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第2話

Autor: 金魚月
誰にも顧みられない亡霊のように、真琴はぼんやりとホテルへ向かって歩いていた。

道路を渡ろうとした、そのとき。

けたたましいクラクションが響いた。

まるで、先ほどの言葉が現実になったかのようだった。

鈍い衝撃音が響く。

身体がふわりと軽くなり、真琴は血だまりの中に倒れている自分の姿を見た。

目は閉じることなく、悔しそうに見開かれていた。

道路の向こうでは、朔也と両親が風船やアイスクリームを手に、莉奈を囲んでいた。

そして、こちらを見ていた。

真琴はふと思った。

自分が死ねば、朔也も両親も喜ぶのだろう。

もう、莉奈との入れ替わりを邪魔する者はいなくなるのだから。

意識が遠のいていく。

真琴は苦い思いを抱えたまま、目を閉じた。

そのとき、耳元で突然、耳をつんざくような赤ちゃんの泣き声が響いた。

真琴は勢いよく目を開け、何度も大きく息を吸った。

けれど、身体には傷ひとつなかった。

その代わり、誰にも姿が見えず、声も届かない魂となって、10年後の世界に来ていた。

目の前には、泣きやまない赤ちゃんを抱く10年後の自分がいた。

そのそばでは、4歳ほどの男の子が真琴を拳で叩きながら、大声でわめいていた。

「高梨真琴、お腹すいた!早くご飯作ってよ!」

10年後の真琴は、虚ろな表情をしていた。

まだ30歳にもなっていないはずなのに、髪には白いものが目立ち、ひどく疲れ果てて老け込んで見えた。

そのとき、ドアが勢いよく開き、壁にぶつかって大きな音を立てた。

以前より明らかにしわの増えた美穂が、腰に手を当てて立っていた。

そして、開口一番、怒鳴りつけた。

「真琴、耳でも聞こえなくなったの?子どもが泣いてるのが分からないの?

二人とも莉奈をお母さんって呼んでるけど、産んだのはあなたでしょう?それなのに、平気でお腹を空かせたままにしておくなんて。今度は産後うつだって言い張るつもり?」

美穂は話すほど腹を立て、真琴のもとへ詰め寄ると、その背中を何度も強く叩いた。

「いつまで産後うつのふりをしてるの!

莉奈が身体を壊して子どもを産めなかったから、仕方なくあなたに朔也の子を産ませたのよ。外で好き勝手言われないようにするためでしょう!」

10年後の真琴は涙で顔を濡らし、痛みに身体を強張らせながらも、腕の中の赤ちゃんだけは必死にかばっていた。

魂となった真琴は、信じられない思いで立ち尽くした。

莉奈は大学への入学資格を奪っただけではなかった。

朔也と結婚し、真琴の人生そのものを奪っていた。

そればかりか、美穂は真琴を子どもを産むためだけの存在にし、命懸けで産んだ子どもたちに、莉奈を母親と呼ばせていたのだ。

騒ぎを聞きつけて莉奈が現れると、愛想よく美穂をなだめ、その場から連れ出した。

正典は険しい顔で赤ちゃんを奪い取り、4歳の男の子を連れて出ていった。

朔也は10年前のあどけなさを失い、以前よりも冷たく鋭い顔つきになっていた。

真琴を見下ろし、冷淡に言い放った。

「真琴、10年も散々騒いで、まだ気が済まないのか?時々、本気で思うんだ。あの卒業旅行のとき、事故で死んでいたら、みんな救われていたんじゃないかって」

直後、ドアが激しく閉められた。

10年後の真琴の身体が、わずかに揺れた。

どれほど時間が経ったのか分からない。

やがて彼女はゆっくりと立ち上がり、何も言わずに部屋を出た。

明らかに様子がおかしいのに、誰ひとり気に留めなかった。

美穂は、細い背中に向かってさらに怒鳴りつけた。

「またそんな死にそうな顔をして!そこまで言うなら、本当に死んでみなさいよ!莉奈は身体が弱くて、お腹を空かせたままにはできないって分かってるでしょう!早くご飯を作りなさい!」

そして、すべてを手に入れた莉奈は、また真琴をかばうふりをした。

「お母さん、そんなに怒らないで。お姉ちゃんはきっと、私の好きな手羽先を買いに行くつもりなんだよ」

莉奈はそう言って真琴に目配せし、場を取りなしているような顔をした。

朔也は笑みを浮かべながら莉奈を見つめ、その目には愛情があふれていた。

誰も気づかなかった。

真琴が階下へ向かわなかったことに。

魂となった真琴は、10年後の自分がふらつきながら屋上の縁へ上がっていくのを見て、息が止まりそうになった。

「やめて!」

必死に叫びながら、自分の声が誰にも届かないことさえ忘れていた。

ところが次の瞬間。

10年後の真琴がゆっくりと振り返り、まっすぐ彼女を見た。

「私が……見えるの?」

屋上を吹き抜ける風が、真琴の胸をえぐるように冷たかった。

息をするだけで痛かった。

そこで真琴は初めて、この先の10年間、自分がどんな人生を送ることになるのかを知った。

卒業旅行中に事故に遭ったあと、朔也は父親に頼み込み、伝手を使って専門医を探して真琴を助けた。

そして、もう二度と莉奈と真琴を入れ替わらせないと約束した。

けれど莉奈がひどい風邪をひくと、朔也は再び言った。

1年間だけ、莉奈と身分を入れ替えてほしい。期限が来たら必ず元に戻すから、と。

けれど、1年は2年になり、2年は4年になった。

大学を卒業する頃には、朔也は目を赤くして真琴に告げた。

「真琴、ごめん。お前を手放したくない。でも俺は……莉奈のことも好きになってしまった」

それでも真琴は諦めきれなかった。必死に訴え、自分のものだった人生を取り戻そうとした。

けれど、朔也と両親が何度も莉奈を選ぶたび、真琴はすべてを失っていった。

気づけば、真琴の頬は涙で濡れていた。

彼女は、涙さえ流せなくなった10年後の自分を見つめた。

声は震え、喉は詰まっていた。

それでも、一言ずつはっきりと伝えた。

「誰にも愛されなくても、大丈夫。真琴。あなたは、自分で自分を大切にしていいの。死んだら、何もかも終わってしまう」

そう言い終えた瞬間、胸が強く締めつけられ、視界が一気に暗転した。

再び目を開けると、朔也が病室のベッド脇に突っ伏して眠っていた。

目の下には濃い隈ができ、その顔にはまだ少年らしさが残っていた。

真琴は呆然とした。

耳の奥では、10年後の自分が最後に告げた言葉が繰り返されていた。

「未来を見たあなたが、死のうとしていた私を止めてくれた。だから戻ったら、今度はあなた自身を、もう一度救って」

もう一度、自分を救う。

真琴は無意識に手を握りしめた。

その気配に気づいた朔也が、はっと顔を上げた。

「真琴?」

朔也は、失ったものを取り戻したように目を赤くし、真琴を強く抱きしめた。

その目に浮かぶ心配は、嘘には見えなかった。

「ごめん。もう莉奈と入れ替われなんて言わない。一緒に京華大学へ行って、卒業したら結婚しよう。

もう、喧嘩するのはやめよう。な?」

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