部屋を出た私は、冷たい朝の空気を吸い込みながら、昨夜の出来事を振り返っていた。どうしてあんなことをしてしまったんだろう。思わず顔を覆いたくなるような後悔が、胸の奥でじわじわと広がる。
指輪を彼に渡してしまったことも、今になってようやく重くのしかかってきた。あれは、私にとって祖母からの大切な形見だったのに。酔いがさめた今、その重大さが痛いほど感じられる。
「私、どうかしてた…」
呟くと同時に、ふと昨夜の彼の優しい声が耳に蘇る。私の愚痴を黙って聞いてくれて、どんなに酔っても優しく対応してくれた彼。目が見えないのに、まるで私の心の中まで見透かすような、そんな不思議な感覚があった。
Side 陽介
半年前、俺は事故で視力を失った。突然訪れた暗闇の中で、生きる意味も自信も失ったような気がした。自分がこれまで築いてきたものが、すべて手の届かない場所へと消えていくような感覚だった。それでも、どうにか立ち直ろうと決意し、今はバーテンダーとして働いている。
店のカウンター越しに、彼女――名前も知らない女性がどんな人なのかをぼんやりと想像していた。いつも通り、声や気配から客の様子を察してきたが、彼女の声にはどこか疲れや寂しさが滲んでいた。酒の匂い、重く響く愚痴、そして時折漏れるため息。
「家が厳しいんだよね…お見合いだって、恋も結婚も好きに選べないし。っていっても、恋なんてしたことないんだけどね」
彼女は自分の悩みを打ち明けるように語り続けた。俺はあえて黙って聞いていた。バーテンダーとして、人の話を受け止めるのは慣れている。客の感情を聞き流すのも仕事の一部だと思っていたからだ。
けれど、彼女の声には何か特別なものを感じていた。
心の奥に触れるような、そんな響きがあった。気づけば、俺は彼女のことをもっと知りたいと思っていた。しかし、それが俺自身の感情なのか、それとも彼女の孤独が自分に投影されているだけなのかは、まだわからなかった。
「自由になりたいだけなのに、恋もしてみたい…」
彼女の声が震えた。その瞬間、俺は自分もかつて同じような感情を抱いていたことを思い出した。目が見えなくなった時、自分の自由も奪われたように感じた。だからこそ、彼女の言葉に共感してしまったのかもしれない。
「そんな時もあるよ。自分を責めない方がいい。」
そう声をかけた時、彼女がどんな反応をしたのかは見えなかったが、「ありがとう」少し震えた声に俺は心が揺れた。
いつも通り、彼女は買えるだろう、そう思っていたが、一時間ほどして、ここの店長で俺の友人でもある、キリトが俺に困ったように声をかける。
「このお客さん、かなり飲んだだろ? 寝ちゃったぞ」
ため息交じりの声に、俺は彼女の声がしていた方を見た。
「お客さん、起きれます?」
キリトの声に、俺はありえない言葉を発していた。
「いいよ、帰って。後は俺が」
その瞬間、キリトが驚いたように、息を止めたのがわかったが、俺はそれを気づかれないふりをする。
しかし、視力が弱くなってから人と関わることを避けてきた俺をしっているだけに、キリトは小さく息を吐く。
「じゃあ、頼んだ。俺は帰るぞ」
「ああ」
俺は遅い時間の移動はなるべく避けたくて、この店の裏に住んでいる。住み慣れた場所ということで、彼女を起こし、なんとか寝室まで運んだ。
「大丈夫? 水飲める?」
「のめないーい!!」
完全に寄っている彼女に、ため息を吐きつつ冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し渡そうとすると、いきなり手を引かれて、ベッドに倒れこむ。
「どうした?」
そう尋ねると、彼女がゆっくりと手を伸ばし、俺の腕に触れたことがわかった。その瞬間、俺は一瞬だけ身動きが取れなくなった。彼女の手は冷たくて、何を考えているなんてわかるわけもない。
「一度くらい…自由に生きたいの…」
「生きればいいよ」
そう伝えると、彼女は俺の首に抱き着いた。
「お願い」
「なに?」
「私に教えて……」
彼女がその言葉を呟いた瞬間、俺は引き寄せられるように彼女と唇を重ねた。
驚いたが、彼女の気持ちを拒むことはできなかった。彼女の言葉と行動には、酔っているとはいえどこか真実があった気がした。
そして、その夜、俺は久しぶりの幸福感を感じていた。
朝になり、彼女が静かに部屋を出て行ったことに気づいたが、俺は何も言えずにいた。
でも、視えない俺に、何ができる?
まだ彼女の温もりが残っているような気がして、ただその感覚を感じていた。
「忘れられるわけがないだろう…」
そう心の中で呟きながら、彼女の存在が俺の心に重く残った。
その後、俺の目は徐々に光を取り戻したが、首に掛けられた指輪を見るたびに彼女を思い出してしまった。
「寝ようか」陽介さんの低い声が、静まり返った空間に響いた。私は少し遅れて頷くと、当麻が眠る寝室へと向かった。ドレスを脱ぎ、メイクを落としながら、なんとなくまだ胸のざわつきが残っているのを感じる。今日の出来事、陽介さんの言葉、そして彼が持っていた指輪──。(……考えすぎ、なのかな)そう思おうとしても、頭の奥に残った違和感は消えなかった。ベッドに入る前に、ふとクローゼットの奥に視線を向ける。ずっと触れていなかった、小さな木箱。私はそっと扉を開け、その箱を手に取った。白い手のひらに収まるほどのサイズ。蓋には薄く彫り込まれた模様があり、時間とともに少し色あせている。それでも、この箱だけはずっと手放せなかった。ゆっくりと開けると、中にはいくつかの小さな宝石、古いアクセサリー──そして、一つの鍵があった。「……」金属の表面は、長年触れられずにいたせいか、わずかにくすんでいた。それでも、形は鮮明に覚えている。(あの夜、ポケットに入っていた鍵)それが何なのかも分からず、ただずっと持っていた。無くすこともできず、意味を知ることもなく、ただここにあった。(でも……)リビングで見た陽介さんの指輪。それを見つめる彼の表情。なぜか、それがこの鍵と重なるような気がした。「まさか……ね」私は小さく苦笑し、鍵をそっと指先でなぞった。考えすぎかもしれない。でも、もしも──。そのとき。「……っ」静かな寝室に、小さな泣き声が響いた。私はハッとして顔を上げ、すぐに当麻のベビーベッドへ向かった。鍵は、とりあえずバッグの中へ。今は、考える時間ではない。私は当麻を優しく抱き上げ、背中をさすりながら、小さく息を吐いた。朝の光が差し込むオフィスビルのエントランスをくぐると、いつもの風景が広がっていた。スーツ姿の社員たちが行き交い、忙しそうにスマートフォンを操作している。私は清掃用具を抱えながら、小さく息をついた。(……今日も、いつも通り)パーティーの余韻がまだ少し残っているような気がしたが、私はすぐに頭を切り替えた。ここでは、私は"CEOの妻"ではなく、ただの清掃員なのだから。「おはよう、美優ちゃん」「あ、おはようございます、安田さん」通りかかった受付の安田さんが、にこやかに挨拶をしてくれる。エレベーターへ向かうと、すれ違いざま
「それで子供を?」陽介さんは何も気づいていないようで、静かに私を見た。「はい」ただそれだけの返事をするのに、私はかなり勇気を振り絞った。これを言えば、彼も思い出すかもしれない。しかし、でも、あの彼は目が見えなかった。この指輪は誰かからもらっただけだという可能性もあるし、似たものかもしれない。(この指輪はどうしたんですか?)そう尋ねるべきかもしれない。そして、(これは知っていますか?)あの日、私が彼からもらったかもしれないもの。お互いまた会う日のために交換をしたのかもしれないもの。記憶があいまいな自分を呪うしかない。しかし、きっとお互いのものを交換したのだと思う。そして、あの日、私はこの形見を渡してでも、彼にもう一度会いたいと思っていたのかもしれない。「あの……」あの日、ポケットから見つけたのは見覚えのない、アンティークの鍵のようなものだった。それが何かもわからなかった私は、ただずっと小さな宝石箱の中にしまっていた。彼のものだという保証もないし、何かもわからない。家に帰ってから、その存在に気づいただけで、もうそれを二度と話に出すことなどないと思っていた。「ん?」やわらかく聞き返す彼に、私は言葉を探す。『鍵を知っていますか?』そう尋ねれば、答えはもちろんYESだろう。誰だって知っているはずだ。部屋から持ってきて見せるのが一番いいだろうか。そう思った私だったが、陽介さんが口を開いた。「たぶん、弟が三条に騙されているのだろう。そして、母も」話がもとに戻り、一番の核心部分になったことで、私はきゅっと鍵のことを飲み込んだ。途端に、現実へと引き戻された。私はきゅっと鍵のことを飲み込む。(……そうだった。いま、目の前の問題はこれ)悠馬COOが三条に利用され、そして陽介さんの母親も、もしかしたらただの操り人形になっている可能性すらある。母親が悠馬さんをCEOにすることを強く望んでいることは、私も知っている。そのためなら、どんな手を使っても、どんな危険な取引でも、躊躇しない。陽介さんはずっとこの母親の意向に逆らい、自分で会社を守ろうとしていた。そして――その戦いの最中で、彼は失明し、あの夜に私を助けた彼となったのかもしれない。鍵と指輪のことを話すべきか、迷いながらも、私は陽介さんの横顔を見つめた。彼は静かに、しかし鋭い眼
ーー美優眠れなかった。パーティーの余韻がまだ体に残っていて、ベッドに横になっても意識が冴えてしまう。 陽介さんの言葉が、ずっと胸の奥でこだましている。「俺が……お前を守る」あの言葉に嘘はなかった。 けれど、それは契約上の責任としてなのか、それとも――。自分の中に芽生え始めた感情に、どうしても整理がつかなくて、私はベッドから抜け出した。静まり返った廊下を、そっと歩く。 夜の空気がひんやりと肌を撫でるなか、リビングの方から淡い光が漏れているのが見えた。(まだ起きてる……?)静かに覗くと、陽介さんがソファに深く座り、ワイングラスを片手に、何かをじっと見つめていた。「眠れないのか?」不意に私をみて陽介さんが、静かに問いかける。「はい……」素直にそう答えると、陽介さんは何も言わずに立ち上がり、ワイングラスをもう一つ用意してくれた。「飲めるか?」「……少しだけなら」ワイングラスを受け取ると、赤ワインのかすかな香りが鼻をくすぐる。 グラスの中でゆっくりと揺れる深紅の液体を見つめながら、私は小さく息を吐いた。しばらくの沈黙。夜の静寂が、二人の間に漂う。口を開くべきか迷いながらも、私はゆっくりと切り出した。「三条のこと……黙っていてごめんなさい」陽介さんの手が一瞬だけ止まる。「いや……あの男との縁談のことを聞いて、色々と納得した」そう言いながら、彼は静かにグラスを傾ける。「それにしても、お前の語学力とパーティーでの振る舞い。掃除婦とは思えないほどだった。素性を聞いてもいいのか?」言葉の端々に探るような気配を感じた。私は小さく笑いながら、ワインを一口含む。「そんなに特別なことではありません。私はただ、昔そういう環境にいた……それだけです」「環境?」「……母が華族の家系で、父は京華堂の社長でした。だから、小さい頃から社交の場に出る機会が多くて。おかげで、礼儀作法も語学も、叩き込まれました」陽介さんは声を発することはなかったが、かなり驚いた表情をした。そんな彼から視線を逸らすと、私は続けた。「でも、父は私のことを"商売の道具"としか見ていなかった。私が大学院へ進学しようとすると、いい縁談の話ばかり持ってきて……。三条との縁談もそのひとつでした」「それで、家を出たのか?」「はい。でも、家を出たからといって、すぐに自立で
「大丈夫か?」会場へ戻る途中、陽介さんが小さく囁く。彼の手はまだ私の手首を軽く掴んだままで、そのわずかな体温が妙に意識に残る。「ええ……」 私はゆっくりと頷く。 「でも、三条は私たちの結婚に何かしらの興味を持っているみたいです」「そうだろうな」陽介さんは眉を寄せ、険しい表情を見せた。 厳しい眼差しの奥に、鋭く研ぎ澄まされた警戒心が見える。「お前は彼と話したことがあるのか?」少し迷ったが、嘘をつく理由はない。「いいえ……正式に会ったことはありません。でも、昔、私の父が彼との縁談を進めようとしていました」陽介さんの歩みが止まる。「それは……初耳だな」「私自身が断ったので、結局会う前に破談になりました。ただ、彼がどういう人かは、調べて知っていました」私の声が少し硬くなるのを、自分でも感じる。三条のことを思い出すだけで、背筋に冷たいものが走る。彼がどういう男なのか、私は十分に理解していた。 あのとき、逃げてよかったと今でも思っている。陽介さんはしばらく黙っていた。 視線を伏せ、考え込むような表情を浮かべている。 やがて、彼は静かに息を吐き、低く言った。「これ以上、三条に関わるな」その言葉には、いつもより強い感情がこもっていた。 私を見つめる瞳は真剣そのもので、彼がわからなくなる。「俺が……お前を守る」低く、しかし確かに響くその言葉に、私は小さく息を呑んだ。(どうして……こんなふうに言うの?)彼の言葉は、あまりにもまっすぐで、強い。 なのに、それが胸の奥に深く染み込んで、揺さぶられる。契約結婚のはずなのに。 ビジネスとしての関係のはずなのに。「……はい」それ以上、何も言えなかった。 ただ、陽介さんの隣を歩きながら、彼の言葉の余韻に囚われていた。帰宅して、私はドレスを脱ぎ、静かにベッドへ腰を下ろした。(俺がお前を守る)あの言葉が、ずっと頭の中に残っている。冷徹でビジネスライクな人間だと思っていたのに。 今夜の言葉や行動には、確かに温かさがあった。(……どうして?)形式上の関係だったはずなのに、少しずつ「夫婦」としての実感が湧き始める。 だけど、それを認めるのが怖かった。(これはただの契約のはず)そう言い聞かせながらも、胸の奥が妙にざわつく。 陽介さんのことをもっと知りたくなる。 彼の声が、
そんな中、目の前の老夫婦の女性が、グラスのワインを零してしまったのが見えた。咄嗟にすぐに駆け寄ると、すぐに彼女の和服についたワインを拭き少し会話をする。「お嬢さん、ありがとう。助かったわ」「いいえ、素敵なお着物ですね。小紋が見事です」着物も一通りしつけられ、純粋にその見事な柄に笑顔になる。少しだけ会話をして彼の元に戻ると、陽介さんが私をみて少し眉を寄せた。「何者?」陽介さんが冗談めかして言う。「……何を今さら。あなたの妻で、あなたの会社の清掃員ですよ」私は軽く微笑んで返したが、その瞳には冗談ではない色が混じっていた。「ふーん」それだけの単語からは、彼の意図はわからない。こんなふうに男性から見つめられることなんて経験のない私は、なんとなくあの日の夜のサングラスの奥の瞳を思い出してしまう。なんで今あの日のことを。落ち着かない気持ちをどうにかしようとしていたところで、「そろそろペアダンスの時間にな
会場に到着すると、煌びやかな装飾とシャンデリアの明かりが目に飛び込んできた。ハイクラスなホテルの宴会場は、どこを見ても洗練された雰囲気が漂い、訪れた人々もまた、その場に相応しい服装で会話を楽しんでいる。「緊張する?」 陽介さんが隣でさりげなく声をかけてくれた。「いえ、大丈夫です」 思った以上に自然な答えが出たのは、自分でも驚きだった。昔の私なら、このような場に慣れていたからだろう。今の生活とはかけ離れているけれど、身体に染み付いた感覚は意外にも残っているものだ。受付で名前を告げ、会場内に進むと、すぐに陽介さんに声をかける人物が現れた。取引先の社長だろうか、年配の男性が陽介さんと笑顔で握手を交わす。「奥様ですね。お美しい方だ」 その言葉に思わず頬が熱くなるが、陽介さんがさらりとフォローしてくれる。「ええ、彼女にはとても感謝しています」 そう言う陽介さんの表情から本心はわかるわけはない。しばらくすると、場の空気が少しざわつき始めた。会場の中央に一人の男性が現れ、周囲の人々と挨拶を交わしている。彼こそがフランスの外交官であり、今回のパーティーの主賓だと聞いていた。「初めまして」 男性が陽介さんに近づき、流暢なフランス語で話しかけてきた。その瞬間、陽介さんが一瞬だけ眉をひそめるのが分かった。フランス語を理解しているものの、流暢に話せるほどではないのかもしれない。普通であれば外交官ならば、英語で会話と彼も思っていたのだろう。いつのまに来ていたのかわからないが、いきなり神崎さんがここぞとばかりに間に割り込んできた。「私にお任せください!」 自信たっぷりにそう言う神崎さんが英語で話すと、もちろん彼も英語で答えたが、少しだけ言葉選びに迷いがある気がする。きっとフランス語の方が堪能で、詳しい話はそちらでしたいのかもしれない。その様子を見た私は、自然と口を開いていた。「Monsieur, je suis enchantée de faire votre connaissance. Laissez-moi vous aider si besoin est.」(お会いできて光栄です。必要でしたら私がお手伝いします。)完璧な発音でフランス語を話した私に、外交官は驚いたような表情を見せ、すぐに穏やかな笑みを浮かべて答えた。「Ah, vous parlez