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第423話
最新チャプター
離婚後、恋の始まり 第907話
その夜。星野はアパートに戻り、もう一度図面を見直すつもりだったが、携帯が鳴り始めた。画面を見ると、電話の相手は葵だと分かった。「もしもし、横山さん、何かありましたか？」葵の声はどこかぼんやりとしている。「星野さん……ちょっと迎えに来て、家に帰れないの、ううう、家には帰れないの」声の様子からして、明らかに酔っている。星野は眉をひそめた。「横山さん、今どちらですか？」名前をぼんやりとした口調で伝えられた後、星野は何も言わずにすぐ現場へ向かった。バーの中は賑やかで、人混みをかき分けながら探し続けた彼は、ついにソファ席で泥酔している葵を見つけた。その瞬間、ひとりの男が葵の脚に手を伸ばそうとしていた。星野はすぐさま彼に近づき、阻止した。「お前は誰ですか？」男は一瞬驚き、そしてすぐ手を引っ込めて言った。「こんなに酔ってるから、ただ起こしてやろうと思っただけさ。お前こそ誰なんだ？」「僕は彼女の友人です、この子に近寄らないでくさい！」男は立ち上がり、去って行った。星野は葵を抱えながら起こし、顔を軽く叩いた。「横山さん？横山さん？」しかし葵は何の反応も示さない。この状態でバーにいるのはとても危険だ。仕方なく、星野は葵をを外へ連れ出すことにした。外の冷風に当たった途端、葵は突然吐き始めた。星野は眉をひそめながら見守り、吐き終わるのを待ってから聞いた。「横山さん、少し落ち着きましたか？」葵はぼんやりと顔を上げ、星野を見つけるとすぐに両手を彼の首に回した。「星野さんか、来てくれたね。家まで連れてってよ。両親に見捨てられたの。私を年寄りの男に嫁がせようとしてる。そんなの絶対嫌！」星野は他人の家の事情に興味がないため、提案した。「それなら、ホテルに送るけどいいんですか？」「いやだ、家まで送ってよ」葵は星野の首元に額を擦り寄せながら、かすれた声で呟き、また朦朧とし始めた。これでは埒が明かないし、自宅に連れて帰るわけにもいかない。結局星野は葵を近くのホテルに連れていくことにした。路上、車内。聡は抱き合う形でホテルに向かう星野と葵の姿を黙って見ていた。しばらくすると、スマホを取り出し、星野に電話を掛けた。その頃、星野はすでに葵をホテルの部屋に運び込んでベッドに寝かせたと
離婚後、恋の始まり 第906話
星野の姿が次第に遠ざかると同時に、聡の胸の痛みも増していった。ぼんやりとしてしまった。どうしてこうなったの？どうして彼の背中を見るだけで、こんなにも辛い気持ちになるの？こんなはずじゃなかったのに。そもそも初めから、星野に近づく目的は純粋なものではなかった。だから、彼に対して何か感情を抱くなんてこと自体、あり得ないはずだった。でも、星野の冷たい目つきや、無関心な態度を思い出すと、胸が痛くて仕方がなかった。聡は振り返り、少し顔を上げて目を閉じた。感情を落ち着かせると、そのまま車に乗り込んだ。どうせあり得ない感情なら、早めに損切りをするのが正解だろう。そもそも、最初から単なる遊びのつもりだったのだから。遊びに乗る気がないというのなら、もう星野を相手にしない――それだけでいい。葵はずっと様子を伺っていた。車が走り去るのを見て、ぽつりと言った。「彼女、行ってしまったよ」星野は感謝の表情を浮かべて彼女を見た。「横山さん、ありがとうございます」葵はニコニコしながら答えた。「いいえいいえ、ついでに面白い大スクープを聞けちゃったし！確か彼女、星野さんの上司だったんじゃないですか？」星野は淡々と返した。「いえ、元上司です」葵は意味深に星野を眺め、その眼差しが何を言いたいのか、星野には一目瞭然だった。しかし、あえてそれを無視した。「それでは横山さん、今日はこれで失礼します。何かアイデアがあれば、遠慮なく教えてください」「わかりました」葵はそう頷き、星野の背中が遠ざかるのを見送った。その後、葵は顎に手を当てながら思案し、目には好奇心が輝いていた。何か裏がありそうね……こういう複雑でスリリングな関係、大好きなのよね。もっと掘り下げてみたい！その後のしばらくの間、星野の生活は平穏だった。葵は時折メッセージを送ってきて、彼女の考えを伝えた。星野はそのたびに図面を調整し、意見を交わした。1か月後、図面が最終決定され、星野は施工チームと連絡を取り、工事を始める準備を整えた。その頃、尚子の病状も安定を見せ始めたので、喜多野グループ系列の高級病院から、一般の病院へと転院させることにした。転院の手続きを済ませたばかりの頃、彼のスマートフォンが鳴り、画面には「里香」の名前が表示されていた。
離婚後、恋の始まり 第905話
星野の顔色が一瞬にして変わり、電話を取った。「もしもし？」「振り返って」電話越しに聡の気だるそうな声が聞こえてきた。星野はその言葉に従い振り返ると、少し離れたところに停まっている車が見えた。運転席には聡がいて、彼を見つけると手を振り、こちらに来るよう合図した。葵もつられて彼の視線を追い、不思議そうに尋ねた。「誰ですか？」星野は電話を切り、葵に目を向けたあと、ふいにこう切り出した。「横山さん、一つお願いがあるのですが、少し失礼にあたるかもしれません。もし気が進まないなら構いませんが」葵は目をぱちぱちさせ、不思議そうに聞き返した。「お願いって何でしょう」車の中では聡がそんな星野と女性のやり取りをじっと見ていたが、眉間にじわじわと皺を寄せ始めた。一体どういうこと？あの女の子、彼のお客さんじゃなかったっけ？何をそんなに話し込んでんの？まだ来ないの？聡が堪えきれず不機嫌になりかけた頃、ようやく星野が近づいてきたが、その後ろには葵もついてきて、大きな目を不思議そうに彼女へ向けていた。聡は窓を下げ、星野に向かって声をかけた。「乗って、話がある」「何の話？彼、今忙しいんですから」葵があっさり遮った。星野が付け加えた。「こちら、横山さん。僕のお客さんです。今は時間がないので、急ぎの話ならここでどうぞ」聡は笑みを浮かべながら星野を見つめた。「本当に今ここで話していいの？」星野は穏やかな表情を崩さず頷き、腕時計をちらっと見ながら言った。「忙しいから、手短にお願いします」聡は唇を歪ませ笑みを浮かべたあと、口を開いた。「あなたの下着、まだ家に置いてあるけど、いつ取りに来る？」星野の冷静な表情が一気に崩れていく。まさかここまで恥知らずな真似をするとは思っていなかった。葵は口元を押さえながら、聡と星野を交互に見つめ、その大きな目の中には明らかに面白がるような視線が宿っていた。何これ、ヤバくない？すごいこと聞いちゃったんだけど！星野は歯を食いしばりつつ答えた。「いらない、捨ててください」「そう。わかった」聡は軽くうなずき、すぐに葵の方を見つめ直した。「お見苦しいところをお見せしました。少しだけ二人で話せる時間をいただけます？」ところが聡の申し出に、葵は思い
離婚後、恋の始まり 第904話
「え？」聡は少し間を置いて、「どういう意味ですか？」と尋ねた。心の中でなんとなく嫌な予感がした。突然雅之が問い詰めてくるなんて、普通じゃない。聡はこのところの自分の行動を慎重に振り返った。とても大人しくて、超真面目だった。まさにおりこうさんのような日々を過ごしていたはずだ。それなのに、どうしてこんな風に聞かれる？いや待てよ……全く心当たりないというわけじゃない。実際、最近は星野をからかうことに楽しんでいる。まさか、星野が雅之に告げ口したのか？聡は目を細めたまま少し黙った。雅之の口調はさらに冷ややかになり、こう言った。「聡、くだらない考えは捨てろ。もし次に変な噂を耳にしたら、もう二度と戻らないようにあの場所に飛ばすぞ」そう言って雅之は電話を切った。突然寒気に襲われる感覚。雅之が怒った……これは非常に厄介だ……しかも「あの場所」なんて、地獄みたいな場所じゃないか！今、凛がそこにいるけど、もう生きる希望さえ失っているって話だ。でも、どうして雅之がこんなに怒る？星野はいったい雅之に何を言ったんだ？聡はスマホを握りながらしばらく考えた後、桜井に電話をかけた。「もしもし、聡さん」桜井はすぐに出て、にこやかに応じた。聡は尋ねた。「桜井さん、正直に教えてもらえないか？雅之の周りで何かあったの？」「え？」桜井は少し戸惑いながら、その言葉の意味がつかめなかった。「聡さん、いったい何のことですか？」桜井は疑問を口にした。聡は答えた。「さっき雅之から電話が来て、散々怒られた上に、『真面目にしないと凛と一緒にあの場所送りにする』って脅されたの。でも、私最近おとなしいのに、なんで急にこんなに怒るわけ？」桜井もキョトンとしていた。「僕にも分かりませんよ」聡は眉をひそめた。「桜井さんに聞けば何か分かるかと思ったのに」「それは思い違いですよ。僕は今、冬木の業務を担当していて、雅之さんは錦山にいるんです。仮に雅之さんの周りで何かあっても、僕がすぐに知ることは無理ですよ」聡は聞いた。「じゃあ誰がすぐに知ることができる？」桜井は答えた。「今雅之さんの秘書をやってるのは徹です。彼に聞いてみたら？」「わかった、そうするね」聡は電話を切り、今度は徹にかけた。しかし、徹もなんの事情も知らなかっ
離婚後、恋の始まり 第903話
星野は聡をじっと見つめた後、すぐにその場を離れ、店の奥へと歩いていった。少しして出てきた時には、もう仕事用の服を脱いでいた。そのまま彼は聡の手を握り、ミルクティーショップを出た。聡は彼の長く整った指を眺め、その視線を彼の顔に移して疑問を口にした。「どこに連れて行くつもり？」星野は答えた。「病院です」聡の口から発せられる言葉を信用していなかった。だからこそ病院に連れて行ってきちんと検査を受けさせるつもりだった。そして本当に妊娠しているとわかったら、その子をどうするかを相談するつもりでいた。その言葉に聡はさらに微笑みを深め、突然彼の手を振り払いながら、にこやかに見つめて言った。「もちろん嘘をついたのよ。妊娠なんてしてないわ」星野の顔色が目に見えて険しくなり、彼女の前に大股で詰め寄ると、両手で彼女の肩をつかみ、冷たい声で問い詰めた。「こんな風におちょくって楽しいですか？」肩に微かな痛みが伝わったが、聡はまったく気にしていなかった。手に持っているミルクティーのカップすら揺らすことなく、答えた。「ええ、楽しいわ」怒りが心の中で燃え広がり、星野の目には怒意が浮かび上がった。「あんた、本当に恥知らずですね。僕はあなたのことを全然好きじゃないです。これ以上しつこく付き纏ったところで、僕にはあんたが安っぽく思えるだけです！」星野の言葉は極めて辛辣で、胸の中にあった怒りもさらに増幅し、ぶつけどころがないまま暴れ回っていた。聡の笑みが少し薄くなったが、怒る様子は見られず、その唇の端には諧謔的な笑みが浮かんでいた。「星野くん、私はただ君と遊びたいだけよ。どんなにひどい言葉を浴びせられたとしても、怒ったりしないわ。私が飽きるまでは逃げられないわよ」聡はまるで闇夜の魔女のように、悪趣味な言葉を口にしながら、自分の星野に対する気持ちを宣告していた。まったく躊躇がなかった。星野はますます腹を立てた。遊ぶ？ただ遊びたいだけ？この女、頭がおかしいのか？星野は聡から手を放し、二歩後退した。すると両手でズボンを力いっぱい拭き取り始めた。まるで何か汚いものに触れたかのように。「あんた、本当に狂ってます」そう言うと、星野は背を向けてその場を立ち去ろうとした。このことを里香に伝えることに決めたのだ。「星野
離婚後、恋の始まり 第902話
「おや？」聡の顔に、皮肉めいた笑みが浮かんだ。星野の冷たい表情を見つめ、疑わしげに問いかけた。「どうするつもりなの？」星野は彼女の手首を握る力を少し強め、漆黒の瞳でじっと見つめた。「雅之のこと、かなり気にしてるんじゃないですか？」「どういうこと？」 聡は興味深そうに星野を見た。本当に何をしようとしているのか気になったのだ。星野は彼女の手首を放し、それ以上詳しくは述べずに言った。「お帰りなさい。お見送りはしません」それだけ言って病室へ向かって歩き出した。聡は彼の背中を見つめ、目に興味深そうな光が更に濃くなった。これってどういう意味だろう？病室に戻ると、星野の様子を見た尚子がふいに聞いた。「ねえ、信ちゃん、どうして辞職したの？」星野は尚子を心配させたくなかったため、複雑な事情は話さず適当な理由をつけて言った。「もっと勉強をしようと思っています。仕事室での仕事は強度が高すぎて、集中できないんです」尚子は疑わしそうに彼を見つめた。「本当にそれだけなの？」星野は逆に問い返した。「他に何があるというんですか？そう思わせる理由でも？」尚子には真相は分からないが、それでも心の中では疑念が消えなかった。とはいえ、彼が話したがらないなら無理に追及せず、「最近小松さんの姿をまったく見かけないけれど、何か忙しくしているのかしらね？」と尋ねた。「自分の家族を見つけて、今は錦山に定住しています」「本当？それは良かったわね」尚子はその話を聞いて嬉しそうに笑顔を浮かべた。尚子は心から里香のことが好きだったので、彼女が家族を見つけられたことを本当に喜んでいた。それでも、微かに悲しそうな声でこう言った。「小松さんは本当にいい方よね。でも残念ながら、あなたと縁がないのかしら。それに、こんな私の身体が足かせになったせいで、もしこんな身体じゃなければあなたは……」「母さん」星野は尚子の言葉を遮った。「そんなことを考えないでください。僕はまだ若いし、急ぐ必要なんてありません」尚子は、星野がこういう話を嫌っていることを理解していたため、それ以上は話さなかった。その後の数週間、星野は履歴書を送る傍ら、レストランやタピオカドリンクの店などでアルバイトをしていた。彼には暇を持て余す余裕はなく、母の医療費が毎月の固定の支出として絶えず必要だった
離婚後、恋の始まり 第901話
聡は横に腰かけ、何とも言えない微笑みを浮かべながら星野をじっと見つめた。星野はあまり露骨な態度はとれず、少し間を置いてから口を開いた。「もう食べましたよ」その言葉に、尚子の顔にふと複雑な表情がよぎった。「でも、こんなにたくさんの料理があるのに、捨てちゃうのはもったいないわよね」すると、聡がにっこり笑って言った。「おばさん、それは私が悪かったですね。お身体のこと、ちゃんと考えてませんでした。確かに、これを捨てるのはもったいないし、じゃあ、持ち帰らせてもらいますね」尚子は苦笑しながら、少し諦めたように言った。「信ちゃんはほんと、私のこと心配しすぎなのよ。私なんてもうこんな歳なんだし、ちょっとくらい美味しいもの食べたっていいじゃない。悪い言い方すればさ、あと何回美味しいものを食べられるかなんて、分からないしね」星野はすぐに眉をひそめた。「母さん、そういう縁起でもないことは言わないでください」「分かった、分かったってば」尚子は星野が怒りかけているのに気づいて、慌ててそう言った。星野はあっさりした料理を小さなテーブルに並べ、尚子がそれを食べる様子を黙って見守った。聡はそんな様子を観察しながら、興味深そうに星野を見つめ、何度も視線をやった。「おばさん、遅くなっちゃいましたし、そろそろ失礼しますね。また改めてご挨拶に来ます」尚子が食事を終えたころ、聡がそう言った。尚子はうなずき、それから星野の方を向いて言った。「信ちゃん、聡さんを送っていきなさい」「分かりました」星野はゴミ袋を手に取り、無言のまま聡の後ろに続いて病室を出た。ゴミ袋をゴミ箱に捨てると、彼女に一瞥もくれずに、そのまま病室に戻ろうとした。「星野くん」そのとき、聡が彼を呼び止めた。しかし星野は足を止めず、そのまま歩き続けた。後ろから、少し気だるげな聡の声が聞こえてきた。「今日ね、おばさんといっぱい話したの。たとえば、あなたがあんなにいい待遇を蹴って、辞めようとした理由とか。おばさん、信ちゃんがどうして辞職したのかって聞いてきたわ。ねぇ、私、なんて答えればいいの？」その言葉を聞いた瞬間、星野はぴたりと足を止め、大股で振り向いた。聡のゆがんだ笑顔が浮かぶ美しい顔をまっすぐに見つめる。目には冷たい光が宿っていた。「
離婚後、恋の始まり 第900話
「無理難題を押し付けてるって言いたいわけ？」聡は目を見開いて星野を見つめた。「なんで私がそんなことする必要があるのよ？」店長は星野の態度にあきれた様子で、こう言い放った。「今すぐお客様に謝って、病院に連れて行って検査を受けさせろ。もし何かあったら、お前が責任を取るんだぞ！」星野は冷ややかな目を聡に向けた。彼女の目に浮かぶ、わずかな笑みを見逃さなかった。そうだ。星野が追い詰められて、自分の前で屈して頭を下げる姿が見たかったのだ。だって、それが本当に楽しいから。最初は、聡が星野に近づいたのは雅之の命令を果たすためだった。けれど今では、それ以上に――純粋に、星野のプライドをへし折って、屈服させたいという欲望のほうが強くなっていた。「そんな話なら、警察を呼べばいいでしょ。料理を出してからここまで運ぶ間、監視カメラは全部記録してる。僕は何もやってません」星野はすぐに冷静さを取り戻し、無表情のままそう言ってスマホを取り出し、通報しようとした。店長はその様子に焦って、慌てて止めに入った。「謝れば済む話だろうが！なんで警察なんか呼ぶんだよ！お前がこのお客様を怒らせたんだから、店全体を巻き込むな！もう出ていけ！責任感のない奴は、うちにはいらん！」そう言い終えると、店長はすぐに態度を変えて、聡に向かってにっこりと頭を下げた。「このたびは大変ご不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ございません。お身体の不調は、完全に彼個人の行動によるもので、当店の料理には一切問題ございません。どうぞご安心くださいませ」聡は軽く眉を上げながら、星野の険しい顔を楽しげに眺めていた。やれやれ、ついにクビになっちゃったね。さて、これからどうするつもり？まだ頭を下げる気にはならないのかしら。だが星野は、聡のことなど眼中にないとでも言うように、一瞥もくれずに社員証を店長に手渡し、そのまま無言で店を出ていった。店長は再び聡の方を向き、ていねいに頭を下げた。「このたびは本当に申し訳ございません。本日のご飲食代は、当方で負担させていただきます。他に何かございましたら、何なりとお申し付けください」聡は口元を軽く歪めて微笑み、「じゃあ、メニュー持ってきてちょうだい」と静かに言った。店長は彼女がこれ以上騒ぎ立てないと察し、すぐにメニューを持っ
離婚後、恋の始まり 第899話
その夜、星野は何通もの履歴書を送った。彼には確かな実力があり、手がけた図面はどれも新しいアイデアにあふれていた。聡のスタジオにいた頃は、里香と一つのプロジェクトを仕上げただけで、その後はすべて一人でやり遂げてきた。自信もあった。きっといい会社が見つかると思っていた。でも、履歴書を送ってから三日経っても、まったく返事が来なかった。七日目になって、ようやく一社から連絡が来て、午後に面接に来てほしいと言われた。ところが、実際に行ってみると、「もう採用が決まった」と告げられてしまった。バス停に立つ星野は、白いシャツに黒のスラックス姿。清潔感があり、どこか凛とした雰囲気が目を引く。スマホに表示された冷たい文字列をじっと見つめ、その瞳にはどこか冷ややかな光が宿っていた。大体の事情は察しがついた。頭の中に、あのときの聡の意味ありげな笑みが浮かんだ。深く息を吸い、一言だけこぼす。「……まあ、いいさ」ひとまずは別の仕事をしながら、少し時間をおいてまた考えよう――そう思った。気がつけば、半月が経っていた。聡はその間ずっと、星野が自分に助けを求めてくるのを待っていた。でも、彼は一度も姿を現さなかった。「ふん……」星野はプライドが高い。自分で決めたことを、そう簡単に後悔するような男じゃない。でも、そんなの信じていない。聡の目的は、そのプライドをへし折って、自分にひざまずかせることだった。端正で清潔な顔に、悔しさや苦しさ、挫折の色が滲むのを見たら、たまらなく興奮するに違いない。「まだ、遊び足りないわ」簡単に許してあげる気なんて、さらさらない。聡はパソコンを開き、スラリとした指でキーボードを打ち続けた。すぐに星野の現在地が画面に表示された。「へぇ、レストランでウェイターしてるんだ」夕方、聡はクライアントとの食事場所に、そのレストランを選んだ。シャツにベスト姿で忙しくホールを動き回る星野の姿を見て、口元に満足げな笑みを浮かべる。手を上げて指を鳴らし、もう片方の手で顎を支えながら、こちらに向かってくる星野をじっと見つめた。「このレストラン、何かおすすめとかある？」星野は表情一つ変えずに、店の看板メニューを淡々と紹介した。聡はうなずき、「じゃあ、まずそのおすすめをいくつかお願い」と言いながら、ポケットから何枚か紙
