。そんな彼が、なぜ私の隣で楽しそうにハンドルを握っているのだろう。「うん。当分はね」彼が日本に長期間滞在してまで取り組もうとしている何か。そして今、明確な目的地を持って迷いなくアクセルを踏み込んでいるその足取りの良さが急に気になり始める。「ところで、どこに向かってるんですか?」「俺の会社」その短い答えが彼の口から飛び出したとき、私は思わず目を見開いて彼を見た。「颯斗さんの?」前に雑誌で颯斗さんの会社を見たことがあった。全面ガラス張りの圧倒的な開放感の中に、世界中から集められた極上のシルクや繊細なレースのロールが美しくディスプレイされた、まるで美術館のようなアトリエ。あの洗練された聖域に、今から自分が向かっているらしい。私の驚きに満ちた声を、彼は速度を落とすことなく、むしろ私の反応を完全に楽しむかのように言い返した。「詳しい話は会社に着いてから」
Last Updated: 2026-05-18
Chapter: 第223話
あれから一週間。過去はなかったことにはならないし、私の罪が消えるわけではない。根本的には何も解決していないって分かっているけれど、私は今の湊さんだけを見るって決めたから。「今が幸せなら、それでいいんだよね」ポツリと呟いた自分自身の言葉は、誰に聞かせるわけでもなくただ空の彼方へと溶けていく。心を落ち着かせるようにエコバッグの持ち手をぎゅっと握り直して前を向いた、その時だった。一台の黒い高級車が音もなく近づいてきて、私の横にピタリと停車した。滑らかな動作で運転席の窓がスルスルと下がっていき、そこからひょっこりと顔を出したのは、全く予想もしていなかった人物だった。「彩花ちゃん」「颯斗さん!」私の少し間抜けなほど驚いた顔を見て、颯斗さんは「ははっ、驚かせてごめん!」と言い、いつもの屈託のない笑顔を見せた。颯斗さんと会うと、不思議と張り詰めていた心がスッと軽くなるような気がする。きっとそれは、彼が持ち合わせている生来の人の良さからくるものなのだろう。彼は運転席から少し身を乗り出すようにして、リラックスした様子で私に語りかけてきた。「今から家に行こうとしてたんだけど」颯斗さんが家に来るということは、当然、湊さんに何か用事があるのだろうけど…。「湊さんなら会社です」わざわざ足を運んでくれた颯斗さんを無駄足にさせてしまう申し訳なさを感じながら、少し困ったように眉を下げた。けれど、私の言葉を聞いても、颯斗さんは特に残念がる素振りは見せなかった。「じゃなくて、彩花ちゃんに会いたくて」私は一瞬自分の聞き間違いではないかと疑ってしまった。湊さんではなく、わざわざ私に会いに来る理由が全く思い当たらなかったから。目をパチパチと瞬かせながら、私は自分自身の顔を指差して、まるで確認を取るようにそのままオウム返しをしてしまった。「私ですか?」不思議そうな顔をして首を傾げている私を見
Last Updated: 2026-05-17
私を心底憎んでいるはずのトップ俳優から、溺愛されるようになりました。

私を心底憎んでいるはずのトップ俳優から、溺愛されるようになりました。

あるドラマのヒロインを決めるオーディション。 審査員席に現れたのは、2年前、私に何も告げずに突然姿を消した幼なじみの彼だった。 けれど、かつての優しい面影は消え、私を冷たく突き放す。けれどカメラの前に立てば、私たちは台本通りの甘い恋人に落ちていく。 カメラの前だけで許される、フィクションの恋。 私はある秘密を抱えていて────。 嘘と演技、そして交差する想い。 作り上げられたフィクションの世界の幕が下りる時、隠されていたふたりの恋が静かに動き出す。 芸能界を舞台に紡ぐ、焦れったくて切ないシークレット・ラブストーリー。
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Chapter: 第78話
「ゆ……一ノ瀬さん……」彼が放っているその強烈な怒りは、撮影を遅らせようとしている私に対するものではなく、明らかに言いなりになっている私に向けられていた。「お兄さんが病院に運ばれたんですよね。それに意識不明の重体だと。それなのに、どうしてすぐに行かないんですか」「ここで私が抜けてしまえば……」震える唇で言い訳を口にすると、悠真はひどく呆れたように短く息を吐き捨てた。そして、私から庇うように一歩前へ出ると、今度は監督へとその鋭い矛先を向けた。「監督。情緒不安定な彼女に演技をさせても、いい作品は撮れないと思います」焦る監督のスケジュール管理を理詰めで塞ぎ、作品のクオリティを盾にすることで、私を現場から強制的に解放しようとしてくれている。「そうは言ってもなぁ……。スケジュール的にも、ここで彼女に抜けられると……」ドラマの撮影現場において、役者が突発的に抜けるということは、その日予定していたスケジュールがすべて白紙になることを意味する。確保していたロケ地、エキストラ、ほかの役者の拘束時間。それらがすべて無駄になれば、莫大な制作費の損失が出る。監督が同情よりも現実的な進行を優先するのは、現場の責任者として当然の葛藤だった。その沈黙が私への見えない圧力となってのしかかり、「残ります」と口を開きかけた、その時だった。「俺の単独カットを先に全部回してください。彼女が必要な引きの画や、肩越しのシーンは、代役を立ててカメラアングルで凌げるはずです」悠真の口から飛び出したのは、感情論ではなく、現場を動かすための現実的な妥協案だった。それは技術的には可能でも、相手の表情や息遣いがない状態で完璧な演技を要求される、役者にとっては負担の大きい手法だ。 「代役で……? いや、でもそれだと後日、彼女の顔の寄りを別撮りする時に、一ノ瀬くんにもう一度相手役として来てもらうことになるぞ。君のスケジュールだってカツカツなのに……」監督が驚いたように反論した。トップ俳優である悠真のスケジュールは、分刻みで数ヶ月先までびっしりと埋まっている。今回のドラマ撮影だけでもギリギリの調整で参加しているはずなのに、私のために別日を設けさせるなんて不可能に近い。「構いません。スケジュールの帳尻は合わせます」迷いのないその一言が、静まり返ったスタジオに深く、重く響き渡った。「作品の質
Last Updated: 2026-10-31
Chapter: 第77話
兄が病院のベッドで生死の境を彷徨っている事実がどうしても頭で処理しきれず、私はマネージャーの腕をすがるように掴んだまま、ガタガタと震えることしかできなかった。 「美羽っ! しっかりしろ、大丈夫かっ!」 「兄が……っ、お兄ちゃんが……!」 呼吸の仕方を忘れたように喘ぎながら、私は必死に言葉を絞り出した。 「落ち着いて、ゆっくり深呼吸するんだ。蒼真くんに何があった」 マネージャーは、パニックに陥りかけている私を落ち着かせるように問いかけてきた。 私が泣いても兄は助からない。分かっているのに涙を止めることができなかった。 私は震える手で顔を覆い、しゃくり上げるのを必死で呑み込みながら、途切れ途切れの言葉で病院から告げられた惨状を伝えた。 「病院に運ばれて……意識がないって。私、どうしたらいいか……っ」 すぐにでも駆け出して病院へ向かいたいのに、足がすくんで一歩も動けない。 「監督に事情を話して、今すぐここを出るぞ。車は俺が回すから、美羽は向かう準備をしろ」 マネージャーは一瞬の迷いもなくそう断言すると、私の背中を力強く押してくれた。 通常であれば、ヒロインが撮影を途中で投げ出すなど許されない。それでも彼は、私の女優としてのキャリアよりも、一人の人間としての心を最優先に守ろうとしてくれた。 彼の背中から伝わる確かな味方の存在に、私はかろうじて頷きを返した。 「……はい」 私は手の甲で乱暴に涙を拭うと、重い足を引きずるようにして、スタジオの中央でスタッフに指示を出している監督の元へと向かった。 きらびやかな照明、慌ただしく動き回る美術スタッフ。数分前まで私もその一部だったはずの撮影現場の空気が、今の私には酷く遠い世界のように感じられた。 今は泣いている場合じゃない。何
Last Updated: 2026-10-30
Chapter: 第76話
「美羽、さっきスマホ鳴ってたぞ」長いリハーサルがようやく終わり、スタジオの隅に置かれたパイプ椅子に崩れ込むように腰を下ろした私に、マネージャーが私のバッグを差し出しながら声をかけてきた。 「え……誰からですか?」 「それが、全部非通知なんだよ。短い間に3回も連続でかかってきてたから、何か急ぎの用かもしれないぞ」 私の背筋を冷たいものが駆け抜けた。心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がり、呼吸が浅くなる。 また、あの人からかもしれない。でも、これまで短い間に3回も連続して執拗に鳴り続けたことなんて一度もなかったのに。 ────プルルルル バッグの中で、無機質なバイブレーションの振動音が突如として鳴り響いた。 「……っ!」 着信音は切れることなく、どこまでも執拗に、そして不気味な一定のテンポで鳴り続けている。 「出なくていいのか?」 マネージャーの気遣うような声に、私はハッと我に返った。 あの人の存在を…得体の知れない悪意をマネージャーに話してしまえば、間違いなく警察沙汰になる。そうなれば現在進行中のこのドラマの撮影も止まってしまうかもしれない。 これだけ鳴り続けているのに出なければ、勘の鋭いマネージャーに不審がられてしまう。 恐怖で震える手を無理やりバッグに突っ込むと、意を決して通話ボタンをスワイプした。 「もし、もし……」 絞り出した声は、自分でも情けなくなるほどかすれて震えていた。 身構えて耳を澄ませた私の鼓膜を打ったのは、予想していたような気味の悪い沈黙ではなかった。 電話の向こうから聞こえてきたのは、背後で慌ただしく人が行き交う騒音と、事務的でありながらひどく切迫した、見知らぬ女性の緊迫した声だった。 「突然のお電話で失礼い
Last Updated: 2026-10-29
Chapter: 第75話
「本当のことは……ごめん。今はまだ話せそうにない」 絞り出すように告げたその言葉は、情けないほど小さく震えていた。 私の異常に気づき、どれほど心配してくれているか分かっているのに、それでも私は自分の抱える闇を兄に背負わせることはできなかった。 「いいよ。無理に聞き出そうなんて思ってない。ただ……美羽が話したくなった時に、ちゃんと受け止められる存在でいたい」 「……ありがとう、お兄ちゃん」 涙声になりそうなのを必死で呑み込み、私は短く感謝の言葉を紡いだ。 私は潤んだ瞳を隠すように手元の救急箱へ視線を落とし、使い終わった薬のチューブや湿布の袋を片付け始める。 パチン、と救急箱の留め具を閉めたその時、兄がふと、場を和ませるような軽いトーンで思いがけない言葉を落とした。 「それに、人のことは言えないしな。俺だってお前に隠してることがある」 その言葉に、私はピタリと手を止め、弾かれたように顔を上げた。 「え……? お兄ちゃんが、私に隠し事?」 私は目を丸くして、マジマジと兄の顔を覗き込んだ。 「ああ」 堂々と隠し事があると宣言されてしまうと、妹としてはどうしてもその中身を暴きたくなってしまう。私は救急箱をテーブルの端に押しやり、ソファーの上で膝を突き合わせるようにして兄へと距離を詰めた。 「え、何それ。気になるんだけど」 私は兄のシャツの袖を軽く引っ張り、答えを急かすように揺さぶった。 「俺も秘密だ」 兄は私の手を軽く払い除けると、意地悪な笑みを浮かべてそっぽを向いた。 「あ、もしかして、ついに彼女ができたとか?」 もしそうだとしたら、妹としてこれほど嬉しい隠し事はない。 私は確信めいた笑みを浮かべて彼の反応を待ったが、兄は呆れたような溜息を吐き出した。 「バカ言え。彼女ができたら、妹と二人で皿洗いなんかしてないだろ」 正論を突きつけられ、私は思わず確かにと納得してしまった。 もし大切な恋人ができたのなら、彼女と同棲でもしているはずだ。 兄の自嘲気味な笑いに、私もつられてふふっと笑い声を漏らしてしまう。 けれど、平和な笑いが落ちたその直後、私の頭の片隅に、自分が巻き込まれている危険の影が黒くよぎった。 まさかとは思うけれど、兄の隠し事も、そっちの類の暗いものなのではないかと
Last Updated: 2026-10-28
Chapter: 第74話
夕食を終えた後のキッチンには、水道の流れる音と、食器が軽く触れ合う音だけが心地よく響いていた。 兄が丁寧に洗い上げたお皿を受け取り、私が布巾で水気を拭き取っていく。 兄妹の穏やかな分担作業。けれど、濡れないように無造作に捲り上げられた兄のシャツの袖口から、痛々しい変色が見えた瞬間、私の手はピタリと止まった。 「あれ……お兄ちゃん、腕のそれどうしたの?」 お皿を持ったまま、私はその箇所を指差した。兄の引き締まった前腕には、青黒く変色してぽっこりと腫れ上がった痣が浮かんでいる。 誰が見ても痛々しいほどの打撲痕なのに、当の本人は私が指摘するまで全く気に留めてすらいなかった様子で、不思議そうに自分の腕へと視線を落とした。 「ああ……これか。今日、会社で重いダンボール運んだ時にちょっとぶつけちゃってさ」 痛みを微塵も感じさせないあっけらかんとした答えに、私は思わず眉根を寄せた。 痛みに鈍いのか、それとも私に心配をかけまいとするいつもの癖なのか。平気な顔をして皿洗いを続ける兄の横顔を見て、私の胸に心配が込み上げてきた。 「もう……! すぐに冷やすかお薬塗るかしないと。青く腫れてるじゃない」 私が非難すると兄は泡のついた手を止め、困ったように肩をすくめた。 「ははっ、なんだよ。お母さんみたいなこと言うな」 冗談めかして笑い飛ばそうとするその態度が、私には余計に腹立たしかった。 「笑い事じゃないよ! 私の時は大騒ぎするくせに、自分のことには本当に無頓着なんだから」 むっとした顔で睨みつけると、兄はやれやれといった様子で小さく息を吐いた。 私が本気で心配して怒っていることは伝わったようだが、それでもまだ皿洗いの手を止める気はないらしい。残った泡を洗い流しながら、私をなだめるように適当な返事を返してきた。 「わかったわかった、後でちゃんと薬塗っとくから」 その返事に、私は手元の布巾をシンクの脇にバ
Last Updated: 2026-10-27
Chapter: 第73話
「体調悪いのか?」助手席からバックミラー越しに投げかけられた、マネージャーの声が低く響いた。「え……?」呆然とした声しか出ず、私はかろうじてバックミラーに映るマネージャーの目を見返した。彼の眉間には深いシワが刻まれており、そこにはマネージャーとしての鋭い観察眼と、私を本気で案じる温かい情が交差していた。「顔色が悪い。真っ青だぞ」楽屋を出て車に乗り込んでからずっと、私は一言も発さずに窓の外を見つめるふりをしていた。けれど、さっきまでの激しい動悸と、悠真から突きつけられた思いも寄らない言葉の衝撃は隠しきれていなかったらしい。「今日……記者会見のシーンだったので」私は震える声を整え、精一杯の言い訳を口にした。大勢のフラッシュとカメラ、周囲からの突き刺さるような視線。それは確かに私の精神をすり減らした。けれど、私をここまで叩き落とした本当の原因は、仕事上のプレッシャーではなかった。「……薬が、効かなかったのか?」誰かの悪意によって隠されていたかもしれない事実を、マネージャーに知られるわけにはいかない。「いえ、ただ……少し疲れているだけだと思います」私は必死で首を横に振り、ぎこちない笑みを浮かべて見せた。「そうか。さっきの一ノ瀬くんとの話も原因かもな。ただの世間話じゃなさそうだったが」彼に本当のことを話すべきなのか、それとも胸の奥に封印してしまうべきなのか。迷いと葛藤が胸を駆け巡り、私は自分の膝をぎゅっと握りしめて俯くことしかできなかった。「それは……っ」かろうじて声を絞り出したものの、それに続く言葉は何も出てこなかった。悠真との間に横たわる、あまりにも悲惨なすれ違い。「言いたくないなら無理に言う必要はないが……」マネージャーは私の葛藤を察したように、トーンを落として優しく言った。無理に追及して追いつめない彼の温かい気遣いが胸に染み、目頭が熱くなる。
Last Updated: 2026-10-26
その魔法が解ける前に

その魔法が解ける前に

この家に、私の居場所なんてなかった。 幸せになることも、誰かに愛されることも、すべて諦めていた。 そんなある日、突然、縁談の話が舞い込んでくる。 どうせその人も、みんなと同じなんだろう。 そう思っていたけど…?
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Chapter: 第171話
「駄目……?」雄大さんはまるで捨てられた子犬のような、しょんぼりとした表情で私の方を見つめてくる。先ほどまでの勢いはすっかり消え失せ、スマートフォンの画面を握りしめながら上目遣いで尋ねてくるその姿は、なんだかとても可哀想で放っておけない気持ちにさせられる。それに、そもそも私は雄大さんと連絡先を交換することに何の抵抗も抱いていなかった。私は雄大さんの不安を打ち消すように、できるだけ明るい声で言葉を紡いだ。「いえ、そんなことありません! 私でよければ、ぜひ交換させてください」私が笑顔でそう答えると、雄大さんの顔にパッと明るい光が戻った。「ほら!本人がこう言ってるんだから、もう文句ないだろ?」雄大さんはすかさず身を乗り出し、得意げな表情を浮かべて壱馬さんの方へと視線を向けた。その手には、QRコードを表示させたスマートフォンが握りしめられており、準備はすっかり整っているようだった。「無理してない?嫌なら嫌って言っていいんだよ?」壱馬さんの優しい声は、私に向けてそっと落とされた。彼の瞳に見つめられると、胸の奥がきゅうっと締め付けられるような、くすぐったいような不思議な感情が湧き上がってくる。「はい、もちろんです」雄大さんは素早い動作で私のスマートフォンの画面へと自分のカメラを向けた。ピロンという軽快な電子音が、無事に連絡先の交換が完了したことを知らせてくれる。「ひよりちゃんの連絡先ゲット〜!」雄大さんは自分のスマートフォンを高く掲げながら、子供のようにはしゃいでいる。その賑やかな様子を横目に、私は壱馬さんの横顔を見つめた。壱馬さんの気遣いを無下にしてしまったのではないかという小さな罪悪感が胸の奥を掠める。その時、不意に私の頭の上に温かくて大きな手のひらが乗せられた。「ひよりの好きにしていいんだよ」頭を撫でる壱馬さんの手つきは、とても丁寧で優しかった。その声には微塵の怒りも不満も含まれておらず、ただただ私への肯定と甘やかしだけが詰まっていた。彼の大きな手から伝わる心地よい熱と、私だけに向けられるその特別な扱いに、私の顔は一瞬にして熱を持つ。「……ありがとうございます」恥ずかしさで俯いてしまった私の頭を、壱馬さんはもう一度だけ優しくポンと撫でてから手を離した。「ちょっとちょっとー。二人だけの世界に入っちゃってさ、俺もいるんですけど
Last Updated: 2026-10-24
Chapter: 第170話
「うまっ! これめちゃくちゃ美味しい!」 雄大さんはスプーンいっぱいにすくった熱々のシチューを勢いよく口に運ぶと、目を大きく見開いて感動の声を上げた。 そのあまりにも素直で気持ちのいい食べっぷりに、料理を作った側としてはこれ以上ないほどの喜びを感じてしまう。 「お口に合ってよかったです」 私の返事を聞いて、雄大さんは「ほんと、お店に出せるレベルだよ!」と大げさに褒めてくれる。 彼はふと何か思いついたように顔を上げ、私の顔と、静かに食事を進めている壱馬さんの顔を交互に見比べた。そして、少し羨ましそうな、それでいて本気とも冗談ともつかないようなトーンで突然突拍子もない提案を口にした。 「いいなぁ、こんな美味いご飯が毎日食べられるなんて。俺も毎日通っちゃおうかな」 毎日通うだなんて、雄大さんらしい思い切った冗談に聞こえて笑ってしまう。仮にその突拍子もない言葉が半分、いや全部が本気だったとしても、嫌だとは思わなかった。毎日の食事の準備や買い出しは今より少しだけ大変になるかもしれないけれど、こんなにも美味しそうに私の作った料理を食べてくれる人がもう一人増えるのなら、料理を作る身としては凄く嬉しい。ただ、スーパーに行く回数が増えることだけが…。 「ふふっ、お時間がある時ならいつでも大歓迎ですよ」 私がにこやかにそう答えると、雄大さんは子供のように両手を上げてガッツポーズをした。 ズボンのポケットからゴソゴソと自分のスマートフォンを取り出すと、目を輝かせながら身を乗り出し、私に向けてそのスマートフォンの画面を突き出すように見せてきた。 「じゃあさ、行く前に連絡したいから連絡先教えてよ!」 確かに、いつ来るかわからない状態よりも、事前に連絡をもらえた方が食材の買い出しや準備の都合がつけやすくて断然助かる。それに、こうして親しくお話をするようになったのだから、連絡
Last Updated: 2026-05-30
Chapter: 第169話
「うわ、もうこんな時間か」 お玉でかき混ぜていたシチューの鍋からふわりと立ち上る温かな香りに包まれながら、私はゆっくりと雄大さんの方を見る。 リビングのソファでだらだらとスマートフォンを眺めていた雄大さんが、画面右上にある時計の表示でも見たのか、大きく伸びをしながら天井を仰いでいた。 窓の外はすっかり暗くなり、街灯のオレンジ色の光がカーテンの隙間から細く差し込んでいる。 今日は夕方から急に冷え込んできたから、温かい料理を作っていて正解だったかもしれない。 「よろしければ、夕食食べていきませんか?」 ちょうど多めに食材を買い込んでいたこともあり、お鍋の中には三人分でも十分に足りる量のシチューがたっぷりと煮込まれていた。 それに、賑やかな食卓になるのは私も嬉しい。 「え、マジ? いいの?」 彼の顔がパッと明るくなり、無邪気な表情が浮かんだ。ソファから勢いよく身を乗り出すあまり、クッションが床に落ちそうになるのを慌てて押さえている様子がおかしくて、私は思わずふふっと声を漏らして笑ってしまった。 まな板の上の野菜を片付けながら、私はカトラリーのセットを新しく用意しようと、食器棚の方へと歩みを進めた。 木製のスプーンとフォークを取り出しながら頷く。 「はい、多めに作ってあるので」 私の返事を聞いた雄大さんは、両手を軽く叩いて心底嬉しそうなジェスチャーを見せた。 「やった! じゃあお言葉に甘えて──────」 雄大さんの歓喜の言葉は、リビングの入り口に姿を現した長身の影によって無惨にも途中で遮られた。 「少しは遠慮しろ」 仕事帰りのはずなのに、その立ち姿には疲労感よりも特有の威圧感のようなものが漂っていて、ピシッと整ったスーツ姿がリビングの緩みきった空気を一瞬にして引き締める。 それなのに、雄大さんは悪びれる様子もなくへらへらと笑ってみせた。 「あ、壱馬。おかえりー」 雄大さんの気楽な挨拶に対して、壱馬さんは短く鼻を鳴らして応えた。 上着を脱ぎながらこちらへ歩いてくる彼の姿を追いながら、私も手を休めて正面に向き直る。 普段は夜遅くまで仕事に追われていることが多い壱馬さんが、こんなに早く帰宅するのは珍しいことだった。 「壱馬さん、おかえりなさい。今日は早かったですね」 私の問いかけに、壱馬さんはスーツのジャケットを椅子に掛けながら静
Last Updated: 2026-05-29
Chapter: 第168話
「花澄ちゃんがいてくれて、俺の方こそすごくホッしてるんだ」「私が……ですか?」思いがけない言葉に、私は思わず目を瞬かせた。「あいつ、昔から何でも一人で抱え込む癖があって。周りには平気な顔をして、自分だけで乗り越えようとするんだけどさ」少しだけ苦さを滲ませた声で呟き、雄大さんはふうっと短く息を吐いた。その吐息には、長年親友を見守ってきた彼ならではの、歯がゆさと慈愛が深く入り交じっているように聞こえた。 私が知っている壱馬さんの完璧な微笑みの裏側にある、決して誰にも見せようとしない脆さ。それを誰よりも知っている雄大さんの横顔は、明るく陽気な雰囲気からは想像もつかないほど静かで、どこかひどく切なげだった。「だからね、あいつが花澄ちゃんのことで一喜一憂したり、柄にもなく余裕なくしたりしてるのを見ると…。ああ、やっとあいつの心をこんなに揺さぶる人が現れたんだなって、嬉しくなるんだよね」からかうように悪戯っぽく片目を瞑ってみせる雄大さんに、私はどう返していいか分からず、再び熱を帯び始めた頬を隠すように小さく俯くしかなかった。私の些細な言動が、彼の中に波風を立てているのだとしたら。それはなんて恐ろしくて、なんて幸せなことなのだろう。「まだまだ、私にできることは少ないかもしれないですけど……」絞り出すように紡いだ私の言葉は、情けないことにかすかに震えていたかもしれない。背伸びをして彼にふさわしい自立した女性になろうとしても、その道のりは果てしなく遠く思えて、時折どうしようもない無力感に襲われる。それでも、少しでも彼の力になりたいという嘘偽りのない本音だけは、どうしても伝えたかった。「そんなことないと思うよ。ただ、そばにいてくれるだけで救われることだってあるから」その真っ直ぐで嘘のない声に、私は顔を上げた。気の利いた言葉が言えなくても、彼と対等な立場で支え合うにはまだ時間がかかるとしても、今の私なりにできることが確実にあるのだと、雄大さんが肯定
Last Updated: 2026-05-28
Chapter: 第167話
「え……?」ポツリと落ちた雄大さんの言葉に、私は弾かれたように顔を上げた。あんな顔って、一体どんな顔だったのだろう。私が知らない壱馬さんの表情を想像して、思わず聞き返してしまう。「あ、いや、何でもないよ。こっちの話」雄大さんは少し悪戯っぽく笑って、ひらひらと手を振った。深く追求してはいけないような気がして、私はそれ以上踏み込むことができず、微かに熱の残る頬を冷ますように小さく息を吐いた。「……でも、少し羨ましいです」ぽつりと溢れた私の声に、雄大さんが「ん?」と小首を傾げる。「壱馬さん、雄大さんと一緒にいる時はすごく自然体で…」カップの縁を指先でなぞりながら、私は自分の中にあるもどかしさを言葉にしていく。雄大さんと話す時の壱馬さんは、私が普段見ている彼とは少し違っていた。言葉遣いも少しだけ荒っぽくなって、どこか少年のような、飾らない等身大の男性という感じがする。私と一緒にいる時の壱馬さんは、いつだって完璧で、エスコートもスマートで、驚くほど優しい。雄大さんの前で見せるような、力の抜けた素の壱馬さんを引き出せるのは、長い時間を共に過ごし、深く理解し合っている雄大さんだからこそなのだと思う。私に向けてくれる甘く優しい微笑みももちろん大好きだけれど、本当はもっと、彼の中にある泥臭い部分、不器用なところにも触れてみたい。「私にはまだ……見えない壁があるというか。優しくしていただいている分、気を遣わせてしまっているんじゃないかって、時々不安になるんです」私に向けられる優しさが特別なものだとしても、彼にとって一番居心地のいい場所は、まだ私ではないのかもしれない。そんな身勝手な劣等感が、せっかくの嬉しい気持ちに薄い影を落としていた。彼が何の鎧も纏わずに、ただ息をするように傍にいられる一番安らげる場所が私であればいいのにと、そんな身の程知らずな独占欲が心の奥底で静かに渦巻いていた。沈黙が降りた数秒の間、私は自分のひねくれた感
Last Updated: 2026-05-27
Chapter: 第166話
「壱馬は…」雄大さんがふと言葉を区切り、どこか遠くを見るような目をした。彼らの間に流れる、私が立ち入れないほどの長い時間と深い絆の前に、急に自分がひどく場違いで、身の程知らずな存在に思えて仕方がなくなってしまった。「す、すみません。私なんかよりも、雄大さんの方が壱馬さんを知っていらっしゃるのに」自分の声が緊張で少し震えている。壱馬さんのことを知った風な口を利いてしまった自分が恥ずかしくて、顔が急激に熱くなっていく。どうにかしてこの気まずい空気を誤魔化そうと、私はぎこちなく口元だけで笑ってみせたけれど、きっと引き攣った表情になっていたに違いない。「いや、壱馬のことをちゃんと見てくれてるんだなって」予想に反して、雄大さんの声はどこまでも穏やかで、包み込むような温かさに満ちていた。呆れられたり、怒られたりするかもしれないという私の被害妄想は、その一言で見事に打ち砕かれる。「え?」間抜けな声が、思考よりも先に口から漏れてしまった。私は丸くした目をパチパチと瞬かせながら、雄大さんの次の言葉を待つことしかできず、ただただ固まってしまった。「よく素っ気ない奴って思われるけど、本当は誰よりも優しい奴んだよ」雄大さんの言葉が、私の心の中にある壱馬さんへの想いと完全に重なり合い、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。「壱馬さんは、初めて会った時から私に手を差し伸べてくださって」気がつけば、溢れ出る想いを止められずに言葉が口から飛び出していた。壱馬さんの大きな手が、どれほど温かく私を引っ張り上げてくれたか。「壱馬にとって花澄ちゃんも同じだと思うよ」同じという響きが、あまりにも現実味がなくて、一瞬耳を疑う。壱馬さんにとって、私が? あの完璧で、どこか遠い世界にいそうな彼にとって、私のような存在が何か影響を与えているなんて、そんな大それたことを想像すらしたことがなかった。「壱馬さんも…?」かすれた声で、どうにかそれだ
Last Updated: 2026-05-26
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