昌弘は一瞬呆然としたのち、ふいに吹き出した。「おいおい、どうしたんだ、かおる。まさかお前、身分を隠した令嬢で、生活体験とやらをしに来てるんじゃないだろうな?それとも社長夫人か?冗談はよしてくれよ。お前がどんな人間か、俺が一番よく知ってるはずだろ?今まで何社を渡り歩いてきたんだよ?俺が採用したのはな、慈悲深いからだぞ。それなのに、ここで偉そうにして……!」皮肉をこれでもかと込め、嘲笑を交えながら、かおるをまるで取るに足らない存在とでも言うように侮蔑した。その横柄で無知な態度を前に、かおるはふと、あの結婚式がすべて夢だったのではないかと錯覚した。あのとき、大勢の記者がいた。それなのに、どうして自分の正体が明るみに出なかったのだろう?いや、たぶん、出ていなかったのだろう。もし暴露されていたなら、この愚かな社長が、こんなふうに口をきくはずがない。彼の軽蔑に満ちた態度とは対照的に、かおるは冷ややかな表情を崩さずに口を開いた。「あなたと佐藤部長が手を組んで、私を陥れようとした理由について、考えたことはありますか?あなたの言うように、私がただの平社員でしかないのなら、どうしてそこまで手間をかけて、私を標的にする必要があるのでしょう?」昌弘はその問いを聞くや否や、すぐに吐き捨てるように言った。「誰がお前を陥れようとしたって?お前が無能で、佐藤部長の期待に応えられなかっただけだろ。それを人のせいにするのか?お前、ほんとに笑わせてくれるよ!」一度は否定したものの、昌弘の胸中には、にわかに不安が広がっていた。今回の件は、紛れもなく自分と佐藤部長が結託し、かおるを嵌めるために仕組んだものだった。そして、その計画を最初に持ちかけてきたのは、佐藤部長の方だ。「かおるを潰して、淫らな写真を手に入れられれば、今後はうちの会社と長期的な取引関係を続けてやる」――そう佐藤は言った。昌弘の役目は、かおるを佐藤の前へ連れて行くだけ。なんて簡単な仕事だ、と即座に彼は飛びついた。まさか、かおるがまったく応じないとは、思ってもみなかった。それどころか今では、二人の共謀関係までもが彼女に見抜かれてしまっていた。絶対に認めてはならない。認めたら最後、この女に弱みを握られることになる。「構いませんよ」かおるは唇の端をわずかに緩めて微笑んだ
直美はすぐに直樹からのメッセージを受け取った。【計画は失敗しました】その瞬間、直美の顔色がさっと曇り、「本当に、使えない奴ね……!」と吐き捨てるように呟いた。そこへ果物の皿を持った流歌がやって来た。「お母さん、どうしたの?そんなに怒らないで。これ、私が切った果物だよ。食べて」流歌の姿を見ると、直美の表情は一変し、怒りの色がすっと引いて、やわらかく微笑むと、手渡された果物を一口かじった。「流歌ちゃんは、本当にお母さんの心の支えだわ」流歌はそっと直美の胸元に顔を寄せた。「お母さん、ごめんなさい。これまでのこと、全部私が悪かった。ずっと海外にいて、お母さんのそばにいてあげられなかった。その間に、つけこまれる隙を与えてしまったのかもしれない」直美は優しく彼女の髪を撫でながら、静かに言った。「ばかね、何を言ってるの。あなたの身体が一番大切なのよ。今は体調も落ち着いてきたんだし、これからはずっと私のそばにいられるじゃない」「でも……私が結婚したら、どうなるの?」「結婚したって、ちょくちょく帰ってくればいいのよ。それか、婿養子を迎えれば、私たちから離れる必要なんてないわ」流歌の小さな顔がふっと赤らみ、「お母さん、私は結婚なんてしたくない。ずっと、お母さんのそばにいたいの」直美はその言葉に目を細め、うれしそうに頷いた。だが、流歌の表情にふと陰りが差した。「でも……お義姉さん、私のことが嫌いみたい。きっと『早く嫁に行け』って、そう思ってるんじゃないかな……」直美はそれを聞くや否や、冷笑を漏らした。「は、あの女が何様のつもり?この家で彼女が決められることなんて何ひとつないわよ。流歌ちゃん、心配しなくていいわ。あの女を月宮家の女主人にするつもりなんて、さらさらないから」流歌はわずかに俯き、暗い表情を浮かべた。「でも……お兄ちゃん、あの人のこと好きみたいなの」「ふん、あの女なんて顔が少し整ってるだけよ。世の中には、あの女よりもずっときれいな人なんていくらでもいる。綾人が、いつまでもあの女に夢中でいるなんて、そんなわけないわ」流歌は不安げなまなざしを直美に向けた。「お母さん、お願い。私のためにお兄ちゃんと喧嘩しないで。そんなことになったら……私、悲しくなっちゃう」直美は慌てて彼女を抱きしめた。
「からかっただけだよ!」綾人は慌てて弁明した。かおるは必死にもがきながらも、なかなかその腕から逃れられず、荒い息を吐きつつ彼を睨みつけた。「こんなことして、何が面白いの?」綾人はぐっと力を込めて、かおるを胸元に引き寄せ、強く抱きしめながら答えた。「ごめん。ただ、あの女が何を企んでいるのか見極めたかっただけだ。誓って言うけど、彼女には何一つ触れさせてない」「じゃあ……机の下に潜って何してたの?」「ペンを拾ってたんだ」かおるが机の下に目をやると、確かにペンが落ちていた。どうやら、かおるが入ってきたのは絶妙なタイミングだったようで、典子が潜り込んだばかりでまだ何も起きていなかったらしい。怒りが完全には収まらぬまま、かおるは抵抗しながら声を荒げた。「離して」「嫌だ、離さない」綾人はさらに強く彼女を抱き締めた。「ちょっと落ち着いてくれ。そういえば、どうしてここに?」綾人は誰にも聞こえないように、低く、静かに囁いた。かおるは彼の問いに答えず、じっとドアの方を見据えた。「先に出てて」ドアの前にはまだ直樹と典子が立っていた。「はい」直樹は頷き、静かにドアを閉めて立ち去った。かおるはしばし思案し、ぽつりと尋ねた。「……先に帰る?」綾人はその言葉の裏にある不安を感じ取り、「そうだね」と静かに答えた。そして二人はすぐにオフィスを後にした。車に乗り込むと、かおるが口を開いた。「直樹が、社長室に直接来いって言ったの。エレベーターを出たとき、あなたがまだ会議中だって言われて、オフィスで待ってろって……」「ふん……」綾人は冷たく笑った。「身近に裏切り者がいたってわけか」すべては仕組まれていた。そう確信した。もし、かおるの到着がほんの少しでも遅れていたら、典子は何かを仕掛けていたかもしれないし、綾人が拒もうとしても間に合わなかったかもしれない。そうなれば、かおるはきっと誤解し、二人は争い、深い溝が生まれていただろう。それはやがて心に棘となり、決して癒えない傷となる。月宮家の計画は、かおる一人を標的にしたものではなく、綾人の側近にまで魔の手を伸ばしていた。「これからどうするつもり?」かおるは静かに問いかけると、綾人の瞳に冷ややかな光が宿った。「しばらく泳がせてみよう。次に何
【了解!】メッセージを送ると、かおるはあたりを見回した。しかし、それらしい人物の姿は見当たらなかった。もしかして、暗がりに身を潜めているのだろうか?ならば、やたらと周囲をうかがうのはやめておこう。そう判断したかおるは、車を静かに発進させ、綾人が現在滞在している芸能事務所へと向かった。綾人はここ数年でいくつかの芸能事務所を立ち上げており、今や彼の傘下には多くの人気芸能人が所属している。その中には、かつてかおるが憧れていたスターもいて、サインをもらえたこともあるのだ。やっぱり、芸能事務所の社長夫人になる以上の特権はないわね。スターを追いかける手段としては。駐車場に車を停めたかおるは、エレベーターへ向かって歩き出した。直樹はすでにかおるからの連絡を受けており、建物の入り口で待っていた。「奥様、こちらへどうぞ」直樹の口調はきわめて丁寧だった。かおるは笑みを浮かべながら尋ねた。「彼、まだ会議中なの?」直樹は頷いた。「はい」「じゃあ、どうしてあなたはそばでサポートしてないの?」「奥様がいらっしゃると社長に伝えたところ、私にお迎えするよう仰せつかりました」「なるほどね」かおるは軽く頷いた。エレベーターがゆっくりと上昇を始める。鏡のように磨かれた扉には、並んで立つ二人の姿がはっきりと映っていた。直樹は彼女の少し後ろに立ち、その横顔に視線を向けていた。ふと目を上げたかおるの視界に、それが映った。かおるはほんのわずかに唇の端を上げ、意味深な微笑みを浮かべた。直樹は慌てて目をそらし、それ以上見るのをやめた。やがてエレベーターは最上階に到着し、音もなく扉が開いた。広々としたオフィスエリアは一面真っ白に統一され、凛とした静けさと緊張感が漂っていた。思わず息を呑むような空気がそこにはあった。「奥様、まずは社長室でお待ちください。間もなく会議も終わるはずです」「わかったわ」かおるは静かに頷き、社長室へと足を進めた。ドアを開けたその瞬間、思いがけない声が響いた。「あっ!」女の声だった。甘く、そして短く途切れた声。同時に、かおるの目にもその室内の光景が飛び込んできた。若い女性が慌てて机の下から這い出してくる。大きく開いた襟元からは白く柔らかな肌が覗き、谷間がはっきりと見えていた。頬には不自然な紅潮
「佐藤部長!佐藤部長!」昌弘はそれを目にするなり立ち上がり、勢いよく追いかけた。そしてドアのところで振り返り、かおるに鋭い視線を投げつけた。しかし、かおるはその視線を無視するように、知らぬふりを決め込んで食事を続けていた。嫌な相手が去ったことで、彼女の表情はどこか晴れやかで、楽しげに箸を動かしている。二人のウェイトレスは顔を見合わせ、どうしていいかわからず、戸惑ったまま動けずにいた。そんな様子を見て、かおるは静かに微笑むと、優しく言葉をかけた。「食べたいものを食べて、飲みたいものを飲んでいいのよ。私が呼んだんだから、今この時間はあなたたちのもの。遠慮しないで、好きなように過ごして」そのひと言に、二人の瞳がぱっと輝いた。「ありがとうございます、お嬢様」一人が頭を下げ、丁寧に礼を言った。かおるは満足そうに大きく手を振った。「遠慮しないで、たっぷり食べてね!」その言葉に背中を押されるように、二人はそろって箸を取り、ようやく食事を始めた。男たちに無理やり酒を飲まされたり、触られたりするよりは、こうして自由に食べ飲みできるほうが、はるかにマシだった。そのとき、かおるのスマートフォンが振動し、着信音が鳴った。彼女はすぐに電話に出る。「君の会社の社長と佐藤って男、月宮家の夫人に買収されてたよ。どうやら、君に対して何か企んでるみたいだ」聡の低く冷静な声が、受話器越しに響いた。かおるは鼻で笑うように答えた。「わかってたわ。あんなにあからさまだったし、私だってバカじゃないんだから」聡は少し笑みを含んだ声で言った。「で、これからどうする?」かおるの目がきらりと輝いた。「あの佐藤部長の他の情報も、調べてくれた?」「全部調べた。今からメールで送るよ」「了解。愛してる、ちゅー!」「……」聡の無言に苦笑しながら電話を切り、かおるは再び料理に箸を伸ばした。楽しそうなその顔からは、先ほどまでの緊張感はすでに消えていた。しばらくして帰宅すると、社長からのメッセージが大量に届いていた。【今回の協力をなんとしても取り戻せ】【佐藤部長にちゃんと謝れ】【この協力が取れなかったらクビにする】つまらない。かおるはため息ひとつ、スマホを放り出すと車に乗り込み、聡から届いたメールを開いた。その添
昌弘はその言葉を耳にすると、顔に怒りの色を浮かべた。しかし、すぐに笑みを作り、佐藤部長に向かって穏やかに言った。「少々お待ちください」そう言うや否や、かおるを一瞥しながら呼びかけた。「ちょっと話がある」「はーい」その淡々とした返事に、昌弘の苛立ちはかえって募るばかりだった。個室を出るなり、昌弘はかおるの腕をぐいとつかみ、廊下の突き当たりまで引きずるように連れて行った。そして、険しい表情のまま問い詰めた。「お前、いったい何がしたいんだ?」「それはこちらのセリフです。何をご所望ですか、社長?」かおるは腕を振りほどき、落ち着いた声で言い返した。昌弘は片手を腰に当て、もう一方の手で個室の方を指し示しながら、声を抑えつつも怒気を含ませて言った。「今回の案件が、うちにとってどれだけ重要か分かってるのか?それなのに、あの態度はなんだ!佐藤部長にちゃんと企画書の説明はできなかったのか?自分の立場をわきまえろ!お前みたいな取るに足らない存在が、偉そうにしていい場面じゃない!」だが、かおるは眉一つ動かさず、こう言った。「大事な案件、ですか?でもあの人、素人でしょう。彼がしてきた質問なんて、道端の子どもでも答えられるようなものばかりでしたよ。あんなもの、わざと難癖をつけているだけじゃないですか」その挑発的な言葉に、昌弘の怒りは爆発した。「まだ分からないのか!あれがクライアントなんだぞ!こちらが頭を下げて、協力をお願いする立場なんだ!お前、いったい何を考えてるんだ!」「そうですか?」かおるは口元に薄笑いを浮かべた。「本当に、その協力が必要なんですか?私にはそうは思えませんけど」その言葉には、明確な裏の意図があった。昌弘の表情が一瞬こわばり、目が泳いだ。「とにかく、今夜中にこの契約を決めろ。できなかったら、お前の責任だ!」吐き捨てるようにそう言い残すと、昌弘はそれ以上話すのも億劫だというように、足早に個室へ戻っていった。かおるは手に持った企画書を見下ろしながら、完璧なメイクに彩られた顔に冷たい笑みを浮かべた。そしてスマートフォンを取り出し、ひとつの番号に電話をかけた。それから五分後、かおるは再び個室へと姿を現した。昌弘と佐藤部長は何やら会話を交わしていたが、かおるの姿を認めると口をつぐんだ。佐藤部長の