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第二夜

Auteur: mako
last update Date de publication: 2024-10-07 18:16:03

部屋を出た私は、冷たい朝の空気を吸い込みながら、昨夜の出来事を振り返っていた。どうしてあんなことをしてしまったんだろう。思わず顔を覆いたくなるような後悔が、胸の奥でじわじわと広がる。

指輪を彼に渡してしまったことも、今になってようやく重くのしかかってきた。あれは、私にとって祖母からの大切な形見だったのに。酔いがさめた今、その重大さが痛いほど感じられる。

「私、どうかしてた…」

呟くと同時に、ふと昨夜の彼の優しい声が耳に蘇る。私の愚痴を黙って聞いてくれて、どんなに酔っても優しく対応してくれた彼。目が見えないのに、まるで私の心の中まで見透かすような、そんな不思議な感覚があった。

Side 陽介

半年前、俺は事故で視力を失った。突然訪れた暗闇の中で、生きる意味も自信も失ったような気がした。自分がこれまで築いてきたものが、すべて手の届かない場所へと消えていくような感覚だった。それでも、どうにか立ち直ろうと決意し、今はバーテンダーとして働いている。

店のカウンター越しに、彼女――名前も知らない女性がどんな人なのかをぼんやりと想像していた。いつも通り、声や気配から客の様子を察してきたが、彼女の声にはどこか疲れや寂しさが滲んでいた。酒の匂い、重く響く愚痴、そして時折漏れるため息。

「家が厳しいんだよね…お見合いだって、恋も結婚も好きに選べないし。っていっても、恋なんてしたことないんだけどね」

彼女は自分の悩みを打ち明けるように語り続けた。俺はあえて黙って聞いていた。バーテンダーとして、人の話を受け止めるのは慣れている。客の感情を聞き流すのも仕事の一部だと思っていたからだ。

けれど、彼女の声には何か特別なものを感じていた。

心の奥に触れるような、そんな響きがあった。気づけば、俺は彼女のことをもっと知りたいと思っていた。しかし、それが俺自身の感情なのか、それとも彼女の孤独が自分に投影されているだけなのかは、まだわからなかった。

「自由になりたいだけなのに、恋もしてみたい…」

彼女の声が震えた。その瞬間、俺は自分もかつて同じような感情を抱いていたことを思い出した。目が見えなくなった時、自分の自由も奪われたように感じた。だからこそ、彼女の言葉に共感してしまったのかもしれない。

「そんな時もあるよ。自分を責めない方がいい。」

そう声をかけた時、彼女がどんな反応をしたのかは見えなかったが、「ありがとう」少し震えた声に俺は心が揺れた。

いつも通り、彼女は買えるだろう、そう思っていたが、一時間ほどして、ここの店長で俺の友人でもある、キリトが俺に困ったように声をかける。

「このお客さん、かなり飲んだだろ? 寝ちゃったぞ」

ため息交じりの声に、俺は彼女の声がしていた方を見た。

「お客さん、起きれます?」

キリトの声に、俺はありえない言葉を発していた。

「いいよ、帰って。後は俺が」

その瞬間、キリトが驚いたように、息を止めたのがわかったが、俺はそれを気づかれないふりをする。

しかし、視力が弱くなってから人と関わることを避けてきた俺をしっているだけに、キリトは小さく息を吐く。

「じゃあ、頼んだ。俺は帰るぞ」

「ああ」

俺は遅い時間の移動はなるべく避けたくて、この店の裏に住んでいる。住み慣れた場所ということで、彼女を起こし、なんとか寝室まで運んだ。

「大丈夫? 水飲める?」

「のめないーい!!」

完全に寄っている彼女に、ため息を吐きつつ冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し渡そうとすると、いきなり手を引かれて、ベッドに倒れこむ。

「どうした?」

そう尋ねると、彼女がゆっくりと手を伸ばし、俺の腕に触れたことがわかった。その瞬間、俺は一瞬だけ身動きが取れなくなった。彼女の手は冷たくて、何を考えているなんてわかるわけもない。

「一度くらい…自由に生きたいの…」

「生きればいいよ」

そう伝えると、彼女は俺の首に抱き着いた。

「お願い」

「なに?」

「私に教えて……」

彼女がその言葉を呟いた瞬間、俺は引き寄せられるように彼女と唇を重ねた。

驚いたが、彼女の気持ちを拒むことはできなかった。彼女の言葉と行動には、酔っているとはいえどこか真実があった気がした。

そして、その夜、俺は久しぶりの幸福感を感じていた。


朝になり、彼女が静かに部屋を出て行ったことに気づいたが、俺は何も言えずにいた。

でも、視えない俺に、何ができる?

まだ彼女の温もりが残っているような気がして、ただその感覚を感じていた。

「忘れられるわけがないだろう…」

そう心の中で呟きながら、彼女の存在が俺の心に重く残った。

その後、俺の目は徐々に光を取り戻したが、首に掛けられた指輪を見るたびに彼女を思い出してしまった。

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