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第7話

Author: 空木林
強烈な直感に突き動かされ、音瀬は振り返った。

池田家の門前で、菜月は服を着替え、化粧を直し、外に出た。

車のドアが開くと、湊斗が降り、手に持った花束を彼女に差し出した。

鮮やかな深紅のバラは、燃えるような愛を象徴していた。

「すごく綺麗ですね」菜月は花束を受け取り、微笑みながら湊斗の腕にそっと手を回した。

湊斗は紳士的に車のドアを開け、彼女を支えながら乗せると、そのまま二人で去っていった。

車が通り過ぎる瞬間、音瀬はそっと背を向けた。

心臓が高鳴る。

まさか、菜月の今夜の大事なデートの相手が湊斗だったなんて!

湊斗は言っていた。結婚を考えている相手がいると——

本当に、彼は嘘をついていなかった!

そして、その相手が菜月だったなんて!

菜月が湊斗みたいな男を彼氏にしてるなんて、あの一家は夢見心地だろうね。

でも、彼女は知ってしまった。

これは神様がくれたチャンスなのか?音瀬は静かに拳を握り締めた。

なんで、あいつらの家族は順風満帆に生きてるのに、彼女と弟は地獄に落ちたままなんだ?!

絶対に、思い通りにはさせない!

街灯の下、音瀬の影は長く伸びていた。

……

チェリーウッドのダイニングテーブルに、揺らめくキャンドルの灯り。

ボーンチャイナの食器にシルバーのカトラリー、すべてが洗練されている。

ついたての向こうでは、バンドが静かに演奏していた。

湊斗は菜月と向かい合って座り、彼女のグラスに赤ワインを注いだ。

「状況が変わった。離婚するつもりだ。手続きはあと二日で終わる」

「!」

菜月はパッと顔を上げ、目の奥に歓喜の光を宿しながらも、すぐに目を潤ませた。今にも泣きそうな表情だった。

湊斗は困惑したように目を細めた。「どうした?泣くほど嬉しくないのか?」

「違います」菜月は首を振り、涙を堪えようとした。

「ただ、ただ……嬉しすぎて!」

そっと湊斗の手を取り、「ねぇ、ダンスしませんか?お祝いにさ、ね?」

湊斗は幼い頃から礼儀を叩き込まれてきた。こういう場面で女性の誘いを断ることはない。

ましてや、相手は自分の女だ。

軽く頷き、「いいよ」と言った。

二人はダンスフロアへ降り、湊斗は軽く菜月の肩と腰に手を添えた。

菜月は顔を上げ、湊斗を見つめる。「湊斗さん。離婚したら、私たちすぐに結婚できるんですか?」

湊斗はわずかに眉をひそめ、すぐには答えなかった。

手続きが終わったとしても、祖父の体調が回復するまで待たなければならない。すぐには無理だろう。

湊斗の反応を見て、不機嫌になったのかと勘違いした菜月は慌てて言い訳する。「急かしてるわけじゃないです。ただ……母が、結婚の準備には色々時間がかかるって……」

「気にするな」

湊斗は少しの間黙ったが、結局彼女の言葉に合わせることにした。

「じゃあ、お母さんには手間をかけることになるな。必要なことがあれば大塚に連絡すればいい」

面倒なことは、他人に任せればいい。

彼の女は、ただ幸せであればいい。

「うん!」

菜月は嬉しそうに両手を湊斗の肩に添えた。光の輪の中、その瞳は妖艶に輝いていた。

言葉なくして、彼を誘っていた。

菜月はそっとつま先立ちし、彼に顔を近づけ、ゆっくりと目を閉じた。

求めるようなその仕草は、あまりにも率直だった。

湊斗は、それが何を意味するのか理解していた。

彼はそっと菜月の顎を支えた。指先に伝わるのは、厚く塗られたファンデーションの感触と、鮮やかな口紅を塗った唇……

顔を少し傾ければ、すぐにでも唇を重ねられる距離だった。

だが、なぜか湊斗の中に、その気はまったく湧いてこなかった。

思い出すあの夜は、こんなふうじゃなかった。

あの夜、彼女は化粧をしていなかった。肌は素のまま清らかで、余計な香水の匂いもなかった。

ふと、音楽がピタリと止んだ。

湊斗は手を引いた。

「音楽が終わったな。もう食べよう、冷める前に」

菜月はハッと目を開けた。だが、男はすでに背を向け、席へ戻っていた。

彼女は眉をひそめ、唇を軽く噛んだ。

音楽のせいで邪魔された!どうしてこんなタイミングで止まるのよ。もう少しでキスできたのに……

数日後の水曜日、朝。

音瀬は昨夜学校の寮には戻らず、梨香の部屋に泊まっていた。

朝早く、梨香はすでに支度を終えていたが、音瀬はまだ動こうとしなかった。

「ん?」梨香は不思議そうに顔を覗き込む。「まだぼーっとしてるの?今日用事あるって、わざわざシフト変えたんじゃなかった?」

「うん」

音瀬は少しぼんやりしたまま答えた。「先に行って。私はもうちょっと後で行く」

「じゃあ、あたしは今日24時間勤務だから、先行くね」

梨香が出て行った後、音瀬はベッドに寝転がった。今日は、どこにも行かない。

午前十時、携帯が鳴った。

役所の前。湊斗はスマートフォンを片手に、音瀬の番号を押しながら、もう一方の手には書類フォルダーを持っていた。

そのフォルダーの中には、離婚協議書が入っている。

そこには、音瀬への補償についても書かれていた。

彼女のことは好きではないが、それでも、彼女の母親が祖父の命を救ったという事実は変わらない。

ましてや、これくらいの金額は、彼にとって大したことではなかった。

電話がつながると、湊斗は淡々とした声で言った。「どこだ?もう中に入ったか?それとも渋滞か……」

「桐生さん」

音瀬は深く息を吸い込んだ。だが、その声には自信がなかった。

湊斗に対して、彼女は罪悪感があった。

それでも、彼女はこうするしかなかった。

「ごめんなさい。今は、離婚するつもりはないです」

「今、なんて言った?」

湊斗は、一瞬、自分の聞き間違いかと思った。昨夜遅くまで起きていたせいで、幻聴でも聞いたのか、と。

そうでなければ、こんな馬鹿げた話が聞こえるはずがない!

音瀬は不安と後ろめたさを抱えながら、ゆっくりと言葉を繰り返した。「私は、離婚しない、と言いました」

一語ずつ、はっきりと、ゆっくりと。

湊斗の顔色が、一瞬で曇った。

声は穏やかだったが、その奥には冷たい刃が潜んでいた。

「池田音瀬、自分が何を言ってるのかわかってるのか?離婚は、お前が自分で承諾したことだろう。ふざけてるのか?」

言葉の終わりには、鋭さが増していた。

「誰がそんな度胸をくれてやった!」

すぐに命令が飛ぶ。「今すぐここに来い!今日中に離婚する!お前の気まぐれなんか、認めるわけがない!」

この決断を下した時から、音瀬は彼が怒ることは覚悟していた。

音瀬からすれば、湊斗の女を見る目は大したことがない。菜月みたいな、表と裏が違う女を好きになるなんて。でも、人の好みに口を出す権利なんて、彼女にはない。

でも、人の好みに口を出す権利なんて、彼女にはない。

今回の件は、確かに池田家の問題が彼を巻き込んでしまった。

彼には借りがあるのに、彼女は今、彼と愛する人が一緒になるのを阻もうとしている。

「ごめんなさい」音瀬は小さく謝った。

「謝罪なんかいらない!」

湊斗は一切受け入れず、低く怒鳴った。「池田、今すぐここへ来い!さもなければ、俺が直接引きずり出してやる。その時は、こんな生ぬるい態度じゃ済ませないぞ!」

「桐生さん、ごめんなさい。でも、私のことは見つけられないですよ。少なくとも、今日は絶対に会えないです」

そう言い残し、音瀬は通話を切った。そして、携帯の電源を落とした。

これで、湊斗に位置を特定されることはない。

それに、彼は彼女のことをよく知らない。病院にも、学校にもいない今、見つけられるはずがない。

それが、彼女が昨夜梨香の家に泊まった理由だった。

湊斗は何度か電話をかけたが、繋がらなかった。そこで、大塚に居場所を特定するよう命じた。

大塚は淡々と言った。「兄さん、彼女電源切ってる」

「じゃあ、別の方法を探せ」

湊斗の顔色は青ざめていた。裕福な家に生まれ、常に頂点に立ってきた彼が、こんなふうに振り回されたことなど一度もなかった!

「まさか、江城市から逃げ出せるとでも?」

「わかった」

しかし、大塚でも見つけられなかった。

「病院にも、学校にもいない……それに、剛(つよし)くんも篤(あつし)くんも、どこを探せばいいのかわからないってさ」

江城市は広すぎる。今の情報だけでは、彼女を見つけ出すには到底足りない。

まるで大海の中から針を探すようなものだ。

突然、湊斗は冷たい笑みを浮かべた。

——池田音瀬、なかなかやるじゃないか!

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