LOGIN朝が来ても、何も決まっていなかった。
決まっていないまま、たったひとつだけ決めていたことがある。産む、ということだ。
怖いに決まっている。お金もないし、帰る家もない。それでも検査薬の二本の線を見たとき、最初に浮かんだのは「困った」ではなくて、変な話だけれど「いたんだ」だった。
三年間、私のものと呼べるものはひとつもなかった。それが初めて、お腹の中にあるのだと思ったら、手放すなんてできなかった。
翔太さんには言わない。それも決めていた。言ったらどうなるかはわかっている。莉子の子と私の子のどちらを取るかなんて考えるまでもなく、それなら最初からいない子にしておいたほうがいい。この子は、私だけの子でいい。
チェックアウトの列に並んで、フロントの女性が「お支払いは」と言った、その瞬間だった。
視界がぐらりと傾いて、床が近づいてくるのを、ああ倒れる、と他人事みたいに眺めていた。
けれど、床は来なかった。
誰かの腕が背中を受け止めていて、雨の匂いの残るコートの上から、低い声が降ってきた。
「……息はしてる。救急車は要らない。車を回せ」
ロビーがざわついて、黒いスーツの人たちが音もなく周りの人を遠ざけていくのが、霞む視界の端に見えた。
自分を抱えている人を見上げると、最初に見えたのは顎の線だった。鋭くて冷たくて、整っていて。それなのに、私を見下ろす目だけが、その顔の中でまったく違う温度をしていた。
知らない人だ。絶対に知らない人で、こんな人を一度でも見ていたら忘れるはずがない。
それなのに。ほとんど聞き取れない声で、その人は言った。
「……見つけた。やっと、見つけた」
何を、誰を、と訊きたいのに声は出なくて、ただ、どこかで聞いたことのある声だと思っていた。雨の日。ずっと昔の、雨の日。
そこまで思い出す前に、意識が途切れた。
その夜、九条さんは遅くに帰ってきた。 私はもう寝ていなければいけない時間だったけれど、眠れなくて
午後になって、やっと会社に電話をかけた。二日続けて無断で休んでいる。それだけで、普通なら始末書ものだと思う。総務の内線に繋いでもらうつもりだったのに、交換の女性は私の名前を聞くと、少しだ
次に目が覚めたとき、部屋には知らない女の人がいた。五十代くらいの髪をきっちりとまとめた人で、ベッドの脇のワゴンに湯気の立つ器を置きながら、私が起きたのに気づくと「おはようございます」と驚くほど静かな声で言った。「真壁と申します。この家の家事と、九条の身の回りのことを任されております」「……あ、……杉本、です」そう言ってから、自分でも驚いた。昨日は咄嗟に葛西と言ったのに、今は杉本と名乗っていた。真壁さんは何も言わずに、小さく頷いただけだった。「お粥です。梅干しは、添えておきましたが、無理に召し上がらなくて結構です。食べられそうなものがあれば、何でもおっしゃってください」器を受け取ると米の甘い匂いがして、それだけで少し胃が動いた気がした。ここ二週間、匂いのするものは全部だめだったのに、不思議だった。一口食べて、二口食べて、三口目で、ふいに涙が出てきた。おいしかったからだと思う。誰かが私のために温かいものを作ってくれたのは、ずいぶん久しぶりだった。真壁さんはそれを見ても何も言わず、ただティッシュの箱をそっと近くに寄せてくれた。「……あの」「はい」「九条さんは、……どうして、私を」言葉が続かなかった。真壁さんは少し考えるような顔をしてから、窓のほうを見た。「私からは、申し上げられません」「そう、ですよね」「ただ」真壁さんはこちらに向き直って、少しだけ、言葉を選ぶように間を置いた。「九条がこの家に人を入れたのは、初めてです。私がここに来て十二年になりますが、お客様も、ご友人も、一度もありません」私は器を持ったまま、黙っていた。「それと、あなたのことは『杉本さん』とお呼びするように、と言いつけられております。……理由は、聞いておりません。ただ、十年ほど前から、九条の口から出る名前はその一つだけでしたので」十年、と私は思った。十年前、私は十六だった。高校一年生で、父はまだ生きていて、母はまだ少しは私にも優しくて、莉子はまだ中学生だった。あのころの私が、こんな人と、どこかで。思い出せなかった。思い出せないことが、少し怖かった。「……ごゆっくり」真壁さんはそう言って、静かに部屋を出ていった。お粥は、まだ温かかった。
目が覚めると、見慣れない高い天井が視界に広がった。白を基調とした洗練された空間。窓の向こうには手入れの行き届いた庭が広がり、さらにその奥には東京タワーがそびえ立っている。「……起きたか」ベッド脇の椅子には、昨日私を抱きとめてくれた人が座っていた。ジャケットは脱ぎ、白いシャツの袖を肘まで捲り上げている。膝の上に書類を置いたまま、彼はじっと私を見つめていた。なぜか、ずっとこうして私を見ていたのだと直感した。「……あの」「水、飲めるか」「え、……はい」差し出されたグラスを両手で受け取る。ひんやりとした水が心地よかったが、グラスを持つ手は微かに震えていた。「ここ、……どこですか」「俺の家だ」「あの、あなたは……」彼はほんの少しだけ間を置いて、短く答えた。「九条」――あ、と思う。テレビや雑誌で何度も見たことのある顔だ。日本でいちばん若い財閥の総帥。決して笑わないことで有名な経営者。翔太さんがよく、憧れと嫉妬の入り混じった声でその名を口にしていた。どうして、そんな雲の上の人がここにいるのだろう。「私、ホテルで倒れて……」「ああ」「すみません、……救急車とか、呼んでくださればよかったのに。こんな、ご迷惑……」「迷惑じゃない」九条さんは膝の上の書類をサイドテーブルに置いた。その動作は、少しだけ乱暴だった。「医者に診せた」彼はそう言ってから一度口を閉ざした。何かを言うべきか迷っているような、重たい沈黙が落ちる。「……十一週だそうだ」息が止まりそうになった。まだ誰にも言っていない秘密を、目の前のこの人はもう知っている。「それと、ろくに食ってないと言われた。寝てもいない。一週間は動くなと」私は無意識に、自分のお腹へと手を当てていた。何か言わなければいけないのに、喉が張り付いたように詰まって、声にならない。「……すみません」絞り出すように口から出たのは、ただの謝罪だった。「あの、私、もう大丈夫なので……すぐ、出ていきます」「一週間動くなと言われた、と今言っただろう」「でも……」「どこで寝る。昨日のホテルか」私は何も答えられなかった。昨夜のビジネスホテルは一泊七千八百円。財布には三万二千円しか残っていない。一週間も泊まれば、それだけで底をつく。そのあとの生活なんて、考えたくもなかった。「……大丈夫です。なんとかします」「な
朝が来ても、何も決まっていなかった。決まっていないまま、たったひとつだけ決めていたことがある。産む、ということだ。怖いに決まっている。お金もないし、帰る家もない。それでも検査薬の二本の線を見たとき、最初に浮かんだのは「困った」ではなくて、変な話だけれど「いたんだ」だった。三年間、私のものと呼べるものはひとつもなかった。それが初めて、お腹の中にあるのだと思ったら、手放すなんてできなかった。翔太さんには言わない。それも決めていた。言ったらどうなるかはわかっている。莉子の子と私の子のどちらを取るかなんて考えるまでもなく、それなら最初からいない子にしておいたほうがいい。この子は、私だけの子でいい。チェックアウトの列に並んで、フロントの女性が「お支払いは」と言った、その瞬間だった。視界がぐらりと傾いて、床が近づいてくるのを、ああ倒れる、と他人事みたいに眺めていた。けれど、床は来なかった。誰かの腕が背中を受け止めていて、雨の匂いの残るコートの上から、低い声が降ってきた。「……息はしてる。救急車は要らない。車を回せ」ロビーがざわついて、黒いスーツの人たちが音もなく周りの人を遠ざけていくのが、霞む視界の端に見えた。自分を抱えている人を見上げると、最初に見えたのは顎の線だった。鋭くて冷たくて、整っていて。それなのに、私を見下ろす目だけが、その顔の中でまったく違う温度をしていた。知らない人だ。絶対に知らない人で、こんな人を一度でも見ていたら忘れるはずがない。それなのに。ほとんど聞き取れない声で、その人は言った。「……見つけた。やっと、見つけた」何を、誰を、と訊きたいのに声は出なくて、ただ、どこかで聞いたことのある声だと思っていた。雨の日。ずっと昔の、雨の日。そこまで思い出す前に、意識が途切れた。
電車で二駅のところに、母と莉子が住んでいる家がある。呼び鈴を押したのは夜十時を回っていた。髪も肩もすっかり濡れていて、バッグの中まで湿っているような気がした。ドアを開けた母は私の顔を一目見て、小さく息を吐いた。「……莉子から、さっき電話があったわ」当たり前だ、と思った。私が家を出たあと、莉子はすぐに電話をかけたのだろう。「お姉ちゃん帰ってきちゃった」と、少し笑いながら。「お母さん、お願い。今夜だけでいいから、置いて」「無理よ」即答だった。「……え」「出戻りの姉なんて、恥ずかしくて置いておけない」「だって、莉子が翔太さんと――」「あなたが翔太さんをちゃんと繋ぎ止めてなかったからでしょう」母は面倒くさそうに髪をかき上げた。その仕草が莉子とそっくりだということに、私はそのとき初めて気がついた。「柚葉、あなたもう二十六なんだから。自分のことは自分でなさい。お父さんが死んでからこの家はずっと赤字なの。あなたを養う余裕なんてない」ドアが閉まった。ドアの横のポストには、まだ父の名前の表札がかかっていた。「お父さんが生きていたら」と思いかけて、やめた。それを思ってしまったら、本当に立っていられなくなる気がしたからだ。駅前のビジネスホテルが空いていて、シングルルームは一泊七千八百円だった。財布には三万二千円、口座にはたぶん六万円くらい。給料は翔太さんの言う「家計」に入れていたし、実家にも仕送りをしていた。だから、自分の手元に残ったものがこんなに少なかったのだということを、私はそのとき初めて知った。部屋に入ってドアを閉め、ベッドの端に座ったら、急に笑いがこみ上げてきた。ケーキ、買ったのに。水色のリボンをかけてもらって、「記念日ですか」って訊かれて、「はい」って、少し得意になって。笑いながら涙が出てきた。声を上げたら隣の部屋に聞こえると思い、枕に顔を押しつけたら、枕からは知らない洗剤の匂いがした。スマホが鳴った。翔太さんかもしれない、と思った。やっぱり冗談だった、とか、言い過ぎた、とか。そんなはずがないことはわかっていたのに、画面を見るまでの一秒だけ、私はそれを期待した。お義母さんだった。出るべきか迷って、結局、出た。「出ない」という選択肢を、そのときの私はまだ知らなかった。『柚葉さん? 翔太から聞いたわ』いつもと同じ声だった。「玄関の







