ラエスタッド王国の第一王子であるヴィクタールは、何者かに無実の罪を着せられ、更に弟と自分の婚約者に、不貞と言う名の裏切りを受ける。絶望し死を決めた彼は、二人の目の前で崖から落ちていった―― リントン侯爵家の使用人リシュティナは、侯爵家の姉妹に苛められる日々だったが、恋人になったロッゾに裏切られ、更に理不尽な理由で侯爵家を解雇されてしまう。 絶望し死に場所に決めた浜辺で、リシュティナは倒れている瀕死の男を発見し介抱するが、目覚めた彼から放たれたのは怒りと『拒絶』の言葉で――? これは、裏切られ絶望し死を求めた二人が運命的に出逢い、様々な困難に遭いながらも愛を深めていく、狂愛と純愛の物語。
View Moreラエスタッド王国第一王子、ヴィクタール・ワース・ラエスタッドは、貴賓の部屋の前で、呆然と立ち尽くしていた。
扉の中から微かに聞こえてくる声は、聞き慣れた女の声。
そして男の、女の名を何度も呼ぶ、同じく聞き慣れた声。
「ヘビリア、ヘビリア……っ」 その名は。――その、名前は。 自分の……『婚約者』の名前―― そして、馴染みのあるその男の声は。自分の弟である、第二王子、スタンリー・ツーク・ラエスタッドの声――
「スタンリー様ぁっ! 好き、大好きぃっ」
「僕も好きだ……愛してる、ヘビリア……。兄上よりもずっと……。ねぇ、君もそうだよね? 兄上なんかより、僕を愛しているよね?」
「えぇ、勿論っ。あんな堅苦しいヴィクタール様なんかより、あなたを心から愛してるの、スタンリー様ぁっ」
叫びにも似た、二人の愛を伝え合う言葉を扉越しに聞きながら、ヴィクタールは思わず両目を固く瞑って耳を塞ぎ、力無くその場に膝をついたのだった――
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ ここ、ラエスタッド王国は、海に囲まれた島にある、小さな王国だ。海の恩恵を授かっているこの王国では、国民は海獣神『ネプトゥー』を崇拝し、日々生活をしている。
丘の上にある、ラエスタッド城。 その庭園にある椅子に、二人の男女がテーブルを挟んで向かい合って座り、仲睦まじく談笑をしていた。男は、黄金色の無造作に切り揃えた短い髪と、紫色の瞳を持った美丈夫で。
この国の第一王子である、ヴィクタール・ワース・ラエスタッドだ。 女は、ヘビリア・リントン。リントン侯爵家の長女で、赤茶色のウェーブした長い髪と同じ色の瞳を持った、可愛らしい女性だ。 彼女は、ヴィクタールの婚約者だ。 リントン侯爵家は、代々『聖なる巫女』の血を直系に受け継ぐ家系で、そこで産まれた娘は、王族との婚姻が定められていた。 王家には、こんな『伝承』が言い伝えられているのだ。“王家の血を引く者、『聖なる巫女』の血を引く者との絆が深まりし時、互いに『古の指輪』を嵌めよ。さすれば海獣神召喚され、“王の器”として認められし者へ、莫大な『力』と『富』を与えん。――但し、過ちを犯した者、海獣神の強大な怒りに触れん”
……と。
王家の血筋を引く者は、代々、精霊を召喚出来る能力を持って産まれる。最下級の精霊でも、それを召喚出来た者は、『王位継承権』が与えられるのだ。
ヴィクタールは、二十四になるこの歳になっても、未だ精霊を召喚出来ずにいた。彼は以前から、様々な面において中途半端だった。
文事と武事でも、取り立てて優れている訳でもなかった。
反対に、第二王子のスタンリーは、昔からどんな事でもそつなくこなせた。ヴィクタールはあらゆる面において、スタンリーに勝てた事はほぼ無かったのだ。
『ほぼ』というのは、昔、一度だけスタンリーに勝った事があるからだが、それは遠い昔の話だ。
国民や、城の者達が陰で自分を馬鹿にしているのは分かっていた。「兄の方が出来損ない」
「弟の引き立て役」
等、心無い言葉を言って騎士達が嘲り笑っているのを、偶然耳にした事もある。
確かにその通りだと、ヴィクタールは騎士達に反論しなかった。
スタンリーを憎む気持ちや羨む気持ちも無い。ただ、自分の弟が優秀で誇らしいと思うだけだ。
それに、自分には婚約者のヘビリアがいる。彼女は天真爛漫で物事をハッキリと言う性格で、その姿が微笑ましい。
政略の婚約だが、ヴィクタールは彼女を好ましく感じていた。
このまま彼女と結婚し、共に過ごしたいと思うくらいには――「ねぇ、ヴィクタール様ぁ? 精霊の召喚はまだ成功してないんですかぁ?」
「はい、なかなか難しくて……。けれど必ず成功させますよ」
「頑張って下さいね、ヴィクタール様! あたし応援してますから! 『王位継承権』が貰えたら、あたしも『王妃教育』頑張っちゃいますから!」
「頼もしいお言葉をありがとうございます」
拳を握り締めるヘビリアに、ヴィクタールはクスリと笑う。
「でもヴィクタール様、相変わらずあたしを抱きしめたり口付けしてくれないから寂しいですぅ……」
「すみません、ヘビリア。以前に申し上げました通り、婚前交渉はしたくないんです。貴方を大切に想うからこそ……。どうか分かって下さい」
「……分かりましたよぅ。あーぁ、つまんないのっ」
そうブツブツ言いながら、頬を膨らませブスッとするヘビリアにヴィクタールは苦笑する。
どうしてか、彼女に触れたいとか、そういう欲は一切湧いてこないのだ。このままの関係が心地良いと感じているからだろうか。
なのでヴィクタールの方からは、ダンス以外でヘビリアに触れる事は今まで一度も無かった。
それよりも、彼女は平民の娘としてだったら可愛らしいが、貴族の娘としては気品に欠けた仕草と言葉遣いだ。枠に囚われないその姿が好ましい気持ちもあるが、彼女の今後の為にも、貴族としての振る舞いも覚えさせないといけないと思う。
するとそこへ、騎士達の声が飛んできた。「おい、聞いたか!? スタンリー様が精霊の召喚に成功したらしいぞ!」
「えっ、ホントか!? 見に行ってみようぜ! 『召喚の間』にいるんだよな!?」
走り去って行く騎士達の会話に、思わずヴィクタールは椅子からガタンと立ち上がる。
「え……っ? スタンリー様が……?」
「行ってみましょう、ヘビリア」
「あっ、ちょっと待って下さいよぉ!」
ヴィクタールとヘビリアは、スタンリーがいる『召喚の間』へと小走りに向かったのだった。
父との謁見が終わった後、自分の部屋に連れてこられ、それからほぼ監禁状態で当日を迎えてしまった。警備が厳重で、手洗いに行く時も見張りが付き、逃げる事も出来なかった。「リィナ、心配してるよな……。町でずっと待っててくれてるだろうし……。城から外に連れ出される時に強引に逃げるか? ……いや、すぐに警備兵に矢を射られて失敗する可能性が高いな……」 やはりあの時、馬車に乗らずリシュティナと逃げていれば良かったのか。 それとも護衛達に立ち向っていけば良かったのか。 今更色々悔やんでも、後の祭りだ……。「リィナ……会いたい……。お前にすごく会いたいよ……。――ごめんな、必ず戻るって約束……守れねぇかも――」 ヴィクタールがベッドに突っ伏してボソリと呟いた時、扉からノックの音が聞こえ、「失礼致します」 と、一人の初老の騎士が入ってきた。 ヴィクタールはのそりと起き上がり、気怠げに騎士に問う。「……もう時間か?」「いえ、ご報告に参りました。貴方様は解放となりました。海獣神様が気に入るであろう、その身を捧げる人物が現れましたので」「は……? どういう事だ……?」 ヴィクタールは、騎士に怪訝な表情丸出しで問い返した。「昨日の夕方、海獣神様の愛し子である、『セイレン』の血を引く者が自ら名乗り出てきたのです。ヴィクタール殿下の代わりに自分がこの身を捧げる、と。美しい声と、『セイレン』の特徴である神秘的な蒼色の瞳で、彼女が『セイレン』の血を引く者である事が証明されました。国王陛下は悩んでいたのですが、彼女の幾度の懇願に押され、最終的には了承しました」「……は……? まて……待てよ……。ソイツは……。ソイツって――」 『セイレン』の血を引く者。 美しき声。 神秘的な蒼色の瞳。 彼女――“女”。 思い当たる人物は、一人しかいない――「その娘から、ヴィクタール殿下へと。“魅了”を解除する飲み薬だそうです。即効性だからすぐに服用して欲しいと。そして、自分を忘れて幸せになって欲しい、と。今まで本当にありがとう、と。そう言伝を預かりました」 騎士はそう言いながら、ヴィクタールに透明の液体が入った、小さな小瓶を手渡した。「儀式はもうすぐ始まります。場所は王城の裏手にある崖の上です。それでは私はこれで失礼致します」 騎士は敬礼すると、静かに部屋を出て行った。
海獣神と約束した当日の朝。 ヴィクタールは、自室で深い溜め息を吐いていた。 馬車で王城に連れてこられた日、ヴィクタールはスタンリーの姿を見たが、彼は少し目を見開いてヴィクタールを見た後、ニタリと嘲笑って自分の部屋へと入っていった。 王の間で国王と謁見した時、「お前の無事な姿を見れて安心したよ……。そして、スタンリーの為に色々と本当に済まない……。しかし、あんな駄目な奴でも儂の可愛い息子なのだ……。お前も儂の大切な息子だが、長男として、弟の為に海獣神様にその身を捧げて欲しい……。儂が変わりになれれば良かったのだが……。済まない……。本当に済まない……」 そう言って何度も謝罪し、頭を下げた父に、ヴィクタールは何も言えなかった。 スタンリーは、国王と彼の愛妾の間に産まれた子供だ。 国王は愛妾を偉く気に入っていた。王城に住まわせ、第一子を産んだばかりの自分の妻を蔑ろにして何度も愛妾のもとへ通っていた。 愛妾は、髪の毛はオレンジ色の、気の強そうな色気振り撒く妖美の女だった。 宝石を幾つも付けて、綺羅びやかなドレスを着ていた。国王が愛妾の為に購入したのだろう。 避妊はしなかったのか、それとも失敗したのか。彼女は国王との間に出来た男の子を産んだ。 赤ん坊を産んだ後、その愛妾は、城の使用人と駆け落ちをしていなくなってしまった。 まだ乳児の男の子――スタンリーを残して。 しかし、王妃であるヴィクタールの母は、スタンリーもヴィクタールと分け隔てなく育てた。 そんな自分の妻の慈愛に感化されたのか、国王は王妃を溺愛するようになった。 あんなに蔑ろにしていた事が嘘のように、王妃に懸命に尽くすようになった国王。 そんな父の姿を、長く城に仕えている者から妾の事を聞いていたヴィクタールは、複雑な気持ちで見ていた。 ヴィクタールは一度、母と二人きりになった時に、思い切って訊いた事があった。 妾に父を取られて悔しくなかったのかと。 それに、母は紫色の目を細め、美しい笑みを浮かばせながら言った。「ふふっ……。ヴィルには正直に言うけれど、わたくしと貴方のお父様は政略結婚だったのよ。わたくしは遠い地から無理矢理ここに連れて来られたの。だから、あの人に愛情なんてこれっぽっちも無かったわ。妾を作ったって何の感情も湧かなかったのよ。『あらどうぞご勝手に』という感じだった
「貴女と無駄話をしに来た訳ではありません。この場所の行き先と私を連れて行く理由を教えて下さい」 真っ赤な顔で足元をバンバン蹴るヘビリアに、ヴィクタールは表情を少しも動かさず説明を促す。 ヘビリアは大きく息を吐き、理性を何とか取り戻すと、これまでの経緯を説明した。「……という訳ですので、ヴィクタール様は海獣神ネプトゥー様に命を捧げる御身なんですぅ。最期に王家に貢献出来て良かったじゃないですかぁ」 黙ってヘビリアの説明を聞いていたヴィクタールは、不意に口の端を歪ませ、ハッと鼻で嘲笑った。「とんだ滑稽で不愉快な話ですね。それで何の関係もない私の命を使おうだなんて」「えぇー? 関係あるじゃないですかぁ。王族の一員ですしぃ」「…………。『聖なる巫女』の血を全く引かない偽物サン? スタンリーが駄目でしたので、次はウェリトを狙っているのでしょうか? 下の弟には貴女の誘惑は全く効きませんよ。弟の好みは貴女とは真逆ですから。可憐で淑やかな女性が好みなんです。弟は即座に本質を見抜きますから、貴女は邪険にされて終わりです。――ハッ、ザマーミロですね」「はぁっ!? そんなのやってみなきゃ分かんないでしょっ!?」 再び素を全開に出して怒鳴るヘビリアの隣で、後輩護衛が消え入りそうな程に縮こまっている。「とにかく、ヴィクタール様は海獣神様に命を捧げる日まで、御自分の部屋に監禁されますから。それまであたしが優しく慰めてあげてもいいんですよぉ?」 流し目でヴィクタールを見るヘビリアに、彼は心底嫌そうな顔を向けた。「は? そのような事、死んでも嫌ですね。地獄で永遠に苦悶を受けるより嫌です。考えただけで吐き気と寒気が止まらない」「キィーーーッ!!」 大猿になって暴れるヘビリアと、白目を剥いて昇天し掛かっている後輩護衛に見向きもせず、ヴィクタールは両目を閉じた。(オレはリィナと二人で穏やかに暮らしたいだけなのに、何でこうも邪魔ばかりしてくるんだ……。――リィナ、会いたい。別れたばかりなのに、もうお前の姿と温もりが酷く恋しい……) 三者三様の者達を乗せた馬車は、様々な思惑が蔓延る王城へと、着実に足を走らせて行ったのだった……。◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇「……行ってしまいましたねぇ」 遠ざかる馬車を見送っていると、ポンッと音を立て、レヴァイが姿を現した。「レヴァイ、ヴィルか
ヴィクタールは小さく舌打ちをすると、声を出さずにレヴァイに呼び掛けた。(おいコラ、レヴァイ。聞こえるか)『……はい? 何ですか? ワタクシはリシュティナに憑いてるんですから、本来彼女の呼び掛けにしか応えないんですよ。一度目で素直に貴方の呼び掛けに応じたワタクシに感謝して欲しいですね』(相変わらず偉そうなヤツだな……。そんな事よりもお前に頼みがある。“対価”を渡すから、オレが離れている間、リィナをどんな障害からも必ず護って欲しい。コイツに悪意を持って近付くヤツは、バレないようにブッ倒せ)『ワタクシ、力の加減が出来ないかもしれませんよ? もしかしたら相手を殺めてしまうかもしれません。それでも宜しいですか?』(別に構わねぇ。ただ、リィナに絶対容疑が掛からないようにしろ。特にこのヘビリアという女は、コイツに一歩でも近付けさせるな。少しでも何かしてきたら遠慮なく叩き潰せ)『フフッ、貴方のリシュティナ以外に容赦の無い所、ワタクシ好きですよ。“対価”は何ですか?』(オレの封印された魔力をやる。お前なら、封印されてても魔力を抜き取る事なんて簡単だろ?)『おや、それは素晴らしい“対価”ですね。確かに承りましたよ。ただ、魔力は五分の一程度で十分です。貴方の封印された魔力はそれだけ大きいですからね』(約束したからな。任せたぞ)「……分かりました。馬車に乗りましょう」「ウフフッ、ヴィクタール様ならそう仰ってくれると思ってましたぁ。あたしの事大好きですもんね?」「…………」 ヴィクタールはヘビリアに何を言っても無駄だと思ったのか、彼女に冷めた視線を向けただけで何も言わなかった。 ヴィクタールの返答を、リシュティナは呆然としながら聞いていた。(ヴィルが……ヘビリアお嬢様のもとへいっちゃう……? 私を置いて……? そんな……そんな――) 悲しみの衝撃で、リシュティナの身体が冷え、震えが止まってくれない。 そんな彼女の手を引っ張ると、ヴィクタールはその華奢な身体を強く抱きしめた。 そして、耳元に唇を寄せ小さく囁く。「悪ぃ、リィナ。町の奴らがこっちを見てるし、あの女の護衛達が武器を向けてる。逃げても執念深く追い掛けて来るだろうし、ここは一旦奴らの言う事を聞くしかない。お前の事はレヴァイに頼んだから」「……ヴィル……」「心配するな、オレは必ずお前のもとに戻
(この声は……ヘビリアお嬢様!?) リシュティナは思わずビクリと肩を揺らしてしまったが、それに気付いたヴィクタールは彼女の手を強く握り締めた。 そして、リシュティナを護るように彼女の前に立つ。 ヘビリアは、ヴィクタールがリシュティナの指に自分の指を絡ませ、騎士のように護っている姿に、唇をギュッと噛み締めた。「はぁ? 何よ、あたしの時は全く触れようとしなかったのに――」 そうボソリと呟いたが、次の瞬間には笑顔に戻っていた。「ヴィクタール様、捜していたんですよぉ。この町は港町に行く為に必ず通らなきゃいけないから、ここに来ると思って見張ってたんですぅ。あたしの推理もなかなかのものでしょぉ?」「……リントン侯爵令嬢が、私に何の御用でしょうか。私は貴女に全く何も用はありませんが」「あらぁ? 言葉遣いを戻したのですねぇ? あたしの為に戻してくれたのですかぁ? やっぱりそっちの方があたしは好きなので嬉しいですぅ」「私は王家を捨て、平民として生きる事にしました。ですので、貴族の者に敬語を使うのは至極当たり前です。決して貴女の為などと言う大層巫山戯た理由では無い事を御理解頂きたい」「なっ――」 言葉を失い、口元をひくつかせているヘビリアを、ヴィクタールは無表情の冷めた目で見る。 リシュティナは、二人の会話を聞いていて違和感を感じていた。(この二人、知り合いなの? ヘビリアお嬢様の台詞の内容がやけに――)「酷いですぅ。元婚約者のあたしにそんな事言って……。今もあたしの事大好きなくせに……。――あっ、そっか、照れ隠しですかぁ?」「……っ!?」(ヘビリアお嬢様がヴィルの元婚約者!? ――そうか……だからお嬢様はヴィルとこんな親しげに……。ヴィルは、裏切られても今もお嬢様の事を――) リシュティナの胸の中が、キュッと切なく縮まる。「……貴女を好ましいと思っていた時期は確かにありました。けれど今は全く貴女の事は眼中にありません。頭の片隅にも全く残っておりません。寧ろ貴女の本性を知った今、好ましく思っていた自分が最大の恥です。最上級の汚点です。その記憶を抹消したい程の恥辱です」「はぁっ!?」 抑揚も無く淡々と話すヴィクタールに、ヘビリアは顔を真っ赤にさせながら身体を震わせている。(そっか……ヴィル、ヘビリアお嬢様の事、何とも想ってないんだ……) ホッ
辺りも暗くなってきたので、野宿する事にした二人は、魔物の死角になりそうな場所を選び、木の枝で火を起こした。「早速精霊達のくれた種を植えてみるか。どんな風に実が成るのか気になるしな」 ヴィクタールは心做し弾んだ声でそう言うと、地面に種を一つ植えてみた。 すると、種を植えた場所から、ニュッと緑色の茎が飛び出し、すぐに美味しそうな橙色の果物の実が成った。「すっげ、種を植えたらすぐに草が生えて実が成ったぞ。精霊達のくれたモンだから、腹壊す事はねぇだろ。ほら、リィナ。先食べな」 ヴィクタールはそう言うと、リィナに摘み取った果物の実を手渡す。「ありがとう。戴きます」 リシュティナは果物を両手に持って、一口囓った。「……瑞々しい! すごく美味しいっ」「おっ、そりゃ良かった」 リシュティナが夢中になって食べているのを微笑みながら見ていたヴィクタールは、不意にフッと吹き出すと、彼女の顔に自分の顔を近付けた。「付いてる」 一言そう言うと、ヴィクタールはリシュティナの口の端に付いていた果物の欠片に指を伸ばし、それを取る。「っ?!」 固まってしまったリシュティナの隣で、ヴィクタールは指に付いた果物の欠片を口に入れ、頷いた。「ん、確かに美味いな。オレも食べるか」 機嫌良く地面に種を植え始めたヴィクタールの後ろで、リシュティナは暗闇でも分かる程に真っ赤になり、(い、今のは指! 絶対に指だから! くっ、口なんて、絶対に、ちっ、違うから!!) と、プルプル身悶えていたのだった……。******** 携帯食で晩ご飯を終え、歯を磨いて水筒で口を濯ぐ。 魔物除けは置いてあるが、万が一奴らが現れた時の為、いつでも逃げられるように二人は木の幹に寄り掛かって眠る事にした。「リィナ」 名を呼ばれたと同時に腕を引っ張られ、リシュティナはヴィクタールの胸の中に包み込まれる。 その上からふわりと毛布が掛けられた。「寒くないか?」「う……ううん、大丈夫」「ん」 ヴィクタールは小さく笑うと、リシュティナの頭を優しく撫でる。 心地良さに目を細めながら、リシュティナは徐ろに口を開いた。「……ヴィルって強いよね」「あ? 何だいきなり」「だって、昼間何回か魔物が襲ってきたでしょ? でも、私と手を離したのはほんの少しだったし。すぐにやっつけてたから」「そっか?
「今日は良い天気だ。雲一つ無いぜ。あぁ、鳥が羽ばたいてった。気持ち良さそうに飛んでたな」「ふふ、そっか」 草原の道を、ヴィクタールはリシュティナの細い指に自分の指を絡ませながら歩く。 リシュティナはヴィクタールの言葉を聞きながら、優しく微笑んでいた。 心地良い風が、彼女の前髪を揺らす度、光の無い蒼色の瞳が見え隠れする。 それでも、その瞳は吸い込まれるようにとても綺麗だった。 ヴィクタールが景色よりもリシュティナを眺めている時間の方が多い事は、見えない彼女には気付かないだろう。 ふと、リシュティナがヴィクタールを見上げて、ふわりと笑った。 途端、ヴィクタールの心臓が大きく跳ねる。「ヴィル、ありがとう。私の為に、どんな景色か教えてくれてるんだね」「あ……あぁ」「だから……楽しいよ、私。とっても」 目を細め、嬉しそうに微笑むリシュティナに我慢出来ず、ヴィクタールは彼女の身体を引き寄せ抱きしめた。「えっ?」 瞬間、彼女の頬が真っ赤に変わった。「も、もうっ! 外ではいきなりやらないでって言った!」「あぁ、悪ぃ……。お前が可愛過ぎて我慢出来なかった」「!!」 正直に告げると、リシュティナの顔が更に朱に染まる。恥ずかしがる彼女も可愛くて堪らない。 自分の腕の中に一生閉じ込めていたい思いに囚われ、バタバタと身体を動かす彼女を深く抱き込んだ。 ――あの時。 元婚約者に裏切られ、“恋”だの“愛”だの、『好き』だの『愛してる』だの、もう沢山だと辟易した。 けれどリシュティナと出会い、いつの間にか自分の中は彼女で埋め尽くされ、彼女無しではいられないようになった。 “恋”や“愛”という陳腐な言葉では言い表せない、『好き』だの『愛してる』だの、そんな軽い言葉で言い表したくない、酷く深く重く熱い想いが自分の胸を焦がした。 その熱情に身を任せ、彼女の滑らかで柔らかい身体を余す事無く貪り尽くしたい気持ちに必死になって蓋をした。 こんな強い欲望があったなんて自分でも驚いた。 懸命に我慢はしているが、想いは留まる事を知らず、きつく閉じた蓋から少しずつ漏れてきて。 手繋ぎから抱擁、そして額への口付けと、彼女への欲が止まらず出てきてしまっていて。 それ以上は彼女が自分を好きになるまで駄目だと、最後の砦のように理性を最大限にして抑えている。 彼女が一
「旅の資金もある程度貯まったし、明日にでも旅に出るか。王国の地図も買ったし、旅の準備も出来てるしな」「えっ、いきなりだね!? しかももう準備万端っ!?」 ある日の夜。 いつもの如くベッドでリシュティナを抱き込みながら、ヴィクタールは唐突にそう告げた。「スタンリーの野郎はもう召喚を決行しただろう。成功したのなら、父上が現国王でも、王権は奴が半分以上握る事になる。悪影響が本格的に出る前にこの王国を去りたい。――オレは、お前とずっとこんな風に穏やかな生活を送っていきたい。ただそれだけがオレの望みなんだ」「ヴィル……」「リィナ……。いつまでも一緒だ」 ヴィクタールの声が近くなったと思ったら、前髪を掻き上げられる気配がし、額に柔らかく温かいものが触れた。「えっ!?」 驚くリシュティナに構わず、ヴィクタールは彼女の首筋に顔を埋めた。「……可愛い、リィナ」 首筋に顔を埋めたままそう言われ、吐息が直接当たる擽ったさに、リシュティナの身体がブルリと震える。「……お前の温もりって眠気誘うよな……。しかも快眠の……。おやすみ、リィナ――」「えっ、ヴィルッ?」「…………」 ……ヴィクタールは、リシュティナの首筋に顔をつけたまま眠ってしまった。(――さ、さっきの額の感触は……もしかして……。う、ううん、きっと指だよ指! ……で、でも、指よりも柔らかかった……。――もうっ、一体何なのーーっっ!?) 真っ赤な顔のリシュティナの叫びは、虚しくも心の中で消えていったのだった……。◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 朝になり、少し寝不足気味のリシュティナをヴィクタールが心配しながらも一緒に朝ご飯を食べ、旅の支度を整えた。 家を出て畑の所に行くと、ヴィクタールは心地良く響く低音の声を張り上げる。「土の精霊、水の精霊、聞いてるか? 今までありがとな。オレ達これから旅に出るから、野菜や果物達を土に還してくれねぇか? 思い入れがあるし、このまま枯れていくのは嫌だしさ。頼むよ」 すると、畑に生い茂っていた野菜や果物達が、シュルシュルと音を立てて小さくなり、やがて土の中に消えていった。「ありがとな、お前ら。いつまでも元気でいろよ。ここが危なくなったらすぐに逃げろよ――ん?」 ヴィクタールは、土の上に幾つかの小さな種がある事に気が付いた。「何だコレ?」「精霊達の“餞別”です。
「シャーロット様も『聖なる巫女』の血を引いていない……!?」「じゃあシャーロット様も、リントン侯爵閣下の子では無い――?」 周りが酷くざわめく中、とうとう立っていられなくなった侯爵夫人は、戦慄いたまま、ガクリと両膝をついた。「……ヘビリアが産まれてから二年後、君が『子供が欲しい』と言ってくれた時、ようやく私を見てくれたと嬉しかったよ。けれどそのすぐ後に『子供が出来た』と言った君に不信感を抱いた私は、君の事を調べさせて貰った。……結果、まだ不貞の相手と切れていなかった。私を求めたのは、不貞の相手との間に子供が出来、それを私の子とする為の偽造工作だった。……ヘビリアの時も似たような状況だったと思い当たった時、酷く失望したよ」「あ、あなた……」「君の義務は、『聖なる巫女』の直系である私との子を産む事だった。その為の“政略結婚”だった。けれど君はそれを軽く考え、義務を放棄した。そして他の男の子供を作った。それも二度も。――そんなに私との子を産むのが……私との子を育てるのが嫌だったんだな。……言ってくれれば、すぐに君と離婚したのに」「ご、ごめんなさい、あなた……。本当にごめんなさい……! け、けど、離婚だけは許して……!」「…………」 リントン侯爵は、夫人の謝罪に何も言わず、眉間に皺を寄せ瞼を閉じた。「そ……そんな……。それじゃあ『聖なる巫女』の血を直系で引く者は誰もいないじゃないか! “王たる器”を持つ僕の世代に! そんなの――そんなの許されないっ!」 スタンリーが両目を見開き激昂すると、再び海獣神ネプトゥーの声が聞こえてきた。『何を巫山戯た事を言っている、王族の人間よ。汝には“王たる器”はどこにも無い。貪欲に塗れた愚者よ。偽の「聖なる巫女」といい、このような茶番に付き合わされ、我は酷く腹立たしい。我は非常に忙しいのだ。今すぐにこの王国の国民を滅しないと気が済まない』 海獣神ネプトゥーの言葉に、その場にいた全員がギョッと目を剥いた。 殆どの者が慌てふためく中、国王が前に出て、その場で勢い良く土下座をした。「海獣神ネプトゥー様のお怒り、御尤もで御座います。しかし、こちらの予期せぬ不備で御座いまして、一度貴方様の召喚を成功した私めに免じて、お怒りを鎮めて頂けないでしょうか」「ち、父上……」 スタンリーは、威厳をかなぐり捨てて床に頭を付けて土下座
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