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第438話

Author: 藤原 白乃介
日記はここで途切れていた。

佳奈は最後のページの日付を見て、ハッとした。ちょうど母が事故に遭った前日だった。

母は自分の誕生をあんなに楽しみにしてくれていたのに……その日が来る前に、この世を去ってしまった。

今、自分も新しい命を宿しているからこそ、母が当時抱いていた気持ちが痛いほどわかる。

そう思った瞬間、佳奈の胸が締めつけられるように痛んだ。

気づけば、涙が頬をつたって流れていた。

そのとき、部屋に入ってきた智哉がその光景を目にした。

すぐさま彼女のもとへ駆け寄り、背後から優しく腰を抱きしめた。

低く落ち着いた声で囁く。

「お母さんのこと、思い出してた?」

佳奈は鼻をすすりながら答えた。

「これが初めてなの、母親の愛ってこんなに深いんだって知ったの……あんなに私のことを大事に思ってくれて、色んなものを準備してくれてたのに、どうして神様はあの人の命を奪ったの?どうして私たち母娘を引き裂いたの?……お母さんを死なせた犯人、もしも私が知ったら、絶対に許さない!」

その言葉に、智哉の胸がズキリと痛んだ。

彼女を抱きしめる腕に、思わず力がこもる。

玲子とこの事件の関係は、まだ確かな証拠がないとはいえ、佳奈の言葉を聞いた今、彼の心に不安が広がった。

彼はそっと佳奈の耳にキスを落とし、掠れるような声で囁く。

「佳奈、この先、何があっても、絶対に俺を置いていかないで。お願いだから……な?」

佳奈はくるりと振り返り、きょとんとした表情で見つめ返した。

「何言ってるの?あなたはこの子のパパだよ。私があなたを捨てるわけないじゃん。だって、私たちにはまだ、いっぱい叶えたい夢があるでしょ?」

彼女は背伸びして智哉の顎にキスをして、ニコッと笑った。

「あなたはお母さんが選んでくれた人なんだよ。私はお母さんの見る目を信じてる。旦那さん、私はこれからもずっとずっとあなたを愛してるから」

潤んだ瞳に映るその想いの深さに、智哉の不安は甘く溶けていった。

彼は佳奈の顎をそっと持ち上げ、鼻先で彼女の頬を優しく撫でた。

喉の奥から、熱を帯びた声が漏れる。

「……俺も、ずっと愛してる」

そう言って、彼はそのふくよかで柔らかな唇を、そっと包み込んだ。

その頃。

清司は結婚式の日取りを決めるのが自分の役目と聞き、早朝から車を走らせて高橋家の本邸へと向かってい
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