LOGINテレビの音だ、と思った。いや、そう思おうとした。翔太さんはよく寝室でスマホの動画を観ている。お笑いとかゴルフとか、そういうものには女の人の声なんていくらでも入っている。だから、きっとこれもそうなのだと。
「……ねえ、ほんとに九時まで帰ってこないの?」
足が止まった。
知っている声だった。生まれたときからずっと聞いている声。それなのに、私の頭はその声に名前をつけることを全力で拒んでいた。
「来ないって。今夜も残業だよ、俺の資料で」
翔太さんは笑っていた。付き合っていたころ、私の前でよく見せてくれたのと同じ、無邪気な声で。
「ふうん。……じゃあ、もうちょっといていい?」
「いいよ」
ドアを押していた。
自分の手が勝手に動いたのだと思う。見たくない、と確かに思っていたのに。見なければ終わらないということを、心のどこかでわかっていたのかもしれない。
私たちのベッドの上に翔太さんがいて、その下に、髪の長い女の人がいた。真っ白なシーツは結婚するときに私が選んだものだ。少し高かったけれど、翔太さんが「お前の好きなのでいい」と言ってくれたのが嬉しくて、迷わずそれにしたのだった。
そのシーツの上で――妹の莉子が、私を見上げていた。
「……あ」
莉子は一瞬だけ息を呑み、それから笑った。困った顔ではなかった。私が何かを莉子に譲るときにいつも見せる、少し得意そうなあの顔だった。
「お姉ちゃん、早いじゃん」
私は口を開けたまま、寝室の入口に立ち尽くしていた。
「……莉子……?」
翔太さんが体を起こし、舌打ちをひとつして、床に落ちていたシャツを拾った。その動作には、言い訳を探している人間の慌ただしさがまるでなかった。
「九時って言ったよな」
「言った……けど、……翔太さん、これ……」
「見たまんまだよ」
翔太さんはシャツのボタンを留めながら、ひどく面倒そうに言った。
「なんで……なんで莉子なの……? 莉子、私の妹だよ……?」
「知ってるよ」
「知ってるって、そんな……」
声が裏返った。ケーキの箱を抱えたまま、私は入口から一歩も動けなかった。
翔太さんはサイドテーブルの引き出しを開けて一枚の紙を取り出すと、それをベッドの上に放った。「来週渡すつもりだったけど、まあいいや」と言いながら。
離婚届、と書いてあった。夫の欄はきれいな字ですでに埋まっている。翔太さんの字は昔からきれいで、付き合い始めのころにもらった手紙を私はまだ実家の引き出しにしまっている。なんてことを、どうしてこんなときに思い出すのだろう。
「……え……」
「莉子は妊娠してる。俺の子」
翔太さんは私を見ずに、淡々と言った。
「だから別れる。莉子と結婚する。以上」
雨の音が、ざあっと大きくなった。
「待って……待って、翔太さん。なんで、そんな……私、何かした? 何か悪いとこあるなら言ってよ、直すから、ちゃんと――」
「直す?」
翔太さんは、そこで初めて私の顔を見た。笑っていた。
「三年子どもできなかったのを? 莉子は一回でできたんだけど」
一回で、って。
この三年、翔太さんは私に触れなかった。結婚した夜から「疲れてるから」「明日早いから」「母さんが泊まりに来てるから」と理由はいつもあって、私はいつも頷いた。頷くことが優しさなのだと思っていた。たった一度だけ、二か月ほど前の夜を除いて。
ひどく酔って帰ってきた翔太さんが、何も言わずに私を引き寄せて、朝になったら何もなかったみたいに会社に行った。あのたった一度を除いて。
「だって、翔太さん、全然……」
「全然、何」
「……ううん」
言えなかった。あの夜のことを口にしたら、何か決定的なものを自分自身で壊してしまうような気がしたからだ。
莉子は布団を胸に抱えたまま、楽しそうに素足を揺らしていた。
「お姉ちゃん、怒んないでよ。だってお姉ちゃん、翔太さんのタイプじゃないもん。地味だし。私が代わりに幸せにしてあげるから、ね?」
――ね?
その「ね?」の響きに、私の中で何かが音もなく折れた。
「ほら」
翔太さんがペンを差し出した。
私はペンを見て、それから離婚届を見て、最後に翔太さんの顔を見た。
「……やだ」
「は?」
「やだ。書けない……」
声は震えていた。それでも、言葉にはできた。
「じゃあ弁護士通すわ。どっちでも一緒だから。今日は帰ってくんな。母さんに話す前に、莉子とやることあるから」
私はケーキの箱をドレッサーの上に置いた。手が滑って箱が傾き、中で何かが崩れる嫌な音がした。水色のリボンが、ほどけかけていた。
クローゼットから通勤用のバッグと着替えを二枚だけ引っ張り出して、私は寝室を出た。離婚届はベッドの上に置いたままだ。玄関の傘立てには三本の傘が並んでいて、そのうち一本は私のものだったけれど、取る気にはなれなかった。
その夜、九条さんは遅くに帰ってきた。 私はもう寝ていなければいけない時間だったけれど、眠れなくて
午後になって、やっと会社に電話をかけた。二日続けて無断で休んでいる。それだけで、普通なら始末書ものだと思う。総務の内線に繋いでもらうつもりだったのに、交換の女性は私の名前を聞くと、少しだ
次に目が覚めたとき、部屋には知らない女の人がいた。五十代くらいの髪をきっちりとまとめた人で、ベッドの脇のワゴンに湯気の立つ器を置きながら、私が起きたのに気づくと「おはようございます」と驚くほど静かな声で言った。「真壁と申します。この家の家事と、九条の身の回りのことを任されております」「……あ、……杉本、です」そう言ってから、自分でも驚いた。昨日は咄嗟に葛西と言ったのに、今は杉本と名乗っていた。真壁さんは何も言わずに、小さく頷いただけだった。「お粥です。梅干しは、添えておきましたが、無理に召し上がらなくて結構です。食べられそうなものがあれば、何でもおっしゃってください」器を受け取ると米の甘い匂いがして、それだけで少し胃が動いた気がした。ここ二週間、匂いのするものは全部だめだったのに、不思議だった。一口食べて、二口食べて、三口目で、ふいに涙が出てきた。おいしかったからだと思う。誰かが私のために温かいものを作ってくれたのは、ずいぶん久しぶりだった。真壁さんはそれを見ても何も言わず、ただティッシュの箱をそっと近くに寄せてくれた。「……あの」「はい」「九条さんは、……どうして、私を」言葉が続かなかった。真壁さんは少し考えるような顔をしてから、窓のほうを見た。「私からは、申し上げられません」「そう、ですよね」「ただ」真壁さんはこちらに向き直って、少しだけ、言葉を選ぶように間を置いた。「九条がこの家に人を入れたのは、初めてです。私がここに来て十二年になりますが、お客様も、ご友人も、一度もありません」私は器を持ったまま、黙っていた。「それと、あなたのことは『杉本さん』とお呼びするように、と言いつけられております。……理由は、聞いておりません。ただ、十年ほど前から、九条の口から出る名前はその一つだけでしたので」十年、と私は思った。十年前、私は十六だった。高校一年生で、父はまだ生きていて、母はまだ少しは私にも優しくて、莉子はまだ中学生だった。あのころの私が、こんな人と、どこかで。思い出せなかった。思い出せないことが、少し怖かった。「……ごゆっくり」真壁さんはそう言って、静かに部屋を出ていった。お粥は、まだ温かかった。
目が覚めると、見慣れない高い天井が視界に広がった。白を基調とした洗練された空間。窓の向こうには手入れの行き届いた庭が広がり、さらにその奥には東京タワーがそびえ立っている。「……起きたか」ベッド脇の椅子には、昨日私を抱きとめてくれた人が座っていた。ジャケットは脱ぎ、白いシャツの袖を肘まで捲り上げている。膝の上に書類を置いたまま、彼はじっと私を見つめていた。なぜか、ずっとこうして私を見ていたのだと直感した。「……あの」「水、飲めるか」「え、……はい」差し出されたグラスを両手で受け取る。ひんやりとした水が心地よかったが、グラスを持つ手は微かに震えていた。「ここ、……どこですか」「俺の家だ」「あの、あなたは……」彼はほんの少しだけ間を置いて、短く答えた。「九条」――あ、と思う。テレビや雑誌で何度も見たことのある顔だ。日本でいちばん若い財閥の総帥。決して笑わないことで有名な経営者。翔太さんがよく、憧れと嫉妬の入り混じった声でその名を口にしていた。どうして、そんな雲の上の人がここにいるのだろう。「私、ホテルで倒れて……」「ああ」「すみません、……救急車とか、呼んでくださればよかったのに。こんな、ご迷惑……」「迷惑じゃない」九条さんは膝の上の書類をサイドテーブルに置いた。その動作は、少しだけ乱暴だった。「医者に診せた」彼はそう言ってから一度口を閉ざした。何かを言うべきか迷っているような、重たい沈黙が落ちる。「……十一週だそうだ」息が止まりそうになった。まだ誰にも言っていない秘密を、目の前のこの人はもう知っている。「それと、ろくに食ってないと言われた。寝てもいない。一週間は動くなと」私は無意識に、自分のお腹へと手を当てていた。何か言わなければいけないのに、喉が張り付いたように詰まって、声にならない。「……すみません」絞り出すように口から出たのは、ただの謝罪だった。「あの、私、もう大丈夫なので……すぐ、出ていきます」「一週間動くなと言われた、と今言っただろう」「でも……」「どこで寝る。昨日のホテルか」私は何も答えられなかった。昨夜のビジネスホテルは一泊七千八百円。財布には三万二千円しか残っていない。一週間も泊まれば、それだけで底をつく。そのあとの生活なんて、考えたくもなかった。「……大丈夫です。なんとかします」「な
朝が来ても、何も決まっていなかった。決まっていないまま、たったひとつだけ決めていたことがある。産む、ということだ。怖いに決まっている。お金もないし、帰る家もない。それでも検査薬の二本の線を見たとき、最初に浮かんだのは「困った」ではなくて、変な話だけれど「いたんだ」だった。三年間、私のものと呼べるものはひとつもなかった。それが初めて、お腹の中にあるのだと思ったら、手放すなんてできなかった。翔太さんには言わない。それも決めていた。言ったらどうなるかはわかっている。莉子の子と私の子のどちらを取るかなんて考えるまでもなく、それなら最初からいない子にしておいたほうがいい。この子は、私だけの子でいい。チェックアウトの列に並んで、フロントの女性が「お支払いは」と言った、その瞬間だった。視界がぐらりと傾いて、床が近づいてくるのを、ああ倒れる、と他人事みたいに眺めていた。けれど、床は来なかった。誰かの腕が背中を受け止めていて、雨の匂いの残るコートの上から、低い声が降ってきた。「……息はしてる。救急車は要らない。車を回せ」ロビーがざわついて、黒いスーツの人たちが音もなく周りの人を遠ざけていくのが、霞む視界の端に見えた。自分を抱えている人を見上げると、最初に見えたのは顎の線だった。鋭くて冷たくて、整っていて。それなのに、私を見下ろす目だけが、その顔の中でまったく違う温度をしていた。知らない人だ。絶対に知らない人で、こんな人を一度でも見ていたら忘れるはずがない。それなのに。ほとんど聞き取れない声で、その人は言った。「……見つけた。やっと、見つけた」何を、誰を、と訊きたいのに声は出なくて、ただ、どこかで聞いたことのある声だと思っていた。雨の日。ずっと昔の、雨の日。そこまで思い出す前に、意識が途切れた。
電車で二駅のところに、母と莉子が住んでいる家がある。呼び鈴を押したのは夜十時を回っていた。髪も肩もすっかり濡れていて、バッグの中まで湿っているような気がした。ドアを開けた母は私の顔を一目見て、小さく息を吐いた。「……莉子から、さっき電話があったわ」当たり前だ、と思った。私が家を出たあと、莉子はすぐに電話をかけたのだろう。「お姉ちゃん帰ってきちゃった」と、少し笑いながら。「お母さん、お願い。今夜だけでいいから、置いて」「無理よ」即答だった。「……え」「出戻りの姉なんて、恥ずかしくて置いておけない」「だって、莉子が翔太さんと――」「あなたが翔太さんをちゃんと繋ぎ止めてなかったからでしょう」母は面倒くさそうに髪をかき上げた。その仕草が莉子とそっくりだということに、私はそのとき初めて気がついた。「柚葉、あなたもう二十六なんだから。自分のことは自分でなさい。お父さんが死んでからこの家はずっと赤字なの。あなたを養う余裕なんてない」ドアが閉まった。ドアの横のポストには、まだ父の名前の表札がかかっていた。「お父さんが生きていたら」と思いかけて、やめた。それを思ってしまったら、本当に立っていられなくなる気がしたからだ。駅前のビジネスホテルが空いていて、シングルルームは一泊七千八百円だった。財布には三万二千円、口座にはたぶん六万円くらい。給料は翔太さんの言う「家計」に入れていたし、実家にも仕送りをしていた。だから、自分の手元に残ったものがこんなに少なかったのだということを、私はそのとき初めて知った。部屋に入ってドアを閉め、ベッドの端に座ったら、急に笑いがこみ上げてきた。ケーキ、買ったのに。水色のリボンをかけてもらって、「記念日ですか」って訊かれて、「はい」って、少し得意になって。笑いながら涙が出てきた。声を上げたら隣の部屋に聞こえると思い、枕に顔を押しつけたら、枕からは知らない洗剤の匂いがした。スマホが鳴った。翔太さんかもしれない、と思った。やっぱり冗談だった、とか、言い過ぎた、とか。そんなはずがないことはわかっていたのに、画面を見るまでの一秒だけ、私はそれを期待した。お義母さんだった。出るべきか迷って、結局、出た。「出ない」という選択肢を、そのときの私はまだ知らなかった。『柚葉さん? 翔太から聞いたわ』いつもと同じ声だった。「玄関の