Chapter: 第147話私は繋いだ両手にさらに力を込め、雨音を切り裂くように必死に頭を振って叫んだ。「そんなわけないじゃないですか!お義母様がお亡くなりになったのはご病気のせいで……お父さんは、不運な事故だったんです! 決して、智哉さんのせいなんかじゃありません……!」私がどれだけ言葉を尽くして事実を突きつけても、彼が長年抱え込んできた深い絶望の闇は、そう簡単に晴れるものではなかった。「いや……俺が新薬開発に縋らなければ、拓真さんは今も生きていたはずだ」私は彼が一人で耐え続けてきた地獄の深さに胸を締め付けられ、震える唇を開いた。「もしかして、今までずっとそんなふうに自分を責め続けていたんですか……?」彼にとって、私は恩人の遺した大切な娘であり、同時に自分の罪を永遠に突きつけてくる鏡のような存在だった。だからこそ、今日という日だけは私を遠ざけようとしたのだろう。「俺は、ただの人殺────────」「馬鹿なこと言わないでください……っ!」私の痛切な叫びが雨空に響き渡ると、智哉さんが微かに息を呑むのが分かった。私の中で、悲しみよりも先に強烈な怒りが沸き起こった。それは私自身に向けられたものでも、彼に向けられたものでもなく、彼をこんなにも長い間縛り付け、苦しめ続けてきた過去の理不尽な運命に対する怒りだった。「お父さんは、誰かに縋られたからって嫌々自分の命を削るような、そんな弱い人じゃありません! 自分の意志で、お義母様を救いたいと心から願っていたはずです!」彼はずっと自分が無理をさせたせいだと、己の幼い頃の懇願が父を死に追いやったのだと信じ込んで生きてきたのだろう。自分のエゴが恩人を殺したのだと。けれど、それは父という人間を根本から見誤っている。研究に没頭していた父は、決して他人の強要だけで動くような人ではなかった。困っている人を放っておけず、誰かの笑顔のために自分の知識と人生を捧げられる、優しくて強い人だった。「お父さんがお義母様の薬を必死に作ろうとしたのは……大切なお母様を助けたいって必死に願
Last Updated: 2026-09-15
Chapter: 第146話今まで、どんなに不器用な態度であっても必ず私の側に寄り添ってくれていた彼が、今はまるで汚らわしい異物を排除するかのように冷え切った瞳で私を見下ろしている。ドレスに染み込んだ雨水の冷たさよりも、彼から放たれる拒絶のオーラの方が何倍も冷たかった。「どうしてそんなことを言うんですか……」私の悲痛な問いかけにも、智哉さんはピクリとも表情を変えなかった。彼の手から力なく垂れ下がった黒い傘に、大粒の雨が当たっては空しく弾け飛んでいる。彼は、自分がずぶ濡れになっていることなど全く意に介していない様子で、ただ私という存在をこの場から一刻も早く遠ざけることだけを目的としているようだった。「俺の言葉が聞こえないのか。今すぐ帰れと言っている」私は雨水で重くなったドレスの裾を引きずりながら、彼との距離をさらに半歩だけ詰め、真っ向から突きつけた。「今日が、お義母様のお誕生日だからですか……?」その言葉を口にした瞬間、智哉さんの広い背中が大きくビクッと跳ねた。彼の瞳が鋭く細められ、私を射抜くような強い視線が向けられた。「……お前には、関係のないことだ」そう低く吐き捨てると、智哉さんは私との会話をこれ以上続ける気はないというように、強引に私の横を通り抜けようと歩みを進めた。私は振り返りざまに手を伸ばし、彼の大きな右手を両手でギュッと力強く掴み取った。「どうして……っ! どうしてそうやって突き放すんですか!」濡れて氷のように冷たくなっていた彼の手のひらを握りしめ、私は泣き叫ぶような声で抗議した。契約結婚の条件として、必要以上の干渉はしないと約束していたはずの私が、彼に直接触れてまで引き留めるなど、完全にルール違反の越権行為だ。けれど、彼の手はひどく冷たくて、そして微かに震えていた。この震えを放っておくことなど、私にできるはずがない。智哉さんは私の顔を睨みつけると、その繋がれた手を振り払おうと、低い声で警告した。「……離せ」言葉こそ鋭く危険
Last Updated: 2026-09-14
Chapter: 第145話進路を大きく変更し、車が郊外の広大な霊園へと向かい始めてからすでに三十分が経過した。黒崎さんの的確な運転のおかげで道は順調だったけれど、窓の外の天候は悪化の一途を辿っていて、叩きつけるような大粒の雨が容赦なく車体を打ち据えている。「…智哉さん、まだ霊園にいらっしゃるでしょうか」私の不安げな問いかけに対し、黒崎さんはワイパーの速度を一段階上げながら、静かに首を縦に振った。「ええ。例年通りであれば、朝早くから訪れ、日暮れまでずっとお母様の墓前で話し込んでおられます。ですので、お会いできるはずです」黒崎さんの言葉を聞いて、私の胸の奥がさらにギュッと締め付けられた。彼は忙しい身でありながら、今日という日だけはすべての時間を亡き母のために捧げている。やがて車は、整備された巨大な霊園の入り口を抜け、敷地内へとゆっくりと進んでいく。窓ガラスに張り付いて外の景色を必死に探していると、ふと、通路をゆっくりと歩いてくる長身の男性のシルエットが視界に飛び込んできた。完璧な仕立ての黒いスーツ姿。間違いない、智哉さんだ。しかし、彼のその異様な姿を視認した瞬間、私の心臓はドクンと大きく跳ね上がった。「あ……っ」彼の手には、立派な黒い傘がしっかりと握りしめられている。それなのに、彼はその傘を差そうともせず、ただ力なく手に提げたまま土砂降りの雨の真っ只中を無防備に歩いていた。髪は無惨に濡れそぼって額に張り付き、高級なスーツは雨水を吸って重たく体にまとわりついている。まるで、自分自身に罰を与えているかのような、あまりにも痛々しく孤独な姿。それを見た瞬間、私はもう自分自身の理性を保つことができなかった。「く、黒崎さん……っ、車を止めてください!」私が半狂乱のような声で叫んだのと同時に、黒崎さんがハッと息を呑んでブレーキペダルを踏み込んだ。キュッと鈍い音を立てて車が停車すると、私は乱暴にドアのハンドルを引いた。ただ一刻も早く、彼をあの冷たい雨の中から引きずり出さなければならないという
Last Updated: 2026-09-11
Chapter: 第144話車内に流れる重苦しい沈黙を破るように、黒崎さんがハンドルを握る手にギュッと力を込め、スピーカー越しの会長に向かって謝罪を口にした。 「事前のご連絡を怠り、申し訳ございません、会長」その謝罪に対し、電話の向こうのお義父様は、すべてを包み込むような温かく落ち着いた声で、彼の苦労を労うように言葉を返した。 「いや、気にすることはないさ。智哉の頼みなら仕方がない。こちらも、仕事中にいきなり電話をして悪かったね」 お義父様のその穏やかで懐の深い言葉が、余計に私の胸の罪悪感を激しく刺激してくる。 もし最初から今日がどういう日かを知っていれば、私は絶対に智哉さんを一人にはしなかった。 「いえ、とんでもございません。それでは、失礼いたします」 ステアリングのボタンが押され、ピッと短い電子音が鳴ると共に、車内のディスプレイは再び無機質なカーナビの画面へと切り替わる。 通話が切れた後の車内には、外で荒れ狂う雨の音と、規則的にフロントガラスを拭うワイパーの動作音だけが聞こえた。 乾ききった喉を必死に動かし、前を向いたまま沈黙を保つ黒崎さんの背中へ向けて、震える声で問いただした。 「あの、もしかして今日って……智哉さんのお母様の、お誕生日だったんですか……?」 彼は雨の打ちつける前方から視線を外すことなく、ハンドルの上で指先を微かに動かしている。彼としても、智哉さんが意図的に私に隠していた個人的な事情を、自分の口からあっさりと認めてしまって良いものか迷っているのだろう。しかし、すでに会長の電話によってすべてを知ってしまった私に対して、今さら白を切ることは不可能だと悟ったようだ。 車内に深く、ひどく重い溜息が微かに漏れる。 そしてルームミラー越しに私の顔をちらりと確認すると、真実を口にした。 「……ええ。お亡くなりになった、智哉様のお母様のお誕生日でございます」 「私……外せない用事があるとおっしゃるから、てっきり会社での重要な仕事なのだとばかり……。そんな大切な日だったなんてことも知らずに、智哉さんに甘えてばかりで……っ」 そう零すと、堪えきれなくなった涙がポロリとこぼれ落ち、膝の上で強く握りしめていたサファイアブルーのドレスの生地に冷たいシミを作った。 しゃくり上げそうになるのを必死に堪え、私は両手で顔を覆って小さくうずくまった。そんな私をなだめるよ
Last Updated: 2026-09-10
Chapter: 第143話佐々木さんに完璧に着付けとメイクを施してもらい、深いサファイアブルーのドレスに身を包んだ私は、少しの緊張と共に重厚な玄関の扉を開けた。外は天気予報通りの冷たい雨が降りしきり、灰色の空がどんよりと街を覆っている。エントランスには高級車が止まっていて、その後部座席のドアの傍らには、ピンと張られた黒い大きな傘を手にした見覚えのあるスーツ姿の男性が立っていた。「お久しぶりです。本日は雨の中、お迎えをありがとうございます」私の声に気付いた秘書は、傘の柄をしっかりと握ったまま、深く一礼をした。「お久しぶりでございます、ひより様。お怪我の具合はもうよろしいのでしょうか」彼の表情はいつも通りに感情の読めない冷静なものだが、私の姿を見て、すぐに傘を差し掛けるように歩み寄ってきてくれた。「はい、おかげさまで足はすっかり良くなりました」彼の丁寧なエスコートのおかげで、私はドレスの裾を少しも濡らすことなく、革の匂いが漂う広々とした後部座席に滑り込むことができた。シートに腰を落ち着けると、彼も素早く運転席へと乗り込み、音もなく静かに車を発進させる。窓の外では雨足が徐々に強まり、ガラスを叩く規則的な音が車内に響いていた。「こうしてお話しするのも久しぶりですよね。最近はお姿をお見かけしませんでしたが、お元気でしたか?」私の問いかけに対し、前方の濡れた路面から視線を外すことなく淡々とした声で返答をした。「ええ、元気にやっておりました。ただ、少し急ぎの仕事が入りまして。その処理に、予想以上の時間を取られておりました」私を責めるようではなかったが、その急ぎの仕事の元凶が間違いなく私であることは明らかだった。智哉さんが家で私に過保護なまでの世話を焼いている間、彼は会社で一人、社長不在の穴を埋めるために活躍を強いられていたに違いない。「私が怪我をしてしまったばかりに、迷惑をかけしてしまって本当に申し訳ありません」私の謝罪の声を聞いて、黒崎さんはルームミラー越しに少しだけ困ったような笑みを浮かべた。「ひより様が考えていらっしゃるようなことではありませんよ。智哉様より他に頼まれていたことがありました」「そう、ですか」口ではそう言ってくれているけど、きっと私のせいだろう。「本日は、ひより様を会場まで確実に、そして安全にお送りするよう智哉様より厳命を受けております。道中、
Last Updated: 2026-09-09
Chapter: 第142話寝室のドレッサーの前で、私は佐々木さんに丁寧に髪を梳かしてもらっていた。 柔らかいブラシが頭皮を滑る心地よい感覚に身を委ねていると、鏡越しに彼女の優しげな微笑みと目が合う。 あれからあっという間に数日が経過し、智哉さんの過保護なまでの手厚いケアと、佐々木さんの完璧なサポートのおかげで、あれほど酷かった足の怪我は嘘のように綺麗に完治していた。 「いよいよ、明日は初めての婦人会ですね」 「はい。智哉さんと佐々木さんのおかげで、足もすっかり良くなりました。ありがとうございます」 私が心からの感謝を込めてそう答えると、佐々木さんは「それは何よりです」と嬉しそうに目を細めた。 もしあのまま私が無理をして歩き続けていたら、明日の本番には間に合っていなかっただろつ。 「仕立て上がったドレスも、本当に見惚れてしまうほどお似合いでしたよ」 あの日、結局仕立て屋さんと私が必死に折衷案を探り、選んだのはそのどちらでもない、深いサファイアブルーのドレスだった。 控えめでありながらも、動くたびに上質なシルクが上品な光沢を放ち、私の肌の色を美しく引き立ててくれる絶妙な色合い。 智哉さんも完成したドレスを見た時、少しだけ不満げに鼻を鳴らしつつも、その瞳にははっきりとした感嘆の色が浮かんでいたのを覚えている。 「ありがとうございます。智哉さんの希望した色にはできませんでしたけど、私にとって一番のお気に入りです」 私が心から嬉しそうにそう呟くと、佐々木さんはクスクスと笑い声を漏らした。 「ただ……あいにく、明日はお昼頃から強い雨が降る予報となっております。お足元には十分にお気をつけください」 雨という単語を聞いた瞬間、私の心臓がほんの少しだけ嫌な音を立てて跳ねた。 どうしてだろう、私が一人でパーティーに行く日は、決まっていつも冷たい雨が降る。
Last Updated: 2026-09-08
Chapter: 第228話「『彩花ちゃんは預かった。無事に返して欲しければ、今すぐ俺の会社まで飛んでこい』…ってね」颯斗さんは悪戯っ子のように片目をつむってみせた。 ソファーに軽く腰を掛け長い脚を組むその姿は、誘拐犯という物騒な言葉とはひどく不釣り合いなほど優雅だった。 からかわれているのだと頭では理解しつつも、彼のあまりにも堂々とした物言いに、私は少しだけ戸惑いを隠せなかった。 「そんな誘拐犯みたいなセリフ……。もしかして、湊さんをここに呼び出すために私を連れてきたんですか?」 彼の表情には微塵の悪意もなく、純粋にこの状況を楽しんでいるような、余裕に満ちた柔らかな微笑みが浮かんでいた。 「ははっ、まさか。ただ、あいつがどんな顔をするか、ちょっとからかってみたかっただけだよ」 その悪気のないあっけらかんとした口調に、私は大きな安堵の溜め息をつくと同時に、ほんの少しだけ呆れたような視線を彼に向けた。 「湊さん、怒ってないといいんですけど……」 心底心配そうに眉を下げて呟く私を見て、彼は「殴られるかもしれないね」と事もなげに笑い飛ばした。 そして、ふいにその切れ長な目元から悪戯っぽい光を消し去り、スッと背筋を伸ばして声のトーンを一段階落とした。 場の空気が、弛緩した日常のそれから、プロフェッショナルとしてのピンと張り詰めたものへと一瞬にして切り替わるのを肌で感じた。 「まあ、湊の機嫌は一旦置いておくとして。ここからが彩花ちゃんを呼んだ本当の本題なんだけどね」 彼の静かな、それでいて確かな熱を帯びた声色に促されるように、私は無意識のうちに背筋を伸ばし居住まいを正した。 膝の上で両手を軽く握り締め、彼の言葉を一言も聞き逃すまいと真剣な眼差しを返す。 「俺がウェディングドレスのデザインをしてることは知ってくれてるよね?」 その問いかけに対し、私は迷うことなく力強く何度も頷いた。颯斗さんが女性の一生に一度の晴れ舞台のためにどれほどの時間と情熱を費やし、一本の糸、一枚の布にまで妥協のないこだわりを持っているかを、私はこれまでの関わりの中で痛いほど理解しているつもりだった。 「はい、もちろん存じています。女性の憧れをそのまま形にしたような、本当に素敵なウェディングドレスですよね」 私の心からの賛辞を受け取った彼は、照れ隠しのように前髪をふわりと掻き上げながら、どこか誇
Last Updated: 2026-07-03
Chapter: 第227話「どうしてですか?」私の純粋な疑問の声が空気を震わせた直後、突然、静寂を切り裂くようにして電子音が鳴り響いた。颯斗さんは面倒くさそうにゆっくりとポケットからスマートフォンを取り出した。「げ…噂をすれば湊だ」颯斗さんの口から飛び出したその名前に、私の心臓が大きく跳ねた。颯斗さんは一向に応答ボタンを押そうとせず、ただ画面をじっと見つめたていた。その様子があまりにも不自然で、私は思わず彼の顔と携帯を交互に見比べてしまった。「取らなくていいんですか?」着信音は依然として鳴り止まず、周囲の空気をじりじりと焦がしていくように感じられる。普通ならすぐに出るはずなのに、どうしてこんなにも躊躇っているのだろうか。「まぁ、いいかな」颯斗さんはそう言って、携帯をパタンと裏返してテーブルの上に置いてしまった。何か重要な用事でかけてきているかもしれないのに、そんなにあっさりと切り捨ててしまっていいのだろうか。すると、今度は私の携帯が鳴った。画面には『湊さん』の文字がはっきりと表示されている。「あ、私にも…」そう言いながら、応答ボタンに指を伸ばそうとした。突然、横からすっと伸びてきた大きな手が、私の携帯を素早く取り上げてしまった。「えっ?」間の抜けた声を出す私の目の前で、彼は何事もなかったかのように涼しい顔をした。「携帯預かっとくね」「え、でも」食い下がるようにそう声を絞り出すのがやっとだった。「実際に見てもらう方がいいからさ」颯斗さんの言葉は、さらなる混乱を私にもたらした。彼の意図が読めず、私はただ呆然とその顔を見つめ返すことしかできなかった。颯斗さんの口元には、かすかに面白がるような笑みが浮かんでいるように見える。まるで、これから起こるであろう波乱の展開を期待し、楽しんでいるかのような、そんな意地悪な笑みだった。
Last Updated: 2026-05-21
Chapter: 第226話「いや、なんでもない。これ言ったら本気で怒られる気がする」颯斗さんは何かを言いかけて、笑みを浮かべたまま言葉を濁した。ちょうどその時、コンコンと控えめで上品なノックの音と共に、扉が開かれた。「失礼致します」先程の女性が部屋に入ってきた。手には淹れたてのコーヒーが乗ったトレイを持っている。ふわりと、どこかフローラルで上品な香水の匂いが私の鼻先をかすめた。とてもいい匂いで、彼女の魅力をより引き立てている。デザイン会社の秘書というだけあって、彼女の服装は単なるオフィスワークの制服のようなものではなく、洗練されたオフィスカジュアルで非常にオシャレだった。かっちりしすぎず、かといって砕けすぎない絶妙なバランス。社内全体に漂うこの自由な感じが、のびのびとした環境を作り出しているのだろう。こういう型にはまらない空気感があるからこそ、世間の目を惹きつけるようないい作品が次々と生まれるのだろうなと感心しながら、彼女の無駄のない動きを見つめていた。「ありがとうございます」私の前にも静かにカップが置かれ、上品な湯気が立ち上る。私は彼女の丁寧な気遣いに心から感謝しながら、小さく頭を下げてそのカップを両手で包み込むように持ち上げた。 ふうっと軽く息を吹きかけてから、火傷しないようにそっとひとくち飲んでみた。舌の上に広がったのは、大人びた強い苦味だった。思わず眉がほんの少しだけ寄ってしまいそうになるのを誤魔化すように、私はゆっくりと息を吐き出しながらカップをソーサーに戻した。「颯斗さんの会社、相変わらずオシャレですね」苦いコーヒーの余韻をごまかしつつ、私は室内を改めてぐるりと見渡した。どこを見ても一枚の絵になるような、計算し尽くされた空間美に圧倒されてしまう「相変わらず?」初めて来たはずの私が、どうして以前から知っているような口ぶりをしたのか不思議に思うのは当然だ。颯斗さんの表情を見て、私は慌てて自分の記憶の出処を説明しなければと思い、少しだけ早口になりながら次の言葉を探す。「あ、雑誌で見たことがあって。その時から素敵だと思ってたんですが、実際に見れるとは思っていませんでした」写真越しでも十分に伝わってくるその洗練された空気感にすっかり惹きつけられ、何度もページをめくっては隅々まで眺めていたことを思い出す。「えー、言ってくれたらすぐ招待したのに」颯
Last Updated: 2026-05-20
Chapter: 第225話颯斗さんに案内されてたどり着いたのは、都心の一等地に建つガラス張りの洗練されたオフィスビルだった。エントランスを抜けた瞬間から漂うスタイリッシュな空気に、私は思わず足取りが重くなる。すれ違うスタッフたちから次々と丁寧に挨拶される颯斗さんの姿を見て、彼がトップデザイナーであり、この会社のトップなのだとまざまざと見せつけられた気がした。最上階へ向かうエレベーターの中で、私は自分のカジュアルすぎる服装を少し後悔しながら、悟られないように小さく息を吐き出した。やがて到着したふかふかの絨毯の廊下の奥。一際目を引く重厚な扉を颯斗さんがスマートに開け放ち、振り返って私に優しく微笑みかけた。 「どうぞ」颯斗さんの優しくも余裕のある声に促され、私は思わず小さく肩をすくめてしまった。目の前で静かに開いた重厚なガラス扉の奥には、私が普段足を踏み入れることのないような洗練された空間が広がっていて、入るのを一瞬ためらってしまうほどだ。そんな私の緊張を察したのか、颯斗さんは軽い足取りで先へと進み、手で柔らかく中を示す。彼の背中を追いかけるようにして、部屋に足を踏み入れた。 「失礼します…」緊張でガチガチになっている私とは対照的に、颯斗さんはとてもリラックスした様子で部屋の奥へと進んでいく。そして、ごく自然な動作でスッと手のひらを向け、向かいの席に座るよう促してくれた。私はそのエスコートに導かれるまま、おずおずとソファーに浅く腰を掛けた。 「コーヒーでいい?」その不意の問いかけに、私はビクッと肩を揺らしてしまった。ただでさえこんな立派で洗練された空間に招き入れてもらって、場違いなところに迷い込んでしまった迷子のような気分でいるのに、これ以上の厚遇を受けるなんて申し訳なさが勝ってしまう。「あ、はい。でも、お気遣いなく」颯斗さんは私の戸惑いなどお見通しだという風に少しだけ首を傾げながら、柔らかいけれど有無を言わせない声でピシャリと遮った。
Last Updated: 2026-05-19
Chapter: 第224話「パーティー以来だね。元気にしてた?」フロントガラスから差し込む午後の光を浴びながら、ハンドルを握る颯斗さんが何気なくそう言った。その軽やかなトーンが、あの一晩の華やかな喧騒を瞬時に私の脳裏に蘇らせた。あの日以来の再会だけど、まさかこんな風に彼の車の助手席に滑り込むことになるなんて。「はい。颯斗さんも、相変わらずお元気そうで」私のちょっとからかうような返答に対して、颯斗さんは前方を見つめたまま、やっぱりいつもの少年のような笑みを浮かべた。「まーね」いたずらっぽく笑う彼のその一言で、車内の空気は一気に穏やかな空気になった。そういえば…。今こうして彼が私を車に乗せて走らせている状況への純粋な疑問が、すとんと胸に落ちてくる。「しばらくの間は日本にいらっしゃるんですか?」世界中の花嫁が憧れるウエディングドレスを次々と生み出す、超多忙なトップデザイナーで、世界を股に掛けて飛び回っているのが日常のはず。そんな彼が、なぜ私の隣で楽しそうにハンドルを握っているのだろう。「うん。当分はね」彼が日本に長期間滞在してまで取り組もうとしている何か。そして今、明確な目的地を持って迷いなくアクセルを踏み込んでいるその足取りの良さが急に気になり始める。「ところで、どこに向かってるんですか?」「俺の会社」その短い答えが彼の口から飛び出したとき、私は思わず目を見開いて彼を見た。「颯斗さんの?」前に雑誌で颯斗さんの会社を見たことがあった。全面ガラス張りの圧倒的な開放感の中に、世界中から集められた極上のシルクや繊細なレースのロールが美しくディスプレイされた、まるで美術館のようなアトリエ。あの洗練された聖域に、今から自分が向かっているらしい。私の驚きに満ちた声を、彼は速度を落とすことなく、むしろ私の反応を完全に楽しむかのように言い返した。「詳しい話は会社に着いてから」
Last Updated: 2026-05-18
Chapter: 第223話あれから一週間。過去はなかったことにはならないし、私の罪が消えるわけではない。根本的には何も解決していないって分かっているけれど、私は今の湊さんだけを見るって決めたから。「今が幸せなら、それでいいんだよね」ポツリと呟いた自分自身の言葉は、誰に聞かせるわけでもなくただ空の彼方へと溶けていく。心を落ち着かせるようにエコバッグの持ち手をぎゅっと握り直して前を向いた、その時だった。一台の黒い高級車が音もなく近づいてきて、私の横にピタリと停車した。滑らかな動作で運転席の窓がスルスルと下がっていき、そこからひょっこりと顔を出したのは、全く予想もしていなかった人物だった。「彩花ちゃん」「颯斗さん!」私の少し間抜けなほど驚いた顔を見て、颯斗さんは「ははっ、驚かせてごめん!」と言い、いつもの屈託のない笑顔を見せた。颯斗さんと会うと、不思議と張り詰めていた心がスッと軽くなるような気がする。きっとそれは、彼が持ち合わせている生来の人の良さからくるものなのだろう。彼は運転席から少し身を乗り出すようにして、リラックスした様子で私に語りかけてきた。「今から家に行こうとしてたんだけど」颯斗さんが家に来るということは、当然、湊さんに何か用事があるのだろうけど…。「湊さんなら会社です」わざわざ足を運んでくれた颯斗さんを無駄足にさせてしまう申し訳なさを感じながら、少し困ったように眉を下げた。けれど、私の言葉を聞いても、颯斗さんは特に残念がる素振りは見せなかった。「じゃなくて、彩花ちゃんに会いたくて」私は一瞬自分の聞き間違いではないかと疑ってしまった。湊さんではなく、わざわざ私に会いに来る理由が全く思い当たらなかったから。目をパチパチと瞬かせながら、私は自分自身の顔を指差して、まるで確認を取るようにそのままオウム返しをしてしまった。「私ですか?」不思議そうな顔をして首を傾げている私を見
Last Updated: 2026-05-17
Chapter: 第9話スタジオの中に足を踏み入れると、肌を刺すような冷たい空気が私を包み込んだ。 眩しいほどの照明の向こう側、ずらりと並んだ長机の真ん中には、監督の姿がある。そしてその隣には、悠が座っていた。 「用意された台本は、頭に入っているかな」 私は喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じながらも、無意識に後ずさりしそうになる両足にぐっと力を込める。 私は小さく息を吐き出し、ピンと背筋を伸ばして彼らを真っ直ぐに見据えた。 「はい、もちろんです」 ほんのわずかな声の震えすらも許されないと自分に言い聞かせ、腹の底から声を張り上げるようにしてはっきりと答えた。 その虚勢にも近い強気な返事が意外だったのか、監督の口角が、ほんの少しだけ上がったように見えた。 「そうか。では、実際の演技に入る前に、君にいくつか質問をさせてもらうよ」 その言葉を聞き、私は予想外の展開に思わず目を丸くして数回瞬きを繰り返してしまった。簡単な挨拶を済ませた後に、すぐ指定された課題シーンの演技に入るものだとばかり思っていたから。 「…あ、はい。分かりました」 動揺を悟られまいと慌てて言葉を返し、コクリと頷く。 どんな質問が来るのか。頭の中で必死に想定問答を繰り返そうとした私の思考を、助監督の次の一言が完全に断ち切った。 「ただ、美羽さんとしてではなく、白石愛理としてお答えください」 「それって……」 「では、始めます」 待ったなしで告げられたその言葉に、私は息を吸い込んだ。 心臓の奥でくすぶっていた熱が、一気に全身へと広がっていく。 私はゆっくりと瞬きをし、自分の中にある美羽の意識を、深い海の底へと沈めていった。 「まず、お名前とご年齢を教えてください」
Last Updated: 2026-09-15
Chapter: 第8話「ついにここまで来たな」 5回にわたる長いオーディションの折り返し地点、第3次審査。 周囲の待合スペースでは他の候補者たちが静かに台本とにらめっこをしており、その異様な緊張感の中、私はたまらず深く重い息を吐き出した。 「はぁ……。ごめんなさい。こんなことで緊張してたら駄目なのに」 膝の上で、ボロボロになるまで読み込んだ課題台本を握りしめる。 王道だからこそごまかしが利かず、役者の真価が問われる。 よりにもよってトップバッターだなんて。 プレッシャーで心臓が締め付けられ、指先が氷のように冷たくなっていた。 「何言ってるんだ。オーディションなんて誰だって緊張する」 向かいのパイプ椅子に座るマネージャーが、温かいお茶のペットボトルを私の手に押し付けながら朗らかに笑う。 候補者たちがピリピリと殺気立つ異様な空間の中で、彼の存在だけが、辛うじて私を現実に繋ぎ止めてくれていた。 「でも、女優になろうと思えば、こんなプレッシャーにも慣れないといけないのに」 お茶の温もりを両手で包み込みながら、私はギュッと唇を噛んだ。 彼との間にできた埋まらない空白の時間を埋めて、本当の意味で同じ舞台に立つためには…。 「大事なのは、緊張しない事じゃない。その緊張を上手く使いこなすことだ」 私の焦りを見透かしたように、マネージャーは温かい眼差しで真っ直ぐに私を見た。 単なる慰めではなく、表現者としての覚悟を問う言葉。
Last Updated: 2026-09-15
Chapter: 第7話あれから1週間。 私の身体には、未だに悠に力強く抱き寄せられた時のあの熱が、べっとりと張り付いたままだった。 ふと思い出すだけで、心臓の奥がドクンと音を立てる。 事務所の長机で、黒いまま沈黙を保つスマホの画面を見つめながら、私はぽつりとこぼした。 「今日までに電話が来なければ、落ちたってことなんですよね」 「そう不安がるな。上手くいったんだろ?」 向かいの席に座るマネージャーが、コーヒーカップを置きながらおおらかに笑う。 「でも、私よりも演技が上手い人は沢山いるから……」 「俺は、美羽よりも上手い人は見たことないけどな」 「え?」 予想外の言葉に顔を上げると、マネージャーはまっすぐな眼差しで私を見ていた。 「演技が上手いと言うより、役柄本人そのもの。美羽は完全に憑依型だもんな。……あの人と同じで」 「ちゃんと演技しようって、思ってるんですけどね」 私は少しだけ苦笑いを浮かべて返した。 天才と称され、どんな役にも完璧に染まりきるあの人の顔が脳裏をよぎる。 「はぁ…」 第2次審査の即興劇が終わって深くお辞儀をした直後、私はふらりと倒れそうになった。 極限まで張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れたとか、泣きじゃくったせいで酸欠になっていたとか、そんな身体的な理由じゃない。 役が、抜けきらなかったから。 「どうした」 「いえ」 与えられた設定と自分が完全にリンクしてしまい、本心と芝居の境界線が完全に消え失せてしまう。 だから、監督から「カット」の声がかかっても、私はあの痛切な感情の濁流から現実へと戻ってくるのが遅れてしまった。 今回に限ったことじゃない。レッスンを受けていた頃もそう。 私の沈黙をどう受け取ったのか、マネージャーは少しだけ声のトーンを落とし、そして力強く告げた。 「使いこなせたら、きっと武器になる」 マネージャーの真っ直ぐな言葉に、私は膝の上でギュッと両手を握りしめた。 「……でも、怖いんです」 ぽつりと、自分でも驚くほど震えた弱音がこぼれ落ちた。 「怖い?」 「はい。役の感情に飲み込まれている時、自分自身がどこにいるのか、本当に分からなくなるんです」 私は俯いたまま、あの審査でのヒリヒリとした感覚を思い返していた。 「あの即興劇の時もそうでした。自分が抱えている本当の過去の痛み
Last Updated: 2026-08-08
Chapter: 第6話「は……?」 あまりにも拍子抜けする私の返答に、悠は完全に虚を突かれたような顔をした。 「……ふざけんな」 数秒の空白の後、彼の茶色い瞳に、先ほどよりもさらに激しい怒りの炎が揺らめいた。 「あんな風に俺を突き放して急に姿を消したくせに、よくそんな平気な顔ができるな!」 「そうね。あなたから見れば、私はただの裏切り者よ。最低な女だわ」 私は自嘲するように小さく笑い、その痛みをすべて飲み込んで肯定した。 「なんで今更現れるんだよ! あの時…っ、俺は、お前さえいれば他には何もいらなかったのに!」 絞り出すような彼の叫び。 「だからよ……!」 私は一歩、彼に向かって強く踏み出した。もう、はにかむような笑顔は作れなかった。 「あなたが私を選んで、自分の可能性を捨てようとするから……っ! あなたの夢を一番近くで見ていたのは私よ。誰よりも才能があって、誰よりも必死に努力していた。それなのに、私と一緒にいることでチャンスを潰していくのを、黙って見ていられるわけないじゃない!」 静まり返ったスタジオに、私の叫びが響き渡る。 悠の肩が、ビクンと小さく跳ねた。 私を睨みつけていた瞳から鋭い憎悪が薄れ、代わりに強烈な戸惑いと、今まで知らなかった真実に対する激しい動揺が浮かび上がる。 「だから、私があなたを裏切ったように見せかけるしかなかった……っ!」 私は彼を見捨てたわけじゃない。 彼の輝かしい未来の足手まといにならないために、あえて自ら泥を被り、彼を遠ざけた。 「本当は…私だって、ずっと隣にいたかった。でも、私がいたら、あなたは……」 とめどなく溢れそうになる涙をギリギリで堪え、私はただ真っ直ぐに彼を見つめた。 静まり返ったスタジオの中、私の震える声だけが吸い込まれていった。 やがて彼は、ふっと短く息を吐き出し、自嘲するように目を伏せた。 「……馬鹿だな」 静かな、ひどく掠れた声だった。 「馬鹿って……何よ」 私が震える唇で言い返すと、彼は再びゆっくりと顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめ返した。その目には、もう隠しきれないほどの熱と痛みが滲んでいる。 「俺は、お前さえいればそれだけで良かったのに」 飾り気のない、痛いほどの本音。 その切実な響きに、私は息を呑み、言葉を返すことができ
Last Updated: 2026-08-05
Chapter: 第5話第2次審査の会場となる広々としたスタジオで、付箋と書き込みでボロボロになった台本をきつく握りしめていた。 今日のために、セリフの一言一句から相手の間の取り方まで、すべてを完璧に頭に叩き込んできた。 けれど、参加者たちがスタジオの中央に一列に並べられると、張り詰めた空気を切り裂くように監督の低い声が響いた。 「さて。さっそくだが、君たちが握りしめているその台本をすべて回収させてもらう」 スタッフが素早く動き出し、有無を言わさぬ手つきで参加者たちから次々と台本を没収していく。 「え……?」 「この台本を使った演技は、通過者のみで行う次回の第3次審査で行う。」 監督の言葉に、周囲から戸惑いのざわめきが起こる。 私も思わず息を呑んだ。 「なぜ、わざわざ課題台本を事前に渡し、今日まで徹夜して読み込ませたのか。それは、君たちが頭で作ってきた芝居を、ここで一度全て空にするためだ」 容赦のない言葉に、スタジオの空気が凍りつく。 「実際の現場では、直前の台本変更や想定外のトラブルなど日常茶飯事だ。完璧に準備したものを突如奪われた時、役者の本性が顔を出す。僕たちが見たいのは、予定調和の綺麗なセリフじゃない。追い詰められ、計算が狂った時にこそ剥き出しになる、感情の反射神経だ」 監督は手元のバインダーをパタンと閉じ、私たちに向かって告げた。 「つまり、今から君たちには即興芝居をやってもらう。テーマは、数年ぶりに再会した幼なじみと、解けない誤解」 ドクン。 心臓が、痛いほどの音を立てて跳ねた。 数年ぶりに再会した幼なじみ。 それは…。 震える視線を、審査員席へと向ける。 そこに冷静に参加者たちを観察していた悠と、ふいに視線が交差した。 この即興芝居で言葉を紡げば、果たしてどこまでが演技で、どこからが真実の感情になってしまうのだろうか。 「公平性を期すために審査は1人ずつ行います。桜田美羽さん以外は、一旦別室の待合室へ移動して待機してください」 スタッフの事務的な声が、凍りついたスタジオの空気を動かす。 私の名前が呼ばれ、肩が跳ねた。 心の準備をする時間すら与えられないまま、1番手という重圧が容赦なくのしかかる。 けれど、不思議と足の震えはなかった。 ざわめきが遠ざかり、スタジオの中が
Last Updated: 2026-08-05
Chapter: 第4話オートロックの扉が重い音を立てて閉まると、部屋の中は完全な静寂に包まれた。 壁際のデスクに向かって椅子を引き、どさりと腰を下ろす。 小さく息を吐き出してから、先ほど手渡されたばかり台本をデスクの上に広げた。 台本に描かれていたのは、誰もが平伏すような富と権力を持つ財閥の御曹司と、ごく普通の家庭で育った平凡なヒロインの美しい身分違いの恋だった。 人前では決して隙を見せず、冷たい男の仮面を被って生きる彼。けれど、その裏にある不器用で深い優しさに、ヒロインだけが少しずつ気づいていく。 住む世界の違いや、一族からの容赦ない反対。周囲からの冷たい悪意に晒されながらも、ふたりは決して手を離さず、過酷な茨の道を歩みながら愛を育んでいく。 ページをめくるごとに、彼女が背負っている過去や、表面的な明るさの裏に隠された複雑な感情が浮き彫りになっていく。理不尽な運命に翻弄されながらも、決して自分を見失わず、逆境に立ち向かっていく姿。 「……芯が強い女性、って感じかな」 資料の余白にペンを走らせながら、ぽつりと呟く。 ただ守られるだけのひ弱なヒロインじゃない。 自らの足で立ち、運命を切り開く泥臭い強さを持っている。 今の私が抱えている意地や反骨心を重ね合わせれば、きっと血の通った演技ができるはず。 全体像を掴んだところで、明日の審査で使われるシーンのページを開く。 明日は今日のようなグループ演技ではない。相手役との、一対一のセリフの掛け合い。 この量のセリフを、明日の朝までに完全に自分のものにし、さらに感情の乗せ方を何パターンも用意しておかなければならない。 台本に視線を落とし、ヒロインのセリフと交互に書かれている、相手役のト書きとセリフを目でなぞる。 これを声に出して読むのは、あの人なのだ。 「悠と、演技を……」 無意識にその言葉を口にした瞬間、声が微かに震えた。 彼と同じ世界に立ち、カメラの前で、同じ作品の登場人物として言葉を交わすこと。それは私にとって、血の滲むような努力の末にようやく辿り着いた究極の夢であり、最高に嬉しい出来事のはずだった。 それなのに。 あの氷のように冷たく、激しい憎悪を含んだ声が台本の文字の向こう側にちらつく。 明日、彼とは台本上の愛に溢れた言葉や切ない視線を交わ
Last Updated: 2026-08-05
Chapter: 第170話 「うまっ! これめちゃくちゃ美味しい!」 雄大さんはスプーンいっぱいにすくった熱々のシチューを勢いよく口に運ぶと、目を大きく見開いて感動の声を上げた。 そのあまりにも素直で気持ちのいい食べっぷりに、料理を作った側としてはこれ以上ないほどの喜びを感じてしまう。 「お口に合ってよかったです」 私の返事を聞いて、雄大さんは「ほんと、お店に出せるレベルだよ!」と大げさに褒めてくれる。 彼はふと何か思いついたように顔を上げ、私の顔と、静かに食事を進めている壱馬さんの顔を交互に見比べた。そして、少し羨ましそうな、それでいて本気とも冗談ともつかないようなトーンで突然突拍子もない提案を口にした。 「いいなぁ、こんな美味いご飯が毎日食べられるなんて。俺も毎日通っちゃおうかな」 毎日通うだなんて、雄大さんらしい思い切った冗談に聞こえて笑ってしまう。仮にその突拍子もない言葉が半分、いや全部が本気だったとしても、嫌だとは思わなかった。毎日の食事の準備や買い出しは今より少しだけ大変になるかもしれないけれど、こんなにも美味しそうに私の作った料理を食べてくれる人がもう一人増えるのなら、料理を作る身としては凄く嬉しい。ただ、スーパーに行く回数が増えることだけが…。 「ふふっ、お時間がある時ならいつでも大歓迎ですよ」 私がにこやかにそう答えると、雄大さんは子供のように両手を上げてガッツポーズをした。 ズボンのポケットからゴソゴソと自分のスマートフォンを取り出すと、目を輝かせながら身を乗り出し、私に向けてそのスマートフォンの画面を突き出すように見せてきた。 「じゃあさ、行く前に連絡したいから連絡先教えてよ!」 確かに、いつ来るかわからない状態よりも、事前に連絡をもらえた方が食材の買い出しや準備の都合がつけやすくて断然助かる。それに、こうして親しくお話をするようになったのだから、連絡
Last Updated: 2026-05-30
Chapter: 第169話「うわ、もうこんな時間か」 お玉でかき混ぜていたシチューの鍋からふわりと立ち上る温かな香りに包まれながら、私はゆっくりと雄大さんの方を見る。 リビングのソファでだらだらとスマートフォンを眺めていた雄大さんが、画面右上にある時計の表示でも見たのか、大きく伸びをしながら天井を仰いでいた。 窓の外はすっかり暗くなり、街灯のオレンジ色の光がカーテンの隙間から細く差し込んでいる。 今日は夕方から急に冷え込んできたから、温かい料理を作っていて正解だったかもしれない。 「よろしければ、夕食食べていきませんか?」 ちょうど多めに食材を買い込んでいたこともあり、お鍋の中には三人分でも十分に足りる量のシチューがたっぷりと煮込まれていた。 それに、賑やかな食卓になるのは私も嬉しい。 「え、マジ? いいの?」 彼の顔がパッと明るくなり、無邪気な表情が浮かんだ。ソファから勢いよく身を乗り出すあまり、クッションが床に落ちそうになるのを慌てて押さえている様子がおかしくて、私は思わずふふっと声を漏らして笑ってしまった。 まな板の上の野菜を片付けながら、私はカトラリーのセットを新しく用意しようと、食器棚の方へと歩みを進めた。 木製のスプーンとフォークを取り出しながら頷く。 「はい、多めに作ってあるので」 私の返事を聞いた雄大さんは、両手を軽く叩いて心底嬉しそうなジェスチャーを見せた。 「やった! じゃあお言葉に甘えて──────」 雄大さんの歓喜の言葉は、リビングの入り口に姿を現した長身の影によって無惨にも途中で遮られた。 「少しは遠慮しろ」 仕事帰りのはずなのに、その立ち姿には疲労感よりも特有の威圧感のようなものが漂っていて、ピシッと整ったスーツ姿がリビングの緩みきった空気を一瞬にして引き締める。 それなのに、雄大さんは悪びれる様子もなくへらへらと笑ってみせた。 「あ、壱馬。おかえりー」 雄大さんの気楽な挨拶に対して、壱馬さんは短く鼻を鳴らして応えた。 上着を脱ぎながらこちらへ歩いてくる彼の姿を追いながら、私も手を休めて正面に向き直る。 普段は夜遅くまで仕事に追われていることが多い壱馬さんが、こんなに早く帰宅するのは珍しいことだった。 「壱馬さん、おかえりなさい。今日は早かったですね」 私の問いかけに、壱馬さんはスーツのジャケットを椅子に掛けながら静
Last Updated: 2026-05-29
Chapter: 第168話「花澄ちゃんがいてくれて、俺の方こそすごくホッしてるんだ」「私が……ですか?」思いがけない言葉に、私は思わず目を瞬かせた。「あいつ、昔から何でも一人で抱え込む癖があって。周りには平気な顔をして、自分だけで乗り越えようとするんだけどさ」少しだけ苦さを滲ませた声で呟き、雄大さんはふうっと短く息を吐いた。その吐息には、長年親友を見守ってきた彼ならではの、歯がゆさと慈愛が深く入り交じっているように聞こえた。 私が知っている壱馬さんの完璧な微笑みの裏側にある、決して誰にも見せようとしない脆さ。それを誰よりも知っている雄大さんの横顔は、明るく陽気な雰囲気からは想像もつかないほど静かで、どこかひどく切なげだった。「だからね、あいつが花澄ちゃんのことで一喜一憂したり、柄にもなく余裕なくしたりしてるのを見ると…。ああ、やっとあいつの心をこんなに揺さぶる人が現れたんだなって、嬉しくなるんだよね」からかうように悪戯っぽく片目を瞑ってみせる雄大さんに、私はどう返していいか分からず、再び熱を帯び始めた頬を隠すように小さく俯くしかなかった。私の些細な言動が、彼の中に波風を立てているのだとしたら。それはなんて恐ろしくて、なんて幸せなことなのだろう。「まだまだ、私にできることは少ないかもしれないですけど……」絞り出すように紡いだ私の言葉は、情けないことにかすかに震えていたかもしれない。背伸びをして彼にふさわしい自立した女性になろうとしても、その道のりは果てしなく遠く思えて、時折どうしようもない無力感に襲われる。それでも、少しでも彼の力になりたいという嘘偽りのない本音だけは、どうしても伝えたかった。「そんなことないと思うよ。ただ、そばにいてくれるだけで救われることだってあるから」その真っ直ぐで嘘のない声に、私は顔を上げた。気の利いた言葉が言えなくても、彼と対等な立場で支え合うにはまだ時間がかかるとしても、今の私なりにできることが確実にあるのだと、雄大さんが肯定
Last Updated: 2026-05-28
Chapter: 第167話「え……?」ポツリと落ちた雄大さんの言葉に、私は弾かれたように顔を上げた。あんな顔って、一体どんな顔だったのだろう。私が知らない壱馬さんの表情を想像して、思わず聞き返してしまう。「あ、いや、何でもないよ。こっちの話」雄大さんは少し悪戯っぽく笑って、ひらひらと手を振った。深く追求してはいけないような気がして、私はそれ以上踏み込むことができず、微かに熱の残る頬を冷ますように小さく息を吐いた。「……でも、少し羨ましいです」ぽつりと溢れた私の声に、雄大さんが「ん?」と小首を傾げる。「壱馬さん、雄大さんと一緒にいる時はすごく自然体で…」カップの縁を指先でなぞりながら、私は自分の中にあるもどかしさを言葉にしていく。雄大さんと話す時の壱馬さんは、私が普段見ている彼とは少し違っていた。言葉遣いも少しだけ荒っぽくなって、どこか少年のような、飾らない等身大の男性という感じがする。私と一緒にいる時の壱馬さんは、いつだって完璧で、エスコートもスマートで、驚くほど優しい。雄大さんの前で見せるような、力の抜けた素の壱馬さんを引き出せるのは、長い時間を共に過ごし、深く理解し合っている雄大さんだからこそなのだと思う。私に向けてくれる甘く優しい微笑みももちろん大好きだけれど、本当はもっと、彼の中にある泥臭い部分、不器用なところにも触れてみたい。「私にはまだ……見えない壁があるというか。優しくしていただいている分、気を遣わせてしまっているんじゃないかって、時々不安になるんです」私に向けられる優しさが特別なものだとしても、彼にとって一番居心地のいい場所は、まだ私ではないのかもしれない。そんな身勝手な劣等感が、せっかくの嬉しい気持ちに薄い影を落としていた。彼が何の鎧も纏わずに、ただ息をするように傍にいられる一番安らげる場所が私であればいいのにと、そんな身の程知らずな独占欲が心の奥底で静かに渦巻いていた。沈黙が降りた数秒の間、私は自分のひねくれた感
Last Updated: 2026-05-27
Chapter: 第166話「壱馬は…」雄大さんがふと言葉を区切り、どこか遠くを見るような目をした。彼らの間に流れる、私が立ち入れないほどの長い時間と深い絆の前に、急に自分がひどく場違いで、身の程知らずな存在に思えて仕方がなくなってしまった。「す、すみません。私なんかよりも、雄大さんの方が壱馬さんを知っていらっしゃるのに」自分の声が緊張で少し震えている。壱馬さんのことを知った風な口を利いてしまった自分が恥ずかしくて、顔が急激に熱くなっていく。どうにかしてこの気まずい空気を誤魔化そうと、私はぎこちなく口元だけで笑ってみせたけれど、きっと引き攣った表情になっていたに違いない。「いや、壱馬のことをちゃんと見てくれてるんだなって」予想に反して、雄大さんの声はどこまでも穏やかで、包み込むような温かさに満ちていた。呆れられたり、怒られたりするかもしれないという私の被害妄想は、その一言で見事に打ち砕かれる。「え?」間抜けな声が、思考よりも先に口から漏れてしまった。私は丸くした目をパチパチと瞬かせながら、雄大さんの次の言葉を待つことしかできず、ただただ固まってしまった。「よく素っ気ない奴って思われるけど、本当は誰よりも優しい奴んだよ」雄大さんの言葉が、私の心の中にある壱馬さんへの想いと完全に重なり合い、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。「壱馬さんは、初めて会った時から私に手を差し伸べてくださって」気がつけば、溢れ出る想いを止められずに言葉が口から飛び出していた。壱馬さんの大きな手が、どれほど温かく私を引っ張り上げてくれたか。「壱馬にとって花澄ちゃんも同じだと思うよ」同じという響きが、あまりにも現実味がなくて、一瞬耳を疑う。壱馬さんにとって、私が? あの完璧で、どこか遠い世界にいそうな彼にとって、私のような存在が何か影響を与えているなんて、そんな大それたことを想像すらしたことがなかった。「壱馬さんも…?」かすれた声で、どうにかそれだ
Last Updated: 2026-05-26
Chapter: 第165話「おじゃましまーす。壱馬の家来るの久しぶりだなぁ」雄大さんの屈託のない明るい声が、静かな玄関に響き渡る。壱馬さんのパーソナルスペースに別の男性を招き入れてしまったことへの申し訳なさと、この後どうやって間を持たせればいいのかという焦りが入り混じり、私は玄関口で立ち尽くしてしまった。何かおもてなしをしなければと頭をフル回転させるものの、手持ち無沙汰になった私は、緊張で少し震える手を隠すように、とっさに彼に向かってある提案を口にしていた。「コーヒーを…」緊張のあまり気の利いた言葉が浮かばず、半ば逃げるように口走ってしまった。私はそわそわと視線を泳がせながら、キッチンの方へと少しだけ体を向けた。「ありがとう」雄大さんの明るく気さくな声が、部屋に優しく響いた。そもそもこんな状況になっているのは、私が壱馬さんの過去について余計な詮索をしてしまい、その流れで雄大さんを巻き込んでしまったからで。壱馬さんの大切な友人にまで手間を取らせて気を遣わせている自分が情けなくて、私は咄嗟に謝罪を口にしていた。「私が余計なこと言ったせいで、すみません」戸棚からコーヒー豆とドリッパーを取り出し、お湯を沸かしながら慎重に準備を進めた。お湯を細く円を描くように注ぎ入れると、モコモコと粉が膨らみ、深く香ばしい匂いが部屋中に広がっていく。「そんなことないよ。俺も花澄ちゃんと仲良くなりたかったし」雄大さんはそういいながらソファーに座る。そのゆったりとした動作をキッチンの端から見つめながら、私は張り詰めていた肩の力を抜き、小さく息を吐き出した。震えそうになる手で、出来上がったコーヒーをそっと差し出した。「ありがと」マグカップを受け取る時、雄大さんがふと見上げたその眼差しは、とても優しくて人懐っこいものだった。壱馬さんとはまた違う、周囲の人間を自然とリラックスさせるような不思議な魅力が彼にはある。湯気が立ち上るコーヒーを前に、彼がホッと一息つく姿を見て、私も少し
Last Updated: 2026-05-25