LOGIN婚約者の長塚昌也(ながつか まさや)と専属秘書の寺田友加里(てらだ ゆかり)が、深夜を過ぎても「おやすみ」とメッセージを送り合っているのを初めて見つけたとき、私たちはそれまでで一番激しい喧嘩をした。 それ以来、彼女と距離を置いてほしいと頼むたびに、彼はわざと友加里との距離を縮めるようになった。そうすれば、私の神経質な性格を直せるとでも思っていたのだろう。 二人で暮らすはずの新居の家具選びには友加里を連れていき、車の助手席にも彼女を座らせた。 私が熱を出して寝込んでいたときさえ、一人きりで置き去りにして、友加里を連れて別邸へ出かけた。 傷ついたと伝えるたびに、昌也はさらに私の気持ちを踏みにじった。 やがて私は、何も求めなくなった。 昌也は、自分がついに勝ったと思ったらしい。 都心の高級マンションの最上階に構えた新居で、引っ越し祝いのパーティーが開かれた日のこと。私は玄関のスマートロックに指を当てた。 ――未登録の指紋です。 彼の友人たちが笑った。 「もう諦めなよ、珠理(しゅり)。友加里の指紋なら、とっくに登録されてるぞ」 すると、そのうちの一人がにやりと笑って続けた。 「昌也は、君がキレないほうに賭けたんだ。これくらい受け入れられたら、ようやく長塚家の嫁になる覚悟ができたってことだってさ」 誰もが、私が怒りを爆発させるのを待っていた。 私は赤く光るランプを見つめながら、昌也の望みは、確かにかなったのだと悟った。 もう、どうでもよかった。 「登録しなくていいわ」 私はエレベーターへと向きを変えた。 「結婚式も中止にして」 どのみち、彼のもとを去るつもりだった。もう結婚式を挙げる意味なんてなかった。
View More結婚式の日、福代は美しい晴天に恵まれた。式は、海を望むホテルの最上階のテラスで行われた。バージンロードには白い花が並び、海から吹く風がヴェールの裾をふわりと揺らしていた。母が、式場の入口まで付き添ってくれた。その先では、旬が待っていた。私が姿を見せた瞬間から、彼は一度も目をそらさなかった。そばにたどり着くと、彼が私の手を取った。その手のひらは温かかった。旬の誓いの言葉は、飾り気のないものだった。「珠理、君が僕にとってどんな存在なのか、思い悩ませることはしない。不安になったらいつでも聞いてほしい。傷ついた時も、僕に教えて」彼の指が、私の手を優しく握った。「我慢することで、愛される資格を証明する必要なんてないんだ。愛してる、珠理。僕と結婚してください」一瞬、テラスが静まり返った。目頭が熱くなった。昌也は何年もの間、私には直すべきところが多すぎると思い込んでいた。――いちいち聞くな。気にするな。求めすぎるな。傷ついたと伝えるたびに、彼はさらに一線を踏み越えた。そして私は、とうとう何も聞かなくなった。旬は、私に別の姿になることを求めたことがなかった。彼の指に指輪をはめる番になり、私は微笑んだ。「はい。喜んで」周囲から拍手が湧き起こった。旬が身をかがめ、私にキスをした。同じ頃、昌也は、ホテルのロビーに設けられた警備の受付の前に立っていた。――結局、来たのだ。数日前、流佳が会場を教えていた。けれど旬の警備チームには、すでに指示が出ていた。招待されていない人は、貸し切りのフロアへ通さないようにと。昌也はロビーのモニターの下に立ち、映し出され始めた結婚式の写真を見つめていた。その一枚で、私は旬に向かって微笑んでいた。指には、結婚指輪が光っていた。警備員が彼に近づいた。「上の階へはお通しできません」昌也は動かなかった。「1分だけでいい。彼女と話したい」「申し訳ございません。奥様から、本日は招待されていない方とはお会いにならないと、申し付かっております」奥様。その言葉に、彼は黙り込んだ。5年間、昌也は、私がいずれ長塚家の奥様になると信じて疑わなかった。だから、結婚式は先延ばしにしてもよかった。指紋の登録は、明日でよかった。私の傷ついた気持ちも、
それから、さらに半年が過ぎた。結婚式を1週間後に控え、私はデザイナーのアトリエで、ウェディングドレスの最後のフィッティングをしていた。デザイナーがヴェールの一番外側を整えていると、スマホが鳴った。流佳だった。数秒、その名前を見つめてから電話に出た。「珠理」彼の声は張りつめていた。「昌也に、君が結婚することが知られた」私は鏡に映る自分を見た。「そう」それだけしか反応が返ってこないとは、流佳も思っていなかったようだった。「昨夜、誰かが君と旬の結婚のニュースを共有したんだ。それを見て、昌也が取り乱して......」そうやって知ったのか。数日前、旬の家族が結婚を公表していた。その知らせはすぐに、福代の社交界を扱うコラムや、いくつかのデザイン業界のアカウントに取り上げられていた。流佳が続けた。「あの新居に戻って、リビングの半分をめちゃくちゃにしたんだ。友加里と選んだものは、ほとんど壊してしまった......今は玄関の前に座ってる」少し間を置いて、彼はつけ加えた。「あの指紋認証の鍵の、すぐ前に」私は何も言わなかった。「あの夜、珠理の指紋を登録していれば、こんなことにはならなかったって、何度も言ってるんだ」私はウェディングドレスのスカートを、手のひらでそっとなでた。「今さら登録したところで、何も変わらないわ」「それはわかってる」流佳はしばらく黙った。「でも、あいつは本当に後悔してるんだ」「それは私に何の関係が?」「君たちは5年も一緒にいたんだぞ」私は鏡の中の自分に視線を上げた。「だから?」流佳は答えられなかった。「5年一緒にいたから、もう一度チャンスをあげるべきだっていうの?彼が他の女を使って私を傷つけたのは、その5年があるから、私は離れないと思っていたからよ。私が出ていくことなんて、絶対にないと思い込んで」電話の向こうが静まり返った。少ししてから、私は言った。「......もう彼のことで、もう電話してこないで」通話を終え、彼の番号を着信拒否にした。背後で、デザイナーがヴェールを整え終えた。「できましたよ」私は立ち上がり、鏡の中の自分を見た。きれいだった。それ以上に、心が穏やかだった。ドアをノックする音がした。旬が、私
3か月後、福代には激しい雨が降っていた。デザインサミットが終わり、同僚たちとホテルを出ようとしたとき、一人の男が雨の中をこちらへ向かってきた。階段にたどり着く前に、警備員が彼を止めた。私は足を止めた。――昌也だった。黒いコートはずぶ濡れで、濡れた髪が額に張りついていた。いつも冷静で、何もかも思いどおりにしていた長塚財閥の社長の面影はなかった。「珠理」声がかすれていた。私は動かなかった。昌也はしばらく私を見つめていたが、やがて警備員の手を振りほどき、こちらへ歩いてきた。次の瞬間、私の前で膝をついた。周囲が静まり返った。「すまない......俺が間違っていた」雨が彼の顔を伝い落ちる。「友加里はもううちでは働いていない。あいつのことは、弁護士に任せている。新居の鍵も替えた」私を見上げた彼の目は、すでに赤くなっていた。「だから珠理、一緒に帰ってくれ。スマホはいつでも見ていい。俺がどこにいるか知りたければ、毎日伝える。1日に10回でも、電話してくれていいんだ」彼の声が、さらに低くなった。「だから......だからまだ前みたいに俺のことを気にかけてくれ......頼むよ、珠理」3か月前なら、昌也からそんな言葉を聞けただけで、嬉しくて一晩中眠れなかったかもしれない。けれど今は、ただ奇妙に聞こえた。私は一歩、後ろへ下がった。「まだ、わかっていないのね」昌也が動きを止めた。「スマホを見せてくれなかったから、あなたのもとを離れたんじゃない。彼女があなたの車に乗ったからでも、新居に出入りできたからでもないわ」彼の目を見つめた。「私が傷ついたと伝えるたびに、あなたがわざと、もっとひどいことをしたからよ。私がいつ怒らなくなるのか、見たかったんでしょう」昌也の顔から、少しずつ血の気が引いていった。「珠理......」「あなたの勝ちよ」私の声は穏やかなままだった。「今なら、あなたが誰と一緒にいても、私は別に気にしないから」彼は完全に言葉を失った。私へ手を伸ばしてくる。触れられる前に、私は身を引いた。そのとき、頭上に黒い傘が差しかけられた。旬が隣に立ち、私にコートを差し出した。「車が来たよ」「ええ」昌也の視線が、彼へ移った。「小田島旬」
数週間後、長塚不動産の財務責任者が、慌ただしく昌也の執務室に入ってきた。「社長......!事業用口座の一つで、問題が起きました」昌也が顔を上げる。「いくらだ?」「約1億8000万円です」ホテル事業の一つで、施工業者や資材の納入業者への次回の支払いに充てる予定だった資金だ。「それがどこへ消えた?」財務責任者の表情がこわばった。「昨夜、寺田友加里が管理権限を使って送金しています。銀行が不審な取引として検知したときには、すでに複数の外部口座へ分散されていました」昌也はスマホを取り、彼女に電話をかけた。すぐに留守番電話へ切り替わった。彼女のマンションへ人を向かわせたが、部屋はすでに引き払われていた。服も、書類も、旅行かばんも、何一つ残っていなかった。昌也は机の上の取引記録を見つめ、その表情を冷たくした。――友加里が、自分のそばで働くことで得られる贅沢な暮らしを楽しんでいるのは、以前からわかっていた。けれど、会社の金にまで手をつけるとは思っていなかった。銀行が未処理の送金を凍結し、長塚家の顧問弁護士たちが警察に連絡した。やがて、友加里が空港まで逃げていたことがわかった。けれど彼女の身柄を確保する前に、ネット上でスクリーンショットが拡散し始めた。友加里が、数か月にわたる昌也との私的なメッセージを、SNSに公開したのだ。1時間もしないうちに、ゴシップ系インフルエンサーが転載した。その数は、数十枚に及んだ。1枚には、友加里のこんなメッセージがあった。【返事をもらえなくて、柏原さんがまた怒ってますよ】昌也の返信はこうだった。【明日は助手席に乗れ】別の一枚では、友加里が尋ねていた。【家具選びを手伝っただけで、本当に怒るんですか?】彼は答えていた。【怒るだろうが、放っておけ】続いて、引っ越し祝いの前のやり取りが出てきた。【流佳さんが、絶対にキレるって言ってますよ】昌也は、【騒がないさ】と返していた。最後に公開された一枚が、最もひどかった。友加里はこう尋ねていた。【私の指紋がもう登録されているって、柏原さんに知られたらどうしますか】昌也の返事は、簡潔だった。【知られても構わないさ】スクリーンショットの下には、友加里が書いた長い文章が添えら