Mag-log in黒瀬征也(くろせ せいや)との別れを決意したとき、私、水城澄玲(みずき すみれ)は三つのことをした。 一つ目。彼に送るはずだった妊娠検査の結果の送信を取り消し、代わりに別れを告げるメッセージを予約送信に設定した。 二つ目。ドレスサロンに電話をかけ、オーダーメイドのウェディングドレスをキャンセルした。3回も採寸を重ね、5か月も完成を待ちわびたドレス。結局、完成したドレスに一度も袖を通すことはなかった。 三つ目。島崎晴恵(しまざき はるえ)先生に連絡を取り、1週間前に辞退した研究プロジェクトへの参加を申し出た。期間は8年。外部との連絡が一切取れなくなる、完全閉鎖型の医療研究プロジェクトだ。 征也が準備を進めていた結婚式の日を迎える前に、私は彼の人生から完全に姿を消したのだ。 征也は気づきもしなかった。倉橋琴音(くらはし ことね)を私の代役に立ててリハーサルを行い、そのまま一晩中帰ってこなかったあの夜。私が静かに、自らの痕跡をひとつずつ消し去っていたことになど。 私は、征也がいつも口にしていた「理想の妻」を演じきった。聞き分けがよく、上品で、何事にも取り乱さない女を。 しかし、私が離れようとしていることも知らず、彼は取り乱して、こう問い詰めてきた。 「どうして怒らないんだ……もう俺のこと、愛してないのか?」 私は何も答えなかった。脳裏に浮かんだのは、彼のスマホから聞こえてきた、琴音の甘ったるいボイスメッセージの数々だけだったから。 そして私は静かに、私をここから連れ出してくれる人に電話をかけた。
view moreさらに2年が過ぎた。私はM国の路地裏にあるレストランで、再び征也と出会った。店は細い路地の奥にあった。照明は控えめで落ち着いており、テーブルとテーブルの間はゆったりと離されている。私が選んだ店ではなかった。選んだのは大輝だ。そのころにはもう、彼は私の夫になっていた。ここの料理はおいしいし、忙しい1日の締めくくりにぴったりなんだ、と彼は笑って言った。店に入ったとき、征也はすでに窓際の奥の席にひとり座っていた。私より先に、彼のほうが私に気づいた。グラスに伸ばしかけた彼の手が、宙で止まった。彼はすっかり老け込んでいた。髪には白髪が目立ち、肘までまくり上げたシャツの袖から覗く手首には、長く深い傷跡が残っていた。傷はすでに塞がっていたが、かなり深かったことがうかがえた。これまでに何度も重圧に押しつぶされ、傷つきながらも必死に立ち上がってきた人間のように見えた。彼はゆっくりと立ち上がり、こちらへ歩いてきた。数歩手前でためらうように足を止める。私は落ち着いた声で、大輝を夫だと紹介した。征也は静かに大輝へ視線を向け、それからまた私に視線を戻した。口を開いたものの、すぐには声が出なかった。口を開いたものの、言葉が喉につかえたように、何も言えずにいた。「……こんにちは」と征也が言った。大輝は微笑んで会釈した。「初めまして」食事の間、私たちの会話は少なかった。征也は、なぜあの時私が出ていったのかも、なぜ戻らなかったのかも、なぜほかの人を選んで結婚したのかも、一切聞かなかった。ただ私たちの近くの席に座り、当たり障りのない世間話を少しするだけだった。食事が終わるころ、彼はポケットから使い込まれたチェーンを取り出した。そこには指輪がふたつ通してある。「君が俺の引き出しに残していった指輪だ。あの日からずっと持ってた。あとから、俺の指輪も通した」彼はそれを差し出した。彼が今、私に何を望んでいるのかは痛いほど分かった。私は差し出されたチェーンを見つめ、それから彼の手を両手でそっと包み込み、指を折り曲げて握らせた。「私には、もう必要ないわ」大輝は入り口のそばで待っていてくれた。私が席を立つと、征也も慌てて立ち上がった。少し私を追いかけ、また足を止める。「毎日、君に電話したかった。ひとりで行ったのか、寂しくて怖くなかったのか、どうして最
あれから3年が過ぎた。私は研究施設の自室で、症例ノートをめくっていた。窓の外はもうすっかり暗くなっている。ここへ来て3日目に、私はスマホからSIMカードを抜き取った。その前に、征也からメッセージが1通届いていた。【今どこにいる?迎えに行く】私は返信しなかった。それきり、彼の名前がスマホの画面に表示されることは二度となかった。いつかは諦めるだろうと思っていた。そして実際、その通りになった。その後、紗英も私と同じ研究プロジェクトに参加した。彼女は参加する前に外の世界で征也について聞いた話を、ぽつりぽつりと話してくれた。征也はあの「森野すみ」の論文を見つけ、著者が誰なのかを知ったという。出入国記録から飛行機の搭乗履歴まで調べ、私の行きそうな場所を必死に探し回ったらしい。けれど、外の世界には、私の居場所につながる手がかりは残されていなかった。「子どものこと、彼、知ってるんですよ」紗英は言った。「先輩が送った、妊娠に関するあの書類。征也さんは誰にもそのことを話してないみたいです。でも人づてに聞いた話だと、書類が届いた日は1日中書斎に鍵をかけて閉じこもっていて、夜に出てきたときには、目を真っ赤に腫らしていたんですって」紗英によれば、彼は私にどうしても謝りたがっていたという。私がいなくなってから酒を飲みすぎて、何度か入院したこともあったらしい。それでも、人前で私の名前を口にすることは一度もなかった。研究者のひとりが、彼が研究施設の入り口に長いこと立っているのを見かけたそうだ。結局、彼が中に入ってくることはなかったという。それ以上のことは、もう知りたくなかった。すべてが遠い過去に感じられるほど、十分な時間が過ぎていたのだ。紗英は琴音のその後についても教えてくれた。征也に黒瀬家から完全に締め出されたあと、彼女は別の有力者の家に取り入ろうとしたらしい。しばらくは有力者たちの間を渡り歩いていたものの、どこからも「黒瀬家を裏切って追い出された女」と見なされ、正式に受け入れてくれる家はなかった。それきり、彼女は社交界からひっそりと姿を消した。征也は、その後も誰とも結婚することはなかったという。施設での時間は、驚くほどあっという間に過ぎていった。いくつものプロジェクトに携わり、論文を何本も発表し、研究成果が学術誌の表紙を飾ったことも1、2
征也はスマホを取り出し、琴音に電話をかけた。「15分後、俺の書斎に来い」それだけ告げて電話を切り、椅子の背もたれに寄りかかった。澄玲が最後に浮かべた笑顔を思い出した。ある夜、彼女は大学の研究室から遅くに帰宅し、学術誌を手にしていた。ベッドの端にそっと腰を下ろし、パラパラとページをめくった。顔は上げなかったが、その口元がわずかにほころんでいたのを覚えている。自分はそのとき、スマホのメッセージを確認していた。彼女が何を見て微笑んでいたのか、尋ねもしなかった。これから先、時間はいくらでもあると高をくくっていたからだ。琴音は新しいワンピースを着て、口紅を塗り直してやってきた。自信ありげな笑みを浮かべ、書斎に入ってきた。「征也くん、話って――」「澄玲に動画を送ったな」征也は低い声で言った。「あいつが出ていったあの夜に」琴音の口元の笑みがわずかに引きつった。「私は、ただ……」「『最後に黒瀬家の嫁になるのは誰か』と言ったな」征也は感情を抑え込んだ声で続けた。「どういうつもりでそんなものを送った?」琴音は一瞬だけ動きを止めた。それから、開き直ったようにわずかに顎を上げた。「本当のことを言っただけよ。澄玲さんは自分から出ていった。だったら、誰かがその代わりを務めなきゃいけないでしょ。隣の席を、いつまでも空けておくつもり?」征也は何も答えなかった。「私のほうが澄玲さんより、征也くんと長い時間を一緒に過ごしてきたのよ」琴音は次第に早口になった。「私は黒瀬家に育ててもらったのよ。征也くんが思ってるよりずっと、私はあなたの立場を分かってるわ。あなたに必要なのは、1日中研究室にこもって、ろくな成果も出せない女なんかじゃない。社交の場でも堂々と振る舞える人。あなたの隣に胸を張って立てる人よ。当主の妻に必要なことなら、私は全部できるわ。会合にも顔を出せるし、人付き合いだってうまくできるわ。家の切り盛りだって任せてちょうだい。あの人に何ができるっていうの?何年も研究ばかりしてきて、結局何を成し遂げたっていうのよ?」征也は黙ったまま、彼女を見つめていた。「私のほうが絶対にあなたにふさわしいのよ」琴音は一歩踏み出して言った。「最初から私を選ぶべきだったの。なのに、あなたはあの人を選んだ。彼女があなたに何をくれたっていうの
翌朝、征也は澄玲のスマホに電話をかけた。7回呼び出しても、澄玲は出なかった。焦ってもう一度かけ直した。やはり出ない。寝室に立ったまま、彼はメッセージを送った。【起きてるか?今から迎えに行く】返事はなかった。嫌な予感がして屋敷へと車を走らせる。家の中は不気味なほど静まり返っていた。カーテンは閉じたまま。いつもの朝の生活音さえ聞こえない。靴箱から彼女のスリッパが消えていた。胸騒ぎを覚え、足早に寝室へ向かった。クローゼットには自分の服が残っているのに、彼女が使っていた場所はきれいに空になっていた。ドレッサーの上にも何もない。引き出しの底には、不要な書類が数枚残っているだけだった。書斎へ飛び込むと、机の上に使い込まれた日記帳がぽつんと置いてあった。開いてみると、付き合い始めて最初の1年間につけていた日記だと気づいた。しかしその最後のページには、まだ新しいインクでこう記されていた。【征也へ。私たちはここで終わりだ】その下には、今日の日付が添えられていた。彼は血の気が引くのを感じ、彼女に電話をかけた。しかし、留守番電話に切り替わった。もう一度かけても、また留守番電話。スマホの電源が切れるまで、彼は狂ったようにかけ続けた。大学の研究室へ車を走らせ、紗英を見つけて詰め寄った。「澄玲はどこだ」紗英は冷ややかな目で彼をにらみつけた。「行っちゃいましたよ。知らなかったんですか?」どこへ行ったのかと問うと、紗英は鼻で冷たく笑った。「あなたが琴音にかまけてた間、澄玲先輩のことを一度でも考えたことがあるんですか?この1年で、一度でも先輩を大切にしてあげてたら、先輩は今もここにいたはずですよ。この前、先輩はあなたのためにこのプロジェクトを断ったんです。でも、もう手放すものなんて何も残ってなかったんですよ」彼女は息をついた。「8年ですよ。外部との連絡が完全に断たれる研究プロジェクトに入ったんです。やっと、あなたに足を引っ張られずに済むようになったんだから、先輩にとっては本当によかったです!」征也は雷に打たれたように立ち尽くした。8年。その数字が、重い衝撃となって、何度も頭の中に響いた。彼女が最後に書き残した言葉を思い出した。諦めきった静かな目。何も言わず、何も欲しがらずにいた、あの様子。拗ねているだけだと高をく
Rebyu