LOGINかつて冷たく私を突き放していた旦那様が、記憶を失ってからというもの、まるで恋に落ちたかのように優しくなった。今では、私を誰よりも大切にしてくれて、どうやら私の事が好きすぎて仕方がないらしい。
View More「どうしてですか?」私の純粋な疑問の声が空気を震わせた直後、突然、静寂を切り裂くようにして電子音が鳴り響いた。颯斗さんは面倒くさそうにゆっくりとポケットからスマートフォンを取り出した。「げ…噂をすれば湊だ」颯斗さんの口から飛び出したその名前に、私の心臓が大きく跳ねた。颯斗さんは一向に応答ボタンを押そうとせず、ただ画面をじっと見つめたていた。その様子があまりにも不自然で、私は思わず彼の顔と携帯を交互に見比べてしまった。「取らなくていいんですか?」着信音は依然として鳴り止まず、周囲の空気をじりじりと焦がしていくように感じられる。普通ならすぐに出るはずなのに、どうしてこんなにも躊躇っているのだろうか。「まぁ、いいかな」颯斗さんはそう言って、携帯をパタンと裏返してテーブルの上に置いてしまった。何か重要な用事でかけてきているかもしれないのに、そんなにあっさりと切り捨ててしまっていいのだろうか。すると、今度は私の携帯が鳴った。画面には『湊さん』の文字がはっきりと表示されている。「あ、私にも…」そう言いながら、応答ボタンに指を伸ばそうとした。突然、横からすっと伸びてきた大きな手が、私の携帯を素早く取り上げてしまった。「えっ?」間の抜けた声を出す私の目の前で、彼は何事もなかったかのように涼しい顔をした。「携帯預かっとくね」「え、でも」食い下がるようにそう声を絞り出すのがやっとだった。「実際に見てもらう方がいいからさ」颯斗さんの言葉は、さらなる混乱を私にもたらした。彼の意図が読めず、私はただ呆然とその顔を見つめ返すことしかできなかった。颯斗さんの口元には、かすかに面白がるような笑みが浮かんでいるように見える。まるで、これから起こるであろう波乱の展開を期待し、楽しんでいるかのような、そんな意地悪な笑みだった。
「いや、なんでもない。これ言ったら本気で怒られる気がする」颯斗さんは何かを言いかけて、笑みを浮かべたまま言葉を濁した。ちょうどその時、コンコンと控えめで上品なノックの音と共に、扉が開かれた。「失礼致します」先程の女性が部屋に入ってきた。手には淹れたてのコーヒーが乗ったトレイを持っている。ふわりと、どこかフローラルで上品な香水の匂いが私の鼻先をかすめた。とてもいい匂いで、彼女の魅力をより引き立てている。デザイン会社の秘書というだけあって、彼女の服装は単なるオフィスワークの制服のようなものではなく、洗練されたオフィスカジュアルで非常にオシャレだった。かっちりしすぎず、かといって砕けすぎない絶妙なバランス。社内全体に漂うこの自由な感じが、のびのびとした環境を作り出しているのだろう。こういう型にはまらない空気感があるからこそ、世間の目を惹きつけるようないい作品が次々と生まれるのだろうなと感心しながら、彼女の無駄のない動きを見つめていた。「ありがとうございます」私の前にも静かにカップが置かれ、上品な湯気が立ち上る。私は彼女の丁寧な気遣いに心から感謝しながら、小さく頭を下げてそのカップを両手で包み込むように持ち上げた。 ふうっと軽く息を吹きかけてから、火傷しないようにそっとひとくち飲んでみた。舌の上に広がったのは、大人びた強い苦味だった。思わず眉がほんの少しだけ寄ってしまいそうになるのを誤魔化すように、私はゆっくりと息を吐き出しながらカップをソーサーに戻した。「颯斗さんの会社、相変わらずオシャレですね」苦いコーヒーの余韻をごまかしつつ、私は室内を改めてぐるりと見渡した。どこを見ても一枚の絵になるような、計算し尽くされた空間美に圧倒されてしまう「相変わらず?」初めて来たはずの私が、どうして以前から知っているような口ぶりをしたのか不思議に思うのは当然だ。颯斗さんの表情を見て、私は慌てて自分の記憶の出処を説明しなければと思い、少しだけ早口になりながら次の言葉を探す。「あ、雑誌で見たことがあって。その時から素敵だと思ってたんですが、実際に見れるとは思っていませんでした」写真越しでも十分に伝わってくるその洗練された空気感にすっかり惹きつけられ、何度もページをめくっては隅々まで眺めていたことを思い出す。「えー、言ってくれたらすぐ招待したのに」颯
颯斗さんに案内されてたどり着いたのは、都心の一等地に建つガラス張りの洗練されたオフィスビルだった。エントランスを抜けた瞬間から漂うスタイリッシュな空気に、私は思わず足取りが重くなる。すれ違うスタッフたちから次々と丁寧に挨拶される颯斗さんの姿を見て、彼がトップデザイナーであり、この会社のトップなのだとまざまざと見せつけられた気がした。最上階へ向かうエレベーターの中で、私は自分のカジュアルすぎる服装を少し後悔しながら、悟られないように小さく息を吐き出した。やがて到着したふかふかの絨毯の廊下の奥。一際目を引く重厚な扉を颯斗さんがスマートに開け放ち、振り返って私に優しく微笑みかけた。 「どうぞ」颯斗さんの優しくも余裕のある声に促され、私は思わず小さく肩をすくめてしまった。目の前で静かに開いた重厚なガラス扉の奥には、私が普段足を踏み入れることのないような洗練された空間が広がっていて、入るのを一瞬ためらってしまうほどだ。そんな私の緊張を察したのか、颯斗さんは軽い足取りで先へと進み、手で柔らかく中を示す。彼の背中を追いかけるようにして、部屋に足を踏み入れた。 「失礼します…」緊張でガチガチになっている私とは対照的に、颯斗さんはとてもリラックスした様子で部屋の奥へと進んでいく。そして、ごく自然な動作でスッと手のひらを向け、向かいの席に座るよう促してくれた。私はそのエスコートに導かれるまま、おずおずとソファーに浅く腰を掛けた。 「コーヒーでいい?」その不意の問いかけに、私はビクッと肩を揺らしてしまった。ただでさえこんな立派で洗練された空間に招き入れてもらって、場違いなところに迷い込んでしまった迷子のような気分でいるのに、これ以上の厚遇を受けるなんて申し訳なさが勝ってしまう。「あ、はい。でも、お気遣いなく」颯斗さんは私の戸惑いなどお見通しだという風に少しだけ首を傾げながら、柔らかいけれど有無を言わせない声でピシャリと遮った。
「パーティー以来だね。元気にしてた?」フロントガラスから差し込む午後の光を浴びながら、ハンドルを握る颯斗さんが何気なくそう言った。その軽やかなトーンが、あの一晩の華やかな喧騒を瞬時に私の脳裏に蘇らせた。あの日以来の再会だけど、まさかこんな風に彼の車の助手席に滑り込むことになるなんて。「はい。颯斗さんも、相変わらずお元気そうで」私のちょっとからかうような返答に対して、颯斗さんは前方を見つめたまま、やっぱりいつもの少年のような笑みを浮かべた。「まーね」いたずらっぽく笑う彼のその一言で、車内の空気は一気に穏やかな空気になった。そういえば…。今こうして彼が私を車に乗せて走らせている状況への純粋な疑問が、すとんと胸に落ちてくる。「しばらくの間は日本にいらっしゃるんですか?」世界中の花嫁が憧れるウエディングドレスを次々と生み出す、超多忙なトップデザイナーで、世界を股に掛けて飛び回っているのが日常のはず。そんな彼が、なぜ私の隣で楽しそうにハンドルを握っているのだろう。「うん。当分はね」彼が日本に長期間滞在してまで取り組もうとしている何か。そして今、明確な目的地を持って迷いなくアクセルを踏み込んでいるその足取りの良さが急に気になり始める。「ところで、どこに向かってるんですか?」「俺の会社」その短い答えが彼の口から飛び出したとき、私は思わず目を見開いて彼を見た。「颯斗さんの?」前に雑誌で颯斗さんの会社を見たことがあった。全面ガラス張りの圧倒的な開放感の中に、世界中から集められた極上のシルクや繊細なレースのロールが美しくディスプレイされた、まるで美術館のようなアトリエ。あの洗練された聖域に、今から自分が向かっているらしい。私の驚きに満ちた声を、彼は速度を落とすことなく、むしろ私の反応を完全に楽しむかのように言い返した。「詳しい話は会社に着いてから」
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