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Hayama
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Novels by Hayama

捨てられた私が、契約結婚で冷徹な彼に愛されるようになるまで

捨てられた私が、契約結婚で冷徹な彼に愛されるようになるまで

婚約破棄され居場所を失った私は、冷徹と噂される彼との契約結婚を選んだ。 愛はなく、互いの利害だけで結ばれたはずの関係。 そうして始まったはずの生活だった。 彼の冷たい視線、無関心な態度に心を閉ざしながらも、ふとした瞬間に見せる優しさに、どうしても胸が高鳴ってしまう。 近づけば傷つくと分かっているのに、彼の言葉に救われ、彼の仕草に惹かれていく。 これはただの契約なのか、それとも本物の愛なのか──。 偽りから始まった関係が、やがて甘く危険な恋へと変わっていく。
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Chapter: 第104話
「奥様…?」 窓の外の景色をぼんやりと見つめていた私は、ふいに鼓膜を揺らした穏やかな声にハッと肩を跳ねさせた。 彼女は湯気の立つティーセットを重厚なテーブルに置きながら、私をじっと見つめていた。 「あ、はい…っ」 声の主は、数日前にこの邸宅へやってきた家政婦の佐々木さん。 私よりもいくつか年下で、いつも元気いっぱいの彼女が、今は心配そうに小首を傾げてこちらを覗き込んでいる。 「どうかなさいましたか……?」 「いえ、少し考え事をしていて」 明日のレセプションパーティーのこと。あの恐ろしい戦場を前に、準備に追われているうちにあっという間に時間が過ぎてしまった。 プレッシャーで押し潰されそうになる胸を、温かいティーカップの熱で必死に落ち着かせる。 「そうですか。ご気分が悪いわけじゃないなら良かったです」 彼女の裏表のない子犬のような笑顔に、私の張り詰めていた肩の力が少しだけ抜ける。 「それより、佐々木さんはこちらでの生活には慣れましたか?」 私が突然話を振ると、彼女は少しだけ意外そうな顔をして瞬きをした。 少しの間の後、彼女は手元のトレイを胸の前でしっかりと抱え直し、恭しく頭を下げてから、ゆっくりと口を開いた。 「まだ数日しか経っていないのでなんとも言えませんが…控えめに言って、ここは天国だと思います!」 予想外の少し大袈裟な表現に、私は思わず目を丸くした。 智哉さんは仕事に厳しく、この広大な邸宅の管理も決して楽な仕事ではないはず。それなのに天国とまで言い切る彼女の言葉の真意が読めず、私は首を傾げる。 「天国……ですか?」 私が不思議そうに問い返すと、佐々木さんはどこか夢見るような笑みを口元に浮かべた。
Last Updated: 2026-08-01
Chapter: 第103話
邸宅に到着し、美しくライトアップされた広大な庭園をエントランスに向かって歩いていた時だった。私はギュッと握りしめていた小さな紙袋の感触に勇気をもらい、前を歩く彼の広い背中へと思いきって声をかけた。「あの、智哉さん。少しだけいいですか……?」立ち止まった智哉さんが、ゆっくりとこちらを振り返る。その整った顔に浮かぶのは、いつもの読み取れない無表情。けれど、私がひどく緊張しているのを察したのか、威圧感を消すようにわずかに目元を和らげてくれた。「……どうした」私は早鐘を打つ心臓を押さえながら、背中に隠していた小さな紙袋をそっと差し出した。彼が私のために用意してくれた数々の贈り物に比べれば、ささやかすぎるものだ。それでも、どうしても渡したかった。「これ…もし良かったら、受け取ってください」智哉さんは少し驚いたように目を瞬かせると、私の目と、差し出された箱を交互に見つめた。そして手を伸ばし、そっとそれを受け取ってくれた。「……なんだ、これは」片手で器用に包装を解き、小さな箱を開ける。ベルベットのクッションの上に鎮座しているのは、一切の無駄を省いたシンプルなシルバーのネクタイピン。その裏側には、私が密かにお願いしたピンクサファイアが埋め込まれている。「先ほどのスーツにも、普段のお仕事着にも合わせやすいデザインかと思って……。もし、お気に召さなかったら、遠慮なく捨てていただいて構わ─────」自信のなさから、つい早口で自虐的な言葉を並べてしまう。けれど、智哉さんは私の言葉を遮るようにふっと息を吐くと、箱からネクタイピンを取り出し、今身につけている自身のネクタイへと一切の躊躇なくスッと滑り込ませた。「……どうだ」庭園の柔らかな照明を反射して、ネクタイピンが上品な光を放つ。智哉さんは自身の胸元を軽く整えながら、私の評価を待つように真っ直ぐに見下ろしてきた。その思いがけない即座の行動に、私
Last Updated: 2026-07-31
Chapter: 第102話
「まるで、俺から甘い言葉を言ってほしいみたいに聞こえるな」智哉さんの低く掠れた声音が、閉ざされたエレベーターの空気を熱く震わせる。その言葉の奥底に孕んだ独占欲と、男としての剥き出しの迫力に、私は喉の奥まで詰まったような感覚を覚えた。「なっ……! ち、ちがいます、そんなつもりじゃありません!」私は顔を真っ赤に染め上げて必死に否定の声を上げた。逃げ場のない体勢のまま、トントンと彼の胸を軽く押して距離をとろうとするが、びくともしなかった。「……冗談だ。そんなに慌てるな」からかうような低い声とともに、智哉さんはわずかに口元を緩め、からかいを含んだ呆れたような笑みを浮かべた。その余裕のある態度に、私は自分のペースを完全に乱されていることに気づき、悔しさと恥ずかしさでさらに身を縮こまらせる。私は動揺を隠すように顔をそむけ、小さく息を吐き出しながら、なんとか声を絞り出した。「と、とりあえず…もう離れてください……」彼の瞳から先ほどの冗談めいた色が消え、代わりに底知れぬ真剣な光が宿る。壁に添えられていた彼の大きな手がわずかに動き、私の逃げ場を完全に塞いだまま、彼は逃げられない重みを持った声で私をまっすぐに見据えた。「だが、お前を庇ったのも、守りたいと思ったのも、すべて俺の意志だ」その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥が激しく波立った。演技だと思い込もうとしていた彼の優しさが、すべて彼の本心だと言われてしまったら、私の理性が保てなくなってしまう。私は潤んだ瞳で彼を見上げ、震える声をどうにか抑え込みながら、必死に現実へと引き戻そうとした。「そん、なわけ……だって私たちは、ただの契約──────」私の掠れた抗議の声を遮るように、智哉さんは微かに眉をひそめ、不機嫌そうな低い唸り声を漏らした。「そんな言葉で片付けようとするな」その真剣すぎる声音に、私は息を呑んで言葉を失った。まるで本当に私を愛してい
Last Updated: 2026-07-30
Chapter: 第101話
無機質な金属の扉が閉まり、VIP専用の豪奢なエレベーターの中は、私と智哉さんの二人きりの密室となった。外界の喧騒から完全に遮断された静寂の中、かすかなモーター音だけが響く。私は背中に隠し持った小さな紙袋をギュッと握りしめ、彼の広い背中を恐る恐る見上げた。先ほどの私の振る舞いが、出過ぎた真似だったのではないかと不安でたまらなくなった。「あの……もしかして、さっきの会話、聞いてましたか……?」私が恐る恐る問いかけると、智哉さんはゆっくりとこちらを振り返った。その表情はいつものように冷徹で読み取れないが、隠し事など一切通用しない漆黒の瞳が私を捉える。「……あぁ。途中からな」彼の短く肯定する言葉に、私は心臓が跳ね上がる。でしゃばった真似をして彼の顔に泥を塗ってしまったかもしれないと、慌てて頭を下げた。「す、すみません……っ!勝手に偉そうなことを言ってしまって」私の謝罪を遮るように、微かなため息が頭上から降ってきた。怒られる、と身をすくめた次の瞬間。私の頭に、大きくて温かい手のひらがそっと乗せられた。そして、まるで壊れ物を扱うかのように、私の髪をゆっくりと優しく撫で始めた。その不器用で甘い手つきに、私は驚いて息を呑んだ。「怒っているわけじゃない。……よくやった」普段の彼からは想像もつかないほど、穏やかな声。「え……?」呆然と顔を上げた私と、至近距離で視線が絡み合う。「篠原の妻として、一歩も引かずに完璧な振る舞いだったと褒めているんだ」それは私にとって最高の褒め言葉であるはずなのに、同時に、これはあくまで契約上の役割に対する評価なのだという現実を突きつけられた気がした。彼の優しさは、私が完璧な防壁として機能したことへの報酬でしかないのだと。そう思うと、胸の奥がチクリと痛んだ。「……もうここには誰もいませんから、優しくする必要なんてないんですよ」これ以上彼の甘い
Last Updated: 2026-07-29
Chapter: 第100話
「侮辱していないと…?」 「はい…っ!」 あんなことを言っておきながら、よく平気で嘘をつけるものだ。 素直に謝ってくれれば、少しは許せるのに。 「地味で冴えない女が篠原家の奥様だなんて、恥ずかしい。…あぁ、それから、智哉さんが調子に乗っているとも言っていましたね。愛人を囲っているとも」 「それは、なにかの聞き間違えで…」 これ以上、この人の自己保身のための見苦しい嘘を聞いてあげる義理はない。 「言い訳なら結構です」 私の真っ直ぐな言葉に、彼女は完全に返す言葉を失い、「私はただ…っ」と情けない声を漏らして顔を蒼白にした。「私は、あなたみたいな方に認められる人間にはなりたくありません」表面的な価値や地位だけで人を値踏みし、陰で嘲笑う。そんな薄っぺらい世界で生きる彼女に評価されたいなどとは微塵も思わない。毅然と突き放した私の言葉に、彼女の瞳が大きく見開かれた。「奥様……っ」すがりつくような哀れな声が廊下に落ちる。けれど、彼女に情けをかける気はなかった。 「あなたが裏でどう思っていようと、彼が私を選んでくれた事実も、彼の本当の価値も、決して揺らぐことはありませんから」左手の薬指で光るプラチナリングの重みを確かめるように手をギュッと握り込み、震える彼女の目を真っ直ぐに見据えて、力強く宣言した。「おね、お願いです……っ。このことは、どうか……!」彼女が言わんとしていることは明白だった。智哉さんや責任者に報告されては、自分のキャリアが終わってしまう。なりふり構わず保身のためにすがりついてくる哀れな姿を見下ろし、私は静かに息を吐いた。「彼に報告するつもりはありません」私のその穏やかな言葉を聞いた瞬間、彼女の引き攣った顔にパッと安堵の色が広がり、最悪の事態を免れたとばかりに深く頭を下げよ
Last Updated: 2026-07-28
Chapter: 第99話
後輩たちを前にして、ズタズタにされたプライドを取り繕うとしているのだろう。 「慣れてるじゃない…」 誰かに陰口を叩かれることなんて、慣れてるんだから。 聞かなかったことにしよう。 私はギュッと目を閉じた。 私がここで腹を立てて騒ぎを起こせば、それこそ「篠原の妻は品がない」と笑われるだけだ。 けれど…私は膝の上の手を強く握りしめた。 私が笑われるのはいい。でも、私がここで黙って引き下がれば、智哉さんの悪評へと直結してしまう。 一言だけ。私を馬鹿にするのは勝手だけれど、智哉さんの妻としての立場は弁えていると、それだけは伝えてこよう。 意を決して立ち上がり、カーテンの方へ一歩足を踏み出した、その瞬間だった。 「大体、篠原様も篠原様よ。若くしてトップに立ったからって調子に乗ってるんじゃないかしら? 」 ピタリと、私の足が止まった。 「あんな価値の分からない小娘を溺愛するフリをして…どうせ裏では、モデルか女優の愛人でも囲ってるに決まってるわ。あんなの、すぐボロが出て社交界の笑い者になるわよ」 頭の中で、何かがプツンと音を立てて切れる。 私を馬鹿にされるのは耐えられた。でも、不器用ながらも必死に私を守り、私のために優しい言葉をかけてくれた彼を。誰よりも真摯に篠原グループという重圧と戦っている智哉さんを、何も知らない他人が侮辱することだけは、絶対に許せなかった。 気がついた時には、私は従業員室を仕切る分厚いカーテンを、力任せに勢いよくめくり上げていた。 「…っ!?」 急に開かれたカーテンとそこに立つ私の姿に、ベテラン店員と、彼女を宥めていた数人の店員たちがヒッと息を呑んで硬直した。 私は自分でも驚くほど冷たく、怒りを湛えた声で、怯えるベテラン店員を真っ
Last Updated: 2026-07-27
その魔法が解ける前に

その魔法が解ける前に

この家に、私の居場所なんてなかった。 幸せになることも、誰かに愛されることも、すべて諦めていた。 そんなある日、突然、縁談の話が舞い込んでくる。 どうせその人も、みんなと同じなんだろう。 そう思っていたけど…?
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Chapter: 第170話
「うまっ! これめちゃくちゃ美味しい!」 雄大さんはスプーンいっぱいにすくった熱々のシチューを勢いよく口に運ぶと、目を大きく見開いて感動の声を上げた。 そのあまりにも素直で気持ちのいい食べっぷりに、料理を作った側としてはこれ以上ないほどの喜びを感じてしまう。 「お口に合ってよかったです」 私の返事を聞いて、雄大さんは「ほんと、お店に出せるレベルだよ!」と大げさに褒めてくれる。 彼はふと何か思いついたように顔を上げ、私の顔と、静かに食事を進めている壱馬さんの顔を交互に見比べた。そして、少し羨ましそうな、それでいて本気とも冗談ともつかないようなトーンで突然突拍子もない提案を口にした。 「いいなぁ、こんな美味いご飯が毎日食べられるなんて。俺も毎日通っちゃおうかな」 毎日通うだなんて、雄大さんらしい思い切った冗談に聞こえて笑ってしまう。仮にその突拍子もない言葉が半分、いや全部が本気だったとしても、嫌だとは思わなかった。毎日の食事の準備や買い出しは今より少しだけ大変になるかもしれないけれど、こんなにも美味しそうに私の作った料理を食べてくれる人がもう一人増えるのなら、料理を作る身としては凄く嬉しい。ただ、スーパーに行く回数が増えることだけが…。 「ふふっ、お時間がある時ならいつでも大歓迎ですよ」 私がにこやかにそう答えると、雄大さんは子供のように両手を上げてガッツポーズをした。 ズボンのポケットからゴソゴソと自分のスマートフォンを取り出すと、目を輝かせながら身を乗り出し、私に向けてそのスマートフォンの画面を突き出すように見せてきた。 「じゃあさ、行く前に連絡したいから連絡先教えてよ!」 確かに、いつ来るかわからない状態よりも、事前に連絡をもらえた方が食材の買い出しや準備の都合がつけやすくて断然助かる。それに、こうして親しくお話をするようになったのだから、連絡
Last Updated: 2026-05-30
Chapter: 第169話
「うわ、もうこんな時間か」 お玉でかき混ぜていたシチューの鍋からふわりと立ち上る温かな香りに包まれながら、私はゆっくりと雄大さんの方を見る。 リビングのソファでだらだらとスマートフォンを眺めていた雄大さんが、画面右上にある時計の表示でも見たのか、大きく伸びをしながら天井を仰いでいた。 窓の外はすっかり暗くなり、街灯のオレンジ色の光がカーテンの隙間から細く差し込んでいる。 今日は夕方から急に冷え込んできたから、温かい料理を作っていて正解だったかもしれない。 「よろしければ、夕食食べていきませんか?」 ちょうど多めに食材を買い込んでいたこともあり、お鍋の中には三人分でも十分に足りる量のシチューがたっぷりと煮込まれていた。 それに、賑やかな食卓になるのは私も嬉しい。 「え、マジ? いいの?」 彼の顔がパッと明るくなり、無邪気な表情が浮かんだ。ソファから勢いよく身を乗り出すあまり、クッションが床に落ちそうになるのを慌てて押さえている様子がおかしくて、私は思わずふふっと声を漏らして笑ってしまった。 まな板の上の野菜を片付けながら、私はカトラリーのセットを新しく用意しようと、食器棚の方へと歩みを進めた。 木製のスプーンとフォークを取り出しながら頷く。 「はい、多めに作ってあるので」 私の返事を聞いた雄大さんは、両手を軽く叩いて心底嬉しそうなジェスチャーを見せた。 「やった! じゃあお言葉に甘えて──────」 雄大さんの歓喜の言葉は、リビングの入り口に姿を現した長身の影によって無惨にも途中で遮られた。 「少しは遠慮しろ」 仕事帰りのはずなのに、その立ち姿には疲労感よりも特有の威圧感のようなものが漂っていて、ピシッと整ったスーツ姿がリビングの緩みきった空気を一瞬にして引き締める。 それなのに、雄大さんは悪びれる様子もなくへらへらと笑ってみせた。 「あ、壱馬。おかえりー」 雄大さんの気楽な挨拶に対して、壱馬さんは短く鼻を鳴らして応えた。 上着を脱ぎながらこちらへ歩いてくる彼の姿を追いながら、私も手を休めて正面に向き直る。 普段は夜遅くまで仕事に追われていることが多い壱馬さんが、こんなに早く帰宅するのは珍しいことだった。 「壱馬さん、おかえりなさい。今日は早かったですね」 私の問いかけに、壱馬さんはスーツのジャケットを椅子に掛けながら静
Last Updated: 2026-05-29
Chapter: 第168話
「花澄ちゃんがいてくれて、俺の方こそすごくホッしてるんだ」「私が……ですか?」思いがけない言葉に、私は思わず目を瞬かせた。「あいつ、昔から何でも一人で抱え込む癖があって。周りには平気な顔をして、自分だけで乗り越えようとするんだけどさ」少しだけ苦さを滲ませた声で呟き、雄大さんはふうっと短く息を吐いた。その吐息には、長年親友を見守ってきた彼ならではの、歯がゆさと慈愛が深く入り交じっているように聞こえた。 私が知っている壱馬さんの完璧な微笑みの裏側にある、決して誰にも見せようとしない脆さ。それを誰よりも知っている雄大さんの横顔は、明るく陽気な雰囲気からは想像もつかないほど静かで、どこかひどく切なげだった。「だからね、あいつが花澄ちゃんのことで一喜一憂したり、柄にもなく余裕なくしたりしてるのを見ると…。ああ、やっとあいつの心をこんなに揺さぶる人が現れたんだなって、嬉しくなるんだよね」からかうように悪戯っぽく片目を瞑ってみせる雄大さんに、私はどう返していいか分からず、再び熱を帯び始めた頬を隠すように小さく俯くしかなかった。私の些細な言動が、彼の中に波風を立てているのだとしたら。それはなんて恐ろしくて、なんて幸せなことなのだろう。「まだまだ、私にできることは少ないかもしれないですけど……」絞り出すように紡いだ私の言葉は、情けないことにかすかに震えていたかもしれない。背伸びをして彼にふさわしい自立した女性になろうとしても、その道のりは果てしなく遠く思えて、時折どうしようもない無力感に襲われる。それでも、少しでも彼の力になりたいという嘘偽りのない本音だけは、どうしても伝えたかった。「そんなことないと思うよ。ただ、そばにいてくれるだけで救われることだってあるから」その真っ直ぐで嘘のない声に、私は顔を上げた。気の利いた言葉が言えなくても、彼と対等な立場で支え合うにはまだ時間がかかるとしても、今の私なりにできることが確実にあるのだと、雄大さんが肯定
Last Updated: 2026-05-28
Chapter: 第167話
「え……?」ポツリと落ちた雄大さんの言葉に、私は弾かれたように顔を上げた。あんな顔って、一体どんな顔だったのだろう。私が知らない壱馬さんの表情を想像して、思わず聞き返してしまう。「あ、いや、何でもないよ。こっちの話」雄大さんは少し悪戯っぽく笑って、ひらひらと手を振った。深く追求してはいけないような気がして、私はそれ以上踏み込むことができず、微かに熱の残る頬を冷ますように小さく息を吐いた。「……でも、少し羨ましいです」ぽつりと溢れた私の声に、雄大さんが「ん?」と小首を傾げる。「壱馬さん、雄大さんと一緒にいる時はすごく自然体で…」カップの縁を指先でなぞりながら、私は自分の中にあるもどかしさを言葉にしていく。雄大さんと話す時の壱馬さんは、私が普段見ている彼とは少し違っていた。言葉遣いも少しだけ荒っぽくなって、どこか少年のような、飾らない等身大の男性という感じがする。私と一緒にいる時の壱馬さんは、いつだって完璧で、エスコートもスマートで、驚くほど優しい。雄大さんの前で見せるような、力の抜けた素の壱馬さんを引き出せるのは、長い時間を共に過ごし、深く理解し合っている雄大さんだからこそなのだと思う。私に向けてくれる甘く優しい微笑みももちろん大好きだけれど、本当はもっと、彼の中にある泥臭い部分、不器用なところにも触れてみたい。「私にはまだ……見えない壁があるというか。優しくしていただいている分、気を遣わせてしまっているんじゃないかって、時々不安になるんです」私に向けられる優しさが特別なものだとしても、彼にとって一番居心地のいい場所は、まだ私ではないのかもしれない。そんな身勝手な劣等感が、せっかくの嬉しい気持ちに薄い影を落としていた。彼が何の鎧も纏わずに、ただ息をするように傍にいられる一番安らげる場所が私であればいいのにと、そんな身の程知らずな独占欲が心の奥底で静かに渦巻いていた。沈黙が降りた数秒の間、私は自分のひねくれた感
Last Updated: 2026-05-27
Chapter: 第166話
「壱馬は…」雄大さんがふと言葉を区切り、どこか遠くを見るような目をした。彼らの間に流れる、私が立ち入れないほどの長い時間と深い絆の前に、急に自分がひどく場違いで、身の程知らずな存在に思えて仕方がなくなってしまった。「す、すみません。私なんかよりも、雄大さんの方が壱馬さんを知っていらっしゃるのに」自分の声が緊張で少し震えている。壱馬さんのことを知った風な口を利いてしまった自分が恥ずかしくて、顔が急激に熱くなっていく。どうにかしてこの気まずい空気を誤魔化そうと、私はぎこちなく口元だけで笑ってみせたけれど、きっと引き攣った表情になっていたに違いない。「いや、壱馬のことをちゃんと見てくれてるんだなって」予想に反して、雄大さんの声はどこまでも穏やかで、包み込むような温かさに満ちていた。呆れられたり、怒られたりするかもしれないという私の被害妄想は、その一言で見事に打ち砕かれる。「え?」間抜けな声が、思考よりも先に口から漏れてしまった。私は丸くした目をパチパチと瞬かせながら、雄大さんの次の言葉を待つことしかできず、ただただ固まってしまった。「よく素っ気ない奴って思われるけど、本当は誰よりも優しい奴んだよ」雄大さんの言葉が、私の心の中にある壱馬さんへの想いと完全に重なり合い、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。「壱馬さんは、初めて会った時から私に手を差し伸べてくださって」気がつけば、溢れ出る想いを止められずに言葉が口から飛び出していた。壱馬さんの大きな手が、どれほど温かく私を引っ張り上げてくれたか。「壱馬にとって花澄ちゃんも同じだと思うよ」同じという響きが、あまりにも現実味がなくて、一瞬耳を疑う。壱馬さんにとって、私が? あの完璧で、どこか遠い世界にいそうな彼にとって、私のような存在が何か影響を与えているなんて、そんな大それたことを想像すらしたことがなかった。「壱馬さんも…?」かすれた声で、どうにかそれだ
Last Updated: 2026-05-26
Chapter: 第165話
「おじゃましまーす。壱馬の家来るの久しぶりだなぁ」雄大さんの屈託のない明るい声が、静かな玄関に響き渡る。壱馬さんのパーソナルスペースに別の男性を招き入れてしまったことへの申し訳なさと、この後どうやって間を持たせればいいのかという焦りが入り混じり、私は玄関口で立ち尽くしてしまった。何かおもてなしをしなければと頭をフル回転させるものの、手持ち無沙汰になった私は、緊張で少し震える手を隠すように、とっさに彼に向かってある提案を口にしていた。「コーヒーを…」緊張のあまり気の利いた言葉が浮かばず、半ば逃げるように口走ってしまった。私はそわそわと視線を泳がせながら、キッチンの方へと少しだけ体を向けた。「ありがとう」雄大さんの明るく気さくな声が、部屋に優しく響いた。そもそもこんな状況になっているのは、私が壱馬さんの過去について余計な詮索をしてしまい、その流れで雄大さんを巻き込んでしまったからで。壱馬さんの大切な友人にまで手間を取らせて気を遣わせている自分が情けなくて、私は咄嗟に謝罪を口にしていた。「私が余計なこと言ったせいで、すみません」戸棚からコーヒー豆とドリッパーを取り出し、お湯を沸かしながら慎重に準備を進めた。お湯を細く円を描くように注ぎ入れると、モコモコと粉が膨らみ、深く香ばしい匂いが部屋中に広がっていく。「そんなことないよ。俺も花澄ちゃんと仲良くなりたかったし」雄大さんはそういいながらソファーに座る。そのゆったりとした動作をキッチンの端から見つめながら、私は張り詰めていた肩の力を抜き、小さく息を吐き出した。震えそうになる手で、出来上がったコーヒーをそっと差し出した。「ありがと」マグカップを受け取る時、雄大さんがふと見上げたその眼差しは、とても優しくて人懐っこいものだった。壱馬さんとはまた違う、周囲の人間を自然とリラックスさせるような不思議な魅力が彼にはある。湯気が立ち上るコーヒーを前に、彼がホッと一息つく姿を見て、私も少し
Last Updated: 2026-05-25
私の事が大嫌いだったはずの旦那様が記憶喪失になってから、私を溺愛するようになったのですがこれは本当に現実ですか!?

私の事が大嫌いだったはずの旦那様が記憶喪失になってから、私を溺愛するようになったのですがこれは本当に現実ですか!?

かつて冷たく私を突き放していた旦那様が、記憶を失ってからというもの、まるで恋に落ちたかのように優しくなった。今では、私を誰よりも大切にしてくれて、どうやら私の事が好きすぎて仕方がないらしい。
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Chapter: 第228話
「『彩花ちゃんは預かった。無事に返して欲しければ、今すぐ俺の会社まで飛んでこい』…ってね」颯斗さんは悪戯っ子のように片目をつむってみせた。 ソファーに軽く腰を掛け長い脚を組むその姿は、誘拐犯という物騒な言葉とはひどく不釣り合いなほど優雅だった。 からかわれているのだと頭では理解しつつも、彼のあまりにも堂々とした物言いに、私は少しだけ戸惑いを隠せなかった。 「そんな誘拐犯みたいなセリフ……。もしかして、湊さんをここに呼び出すために私を連れてきたんですか?」 彼の表情には微塵の悪意もなく、純粋にこの状況を楽しんでいるような、余裕に満ちた柔らかな微笑みが浮かんでいた。 「ははっ、まさか。ただ、あいつがどんな顔をするか、ちょっとからかってみたかっただけだよ」 その悪気のないあっけらかんとした口調に、私は大きな安堵の溜め息をつくと同時に、ほんの少しだけ呆れたような視線を彼に向けた。 「湊さん、怒ってないといいんですけど……」 心底心配そうに眉を下げて呟く私を見て、彼は「殴られるかもしれないね」と事もなげに笑い飛ばした。 そして、ふいにその切れ長な目元から悪戯っぽい光を消し去り、スッと背筋を伸ばして声のトーンを一段階落とした。 場の空気が、弛緩した日常のそれから、プロフェッショナルとしてのピンと張り詰めたものへと一瞬にして切り替わるのを肌で感じた。 「まあ、湊の機嫌は一旦置いておくとして。ここからが彩花ちゃんを呼んだ本当の本題なんだけどね」 彼の静かな、それでいて確かな熱を帯びた声色に促されるように、私は無意識のうちに背筋を伸ばし居住まいを正した。 膝の上で両手を軽く握り締め、彼の言葉を一言も聞き逃すまいと真剣な眼差しを返す。 「俺がウェディングドレスのデザインをしてることは知ってくれてるよね?」 その問いかけに対し、私は迷うことなく力強く何度も頷いた。颯斗さんが女性の一生に一度の晴れ舞台のためにどれほどの時間と情熱を費やし、一本の糸、一枚の布にまで妥協のないこだわりを持っているかを、私はこれまでの関わりの中で痛いほど理解しているつもりだった。 「はい、もちろん存じています。女性の憧れをそのまま形にしたような、本当に素敵なウェディングドレスですよね」 私の心からの賛辞を受け取った彼は、照れ隠しのように前髪をふわりと掻き上げながら、どこか誇
Last Updated: 2026-07-03
Chapter: 第227話
「どうしてですか?」私の純粋な疑問の声が空気を震わせた直後、突然、静寂を切り裂くようにして電子音が鳴り響いた。颯斗さんは面倒くさそうにゆっくりとポケットからスマートフォンを取り出した。「げ…噂をすれば湊だ」颯斗さんの口から飛び出したその名前に、私の心臓が大きく跳ねた。颯斗さんは一向に応答ボタンを押そうとせず、ただ画面をじっと見つめたていた。その様子があまりにも不自然で、私は思わず彼の顔と携帯を交互に見比べてしまった。「取らなくていいんですか?」着信音は依然として鳴り止まず、周囲の空気をじりじりと焦がしていくように感じられる。普通ならすぐに出るはずなのに、どうしてこんなにも躊躇っているのだろうか。「まぁ、いいかな」颯斗さんはそう言って、携帯をパタンと裏返してテーブルの上に置いてしまった。何か重要な用事でかけてきているかもしれないのに、そんなにあっさりと切り捨ててしまっていいのだろうか。すると、今度は私の携帯が鳴った。画面には『湊さん』の文字がはっきりと表示されている。「あ、私にも…」そう言いながら、応答ボタンに指を伸ばそうとした。突然、横からすっと伸びてきた大きな手が、私の携帯を素早く取り上げてしまった。「えっ?」間の抜けた声を出す私の目の前で、彼は何事もなかったかのように涼しい顔をした。「携帯預かっとくね」「え、でも」食い下がるようにそう声を絞り出すのがやっとだった。「実際に見てもらう方がいいからさ」颯斗さんの言葉は、さらなる混乱を私にもたらした。彼の意図が読めず、私はただ呆然とその顔を見つめ返すことしかできなかった。颯斗さんの口元には、かすかに面白がるような笑みが浮かんでいるように見える。まるで、これから起こるであろう波乱の展開を期待し、楽しんでいるかのような、そんな意地悪な笑みだった。
Last Updated: 2026-05-21
Chapter: 第226話
「いや、なんでもない。これ言ったら本気で怒られる気がする」颯斗さんは何かを言いかけて、笑みを浮かべたまま言葉を濁した。ちょうどその時、コンコンと控えめで上品なノックの音と共に、扉が開かれた。「失礼致します」先程の女性が部屋に入ってきた。手には淹れたてのコーヒーが乗ったトレイを持っている。ふわりと、どこかフローラルで上品な香水の匂いが私の鼻先をかすめた。とてもいい匂いで、彼女の魅力をより引き立てている。デザイン会社の秘書というだけあって、彼女の服装は単なるオフィスワークの制服のようなものではなく、洗練されたオフィスカジュアルで非常にオシャレだった。かっちりしすぎず、かといって砕けすぎない絶妙なバランス。社内全体に漂うこの自由な感じが、のびのびとした環境を作り出しているのだろう。こういう型にはまらない空気感があるからこそ、世間の目を惹きつけるようないい作品が次々と生まれるのだろうなと感心しながら、彼女の無駄のない動きを見つめていた。「ありがとうございます」私の前にも静かにカップが置かれ、上品な湯気が立ち上る。私は彼女の丁寧な気遣いに心から感謝しながら、小さく頭を下げてそのカップを両手で包み込むように持ち上げた。 ふうっと軽く息を吹きかけてから、火傷しないようにそっとひとくち飲んでみた。舌の上に広がったのは、大人びた強い苦味だった。思わず眉がほんの少しだけ寄ってしまいそうになるのを誤魔化すように、私はゆっくりと息を吐き出しながらカップをソーサーに戻した。「颯斗さんの会社、相変わらずオシャレですね」苦いコーヒーの余韻をごまかしつつ、私は室内を改めてぐるりと見渡した。どこを見ても一枚の絵になるような、計算し尽くされた空間美に圧倒されてしまう「相変わらず?」初めて来たはずの私が、どうして以前から知っているような口ぶりをしたのか不思議に思うのは当然だ。颯斗さんの表情を見て、私は慌てて自分の記憶の出処を説明しなければと思い、少しだけ早口になりながら次の言葉を探す。「あ、雑誌で見たことがあって。その時から素敵だと思ってたんですが、実際に見れるとは思っていませんでした」写真越しでも十分に伝わってくるその洗練された空気感にすっかり惹きつけられ、何度もページをめくっては隅々まで眺めていたことを思い出す。「えー、言ってくれたらすぐ招待したのに」颯
Last Updated: 2026-05-20
Chapter: 第225話
颯斗さんに案内されてたどり着いたのは、都心の一等地に建つガラス張りの洗練されたオフィスビルだった。エントランスを抜けた瞬間から漂うスタイリッシュな空気に、私は思わず足取りが重くなる。すれ違うスタッフたちから次々と丁寧に挨拶される颯斗さんの姿を見て、彼がトップデザイナーであり、この会社のトップなのだとまざまざと見せつけられた気がした。最上階へ向かうエレベーターの中で、私は自分のカジュアルすぎる服装を少し後悔しながら、悟られないように小さく息を吐き出した。やがて到着したふかふかの絨毯の廊下の奥。一際目を引く重厚な扉を颯斗さんがスマートに開け放ち、振り返って私に優しく微笑みかけた。 「どうぞ」颯斗さんの優しくも余裕のある声に促され、私は思わず小さく肩をすくめてしまった。目の前で静かに開いた重厚なガラス扉の奥には、私が普段足を踏み入れることのないような洗練された空間が広がっていて、入るのを一瞬ためらってしまうほどだ。そんな私の緊張を察したのか、颯斗さんは軽い足取りで先へと進み、手で柔らかく中を示す。彼の背中を追いかけるようにして、部屋に足を踏み入れた。 「失礼します…」緊張でガチガチになっている私とは対照的に、颯斗さんはとてもリラックスした様子で部屋の奥へと進んでいく。そして、ごく自然な動作でスッと手のひらを向け、向かいの席に座るよう促してくれた。私はそのエスコートに導かれるまま、おずおずとソファーに浅く腰を掛けた。 「コーヒーでいい?」その不意の問いかけに、私はビクッと肩を揺らしてしまった。ただでさえこんな立派で洗練された空間に招き入れてもらって、場違いなところに迷い込んでしまった迷子のような気分でいるのに、これ以上の厚遇を受けるなんて申し訳なさが勝ってしまう。「あ、はい。でも、お気遣いなく」颯斗さんは私の戸惑いなどお見通しだという風に少しだけ首を傾げながら、柔らかいけれど有無を言わせない声でピシャリと遮った。
Last Updated: 2026-05-19
Chapter: 第224話
「パーティー以来だね。元気にしてた?」フロントガラスから差し込む午後の光を浴びながら、ハンドルを握る颯斗さんが何気なくそう言った。その軽やかなトーンが、あの一晩の華やかな喧騒を瞬時に私の脳裏に蘇らせた。あの日以来の再会だけど、まさかこんな風に彼の車の助手席に滑り込むことになるなんて。「はい。颯斗さんも、相変わらずお元気そうで」私のちょっとからかうような返答に対して、颯斗さんは前方を見つめたまま、やっぱりいつもの少年のような笑みを浮かべた。「まーね」いたずらっぽく笑う彼のその一言で、車内の空気は一気に穏やかな空気になった。そういえば…。今こうして彼が私を車に乗せて走らせている状況への純粋な疑問が、すとんと胸に落ちてくる。「しばらくの間は日本にいらっしゃるんですか?」世界中の花嫁が憧れるウエディングドレスを次々と生み出す、超多忙なトップデザイナーで、世界を股に掛けて飛び回っているのが日常のはず。そんな彼が、なぜ私の隣で楽しそうにハンドルを握っているのだろう。「うん。当分はね」彼が日本に長期間滞在してまで取り組もうとしている何か。そして今、明確な目的地を持って迷いなくアクセルを踏み込んでいるその足取りの良さが急に気になり始める。「ところで、どこに向かってるんですか?」「俺の会社」その短い答えが彼の口から飛び出したとき、私は思わず目を見開いて彼を見た。「颯斗さんの?」前に雑誌で颯斗さんの会社を見たことがあった。全面ガラス張りの圧倒的な開放感の中に、世界中から集められた極上のシルクや繊細なレースのロールが美しくディスプレイされた、まるで美術館のようなアトリエ。あの洗練された聖域に、今から自分が向かっているらしい。私の驚きに満ちた声を、彼は速度を落とすことなく、むしろ私の反応を完全に楽しむかのように言い返した。「詳しい話は会社に着いてから」
Last Updated: 2026-05-18
Chapter: 第223話
あれから一週間。過去はなかったことにはならないし、私の罪が消えるわけではない。根本的には何も解決していないって分かっているけれど、私は今の湊さんだけを見るって決めたから。「今が幸せなら、それでいいんだよね」ポツリと呟いた自分自身の言葉は、誰に聞かせるわけでもなくただ空の彼方へと溶けていく。心を落ち着かせるようにエコバッグの持ち手をぎゅっと握り直して前を向いた、その時だった。一台の黒い高級車が音もなく近づいてきて、私の横にピタリと停車した。滑らかな動作で運転席の窓がスルスルと下がっていき、そこからひょっこりと顔を出したのは、全く予想もしていなかった人物だった。「彩花ちゃん」「颯斗さん!」私の少し間抜けなほど驚いた顔を見て、颯斗さんは「ははっ、驚かせてごめん!」と言い、いつもの屈託のない笑顔を見せた。颯斗さんと会うと、不思議と張り詰めていた心がスッと軽くなるような気がする。きっとそれは、彼が持ち合わせている生来の人の良さからくるものなのだろう。彼は運転席から少し身を乗り出すようにして、リラックスした様子で私に語りかけてきた。「今から家に行こうとしてたんだけど」颯斗さんが家に来るということは、当然、湊さんに何か用事があるのだろうけど…。「湊さんなら会社です」わざわざ足を運んでくれた颯斗さんを無駄足にさせてしまう申し訳なさを感じながら、少し困ったように眉を下げた。けれど、私の言葉を聞いても、颯斗さんは特に残念がる素振りは見せなかった。「じゃなくて、彩花ちゃんに会いたくて」私は一瞬自分の聞き間違いではないかと疑ってしまった。湊さんではなく、わざわざ私に会いに来る理由が全く思い当たらなかったから。目をパチパチと瞬かせながら、私は自分自身の顔を指差して、まるで確認を取るようにそのままオウム返しをしてしまった。「私ですか?」不思議そうな顔をして首を傾げている私を見
Last Updated: 2026-05-17
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