Mag-log inかつて冷たく私を突き放していた旦那様が、記憶を失ってからというもの、まるで恋に落ちたかのように優しくなった。今では、私を誰よりも大切にしてくれて、どうやら私の事が好きすぎて仕方がないらしい。
view more夕暮れの光が薄く差し込むキッチン。
静かなはずの空間に、突然パリンッと乾いた音が響いた。
手元から滑り落ちた白い皿が、床に砕け散る。
「きゃっ…!」
思わず声を上げてしまった。
胸がぎゅっと縮こまる。
音に驚いたというよりも、これが“また”起きてしまったことへの恐怖だった。
手が震えて、足がすくむ。
どうしよう、早く片付けないと。見つかったらまた…
その思考を遮るように、背後から重たい声が落ちてきた。
「何やってんの」
その声だけで、心臓が跳ねた。
振り返ると、湊さんが立っていた。
腕を組み、眉間に深い皺を寄せて、冷たい目で私を見下ろしている。
まるで、そこにいるのが“人”ではなく、“失敗作”でも見ているかのような目だった。
「湊さん…」
声が震える。
喉が乾いて、言葉がうまく出てこない。
彼の視線が、砕けた皿ではなく、私自身に向けられていることが分かる。
その目に晒されるだけで、体が小さく縮こまっていく。
「はぁ…」
わざとらしく、深く長いため息を吐く。
その音が、私の胸を突き刺す。
まるで「またか」と言われているようで、言葉にされる前から責められている気がした。
「ご、ごめんなさい…」
反射的に頭を下げる。
謝るしかない。
それ以外に、私にできることなんて何もない。
皿を割ったのは私。
不注意だったのも私。
だから、私が悪い。
「皿洗いもろくに出来ないのか」
その言葉が、鋭く突き刺さる。
胸の奥がじんと痛む。
確かに、私は不器用だ。
でも、そんなふうに言われると、自分の存在そのものが否定されたような気がして、息が苦しくなる。
「ごめんなさい…」
もう一度、謝る。
声は小さく、震えていて、まるで自分の存在を消そうとしているようだった。
彼の顔色を伺いながら、床に膝をついて、割れた皿の破片に手を伸ばす。
「お前は何もできないんだな」
その言葉に、手が止まる。
指先が冷たくなっていく。
心の奥で何かが崩れていく音がした。
でも、それでも私は…
「ごめんなさい…」
それしか言えなかった。
言い返す勇気なんてない。
反論する力もない。
ただ、謝ることでしか、自分を守れなかった。
「ごめんなさいはもう聞き飽きたんだよ」
彼の声は、呆れと苛立ちが混ざっていた。
その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。
謝ることすら、もう意味がないのかもしれない。
でも、それでも私は…
「っ…」
言葉にならない声が漏れる。
喉が詰まって、涙がこぼれそうになるのを必死で堪える。
泣いたら、もっと嫌われる。
もっと怒られる。
だから、泣いてはいけない。
「もういい。怪我でもしたら危ないから…お前がちゃんと掃除しておけよ」
その言葉に、私は小さく頷いた。
「はい…」
声はかすれていた。
でも、彼はもう私の返事なんて聞いていないようだった。
「お前を見てるとため息が出る。顔も見たくない」
その一言が、決定打だった。
胸の奥に重く沈んでいた何かが、完全に砕けた気がした。
私は、彼にとって“顔も見たくない存在”なのだ。
それでも、私は耐えるしかなかった。
これは私が望んだことじゃない。
私が選んだ人生じゃない。
父が決めたこと。
そう言い訳して、でも本当は…
自分でも分かってる。
だからこそ、余計に辛いんだって。
「ご馳走様でした」食器を置いて、私は手を合わせた。自然と口からこぼれたその言葉に、どこか満ち足りた気持ちがにじんでいた。ひとりで食べるご飯とは、やっぱり違う。誰かと一緒に食卓を囲むことが、こんなにも心をあたためてくれるなんて。湊さんと過ごす時間はどこか懐かしくて、でも新しくて、湊さんとの過去を少しずつ塗り替えていく。「ご馳走様でした」湊さんも、私と同じタイミングで手を合わせて言った。その声が重なって、ふたりで顔を見合わせて、思わずふっと笑い合う。なんでもないやりとりなのに、まるで長年の夫婦みたいだな。なんて思ってしまって、自分で自分に驚いた。「じゃあ、先にお風呂入っておいで」湊さんがそう言って立ち上がるから、私は慌てて言い返した。「湊さんが先に入ってください。私はお皿洗わないと」言いながら、私は立ち上がってシンクに向かう。お皿を重ねて、スポンジを手に取る。こうして何かをしていないと、この気持ちをどうしていいか分からなくなりそうだった。湊さんの優しさは、時々、私の心の奥を突いてくる。嬉しいのに、どこか居心地が悪い。だって、私はまだ、こんなふうに誰かに甘えていいのか分からないから。「僕が洗うからいいよ。疲れてるでしょ?」湊さんの声が、すぐ後ろから聞こえた。振り返ると、彼はもう袖をまくっていて、本当に洗う気満々の顔をしていた。私は思わず言葉を詰まらせる。「え、でも、」疲れてるのは湊さんも同じなのに。私のために、今日もいろいろ気を遣ってくれて、優しくしてくれて。「ご飯作ってくれたお礼」湊さんのその一言に、お皿を手に取ったまま、指先がぴたりと止まる。そんなふうに言われるなんて、思ってもみなかった。私はただ、できることをしただけ。湊さんに少しでも恩返しがしたくて、せめて食事くらいは、と思って作っただけなのに。それを「ありがとう」って言われるなんて、なんだか胸の奥がきゅっとなった。嬉しいのに、どこか申し訳なくて、私はそっと視線を落とした。「お礼だなんて……」むしろお礼をしないといけないのは私の方。ご飯を作ったぐらいじゃ、全然足りない。ご飯を作ったくらいじゃ、全然足りない。湊さんがくれた安心感。あのまっすぐな言葉。そばにいてくれることの重み。それが私の中で、何倍にもなって響いているから。それでも湊さ
「湊さんは、どうして…」言いかけて、言葉が喉の奥でつかえた。言いたいことははっきりしているのに、それを口に出すのが、どうしてこんなに難しいんだろう。私は、湊さんの前ではいつも自分の感情を隠すのに必死なのに。湊さんは、どうしてこんなふうに、さらりと人の心をかき乱すようなことを言えるんだろう。「え?」湊さんが、きょとんとした顔でこちらを見た。その無防備な表情に、私はますます言いづらくなって、思わず視線を逸らした。でも、もう言いかけてしまった。私は、少しだけ息を吸って、勇気を振り絞るように続きを口にした。「どうしてそんな恥ずかしいことを、平気で言えるんですか」可愛いとか好きとか、そんな言葉、普通はもっと特別な時にもっと覚悟を持って言うものだと思ってた。でも湊さんは、まるで日常の一部みたいに、当たり前のようにそう言う。簡単に、迷いなく、まっすぐに。でも、不思議と軽くは聞こえない。その声の温度を感じれば、分かってしまうから。むしろ、重たいくらいに真剣で、私の心の奥に静かに沈んでいく。「えー、僕は自分の気持ちを正直に伝えてるだけなんだけどなぁ」湊さんは、肩をすくめながら、どこか楽しそうに笑った。本当に、悪気なんてこれっぽっちもないんだろう。ただ、思ったことをそのまま言っているだけ。それが分かるからこそ、私は余計にどうしていいか分からなくなる。嘘じゃない。からかいでもない。本気で、そう思ってる。そのまっすぐさが、私の心をまるごと掴んで離さない。なにか言わなきゃいけないのに、言葉が出てこなかった。「ありがとう」なんて、素直に言えたらいいのに。「嬉しい」って、笑えたらいいのに。
「湊さん、できたよ」 キッチンから声をかけると、湊さんはすぐに返事をして、ぱたぱたと軽い足音を立てながらダイニングへやってきた。 「あ、オムライス!しかもハート?かわいい」 湊さんの声が、ぱっと弾けた。 ケチャップでハートを描いたとき、正直、やりすぎかなって思った。引かれたらどうしよう、って。 でも、湊さんは本当に嬉しそうに笑ってくれた。 私は、照れ隠しのように小さく笑って、そっと湊さんの前にお皿を置いた。 「口に合えばいいけど」 味見は何度もしたけれど、それでもやっぱり自信なんてなかった。 私の拙い手料理なんて、物足りなく感じるかもしれない。 私は、湊さんの反応を待ちながら、そっと手を膝の上で握りしめた。 「いただきます!ん、おいひい!」 湊さんは、スプーンを手に取ると、勢いよく一口目を頬張った。 そして、口いっぱいにオムライスを詰めたまま、もごもご言いながら笑った。 その姿がリスみたいで、初めて湊さんを可愛いと思った。 こんなに無防備で、こんなに素直に喜んでくれるなんて。 「ふふ、良かった」 自然と笑みがこぼれた。 誰かと一緒にご飯を食べるのなんていつぶりだろう。 ふと、そんなことを思った瞬間、胸の奥にぽっかりと空いた空白が、静かに疼いた。 私はずっと、ひとりで食卓に向かっていた。 テレビの音だけが部屋に響いて、誰とも言葉を交わさずに、ただ黙々と箸を動かすだけの時間。 夜遅くに帰ってくる湊さんのために、夕食をラップして冷蔵庫に入れておくのが日課になっていた。 それが、ふたりの生活のリズムだった。 寂しいとも思わなかった。 思わないようにしていたのかもしれない。 遅くまで働いてるんだろうと、疑いもしなかった。だけときっと、本命の所に行っていたんだろうな。 その考えが頭をよぎった瞬間、
玄関のドアを閉めた瞬間、思わず口をついて出たその言葉。誰に向けたわけでもない、癖のようなものだった。でも、今日は違った。その一言が、空間に吸い込まれる前に、すぐに返ってきた。「おかえり」あぁ、そうか。今は、おかえりって言ってくれる人がいるんだ。それだけのことなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。これまで、家に帰っても誰もいないのが当たり前だった。電気のついていない部屋、静まり返った空気。ただいまも、おかえりも、どこにもなかった。たとえ湊さんがそこにいたとしても、あの頃の彼は、そんな言葉をかけてくれるような人じゃなかった気がする。でも今は違う。私は確かに、誰かの待つ場所に帰ってきたんだ。そのことが、どうしようもなく嬉しかった。「湊さんも、おかえりなさい」言葉にするまでに、少しだけ時間がかかった。胸の奥に溜まった熱を、そっと吐き出すように。靴を脱ぐふりをして、視線を合わせないようにした。「ただいま。やっぱり家が一番だね」私は今まで、そんなふうに思ったことなんてなかった。家は、ただ帰る場所でしかなかった。安心も、温もりも、そこにはなかった。むしろ、早く外に出たくて仕方がなかった。どこにいてもよかった。湊さんがいない場所なら、どこだって同じだった。でも湊さんのその言葉を聞いて、私の中にも同じ気持ちが芽生えていた。「…そうだね」それは、湊さんがいるから。この空間に、彼の気配があるから。この場所が、私にとっての“帰る場所”になっている。「これだけあれば半年は大丈夫かな」湊さんがそう言って、両手いっぱいの紙袋を床にそっと下ろした。その中には、今日ふたりで選んだ服がぎっしり詰まっている。「半年…?」これだけあれば10年…そんな考えが、ふと頭をよぎった。 いや、10年どころじゃない。このままずっと、もう服なんて買わなくてもいいんじゃないかって。そう思った。私は、一生分の贈り物を貰った気になっていたのに。「半年経ったらまた買いに行こうね!今度は夏のお洋服!」湊さんの声は、まるで未来を信じて疑わない子どものように明るくて、その無邪気さが胸にじんと響いた。その言葉の中に、私と一緒にいる未来が、当たり前のように含まれている。明日さえも不確かなのに。半年後の私たち。私は、夏になっても、湊さんの隣に立って
Rebyu