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花嫁は、プロポーズの前に消えた

花嫁は、プロポーズの前に消えた

By:  ミシェルKumpleto
Language: Japanese
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黒瀬征也(くろせ せいや)との別れを決意したとき、私、水城澄玲(みずき すみれ)は三つのことをした。 一つ目。彼に送るはずだった妊娠検査の結果の送信を取り消し、代わりに別れを告げるメッセージを予約送信に設定した。 二つ目。ドレスサロンに電話をかけ、オーダーメイドのウェディングドレスをキャンセルした。3回も採寸を重ね、5か月も完成を待ちわびたドレス。結局、完成したドレスに一度も袖を通すことはなかった。 三つ目。島崎晴恵(しまざき はるえ)先生に連絡を取り、1週間前に辞退した研究プロジェクトへの参加を申し出た。期間は8年。外部との連絡が一切取れなくなる、完全閉鎖型の医療研究プロジェクトだ。 征也が準備を進めていた結婚式の日を迎える前に、私は彼の人生から完全に姿を消したのだ。 征也は気づきもしなかった。倉橋琴音(くらはし ことね)を私の代役に立ててリハーサルを行い、そのまま一晩中帰ってこなかったあの夜。私が静かに、自らの痕跡をひとつずつ消し去っていたことになど。 私は、征也がいつも口にしていた「理想の妻」を演じきった。聞き分けがよく、上品で、何事にも取り乱さない女を。 しかし、私が離れようとしていることも知らず、彼は取り乱して、こう問い詰めてきた。 「どうして怒らないんだ……もう俺のこと、愛してないのか?」 私は何も答えなかった。脳裏に浮かんだのは、彼のスマホから聞こえてきた、琴音の甘ったるいボイスメッセージの数々だけだったから。 そして私は静かに、私をここから連れ出してくれる人に電話をかけた。

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Kabanata 1

第1話

「澄玲さん、本当に後悔はないわね?」

電話越しに響く晴恵の声は、ひどく重々しかった。

「プロジェクトの期間は8年なの。一度施設に入ればもう出られないし、外部とは一切の連絡が取れなくなるのよ」

私は、黒瀬家が経営する会員制ドレスサロンの前に立っていた。ガラス越しに見えたのは、私がオーダーした純白のドレスを身にまとった琴音と、彼女に寄り添って写真を撮る征也の姿だった。

やがて彼は、手にしていた黒瀬家の花嫁に代々受け継がれてきた真珠のネックレスを、あろうことか琴音の首にかけてやったのだ。

あれは黒瀬家の家宝だ。上品な光沢をたたえた真珠のネックレス。征也が母親から受け継ぎ、「結婚式の日に君の首にかける」と私に約束してくれた品だった。

一瞬だけ、胸の奥がちくりと痛んだ。けれど、その痛みもすぐに消えていった。

「先生、もう決心はついています」

私は自分でも驚くほど落ち着いた声で返した。

「一流の研究チームに加わるのは、ずっと夢でしたから。研究室でデータと向き合うことが、私の一番得意なことですから」

先生から初めてこの誘いを受けたのは、1週間前のことだった。ちょうど征也からプロポーズされた直後で、その頃の私にはまだ、彼を手放す覚悟ができていなかったのだ。

けれど今はもう、しがみつきたいと思うものなど何ひとつ残っていない。

晴恵はしばらく沈黙していたが、やがて安堵したように息をついた。

「わかったわ。手配を進めておくわ。時間もないし、1週間ほどで研究施設から迎えの車が来るはずよ。それまでに身辺整理をしておきなさい。決して、悔いを残さないようにね」

通話を終えたとき、ちょうどサロンの扉が開き、店内から琴音の弾んだ声が聞こえてきた。

「ねえ征也くん、このドレス、本当に私に似合ってる?ちょっと派手すぎないかなぁ?」

それは、有名デザイナーに特注した一点物のドレスだった。5か月も完成を待ちわびたのに、本来着るはずだった私はまだ一度も袖を通していない。

「すごく似合ってるよ」

征也の声には、どこかからかうような響きが混じっていた。

「でも、澄玲さん怒らないかなぁ。これ、澄玲さんのドレスなのに……」

そのとき、不意に振り返った征也が私に気づいた。一瞬だけ彼の表情がこわばったが、すぐに何事もなかったかのように平静を装った。彼は琴音の腕から手を離し、さりげなく一歩身を引いた。

「ほら、早く着替えてこいよ。澄玲に試着させるから」

琴音は自身のドレス姿を見下ろし、いかにも名残惜しげに唇を尖らせた。

「もうちょっとだけ着てちゃだめ?澄玲さんはこれからいつでも着られるけど、私にとってはこれが最初で最後かもしれないのに」

「ばか言うなよ」

征也は苦笑して、彼女の頬を軽くつねった。

「いい相手が見つかれば、お前だって自分だけのドレスを作れるさ」

「えー、でもぉ、征也くん以上の男の人なんていないもん」

ふたりとも、私を前にして声をひそめる気すらないらしい。私の冷めた視線を感じ取ったのか、征也がこちらを向いて軽い調子で言い訳をした。

「写真を撮ってただけだ。そんなに気にするなよ」

1週間前の私なら、迷わず店に乗り込んで琴音にドレスを脱がせ、首からネックレスをむしり取っていただろう。

でも、あと1週間もすれば、私はもうここにいない。もはや彼らと争う気力すら、私には湧かなかった。

私はふっと微笑み、何でもないことのように言った。

「たかがドレスじゃない。気に入ったなら譲るわ。そのネックレスも、欲しければそのままどうぞ。

それじゃあ、研究室にまだ仕事が残ってるから、先に行くわね」

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Rebyu

ノンスケ
ノンスケ
こういう男って、なぜ婚約者が起こらなくなると「ようやく理解してくれた」と思い込むんだろう。彼が他の女を優先しても起こらなくなった時は、もうその彼に関心がなくなったからだ。だからドレスもネックレスもライブチケットも新居も。自分に黙って実家で援助している女に与えてももう何も言わなかったのだ。違和感を抱いた時に気づかないから、取り返せなくなったんじゃない。彼女の選択を尊重するとか言いながら、自分のした選択は正しいとか言われると、バカなの?って思ってしまうわ。
2026-11-06 20:56:26
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松坂 美枝
松坂 美枝
援助女に心を寄せたことはないとか言いながら婚約者の自分より優先しまくる男に愛想が尽きて離れて幸せになった話 ここまでされたら、ああ結婚する気ないんだわとしか思えんよね。
2026-11-06 09:27:57
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haya
haya
自称妹みたいな女…また。。。 そして、絶対にウェディングドレスを勝手に着る…悪気はなかったと言い張る。 今回はドレスを破らないだけマシだけど、よく人のウェディングドレスでタイムラインなんかにアップ出来るわ。 どれだけ後悔しても、その時々で大切にしなければ、こーいう結果になる。 ヒロインは8歳年下の旦那さんと幸せになってほしい。 自分の仕事を尊敬してくれる人に出会えて良かった。
2026-11-06 21:23:28
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11 Kabanata
第1話
「澄玲さん、本当に後悔はないわね?」電話越しに響く晴恵の声は、ひどく重々しかった。「プロジェクトの期間は8年なの。一度施設に入ればもう出られないし、外部とは一切の連絡が取れなくなるのよ」私は、黒瀬家が経営する会員制ドレスサロンの前に立っていた。ガラス越しに見えたのは、私がオーダーした純白のドレスを身にまとった琴音と、彼女に寄り添って写真を撮る征也の姿だった。やがて彼は、手にしていた黒瀬家の花嫁に代々受け継がれてきた真珠のネックレスを、あろうことか琴音の首にかけてやったのだ。あれは黒瀬家の家宝だ。上品な光沢をたたえた真珠のネックレス。征也が母親から受け継ぎ、「結婚式の日に君の首にかける」と私に約束してくれた品だった。一瞬だけ、胸の奥がちくりと痛んだ。けれど、その痛みもすぐに消えていった。「先生、もう決心はついています」私は自分でも驚くほど落ち着いた声で返した。「一流の研究チームに加わるのは、ずっと夢でしたから。研究室でデータと向き合うことが、私の一番得意なことですから」先生から初めてこの誘いを受けたのは、1週間前のことだった。ちょうど征也からプロポーズされた直後で、その頃の私にはまだ、彼を手放す覚悟ができていなかったのだ。けれど今はもう、しがみつきたいと思うものなど何ひとつ残っていない。晴恵はしばらく沈黙していたが、やがて安堵したように息をついた。「わかったわ。手配を進めておくわ。時間もないし、1週間ほどで研究施設から迎えの車が来るはずよ。それまでに身辺整理をしておきなさい。決して、悔いを残さないようにね」通話を終えたとき、ちょうどサロンの扉が開き、店内から琴音の弾んだ声が聞こえてきた。「ねえ征也くん、このドレス、本当に私に似合ってる?ちょっと派手すぎないかなぁ?」それは、有名デザイナーに特注した一点物のドレスだった。5か月も完成を待ちわびたのに、本来着るはずだった私はまだ一度も袖を通していない。「すごく似合ってるよ」征也の声には、どこかからかうような響きが混じっていた。「でも、澄玲さん怒らないかなぁ。これ、澄玲さんのドレスなのに……」そのとき、不意に振り返った征也が私に気づいた。一瞬だけ彼の表情がこわばったが、すぐに何事もなかったかのように平静を装った。彼は琴音の腕から手を離し、さりげな
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第2話
征也はしばらく言葉もなくその場に立ち尽くしていたが、やがて黙って立ち去った。その夜、彼は事前の連絡もなく、ふらりと研究室へやってきた。手には小さな箱を提げていた。中にはティラミスが入っていた。私はカフェインアレルギーだ。ひと口でも口にすれば激しい動悸がして、肌にはじんましんが広がる。これほど長く一緒にいても、彼はまだ覚えていないのだ。ティラミスに目がないのは琴音であって、私ではないということを。「仕事に没頭しすぎて、飯を食うのも忘れてるんじゃないかと思ってさ」そう言って、彼は箱を差し出した。彼のほうから歩み寄ってきたのだから、わざわざ断る理由もない。私は静かに微笑んで、「ありがとう」とだけ返した。それ以上は一切文句を言わない私の態度に、征也は少し拍子抜けしたような顔をした。帰りの車中、沈黙に耐えかねたように彼が口を開いた。「澄玲、怒ってるのか?」私は後輩の手塚紗英(てづか さえ)に引き継ぐデータのことで頭がいっぱいになっていて、彼の言葉をほとんど聞き流していた。「ごめんなさい、ちょっと考えごとをしてたわ。今、なんて言ったの?」その口ぶりがあまりにも素っ気なく聞こえたのだろう。彼は苛立ったように急ブレーキを踏み、勢いよくこちらを振り向いた。「まだあのドレスのこと、根に持ってるのか?」「えっ?」私は目を丸くした。「ううん、全然。どうしてそう思うの?」彼は探るような目で一瞬私を見つめてから、ぷいと前を向き直った。「……澄玲、前はこんなに静かじゃなかっただろ」確かに、彼の言う通りだった。すべてがおかしくなったのは、1年前に琴音が海外から帰国してからだ。それ以来、私たちは彼女の存在をめぐって幾度となく衝突を繰り返した。征也の言い分はいつも同じ。「あいつは昔からうちで面倒を見てきた、妹みたいなものだ」「お前が神経質に騒ぎすぎているだけだ」と。今までで一番激しい喧嘩をした夜、彼はとうとう声を荒らげた。「澄玲、たまには物分かりよくできないのか?俺は一日中、家業のことで手一杯なんだ。ただでさえ重圧を背負ってるんだよ!お前は俺と結婚して、黒瀬家の嫁になる身だろ。誰よりも俺の立場を理解してくれると思ってたのに。お前のくだらない嫉妬にいちいち付き合ってやる余裕なんて、今の俺にはないんだよ!琴音は家族
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第3話
征也はプライドが邪魔をして、私が本当は何を考えているのか問い詰めることすらできなかったのだろう。彼は何も言わず、不機嫌そうに背を向けた。同じベッドに横たわっているのに、その夜は、ふたりの心がはるか遠く離れているように感じられた。翌朝目を覚ますと、征也の姿はもうなかった。屋敷の管理人の話では、夜明け前に電話で呼び出され、慌ただしく出かけていったらしい。ダイニングテーブルには朝食が用意されていて、【ちゃんと飯を食えよ】というメモが添えられていた。ほどなくして、スマホにメッセージが届いた。【ドレスは屋敷に届けておいた。着てみて写真を送ってくれ。もともと君のためにあつらえたものなんだから。サイズが合わなければ直させるし、もし気に入らないなら最新のデザインで新しく作り直してもいい】試着する気など到底起きなかった。私は黙々と自分の荷物を整理し始めた。書斎に向かい、写真立てに収められたふたりの写真や、一緒に読んだ本、大量のメモやレシートを次々と段ボール箱に詰めていく。作業の途中、引き出しを整理していると、奥から1冊の日記帳が滑り落ちた。付き合い始めたころにつけていた日記だ。ページはすっかり黄ばんでいる。床に腰を下ろしてぱらぱらとめくったあと、結局、その日記帳だけはそっと脇によけておいた。これだけは手元に残しておくことにした。ソファ脇のサイドテーブルには、征也からの贈り物がずらりと並んでいた。黒瀬家が特別にあつらえたネックレス、いくつかのアクセサリー、限られた招待客だけが参加できるオークションで彼が競り落としてくれた腕時計。普段、彼が一番よく腰かけていたのは、ドアのそばにある革張りのアームチェアだった。私はそこに深く腰かけ、スマホを操作する。過去のメールを確認し、引き取り業者を探して連絡した。それから、翌日の集荷を手配した。夕方6時。スマホのリマインダーが、夜8時開演のライブを知らせた。何か月も前にチケットを取って、ずっと楽しみにしていたライブだ。出演するのは、全国ツアー中の人気インディーズバンドだった。ラストの曲で客席のカップルを大型スクリーンに映し出す演出が名物になっている。カメラに抜かれたふたりがその場でキスをするのが恒例になっていた。征也にまだライブへ行く気があるのかどうか、わざわざ確認する気にはなれなかった。どうせす
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第4話
私はふっと微笑んだ。「嫌味だなんて。いったい、何に嫉妬するっていうの?」そこへ、琴音がハイヒールを鳴らして小走りに追いかけてきた。ところが、数歩進んだところで急にふらつき、征也の腕にすがりついて体を支えた。「征也くん……なんだか急にめまいがしてきちゃって」彼は反射的に彼女の腰を抱えようとし、ハッとしたように私へ視線を向けた。ためらっている彼に、私のほうから先に声をかけた。「顔色がずいぶん悪いみたいね。何か食べるものを買ってあげたら?」あまりにも落ち着き払った私の態度に、征也はひどく驚いたようだった。彼は私の手をぎゅっと握りしめた。「すぐに何か食べるものを買ってくる。頼むから、ここで待っててくれ。すぐ戻るから」「ええ、分かったわ」と私は短く答えた。彼はしばらくのあいだ、私の顔をじっと見つめ続けていた。まるで私の瞳の奥に何かを探しているかのようだった。けれど、彼が求めていた感情は見つからなかったらしい。彼は琴音の体を支えようとそっと腕を回したが、彼女は甘えるようにそのまま寄りかかり、華奢な手で彼のジャケットの袖をきゅっとつかんだ。征也は半ば抱きかかえるようにして、通りの向かいにあるカフェへと彼女を連れていった。その後、私は予約していたクリニックへ向かった。処置が終わると、医師に気分を尋ねられた。なんだか、ひどく体が軽くなったような気がした。長いあいだ背負ってきた重い荷物を、ようやく肩から下ろせたような、そんな奇妙な安堵感があった。翌朝、屋敷に戻って玄関のドアを開けると、そこにはすでに見慣れた琴音の姿があった。彼女は少しも悪びれる様子を見せず、甘ったるい声で言った。「あっ、澄玲さん、誤解しないでね。ゆうべ帰ってから、また具合が悪くなっちゃって。家には誰もいなかったから、征也くんが『屋敷なら空いてる部屋がいっぱいあるから』って言ってくれたの」ちょうど浴室から出てきた征也は、鉢合わせた私たちを見てため息をついた。言葉を選ぶような、慎重な声だった。「こいつ、昨夜服を汚しちゃってさ。君の服で、何か貸せるものはあるか?それか、使用人に新しい服を買いに行かせてもいい。自分の服を触られたくないなら、無理しなくても構わないから」「いいわよ。サイズが合うものなら、どれでも好きに持っていって」私は平坦な声で返した。予想外
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第5話
あの年、征也は若くして家業を継いだばかりだった。誰もが彼の一挙一動に注目し、若き当主が失敗するのを今か今かと待ち構えていた。そんな重圧の中、彼は「必ず君と結婚する。ずっと俺のそばにいてほしい」と言ってくれたのだ。当時の私は、その言葉を疑いもしなかった。けれど、現実はそう単純なものではなかった。彼らの間に、私の居場所など最初からなかったのだ。去り際にこれ以上揉め事を起こしたくはない。「考えすぎよ。少し古くなったから、専門の業者に修復と保管を頼むだけ」「……本当か?」私は表情を変えず、落ち着いて答えた。「ええ、本当よ」征也はほっとしたようだった。「なんだ、そうか。じゃあ戻ってきたら書斎に専用の飾り棚を作らせて、全部そこに飾ろう」私はうなずいた。「さあ、もう仕事に行って。私は少し休みたいの」私は寝室に入ると、内側からカチャリと鍵をかけた。ドアの向こうで、彼がしばらく立ち尽くしている気配がしたが、やがて足音を立てて立ち去った。目を覚ますと、すでに午後になっていた。スマホを見ると晴恵から着信が残っていた。折り返すと、私が執筆した論文が学術誌に掲載されたと知らされた。電話を切ってほどなくして、今度は征也から着信があった。たまたま近くにいるから、大学の研究室まで車で送ってくれるという。迎えに来た高級車に乗り込むと、助手席には当然のように琴音が座っていた。彼女はシート越しに振り返り、悪びれずに言った。「あ、澄玲さん、席のこと気にしないでね。私、車酔いしやすいからいつも前に乗せてもらってるの」「全然構わないわ」私は後部座席に腰を下ろした。ハンドルを握る征也が、上機嫌で話題を振ってきた。「そういえば今日、うちの医療部門である論文が話題になっててさ。著者は『森野すみ』という名前で論文を発表しているらしいんだけど、その研究内容がものすごく先進的なんだ。うちの会社から共同研究を持ちかけてみる価値は十分にありそうだな」彼が熱を込めて語っているのは、他でもない私が書いた論文のことだった。研究活動では「森野すみ」という名前を使っている。晴恵が「素性を知られないように」と勧めてくれたもので、「すみ」は澄玲の音から、「森野」は亡き母の旧姓である森岡をもじってつけたものだった。黒瀬家の人間が私と結びつけることなど、絶対にない
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第6話
大学の正門前で、征也は車のトランクから小さなベルベットの箱を取り出し、私に差し出した。中に入っていたのは、一連の真珠のネックレスだった。年代物の美しい品で、彼の亡き母親の形見だった。「ずっと機嫌が悪いのは分かってる。ドレスの件は悪かった。気になるなら、別のものを用意させる。ネックレスだって、琴音が着けたものはもう嫌だっていうなら、作り直させるよ。君の望むとおりにするから」私は真珠を見つめた。たしかに美しい。けれど、今の私が欲しいものではなかった。静かに箱を閉じ、彼に返した。「ドレスのことはあなたに任せるわ。ネックレスも気にしないでちょうだい。私、もう行かないと」立ち去ろうとする私の手首を、彼が強くつかんだ。「澄玲、いったいどうしたっていうんだよ」私はその手をそっと振り払った。「あとで話すわ」研究室へ向かうと、晴恵が掲載された論文の別刷りを手渡してくれた。「この論文で、あなたの名前は研究者の間で一気に知られるようになるわ。胸を張りなさい」そこで晴恵はふっと言葉を切った。「とはいえ、閉鎖環境での研究生活は厳しいわよ。来る日も来る日も実験を繰り返し、膨大なデータと向き合う日々よ。本当に覚悟はできているのね?」車の中で、結婚したら研究の仕事を辞めろと言った征也の顔が浮かんだ。「はい」と私は迷わず答えた。「覚悟はできています」教授室を出ると、紗英が廊下の窓際で、ひとり怒りをあらわにしていた。「どうしたの?」私は尋ねる。「さっきカフェで、征也さんと琴音を見かけたんです。琴音ったら、征也さんの手首に手を添えて、ひとつのデザートをふたりで食べてたんですよ。あんなの、どう考えてもありえなくないですか?」「征也にとっては、昔から家族みたいな子だから」私はなだめた。「先輩、目を覚ましてくださいよ。琴音は家族なんかじゃない。どう見たって恋人同士の距離感じゃないですか!」紗英の怒りに満ちた声が廊下に響いた。「もうすぐ先輩と結婚するっていうのに、ほかの女と距離も取れないなんて。私、今からあの子に文句を言ってきます!」私は慌てて彼女を引き止めた。「やめて、紗英」「どうしてですか」「だって、私……もう彼とは結婚しないから」紗英はその場で固まった。「結婚しない?だって先輩、妊娠してるんです
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第7話
さっきの会話をどこまで聞かれたのかは分からない。私は平静を装い、軽い調子で答えた。「紗英のいとこの話よ。家族のことで、ちょうど相談に乗っていたところなの」征也は聞こえるほど大きく安堵の息をついた。目元に柔らかな笑みを浮かべると、なんとか2日間予定を空けたので、一緒に海へ行こうと誘ってきた。私は静かにうなずく。「澄玲、愛してる。何か気になることがあるならちゃんと言ってくれ。これからはもっと君との時間を作るって約束するから」私は彼が望むとおり、うなずいてみせた。翌朝、彼はまたしてもあっさりと約束を破った。【家のほうで急用ができた。ごめん、埋め合わせは必ずする】というメッセージだけが届いた。最初から分かっていたことだ。今さら傷つきもしない。彼の約束は、とうの昔に意味を失っている。私は昨夜のうちに、自分の分のチケットをこっそり予約しておいたのだ。ひとりで訪れた海辺は静かだった。ホテルのバルコニーに置かれた籐椅子に腰かけ、波の音に耳を傾ける。この数か月間でいちばん、心が軽かった。ここから完全に姿を消すまで、あと3日。ふと、新居にまだ私物が少し残っていることを思い出した。立ち寄ってみると、玄関の暗証番号が勝手に変えられていた。私は黒瀬家が契約している管理会社に連絡し、玄関の鍵を開けてもらった。中に入ると、リビングはすでに琴音の私物であふれ返っていた。主寝室のクローゼットには彼女の服が掛かっていて、征也のシャツのすぐ隣に並べられていた。家具から何から、すべて私が選んだはずの家が、今ではまるで琴音と征也の愛の巣のようだった。あの日、車を降りるときに彼女が窓越しに浮かべた笑みの意味を、私はようやく理解した。私は黒瀬家の不動産管理部門に電話をかけ、相場を下回っても構わないから早急に売却してほしいと頼んだ。それからリビングに腰を下ろし、仕事で残っていた最後のデータ入力を済ませた。その夜、征也はひどく酔いつぶれ、秘書に肩を貸してもらいながら屋敷へ帰ってきた。私は秘書に、征也をソファに寝かせておくよう頼んだ。毛布をかけてやる気すら起きなかった。ひとりで寝室に入り、ドアを閉めた。翌朝、目を覚ました彼は不満を漏らした。「俺を一晩中ソファに放っておいたのか?」私は彼を見つめ返した。「ほかにどうしろっていうの?」彼は不満げに口を
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第8話
翌朝、征也は澄玲のスマホに電話をかけた。7回呼び出しても、澄玲は出なかった。焦ってもう一度かけ直した。やはり出ない。寝室に立ったまま、彼はメッセージを送った。【起きてるか?今から迎えに行く】返事はなかった。嫌な予感がして屋敷へと車を走らせる。家の中は不気味なほど静まり返っていた。カーテンは閉じたまま。いつもの朝の生活音さえ聞こえない。靴箱から彼女のスリッパが消えていた。胸騒ぎを覚え、足早に寝室へ向かった。クローゼットには自分の服が残っているのに、彼女が使っていた場所はきれいに空になっていた。ドレッサーの上にも何もない。引き出しの底には、不要な書類が数枚残っているだけだった。書斎へ飛び込むと、机の上に使い込まれた日記帳がぽつんと置いてあった。開いてみると、付き合い始めて最初の1年間につけていた日記だと気づいた。しかしその最後のページには、まだ新しいインクでこう記されていた。【征也へ。私たちはここで終わりだ】その下には、今日の日付が添えられていた。彼は血の気が引くのを感じ、彼女に電話をかけた。しかし、留守番電話に切り替わった。もう一度かけても、また留守番電話。スマホの電源が切れるまで、彼は狂ったようにかけ続けた。大学の研究室へ車を走らせ、紗英を見つけて詰め寄った。「澄玲はどこだ」紗英は冷ややかな目で彼をにらみつけた。「行っちゃいましたよ。知らなかったんですか?」どこへ行ったのかと問うと、紗英は鼻で冷たく笑った。「あなたが琴音にかまけてた間、澄玲先輩のことを一度でも考えたことがあるんですか?この1年で、一度でも先輩を大切にしてあげてたら、先輩は今もここにいたはずですよ。この前、先輩はあなたのためにこのプロジェクトを断ったんです。でも、もう手放すものなんて何も残ってなかったんですよ」彼女は息をついた。「8年ですよ。外部との連絡が完全に断たれる研究プロジェクトに入ったんです。やっと、あなたに足を引っ張られずに済むようになったんだから、先輩にとっては本当によかったです!」征也は雷に打たれたように立ち尽くした。8年。その数字が、重い衝撃となって、何度も頭の中に響いた。彼女が最後に書き残した言葉を思い出した。諦めきった静かな目。何も言わず、何も欲しがらずにいた、あの様子。拗ねているだけだと高をく
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第9話
征也はスマホを取り出し、琴音に電話をかけた。「15分後、俺の書斎に来い」それだけ告げて電話を切り、椅子の背もたれに寄りかかった。澄玲が最後に浮かべた笑顔を思い出した。ある夜、彼女は大学の研究室から遅くに帰宅し、学術誌を手にしていた。ベッドの端にそっと腰を下ろし、パラパラとページをめくった。顔は上げなかったが、その口元がわずかにほころんでいたのを覚えている。自分はそのとき、スマホのメッセージを確認していた。彼女が何を見て微笑んでいたのか、尋ねもしなかった。これから先、時間はいくらでもあると高をくくっていたからだ。琴音は新しいワンピースを着て、口紅を塗り直してやってきた。自信ありげな笑みを浮かべ、書斎に入ってきた。「征也くん、話って――」「澄玲に動画を送ったな」征也は低い声で言った。「あいつが出ていったあの夜に」琴音の口元の笑みがわずかに引きつった。「私は、ただ……」「『最後に黒瀬家の嫁になるのは誰か』と言ったな」征也は感情を抑え込んだ声で続けた。「どういうつもりでそんなものを送った?」琴音は一瞬だけ動きを止めた。それから、開き直ったようにわずかに顎を上げた。「本当のことを言っただけよ。澄玲さんは自分から出ていった。だったら、誰かがその代わりを務めなきゃいけないでしょ。隣の席を、いつまでも空けておくつもり?」征也は何も答えなかった。「私のほうが澄玲さんより、征也くんと長い時間を一緒に過ごしてきたのよ」琴音は次第に早口になった。「私は黒瀬家に育ててもらったのよ。征也くんが思ってるよりずっと、私はあなたの立場を分かってるわ。あなたに必要なのは、1日中研究室にこもって、ろくな成果も出せない女なんかじゃない。社交の場でも堂々と振る舞える人。あなたの隣に胸を張って立てる人よ。当主の妻に必要なことなら、私は全部できるわ。会合にも顔を出せるし、人付き合いだってうまくできるわ。家の切り盛りだって任せてちょうだい。あの人に何ができるっていうの?何年も研究ばかりしてきて、結局何を成し遂げたっていうのよ?」征也は黙ったまま、彼女を見つめていた。「私のほうが絶対にあなたにふさわしいのよ」琴音は一歩踏み出して言った。「最初から私を選ぶべきだったの。なのに、あなたはあの人を選んだ。彼女があなたに何をくれたっていうの
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第10話
あれから3年が過ぎた。私は研究施設の自室で、症例ノートをめくっていた。窓の外はもうすっかり暗くなっている。ここへ来て3日目に、私はスマホからSIMカードを抜き取った。その前に、征也からメッセージが1通届いていた。【今どこにいる?迎えに行く】私は返信しなかった。それきり、彼の名前がスマホの画面に表示されることは二度となかった。いつかは諦めるだろうと思っていた。そして実際、その通りになった。その後、紗英も私と同じ研究プロジェクトに参加した。彼女は参加する前に外の世界で征也について聞いた話を、ぽつりぽつりと話してくれた。征也はあの「森野すみ」の論文を見つけ、著者が誰なのかを知ったという。出入国記録から飛行機の搭乗履歴まで調べ、私の行きそうな場所を必死に探し回ったらしい。けれど、外の世界には、私の居場所につながる手がかりは残されていなかった。「子どものこと、彼、知ってるんですよ」紗英は言った。「先輩が送った、妊娠に関するあの書類。征也さんは誰にもそのことを話してないみたいです。でも人づてに聞いた話だと、書類が届いた日は1日中書斎に鍵をかけて閉じこもっていて、夜に出てきたときには、目を真っ赤に腫らしていたんですって」紗英によれば、彼は私にどうしても謝りたがっていたという。私がいなくなってから酒を飲みすぎて、何度か入院したこともあったらしい。それでも、人前で私の名前を口にすることは一度もなかった。研究者のひとりが、彼が研究施設の入り口に長いこと立っているのを見かけたそうだ。結局、彼が中に入ってくることはなかったという。それ以上のことは、もう知りたくなかった。すべてが遠い過去に感じられるほど、十分な時間が過ぎていたのだ。紗英は琴音のその後についても教えてくれた。征也に黒瀬家から完全に締め出されたあと、彼女は別の有力者の家に取り入ろうとしたらしい。しばらくは有力者たちの間を渡り歩いていたものの、どこからも「黒瀬家を裏切って追い出された女」と見なされ、正式に受け入れてくれる家はなかった。それきり、彼女は社交界からひっそりと姿を消した。征也は、その後も誰とも結婚することはなかったという。施設での時間は、驚くほどあっという間に過ぎていった。いくつものプロジェクトに携わり、論文を何本も発表し、研究成果が学術誌の表紙を飾ったことも1、2
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