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Autor: 詩庵
一晩中、悪夢にうなされた。目が覚めると、いつもの癖でベッドの脇へ手を伸ばした。

飼い猫のミカンを抱きしめようとしたのに、触れたのは空っぽのシーツだけだった。

胸が一気にざわつく。私は布団を跳ね除け、ベッドから降りた。

床に這いつくばってベッドの下を覗き込み、ベランダも、クローゼットも、ソファの裏も探した。

そして最後に、玄関先のゴミ箱のそばで、小さな鈴を見つけた。

そこには数本、オレンジ色の毛が絡みついていた。

しゃがんで拾い上げる。立ち上がった瞬間、目の前がぐらりと揺れた。

キッチンから母が出てきた。手にはまだフライ返しを持っている。

「探しても意味ないわよ。猫ならよそにやったから」

あまりにも平然とした声だった。

「知世は猫アレルギーなの。もうすぐ帰ってくるんだから、家にこういうものも置いておけないでしょう?」

私は鈴を強く握りしめた。硬い縁が掌に食い込む。

口を開いたのに、出てきた声は自分のものとは思えないほど震えていた。

「あの子……七年も一緒にいたんだよ。

すごく臆病なの、知らない場所に行ったら、怖がるよ……」

最後の一言は、ほとんど泣き声になっていた。

母が眉をひそめる。

「杏奈、お姉ちゃんだって怖いのよ。何でも自分のことばかり考えるの、やめられない?」

突然、息が苦しくなった。大きく息を吸おうとしても、まるで肺に空気が入ってこない。

壁に手をつき、目を閉じたまま、しばらく必死に呼吸を整えた。

視界を覆っていた黒い靄がようやく消えると、私はそのまま外へ飛び出した。

「杏奈!」

背後で母が呼ぶ。それでも振り返らなかった。

マンションの警備員に聞いた。近所の人にも聞いた。地元の掲示板を遡り、管理人に頼んで防犯カメラまで見せてもらった。

警備員は、朝、誰かが茶トラの猫を抱えて外へ出ていくのを見たと言った。

裏口まで走った頃には、もう脚に力が入らなくなっていた。

背中から汗が次々と流れ落ちる。

それでも私は、ゴミ箱を一つ残らず覗き込み、植え込みという植え込みを探した。けれど、あの子はどこにもいなかった。

夕方、地元の掲示板に新着のスレッドが立っていた。

【桜通りの雨除けの下に茶トラがいます。どなたかの猫ですか?】

写真を見た瞬間、全身が震えた。あの子だった。

段ボール箱の脇で小さく丸まり、体の半分以上が雨に濡れている。それでも、その目はずっとマンションのほうを見ていた。

私は上着を掴み、そのまま外へ飛び出そうとした。

けれど母が立ちはだかった。

「また連れて帰るつもり?」

書斎から父も飛び出してきた。

「杏奈、お前はどうしてそこまで意地が悪いんだ!

知世はまだ戻ってきてもいないのに、もう邪魔しようとしてるのか!」

父が手を振り上げた。

私はその場から動かなかった。むしろ殴られた方がいいとさえ思った。

頬が痛むほうが、胸の奥がこんなふうに押し潰されるよりずっとましだ。

けれど、母が慌てて父に飛びついた。

「やめて!顔に傷でもついたら、知世が戻ってきた時どうするの!」

父の手が空中で止まった。

父の手首を必死に掴む母を見つめていると、喉の奥に鉄臭い味が込み上げてきた。

そうか。この顔すら、もう私のものじゃないんだ。

二人に部屋へ押し込まれても、私は必死に抵抗した。

父がドア枠にしがみつく私の指を一本ずつ引き剥がし、母が身体を張って入口を塞いだ。

目の前で、ドアが勢いよく閉まる。

私はすぐさま飛びつき、何度もドアノブを回したが、どうしても開かなかった。

夜になって、掲示板にまた新着の投稿があった。

写真が一枚添えられていた。ミカンが、マンションの裏口近くの路肩に横たわっていた。その下を流れる雨水が、赤く滲んでいる。

【さっき車にはねられたみたいです。見つけた時にはもう息がありませんでした】

【ずっとマンションの入口を見ていて、追い払っても動かなかったんです。誰かを待ってるみたいでした】

私は写真を見つめたまま、大声で名前を呼ぼうとした。

けれど、胸を生きたまま引き裂かれたように痛くて、声は全部そこに詰まって出てこなかった。

口だけが開く。先にこぼれ落ちたのは涙だった。

喉から漏れるのは、壊れたような小さな嗚咽だけ。

私は拳を強く握りしめた。爪が掌に食い込んでも、痛みすら感じなかった。

やがて生温かいものが指を伝って流れ落ちて、ようやく気づいた。握りしめていた鈴の縁で、掌はとっくに切れていた。

私は床の上で小さく身体を丸めた。全身を震わせながら、泣き続けた。

七年。ミカンは、七年間ずっとそばにいてくれた。

みんなが姉のことだけに気を取られている中で、ミカンだけは、いつも玄関で私が帰ってくるのを待っていてくれた。

なのに今は、あの子まで捨てられた。ずっと私を待っていたのに。

掌の中で、鈴がちりんと小さく鳴った。

その時、スマホの画面が突然明るくなった。

【最終確認です。選択を撤回して入れ替えを中止しますか?】

私は写真の中の雨に濡れたミカンの毛を、ずっと見つめていた。そして長い時間が経ってから、「いいえ」を押した。

【入れ替えを続行します】

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  • 雨のない世界で、私はもう泣かない   10

    こっちの世界に来て三日目、元の家族から通話申請が届いた。アプリの画面が表示される。【母親、父親、木島湊から面会の申請があります】【接続しますか?】私は窓辺に座り、新しく迎えた茶トラを膝に抱いていた。陽射しが手の甲に落ちる。もう身体が透けることもなければ、カウントダウンが表示されることもない。結衣さんはリンゴの皮を剥いていた。通知に気づくと、ほんの一瞬だけ手を止めた。「杏奈、自分で決めていいのよ」直人さんも温かいミルクを持って部屋から出てきた。「会いたいなら、俺たちも一緒にいる。会いたくないなら、誰にも無理強いさせない」私は画面に目を落とした。申請一覧の一番下には、知世の名前もあった。私は、彼女から届いたものだけを開く。そこには戻ってきてほしいという言葉はなかった。ただ、数行のメッセージだけが残されていた。【杏奈、ごめんね】【私からちゃんと伝える】【私たちは、どっちも誰かのための道具じゃないって】【先生が言ってくれたの。私は悪い子じゃないって】【杏奈だって、誰かの代わりじゃない】目の奥が少しだけ熱くなった。私は返信した。【お姉ちゃんも、強く生きてね】それから、元の家族からの面会申請を拒否した。画面が消える。結衣さんは、どうして拒否したのかとは聞かなかった。剥いたリンゴを食べやすい大きさに切り、私の手元へ置く。「今日、海に行ってみる?」私は顔を上げた。急に喉がかすれた。「行ってもいいの?」直人さんがすぐに答えた。「もちろん。車のガソリンも満タンにしてあるぞ」その頃、元の世界の深沢家では、面会を拒否されたという表示が、いつまでも画面に残っていた。母は床に崩れるように座り込んでいた。髪はぐしゃぐしゃに乱れている。「あの子、ママにも会ってくれないの」知世はソファの隅で膝を抱えていた。「ずっと見てたよ。二人が見てなかっただけ」父は一晩中眠っていなかった。たった一夜で十歳も老け込んだように見える。残された資料をめくっているうちに、父は気づいた。私の名前が、一ページずつ消えていっている。卒業証書からは名前の部分だけが消えた。運転免許証の写真も、灰色の影になっていた。家族のグループチャットからは、『知世の器』という表示すらなくなっ

  • 雨のない世界で、私はもう泣かない   9

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  • 雨のない世界で、私はもう泣かない   8

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  • 雨のない世界で、私はもう泣かない   7

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  • 雨のない世界で、私はもう泣かない   6

    もう一つの世界の母は、深沢結衣(ふかさわ ゆい)という名前だった。結衣さんは病室のカーテンを半分だけ閉めた。差し込む陽射しは床だけを照らし、私の顔には当たらない。何か言う時も、必ず先に私の顔を見て確認してくれる。「このくらいの声で大丈夫?もう少し照明を暗くする?ここに立ってたら、緊張する?」私は布団の端を握りしめた。喉が詰まって、何も言えない。私の機嫌を取ろうと、腫れ物に触るように接しているわけじゃない。本当に、私が少しでも楽になるのを待ってくれているのだ。父は深沢直人(ふかさわ なおと)というらしい。直人さんはお粥をよそい、スプーンを器の縁に置いた。「まだ少し熱いぞ。前から緊張すると胃が痛くなってただろ。最初は少しずつ食べよう」私はスプーンを持ち上げた。手首がだるく、細かく震えている。どの料理にも、パクチーや海鮮は入っていなかった。一口飲み込むと、その温かさが、ずっと空っぽだった胃に落ちていった。その瞬間、胸が痛くなるほど涙が溢れた。結衣さんはティッシュを差し出してくれたが、どうして泣いているのかとは聞かなかった。「ゆっくりでいいからね。急がなくていいの」午後、二人は私を家へ連れて帰った。玄関には、おかえりと書かれた飾りもなければ、ケーキもなかった。ただ、淡い水色のスリッパが一足置かれていた。結衣さんはしゃがみ込み、それを私の足元へそっと押し出した。「このスリッパ、ずっと杏奈のために取ってあったの」足を入れると、柔らかな底が少し沈んだ。ぴったりだった。私の部屋は二階にあった。壁には数学コンテストの賞状が貼られている。本棚には手帳や集めていたポストカード、問題集が並んでいた。そして机の隅には、一つの古い鈴が置かれていた。きれいに磨かれ、光っている。胸がぎゅっと締めつけられた。結衣の声がかすれた。「ミカンがいなくなった時、杏奈はずっと泣いてたから。そのあと、また一匹引き取ったのよ」窓を開けると、庭から一匹の茶トラが駆け込んできて、私の足元に身体を擦りつけた。私はしゃがみ込み、その子を抱き上げた。温かな毛が掌に触れる。肩の震えが、どうしても止まらなかった。直人さんは顔を背けた。目の縁が真っ赤になっている。「杏奈、帰ってきてくれてよかった」夜

  • 雨のない世界で、私はもう泣かない   5

    母は画面に浮かんだ文字をじっと見つめていた。唇がひどく震えている。「知世、あなたなの?」画面がもう一度明滅した。【妹は私の器なんかじゃない】【あの子だって、悲しいはずよ】父の表情が凍りついた。湊が勢いよく私を見る。私はまだカメラの前に立っていた。無理やり作った笑顔もそのままで、頬は痺れるほど痛かった。母はスマホに飛びつき、両手で包み込むように持った。「知世、ママはただ、あなたに会いたかっただけなの。ずっとずっと、あなたを探してたのよ」やがて画面に、一つの文がゆっくり浮かび上がった。【小さい頃、言ったよね、大きな音が怖い、眩しい光が怖い、急に触られるのが怖いって】母の泣き声が止まった。父の指がわずかに強張るのが見えた。知世の言葉は続いた。【お医者さんにも、自閉スペクトラム症で感覚が過敏だって言われた】【でも二人は、私がわがままなだけだって言った】リビングから、すべての音が消えた。母は頬に涙を残したまま、呆然としていた。「違う、知世、あなたは小さい頃、ちょっと神経質だっただけよ」その言葉を聞いた瞬間、背中がじわじわと冷えていった。ふと、子供の頃のことを思い出す。母はいつも、姉は物静かで聞き分けのいい子だったと言っていた。けれど映像の中の姉は、何度も耳を塞ぎ、机の下に縮こまっていた。母はいつも、その場面だけ早送りしていた。それきり、アプリから返事はなかった。代わりにカウントダウンが表示される。【00:00:10】そこでようやく母が慌てて私を振り返った。「杏奈、ちゃんと立ってて」父も駆け寄り、私の腕を掴んだ。「動くな。最後で失敗したらどうする」私は二人の手を見下ろした。何の温かさも感じなかった。湊がかすれた声を漏らす。「杏奈、行かないでくれ……」私は彼を見た。目は真っ赤だった。それでも、その手が私に伸びてくることはなかった。【00:00:03】足元から冷気が這い上がってくる。まるで誰かに深い水の底へ引きずり込まれていくようだった。母が「知世」と叫ぶ声が聞こえた。湊が「杏奈」と叫ぶ声も。二つの名前がぶつかり合う。けれど、どちらの手も私を受け止めてはくれなかった。真っ白な光が視界を貫いた。次に目を開けた時、鼻をついたのは、消

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