社内で高嶺の花と言われる朱宮姫乃(29) 彼氏いない歴=年齢なのに、彼氏がいると勘違いされてずるずると過ごしてきてしまった。 「じゃあ俺が彼氏になってあげますよ。恋人ができたときの練習です」 そう協力をかって出たのは後輩の大野樹(25) 練習のはずなのに、あれよあれよと彼のペースに巻き込まれて――。 恋愛偏差値低すぎな姫乃を、後輩の樹が面倒を見るお話です。
Voir plus春は出会いと別れの季節。
毎年いろんなことがあるけれど、今年はどんな出会いと別れがあるのだろう――。わいわいと、賑やかで美味しい香りが漂う和風居酒屋で、我がIT管理課インフラグループの昇進お祝い&歓迎会が行われた。
グループ長だった早田さんが、IT管理課長に昇進してグループを出ていくのだ。それと入れ違いに、入社二年目の大野樹《おおのいつき》くんがインフラグループに入ることになった。といっても大野くんは半年前から先に異動してきていて、その時はバタバタして歓迎会が出来ていなかったので、このタイミングで一緒に飲み会をしようとなったわけだ。
下座に位置するテーブルを囲んで、仲の良いベテランパート社員の祥子さんと、若くてフレッシュな派遣社員の真希ちゃん、そしてインフラグループ唯一の女性社員であるアラサー独身彼氏なしの私、朱宮姫乃《しゅみやひめの》は、ペチャクチャとおしゃべりに花を咲かせていた。
女性が集まると、主賓そっちのけでとたんに女子会のノリになる。
「あ~、早田グループ長がいなくなるなんてショックです」
「そう? まあ、なかなか良いグループ長だったけどねぇ」
「癒しがなくなりますよぉ」
真希ちゃんはしょんぼりと項垂れ、祥子さんはビールを煽りながらガハハと笑った。
早田グループ長は、女性の間では“イケメンエリート”と称されていてなかなか人気が高い。高身長、高学歴、高収入とはよく言ったもので、プラス容姿端麗ときたらそれはもう人気が出るのがわかる。他の部署の女性たちからも、支持されているらしい。
そんな早田さんのイケメン噂話を聞きながら、私は一人黙々とサラダを取り分け、注文したドリンクを配っていた。
博物館に着いた姫乃さんは、うきうきと見てわかるほどにはしゃいでいる。「常設展も好きだけど今は特別展がやってて、見に来たかったの」嬉しそうな顔。そんな無邪気に笑うんだな。 しかしデートに博物館チョイスとは、なかなかに趣味全開。姫乃さんのイメージとはかけ離れていて、意外な一面に驚くばかり。「姫乃さん、面白すぎる」「えっ、また何か間違えた?」「間違ってないですよ。正解はないけど、行きたいところ、水族館とか遊園地とか言うかと思ったのに、デートで博物館って。渋いよね」「はっ! でも、デートしたことないからわからなくて……」ああでもない、こうでもないとブツブツ呟いているが、聞き捨てならないことを聞いた。デートしたことない? は?「ちょっと待って。嘘でしょ?」「何が?」「姫乃さん、デートしたことないの?」「そうだよ。だから練習したいんだってば。もう、これ以上辱しめないでっ」顔を真っ赤にした姫乃さんは、俺の背を押して特別展の入口まで行く。相当恥ずかしかったらしく、なかなかこちらを見てくれない。練習……練習、ね。 デートの練習か。なんだよ、デートの練習って。 だけどそれなら、とことんデートを楽しんでやろうじゃないか。「じゃあ姫乃さん、デートなんだから俺のことは名前で呼んでよ」「ええっ!」「彼氏のこと名字で呼ぶ? 呼ばないよね?」まあ、俺は練習のための彼氏ですけども。 姫乃さんは顔を真っ赤にしながらも上目遣いになり、小さな声で「樹くん」と言った。やばっ。可愛っ。なんだこれ。 落ち着け、俺。「はい、よくできました。じゃあ行きましょう」自分の動揺を悟られないように、さっさと会場へ入った。 びっくりするほどドキドキしている。名前で呼ばれるのって、いい。
姫乃さんとのデート。提案したのは俺だけど、思ったよりも楽しみにしていた。今日の彼女はどんな顔を見せてくれるのだろう。それを想像するだけで頬が緩む。博物館に行きたいと言った姫乃さんは、デートっぽく博物館前で待ち合わせしたいというので、なるほどそれがやりたいならそうするかと了承したのだが。 マンションを出たところでバッタリ姫乃さんと出くわした。まあ、そうだよな。同じマンションに住んでいるし、同じように家を出るよな。おはようと挨拶する姫乃さんは少しがっかりした様子だったけれど、ここで別れていくのも変な気がして一緒に博物館に向かうことにした。混んでいる電車では、姫乃さんの行方が気になってしまう。放っておくとすぐにどこかに流されてしまう彼女を、どこにも行かないように端に寄せた。 ふわりと鼻をくすぐる甘い香りは、姫乃さんがすぐ近くにいることを感じさせる。女性らしさにドキリと胸が騒ぐ。と――。電車が揺れた拍子に姫乃さんが俺の胸にダイブした。「うぐっ!」姫乃さんらしからぬくぐもった鈍い声。意外と衝撃があったから、姫乃さんも痛かったかもと思い顔を覗き込めば、鼻を赤くしていた。 なんだこれ、可愛い。「ぼんやりさん」「だって電車が急に揺れるんだもの」「はいはい、つかまっててください」その辺の手すりとか吊革にね、と思ったのに。 まさかのシャツの袖を掴まれて驚いた。俺の心を掴みに来たのかと思った。「そこかー」思わず心の声が漏れる。 はっとなって手を離そうとするので、「それでいいです」と肯定した。 なんだこれ、可愛いかよ。
「博物館よく来るの?」「たまにね。好きなんだ、こういう雰囲気。昔の息吹が感じられて、その時代の一コマを現代から覗き見ている感じ。すごく好き」小さな出土品、欠片ひとつとっても、何百年何千年前に生きていた人が使っていたものなんだと思うと、不思議な気分になる。どんな人が使っていたんだろう、どんな風に使ったんだろう、そもそもどうやって作ったのだろう、色々と想像が膨らんでワクワクするのだ。「ふーん。覗き見って、姫乃さんエロいね」「ちょっとそういう意味じゃないよ」私が妄想に耽っていると、樹くんはニヤニヤとからかってきた。 エロいって、失礼な。「わかってる、わかってる」そう言う樹くんの顔はまだニヤニヤしていて、なんだか意地悪だ。「もう、またからかって。樹くんなんて知らないんだから」私は子供みたいに頬を膨らませてぷいっとそっぽを向き、樹くんを置いてさくさく歩く。エロいとか、絶対樹くんは私を揶揄ってる。「ごめんって。ごめんなさい。姫乃さん機嫌直して」樹くんは焦った感じで私を追いかけて来るや否や、腕を軽く引っ張ってくる。 私は樹くんから顔を背けたままだ。「姫乃さん?」心配そうな声で伺いを立てるものだから、何だか可愛らしく感じてしまって、逆に私は意地悪くニヤニヤと笑った。「怒ってないよーっだ」ガバッと顔を上げて笑って見せると、樹くんは驚いた顔をして固まった。 私を揶揄った罰なんだから。「樹くん、びっくりした?」「……うん」思った以上に効果ありで、私は嬉しくなる。「えへへ、大成功~」今度は樹くんが頬を膨らませてそっぽを向いた。「……その笑顔は反則でしょ」「え? なになに~?」ボソボソと呟く声が聞き取れなくて聞き返すも、「なんでもないですっ! さ、行きますよ」怒ってるのかよくわからない態度のまま、樹くんは私の背を強引に押して常設展へ入った。
「これ、カバンにつけちゃおうかなぁ」レプリカなのにキラキラと輝く金印は、なんだかとてもロマンを感じる。それに、ストラップになっているところがちょっと可愛い。持ち歩けるなんて最高じゃないか。「姫乃さん、趣味渋いよね。ウケる」樹くんがくっと笑う。また笑われてしまった。「こういうところがダメなところなのかなぁ?」「全然、ギャップ萌えするよね」「……ギャップ萌え? それメモったほうがいい?」「まさか。俺もカバンにつけよ」樹くんは私と同じようにカバンに金印ストラップを付け、掲げてみせる。「姫乃さんとお揃い」「う、うん」柔らかくにっこり笑う樹くんに、私はまた心臓がドキドキと高鳴る。お揃いって何だか特別感があって嬉しい。それに、ほらまた。そうやって笑うんだ。会社では見たことのない、樹くんの優しい顔。そんな笑顔に絆されたのか、自然と私も頬が緩んでいた。「常設展は?」「行きたい。樹くんつまらない?」「全然。めちゃくちゃ楽しい」「ほんと? よかった」私はほっと胸を撫で下ろす。行きたいところはと聞かれて“博物館”と答えたはいいけれど、今のところ自分の趣味に完全に付き合わせる形になっているため、少し申し訳ないなと思っていたのだ。
出口の手前にはグッズ売場があり、迷うことなく私はそこに立ち寄った。特別展があるときは必ずグッズを見る。パンフレットを一冊と、あとはフラフラと物色だ。ふと、たくさんのポップで彩られ目を引くものがあった。 金印のレプリカのストラップだった。 私はそれを手に取る。小さく手のひらに収まるサイズなのに、思ったよりもずっしりとして重厚な作りになっていた。「ほしいの?」あまりにも凝視しすぎていたのだろうか、大野くんが不思議そうな顔をした。「うーん、迷ってる。だって使い道ないじゃない。だけど欲しくなっちゃうこの気持ちはなんだろう? 今、自分の物欲と戦ってるの」「あー、わかる、その気持ち。じゃあ俺がプレゼントするよ」言うが早いか、樹くんは金印ストラップを一つ取り会計に持っていこうとするので、私は慌てて止めた。「待って、自分で買うから」「俺が買ってあげたいの」「だけど……」譲らない樹くんは金印ストラップを放さない。困った私はもう一つ金印ストラップを手に取る。「じゃあ私は樹くんの分を買ってあげます」「俺? 別に姫乃さんほど金印ほしくないけど」「記念だよ。初デートの記念。あ、初なのは私だけか。ごめんごめん」自分の発言に照れ笑いすると、樹くんはキョトンとしたあと、ふわりと笑った。「うん、俺もほしい。初デートの記念」あ、そんな風にも笑うんだ。 なんて一瞬見とれてしまったことは内緒だ。 ドキンドキンと鼓動が速くなっているのは、気づかないふりをした。お互い会計を別々にしてから、金印ストラップを交換した。
特別展は、漢委奴国王印展《かんのわのなのこくおういんてん》が開催されている。想像以上に人気のようで、会場は人で溢れていた。照明が少し落とされた室内を順路に沿って見学するも、展示物の前はなかなか空かない。特に今回目玉の展示物である”金印”の前は、次から次へ人が流れていき、私は完全にタイミングを逃していた。人と人の間から僅かに見える金色の小さな印。もう一歩前に出られたら、全体が見えるのに。ぐぐっと背伸びをする。 と、ふいに肩が押される。 人の流れに沿うように一歩前に出ると、ついにショーケースの前に陣取ることができた。振り向けば後ろをついてきていた樹くんが、私の肩を押しやって前に出してくれたのだ。「あ、ありがと」「ん」樹くんは軽く返事をする。思ったよりすごく近くに顔があって、私の心臓はドキッと跳ねた。な、何? ドキッて、何? 土器?それを隠すように、私はすぐに金印の方に向き直す。とても小さいのにその存在はキラキラと輝いていて、他の展示物に比べても存在感は異彩を放っていた。「すごい、教科書でしか見たことないやつ」樹くんが小さな声で囁く。「うん。田んぼの中から出てきたんだよ。私なら気付かない。昔のものが残ってて、今この目で見られるってすごいよね」「卑弥呼と関係あるんだっけ?」「そう言われたりもするけど、わからないみたい。でもロマンがあっていいよね」私たちはコソコソとしゃべりながら、じっくりと金印を見る。そして少しずつ流れに沿ってその場所を後にした。
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