火鍋を楽しんでいる店内で、突然外からざわめきが聞こえてきた。 「え、本当に彼なの?」 「まさか!あんな人がこんな場所に来るなんてあり得ないでしょ?あの人が食べてるのはいつも高級料理だよ。ここみたいな庶民的な店なんて……」 綿はコップを持ち上げ、水を一口飲みながら視線を入り口に向けた。 周りの客たちも一斉に首を伸ばして入り口を覗き込んでいた。次に入ってくるのは一体誰なのか、皆が気になって仕方がない様子だった。 綿が視線を戻そうとしたその瞬間、興奮した声が聞こえてきた。 「うわ、本当に高杉輝明だ!」 綿は驚き、目を上げた。そして目に入ったのは、店のドアをくぐる輝明の姿。そのすぐ隣にはキリナも一緒だった。 炎も彼らを見た瞬間、驚きを隠せない様子だった。 輝明とキリナ? これは仕事の話でもするために来たのか?火鍋の店は輝明のスタイルではない。むしろキリナの趣味なのだろうか? キリナは輝明と笑いながら話しており、店員の案内で2階席へと向かって行った。 綿は平静な表情でその様子を見届け、二人が視界から消えると、何事もなかったかのように飲み物を口に運んだ。 「もしかして黒崎キリナが輝明を展覧会に招待したいんじゃないか?それで彼をここに誘ったとか」炎は興味深そうに推測を口にした。 綿は炎に一瞥をくれたが、特に何も言わなかった。 輝明とキリナが何をしているのか、それほど気にならなかった。むしろ驚いたのは、輝明がキリナに付き合ってこんな場所に来たことだ。 炎は綿が何も言わないのを見て、小声で尋ねた。 「綿、大丈夫?」 綿は眉を上げ、炎を見返した。え?何が?もちらん大丈夫だよ。 「大丈夫って」彼女は笑って答えた。 炎は半信半疑のように目を細めた。「本当に?」 「炎、勝手に私の心を読まないで」綿は呆れたようにため息をついた。 彼女は感情を隠すタイプではない。もし本当に気分が悪かったら、顔にすぐ出るはずだ。今、彼女の表情は平静そのもので、特に何の感情もない。 炎は肩をすくめ、少しがっかりしたような表情を見せた。 綿は彼をからかうように言った。「もしかして、高杉が他の女性と食事してるのを見て、私が嫉妬するのを期待してたの?」 「期待し
森下が少し意外そうに立ち止まり、ドアを押さえたまま綿を見た。わずかに固まった後、軽くうなずき、そのまま手にしていたギフトボックスを持って急いで2階へと上がっていった。 綿はすぐに視線を戻したが、内心では少し不安がよぎった。 森下が輝明に自分がここにいることを知らせるのではないか? もしそうなれば、輝明が下に降りてきて自分に挨拶をしに来るかもしれない。それは避けたかった。しかし彼がキリナと一緒に来ている以上、キリナを一人にして降りてくる可能性は低い。そう思うと少し安心した。 「今週末、予定ある?」突然、炎が声をかけた。「近くのスキー場がオープンするんだけど、一緒に行かない?」 綿は顔を上げ、「スキー?」と少し意外そうに返した。「いいわね」 彼女はスキーが好きだったが、玲奈は忙しいし、雅彦は滑れない。結局一人で行く気にもなれず、しばらく足が遠のいていた。誰かと一緒なら行きたいと思える。 「じゃあ、土曜日に?」炎が確認するように言った。 綿は首を振った。「土曜日は予定があるの。日曜日にしよう」 土曜日はソウシジュエリーのイベントに出席する予定だった。あのジェイドジュエリーを見に行きたいと思っている。 「了解、日曜日にしよう」炎は素直に頷いた。 綿は彼の従順さに軽く笑いながら言った。「あなたって本当に素直ね」 「女の子を口説くなら素直でなきゃ。口説くのくせに反抗的だったり、格好つけたりする奴なんて、病気だと思わない?」 彼の言葉に綿は笑い、「確かに」と答えた。 その笑顔を見ると、炎は相手の好きな男のタイプは分かるそうだ。その時、ウェイターが一皿のデザートを持ってやって来た。「こんばんは。こちら、あるお客様から追加されたデザートです」 綿は驚きつつ礼を言い、デザートをじっと見つめた。 炎はそのデザートを見ながら「誰から?」と聞こうとしたが、綿の沈黙を見てすぐに察した。 輝明だ。 直接挨拶に来ることは避けても、こうして存在感を示さずにはいられないのだ。 綿はデザートを軽く押しのけ、手を付けることなくそのままにした。 しばらくすると、また別のウェイターがデザートを持って現れた。 「お客様、先ほどのお客様から、さらに追加のデザートです」 今度もまた
「やめておけ」炎は綿を静かに制した。 「あの男がこんなことをする資格があるの?」綿は怒りを隠さず問い詰めた。 炎は眉をひそめながら言った。「わざとだ。君も分かっているだろう。ここで怒って突っ込めば、彼の思うツボだ」 だが綿の心はどうしても収まらなかった。 なぜ彼の送ってきたデザートを食べなければならないのか?食べなかったらどうなる?帰らせてもらえない?こんなの横暴じゃないか。 「これ、全部片付けてちょうだい」綿は冷たい声でウェイターたちに命じた。 しかし、ウェイターたちはお互いを見やるだけで誰も動かなかった。 苛立ちが頂点に達した綿は、テーブルに置かれたデザートを指差し、その手を強く握り締めた。 炎が代わりに片付けようとした瞬間、綿は彼の手を制し、きっぱりと言った。「いいの。私がやる」 綿は炎の手からデザートを受け取り、それを手に持って階段へ向かった。 炎は慌てて追おうとしたが、綿は振り返りながら鋭い声で言った。「炎、止めるつもりならついてこないで」 その言葉に炎はその場で足を止めた。確かに、彼女を止めたい気持ちがあったからだ。 綿はそのまま階段を上がり、ウェイターたちが慌てて制止しようとするのを無視して、勢いよく輝明たちの個室の扉を押し開けた。 部屋には火鍋のスパイシーな香りが充満しており、輝明はキリナと向かい合って座っていた。二人の会話はやや重苦しい雰囲気を帯びており、綿の登場でさらに場の空気が張り詰めた。 デザートを手に持った綿は部屋の入り口に立ったまま、ちらりとキリナに一瞥をくれた後、輝明に目を向けた。 輝明は綿がやって来ることを予想していたが、デザートを持ってくるとは思わなかった。 彼女はここで食べるつもりなのか? 輝明はわずかに眉を上げ、淡々とした目で彼女を見つめていた。 綿は一歩一歩彼に近づき、テーブル越しに向き合った。 その目は驚くほど冷静で、何を考えているのか全く分からなかった。 キリナはその様子に不穏なものを感じたが、どう振る舞えばいいのか分からず、席に座ったまま様子をうかがっていた。 「これ、あなたが送ったの?」綿は静かだが低い声で尋ねた。その場の空気はさらに冷え込んだ。 輝明は目を細め、問いに答える前に少し間を置
綿は少し申し訳なく思いつつも、片付けはそっちでやってもらうつもりだ。 そう言い捨てると、振り返ってその場を立ち去ろうとした。 だが、背後から伸びてきた手が、彼女の手首をがっちりと掴んだ。 「!」 綿は驚いて振り返った。 輝明だった。 彼の手の力は強く、綿は思わず息を飲むほどの痛みを感じた。 輝明はキリナに視線を向け、不機嫌そうに言った。「先に帰れ。契約の話はまた後で」 キリナは気まずそうに頷いた。彼女はこの場に留まるべきではないと察し、何も言わずに席を立った。 ドアが閉まると、個室の中は二人きりになった。 綿は手首を振りほどこうと試みたが、力では到底敵わない。 彼女は心の中で確信した。 忍耐を重ねてきた輝明が、ついに怒りの爆発点に達したのだ。 だが、彼女は怯えなかった。彼が明らかに「越えてはいけない一線」を越えていることに、綿は強い反発心を抱いていた。 「綿、君は本当にいい度胸だな」 彼の声は低く冷たかったが、その裏に抑えきれない怒りが感じられた。 彼は綿を一気に自分の方に引き寄せ、片手を彼女の腰に回した。その手は驚くほど強く、彼女は否応なしに彼の胸に押し付けられた。 彼との距離はわずか数センチ。綿のつま先は自然と浮き、背伸びする形になった。 輝明の身長は高く、彼女は全体重を彼に預ける形になってしまった。 彼が一歩下がると、綿も自然と後退させられ、背中が冷たい壁にぶつかった。 孤狼のような鋭い目つき。 彼の瞳には抑えきれない怒りが渦巻いていた。 彼女の背中は壁に押し付けられ、全身が冷たく震えてい。「あなたが贈ることができるなら、私が断ることは許されないの?」「炎とあんなに楽しそうに食事していたのに、俺が贈ったデザートを一口食べるのがそんなに嫌なのか?」彼は問い詰めた。普段はどんなことにもそれほど執着しない彼だったが、この件だけは異常なほどに執着していた。 「炎とは友達。友達と食事をすることの何が問題なの?でも、高杉社長、あなたはどう?」 綿の声は冷たく鋭い。彼女は言葉を選ばず、彼を容赦なく追い詰めるように問い詰めた。 彼が一番聞きたくない言葉をあえて口にして、彼の怒りを煽るかのように。 輝明は冷笑を浮かべた
「この問題が大したことじゃないって思ってるのは、傷つけられたのがあんたじゃないからよ!」 綿は目を赤くしながら、強い口調で言い返した。 輝明は苦笑を浮かべ、一歩前に出た。彼の瞳には狂気じみた感情が揺れている。「俺が傷ついてないとでも思うのか?綿、君だけが傷つけられたって思ってるのか?俺はバカみたいに振り回されていた。俺だって、どれだけ傷ついてるか分かるか?」 彼は声を低く抑えたが、その口調には疑問と怒りが滲んでいた。 彼も被害を受けたのだ。彼の生活は本来ならもっと穏やかであるはずだった。成功したキャリア、温かい家庭――その全てが台無しにされたのだ。 重い沈黙が流れる中、綿は彼を見つめ、言葉を失っていた。 彼も傷ついている?でも、もっと傷ついているのは彼女だ! 輝明は彼女の視線を避けるように顔を伏せた。その目には、自分の行動が行き過ぎたことへの自覚が見える。 彼は眉を伏せ、綿は彼の垂れたまつげをじっと見つめていた。二人の間には緊張した空気が漂い、息遣いが重く響き渡る。 個室は静まり返り、二人の激しい心音だけが聞こえていた。窓の外に舞い落ちる雪が、妙に物悲しさを添えていた。輝明は考えずにはいられなかった。本来なら互いに支え合い、温もりを分け合うはずの二人が、三年間の結婚生活の末に離婚し、いずれ互いを忘れ去る他人同然の関係になってしまったなんて。綿はじっと彼を見つめ続けている。その視線を、彼は確かに感じ取っていた。 輝明はふと頭を上げ、綿の赤く潤んだ瞳に目が合った。 綿は唇を噛み締め、黙って彼を見つめていた。 彼はゆっくりと手を離し、壁に手のひらをつけながら深い息を吐いた。そして、彼女を見つめたまま聞いた。 「綿、俺たちはこんなにいがみ合うしかないのか?」 綿の目には冷たい光が宿っていた。「すべては、あんたのおかげよ」 輝明は首を振り、まるで全てを投げ出したかのように無力な表情を見せた。 「どうしたら君に許してもらえる?教えてくれ、俺に何をすればいい?せめて炎にするように俺にも向き合ってくれないか?」 一緒に食事をするだけでもいい。 彼が送ったものを受け取るだけでもいい。 彼をまともに見てくれるだけでもいい。 だが、綿は一切それをしない。
綿はそんな人じゃない、だから炎と付き合うとしたら、それは復讐のために違いない。彼女の目は冷たく、迷いがなかった。「あなたなんかのために、私の感情を復讐に使うなんてしないわ。放して」 綿は輝明の手を振り払おうとした。その動きには、はっきりとした拒絶の意思が込められていた。 輝明は視線を落とし、追いすがる自信さえ失っていた。「綿、俺は諦めない」 彼は背を向けた彼女に向かって絞り出すように言った。 綿の足は一瞬止まったが、彼女はすぐに淡々とした声で返した。「無意味なことに固執しない方がいいわ」 輝明は眉間に皺を寄せ、さらに言葉を投げかけた。「綿、君は俺で、俺は君だ。君が俺をずっと愛し続けたように、俺だって君を愛し続ける。それができないはずがない」 綿は振り返り、輝明を冷たく睨んだ。「あなたは私にはなれない」 彼女の声には冷たさがあり、その瞳には揺るぎない決意が込められていた。 彼女が注いだ愛、彼女が費やしたすべての時間と労力――それは誰にも真似できるものではない。 たとえ、それが輝明自身であったとしても。 バン―― 綿は個室のドアを勢いよく閉めた。 ドアの外で彼女は立ち止まり、自分が拳を握りしめていることに気付いた。 どうして喉がこんなに詰まるんだろう。どうして胸がこんなに痛むんだろう。 綿は頭を下げ、静かに深呼吸をした。その時、背後から穏やかな声が聞こえてきた。「桜井さん、本当に変わったのですね」 彼女が振り返ると、そこにはキリナが立っていた。 キリナは微笑んでいた。その表情には知的で優雅な雰囲気が漂っていた。「大学の頃のあなたとはまるで別人みたいでした」 大学時代、綿は常に輝明の周りを回っていた。彼が一言でも声をかけると、まるで全世界を手に入れたように喜んでいた。 しかし今、彼女は輝明をはっきりと拒絶する側になっている。 二人の間に何があったのだろう? キリナは心の中で問いかけた。 輝明は以前、嬌と関係がよかったはずだ。なぜ今になって嬌との縁を断ち切り、再び綿を口説くようになったのか? 綿は静かに微笑み、言った。「人は変わるものですよ」 キリナは首を横に振った。「でも、私は変わってません」 綿は眉を上げ、問うた。「どの部分
夜。 六十階建てのビルの窓から見下ろすと、車が蟻のように小さく見える。赤いテールランプの列が街を華やかに彩り、その輝きが夜景をさらに際立たせていた。 輝明は窓の前に立ち、一手でワイングラスを揺らしていた。 ドアが開かれる音が聞こえると同時に、彼は手に持っていた赤ワインを一気に飲み干した。 振り返ると、森下が嬌を連れて入ってくる。 嬌は驚いていた。まさか輝明から電話が来るなんて。 「会いたい」 その言葉を聞いた瞬間から、嬌の心は緊張でいっぱいだった。 彼に会いたい――それは彼女が日々、夜ごと願い続けていたこと。 どんなに会いたかったか分からない。 「明くん……」 嬌は慌てて駆けつけ、まともに準備する暇もなく、簡単に口紅を引いただけだった。 輝明は無言のまま彼女を見つめていた。 彼女の瞳には熱烈な想いが込められている。 彼に一刻も早く近づき、抱きしめたいという欲求がにじみ出ていた。 「座れ」 輝明は冷たくソファを指差した。 嬌は戸惑いながらも、彼に近づこうとした。一歩一歩が緊張に満ちていて、彼の前に立つことさえ恐れているように見えた。 「陸川、もう一回だけ言う、座れ」 彼の冷たい声が響いた。 嬌はその場で止まり、仕方なくソファに腰を下ろした。 森下が彼女に一杯の水を差し出し、嬌はそれを両手で受け取った。 彼女は慎重に輝明の一挙手一投足を観察し、その表情から何かを読み取ろうとしていた。 こんなに彼を愛しているのは、あたしだけだ。 彼女はそう思っていた。 彼の嫌悪に満ちた視線さえも、彼女には甘い毒のように感じられた。 生まれた時から、彼女はいろんな男を見てきた。彼はどこまでも理想的だった。 彼は優れた実行力を持ち、彼女はただ彼の後ろをついて行くだけで何もする必要がなかった。彼は十分な実力を持ち、彼と一緒にいるだけで、彼女は誇らしく思えた。そして、彼はこの世で唯一無二の美貌を持ち、彼女の心をときめかせた…… だが、彼の唯一の欠点―― それは彼が彼女を好きではないということ。 「明くん……」 嬌は彼をじっと見つめ、そっと名前を呼んだ。 彼は戻ってきたのだろうか? 綿に何度も
「そう言うべきではなかったのか?それとも俺の言い方に傷つけられたのか?」 輝明は歯を食いしばりながら嬌を睨みつけた。 「もう二度と『俺のため』なんて言い訳をするな。ただお前の自己中心的な欲望のためだろう!」 彼の声は冷たく、怒りが滲み出ていた。 「陸川、お前に俺を騙るように頼んだか?この三年間で綿を何度も攻撃しろと指示したか?俺が目の前で芝居をしろと命じたのか?」 彼の手が再び机に叩きつけられ、その激しい音が部屋中に響いた。 一つ一つの言葉が嬌を責め立て、彼の険しい目つきが、彼女の心を突き刺した。 怒りに満ちたその表情は、嬌がこれまでに見たことのないものだった。 彼は本当に怒っている。 嬌はとうとう彼を激怒させてしまったのだ。 「明くん……確かにあたしは間違ったことをしたわ。でも、どうしようもなかったの……」 嬌は立ち上がり、彼に近づこうとした。 しかし、輝明は素早く立ち上がり、彼女から距離を取った。 彼のその動きは、嬌がまるで疫病神のように感じられるほどだった。 その動きを見て、嬌は心に深い刺すような痛みを覚えた。 三年間も「愛し合っている」と信じてきた相手が、実際には彼女を全く愛していなかった。彼の優しさも愛情も、全て演技だったのだ。 嬌は自分が愚かだったと思い、笑いたくなるほど惨めに感じた。 確かに彼女は嘘をつき、綿に成り代わって彼を救ったという話を作り上げた。 しかし、三年間の真心が少しも埋め合わせにならないのか? 彼が愛する相手に必要なのは「命を救った」という条件だけなのか? 「輝明、あなたが好きになる条件って、命を救ったことだけなの?」 嬌は顔を上げ、輝明をじっと見つめた。その瞳には哀れさが浮かんでいた。 輝明の目が冷たく細められ、怒りが湧き上がった。 何てずる賢い問いだ! 彼女のその質問は、彼を挑発するには十分すぎるものだった。 「じゃあ今、綿が好きなのは、彼女が命を救ったから?もしある日、救ったのが別の人だと分かったら、またその相手を好きになるの?」 嬌の涙が頬を伝い、唇を濡らす。涙は塩辛く、彼女の喉を締め付けるようだった。 輝明の表情は一層険しくなり、部屋の空気がさらに冷たく感じられるほど
彼は生き延びたい。生きていたい。そのためには奪うしかないのだ。「さっさと金目の物を出せ!」男は手にした猟銃を再び綿の方に突きつけた。綿の心拍が早くなる。男が一歩近づいたその時、背後のもう一人の男のスマホが突然鳴り響いた。彼はスピーカーモードに切り替え、通話内容が聞こえるようにした。電話の向こうの声が響く。「あの女、腕時計を持ってる。すごく高価なやつだ!その腕時計を奪え!!」綿の顔色が徐々に冷たくなっていく。陽菜への嫌悪感が一気に頂点に達した。彼女はこれまで、嬌以外にこれほど誰かを憎んだことはなかった。女の子同士は助け合うべきだと信じていたが、こういう酷い相手に対してはどうすればいいのか。親切心なんて、ただ踏みにじられるだけではないか。さらに電話の向こうから男の声が続く。「それと、その女のブレスレットは俺が手に入れた。時計さえ渡せば、すぐに解放してやる!」猟銃を持つ男が急いで顔を上げ、綿に向かって言った。「聞いたな?お前の時計はどこだ?さっさと答えろ!」綿はもう我慢するつもりはなかった。近くにあった茶碗を手に取り、思い切り机の上で叩き割った。男たちは即座に警戒態勢に入り、二人で綿の動きを注視する。割れた碗の破片を手にした綿に、猟銃を持つ男は焦りながら銃口を再び彼女に向けた。その銃は簡単に命を奪えるものだ。「その手を下ろせ!」彼は引き金を引きたくなかった。たかが少しの金のために、そこまでする価値なんてない。もしこんなことで捕まったとしても——たったの十五日で出てこれるのだから。発砲すれば状況は一変し、警察に捕まった場合は一生ものの罪を背負うことになる。「あなたに言われて下ろす理由なんてないでしょ?」綿は目を細め、一歩前へと進んだ。男は怯んで後退する。綿は確信していた。彼は銃を撃つ度胸がない。「銃を下ろしなさい」綿は鋭い目つきで彼を見据え、態度をさらに強硬にした。男は何も言わず、ただ唾を飲み込みながら後退し続ける。個室の外に追い出されそうになるのを見たもう一人の男が、その場を打開しようと、突然綿に飛びかかった。彼は綿の手から破片を奪おうとしたが、綿は素早く反応し、破片を振りかざして相手の顔を斬りつけた。鋭い破片が男の顔に深い傷を作り、血が頬を伝い流れ出す。
次の瞬間、部屋の扉が突然蹴り開けられた。綿はすぐに後退した。和也と宗一郎は同時に顔を上げ、綿が両手を挙げたまま、慎重に後退していくのを目にした。彼女は穏やかな声で相手を宥めていた。「まず、その銃を下ろして」和也は目の前の男が手に猟銃を持っていることにようやく気づいた。「金目の物を出せ。さもなくば、こいつを殺す」男は和也を睨みつけた。綿と和也が目を合わせる。和也はどうすればいいのか分からず困惑した。こんな状況に遭遇するのは初めてだった。綿は軽く首を振った。「何のこと?俺たちはただご飯を食べに来ただけ。何が欲しいんだ?」和也がそう言いながら問いかけると、宗一郎は黙って綿の椅子に置いてあったバッグをゆっくりと机の下へ蹴り込んだ。その動きは非常に慎重で、音を立てないように配慮していた。しかし、強盗たちは完全に和也と綿に注意を集中させていた。「さっさと金目の物を出せ!価値のあるものをだ!」男は怒鳴った。綿は冷静な声で答える。「金目の物なら、さっきの女の子が持ってたでしょ?彼女を連れて行ったんじゃないの?」その口調は驚くほど落ち着いていた。「本当にあの女の命が惜しくないのか?」男は怒りを露わにした。和也は困惑しながら言った。「どういうことだよ!物を奪っただけじゃ済まないのか?まさか人を殺すつもりか?お前ら、やりすぎだろ!」男は鼻で笑いながら言った。「お前らみたいなよそ者は、いつも不誠実だ」そう言うと、男は手に持った猟銃を綿の頭に向け、こう付け加えた。「400万円だ。この女を解放してやる」綿はふっと笑みを浮かべた。400万円ごときで銃を持ち出すなんて、馬鹿げている。「その女なんていらないわ。さっさと消えなさい」綿の冷淡な一言が響く。男は眉をひそめた。「仲間を見捨てるのか?」「仲間?聞こえはいいけど、ただの知り合いにすぎないわ。悪く言えば、赤の他人。彼女がどうなろうと、私には関係ない。彼女を使って私を脅すつもり?それはあなたたちの甘さね」そう言いながら、綿は一歩前に踏み出した。男はすぐさま後退し、怒鳴り声を上げた。「動くな!」「怖いの?銃を持ってるくせに、私みたいな女一人を相手に怯えるなんて」綿は目を細め、冷たい視線で男を見つめた。その目には計算するような鋭い光が宿ってい
たとえ母親でも、子どもが言うことを聞かない時には、平手打ちをするべきだろう。綿はじりじりと後退した。男たちはそれを見て察した。陽菜と一緒にいる相手なら、間違いなくただ者ではないはずだ。しかも、この高級なレストランで食事をしている以上、金に困っているわけがない。男たちは薄く笑い、綿に尋ねた。「何か値打ちのある物を持ってるか?」綿は首を振った。「持ってないわ」彼女の持ち物で一番価値があるのは、父親からもらった腕時計だ。しかし、その時計だけは絶対に手放すわけにはいかない。幸いなことに、その腕時計は個室に置いてあり、今日は持ち出していない。男は目を細めた。「ないだと?」「自分で差し出すのか、それとも俺たちが探すか?」「私に触れる勇気があるなら、試してみなさい」綿は口元に笑みを浮かべ、気迫で二人を退けようとした。和也たちも言っていたが、こちらが譲歩すれば、相手はつけあがるだけだ。ならば、最初から強気に出た方が良い。彼女は試してみることにした。このやり方で二人を退けられるかどうか。男は冷静な口調で言った。「女一人に、男二人だぞ。お前に何ができる?」「俺たちは今まで欲しいものを手に入れられなかったことなんて一度もないんだ」「さっさと渡せ!」男の一人が前に出てきた。綿はすっと両手を挙げてみせた。その手首には何もついていない。さらに首元を見ても、今日はネックレスさえつけていなかった。「私、何も持ってないわ。あなたたち、何が欲しいの?」綿は笑みを浮かべた。男たちの顔色は険しくなった。彼女の身には、確かに目立ったものは何もない。「じゃあ、スマホだ!金を振り込め!」男たちは声を荒げた。綿は冷たく微笑む。「銀行口座には1円も入ってないわ。現金も持ち歩いてない。ポケットの中身なんて、顔よりも空っぽよ」「信じるかどうかは、そっちの勝手」綿は穏やかに微笑んだ。すると、男の一人が口を開いた。「覚えてるぞ。2202号室だ。あいつらの個室だ。彼女の荷物はあそこに置いてあるに違いない!さっきの間抜けが言ってただろう?荷物が個室にあるって。解放してくれるなら取りに行くってな!」綿「……」ああ、陽菜、本当に大したもんだ。綿は呆れた顔を浮かべた。強盗に「間抜け」と呼ばれるなんて、陽菜は間抜けの定義そのものを侮
綿は陽菜が自分を差し出す可能性について考えたことはあった。しかし、こんなにも早く自分を見捨てるとは思わなかった。この女、本当に役立たずな仲間で、救いようがない。数人の男たちが綿に視線を向ける。彼女は眉をひそめた。彼らは彼女をただの若い娘で簡単に扱える相手だと思っているのだろう。だからこそ、あの二人の四十代の男は全く警戒せず、綿に向かって近づいてきた。綿は冷ややかな目で彼らを見つめ、垂らしていた手をゆっくりと拳に握りしめた。幸いなことに今日はラフな服装で、ヒールも履いていない。一方、スカート姿の陽菜に比べれば、こちらはまだ動きやすい状況だ。「あの女はお金を持っている。彼女を相手にすれば、私を見逃してくれる?」陽菜は必死に綿を差し出し続けた。彼女は綿が自分を見捨てるはずがないと思い込んでいるので、遠慮なくそう言い放つ。若い男が笑いながら言った。「助けに来てくれた相手にそんなことを言うなんてね」「わかってなら、早く私を解放してよ!」陽菜は怒りを露わにしつつも内心は恐怖でいっぱいだった。綿は陽菜を睨みつけ、冷たく言い放った。「恩知らず」陽菜は叫ぶ。「綿、助けて!」その声は怒鳴り声ではあったが、どこか命令するような響きがあり、綿の怒りをさらに煽った。陽菜の中では、綿が絶対に自分を助けてくれる存在として位置づけられていたのだ。「綿、彼らはお金が欲しいだけよ!お金を渡せば済む話じゃない!でも、私のブレスレットだけは駄目!これを渡したら二度と手に入らないものだから!」陽菜はブレスレットを守り続けた。綿は、このままだと相手が怒り狂って陽菜の腕を切り落とし、ブレスレットを奪う可能性すらあると思った。「陽菜、もし私が今日あなたを助けなかったらどうする?」「それなら私の叔父さんに言いつけるわ!そしたらあんたは——」「助けるのは好意、助けないのは当然の権利。私はただの二十代の女の子よ。こんな状況で怖くて逃げ出したって、あなたの叔父さんが何を言うの?」綿は目を細めた。陽菜は言葉を詰まらせる。周りの男たちも、ただこの口論を眺めていた。綿は続けた。「陽菜、あなたの命は大事でも、私の命は大事じゃないとでも?」陽菜は申し訳なさそうに沈黙した。「本来、他の人は助けない方がいいって言ってたの。でも、あなたがそこまで悪い
「もし本当に強奪されたら、どうすればいいんですか?」綿は興味津々に尋ねた。男なら抵抗できるかもしれないが、陽菜のようなお嬢様なら一人でも危ないのに、複数相手ならなおさら無理だ。「本当に強奪に遭った場合、一番いい方法は素直に渡すことです。命の方が大事ですからね」和也はそう答えた。「彼らも誰にでも強奪するわけじゃない。まず観察して、この人が本当に金持ちなのかどうかを見極めるんですよ」「なんて怖いの……」綿は首を振り、信じられない様子だった。なんて無秩序な場所なんだろう。どうりで徹が陽菜を同行させたわけだ。一人では確かに心細い。とはいえ、陽菜もそれほど頼りにならないし、こんな状況ならむしろ屈強な男を連れてくるべきだったと綿は思った。綿が食事を続けていると、突然外から女の悲鳴が聞こえた。その声は耳障りで恐怖に満ちている。この声は……「いやあああ!助けて!」その悲鳴を聞いた瞬間、綿はすぐに分かった。陽菜だ!綿は立ち上がり、個室の扉を開けようとした。しかし和也が彼女の手を掴み、首を振った。「今出て行っても彼女を助けられません。彼らが欲しいのは物だけで、危害は加えませんよ」綿は動揺した。どういう意味だろう?陽菜が危険な目に遭っていると分かっていて、何もせずにここで待てというの?陽菜が少々苦手だとしても、何もしないわけにはいかない。「ダメです。陽菜は私が連れてきた人です。彼女を連れて来た以上、ちゃんと連れて帰らないと」もし陽菜に何かあったら、徹にどう説明したらいいか分からない。「桜井さん、相手は複数いますよ」和也は慎重に警告した。綿は和也が本気で彼らを恐れているのを見て取った。「あなたたちは姿を見せないでください。私は何とかしますから、警察を呼んでください」綿は和也に頼んだ。和也は少し躊躇したが、頷いた。しかし、この辺りでは警察に通報しても役に立たない可能性が高い。ここは無法地帯で、毎日何人もの人間が強奪に遭っており、全てを取り締まるのは不可能なのだ。それでも、綿は扉を押し開けた。「桜井さん、どうか気をつけてください!」宗一郎は心配そうに声を掛けたが、助けることはできなかった。彼がこの幻城で身を立てていられるのは、低姿勢を保っているからだった。階段の下で陽菜は男に引きずられていた。「
「この辺りの人って、いつもこんなに乱暴なんですか?」綿は不思議そうに尋ねた。和也は頷き、答えた。「これでもまだマシな方です。中には平気で唾を吐いてくる奴もいますよ」唾を吐くなんて、確かに竜頭のポーズよりもはるかに不快だ。それが自分の汚さや病気を気にせずに行われるというのだから、想像しただけでうんざりする。綿は唇を噛んだ。「ここ、どうしてこんなに荒れているんですか?誰か取り締まらないのですか?」「取り締まってはいますよ。ただ、追いつかないんです。流れ者が多すぎて。街も大きいし、人も多い。全員を一人ずつチェックするなんて無理です」綿は顔を手に支えながら考え込んだ。一部の都市はこういう性質を持っているのだろう。これが幻城に人が溢れている理由なのかもしれない。ただ、綿は信じていた。この街がいつか必ず整えられ、秩序を取り戻す日が来ると。車はやがて比較的高級なレストランの前で停まった。このエリアは静かで、不審者もいないようだった。車を降りると、宗一郎は再びSH2Nや柏花草について自分の考えを熱心に語り始めた。綿は静かに耳を傾け、時折頷いていた。レストランのスタッフが一行を案内し、席に着いたところで、綿のスマホが鳴った。輝明「どこにいる?誰と一緒だ?無事なのか?」綿「うん」彼女は短い返信を送り、スマホを閉じた。和也が尋ねた。「こちらのご当時料理をいくつか注文しておきましたが、お嫌いなものはありませんか?」言いながら、和也はメニューを綿に差し出した。「桜井さん、他に何か追加したいものがあれば、どうぞ」「結構です。ありがとうございます」綿は首を振り、陽菜の方を見た。陽菜はテーブルを拭いていた。ここは高級店ではあるが、環境はやはり雲城ほど整ってはいない。それが不満なのか、陽菜の表情には嫌悪感が浮かんでいた。おそらく幻城への出張など、もう二度と来るつもりはないだろう。和也は陽菜にウェットティッシュを差し出した。「どうぞ」「ありがとう」陽菜はお礼を言ったが、その手首には、いつの間にかまたキラキラと光るアクセサリーが戻っていた。綿が目線を向けると、陽菜は眉をひそめた。「何よ?もう夜なのに、誰が懐中電灯を持って照らしてまで盗むって言うの?」綿は何も言わなかった。「それでは柏花草の件、教授にお任せします。
雲城に足を踏み入れるような人物であれば、この爺さんも間違いなく一流の人だろう。その後も会話が弾み、気がつけば時刻は既に夕方。昼食を取るのも忘れて話し込んでしまった。6時を過ぎた頃、和也がようやく口を挟んだ。「そろそろ夕食に行きませんか?場所はもう予約してあります」綿は時計を見て、驚きと共に宗一郎に微笑みかけた。「教授、私ったらつい夢中になりすぎて、食事の時間をすっかり忘れてしまいました」「話が弾んでいたようだね」宗一郎は私的な場面では寡黙だが、的確な一言を返した。「行きましょう。今日は僕たちがご馳走します。幻城へようこそ!」和也は笑顔で綿たちを招いた。その表情は温かく、どこか優しげだった。綿は彼を少しじっと見つめた。――快活でハンサムな青年だ。外に出て和也たちと一緒に車に乗り込む前、綿のスマホ電話が鳴った。輝明「どこにいる?今日はクリスマスだ。昼間は一切邪魔しなかったけど、夜は一緒に過ごせないか?」綿は眉を上げ、メッセージを打った。綿「出張中」輝明「出張?なぜ一言教えてくれなかった?」綿「アシスタントと一緒。徹さんはあなたの友達だから、もう聞いてると思ってたのに?」綿は心の中でつぶやいた。――私の行動を知りたければ、いくらでも手を回せるくせに……何を今さら。輝明「何時に帰る?もう遅い時間だ」綿「順調なら夜8時の新幹線で戻る予定」輝明「順調じゃない可能性もある?」綿「わからないわ」話が弾んでいることに加え、せっかくの機会なので、あと2日ほど滞在してもっと議論を深めたいと綿は考えていた。だが、今日がクリスマスであり、父が自分のために飾り付けたツリーのことを思うと、心が揺れる。輝明「迎えに行くよ」そのメッセージを見た綿は即座に警戒し、慌てて返した。綿「来なくていい!」――何で彼に迎えに来てもらう必要があるの?自分で新幹線で帰ればいいじゃない。綿「仕事で来てるの。邪魔しないで」輝明「君が心配なんだ」綿「あなたがいなかった3年間も、私はちゃんとやってたわ。あなたの心配なんて必要ない」輝明「それは過去の話。今は違う」綿「何も変わらないわ」輝明「俺に3か月の猶予をくれたじゃないか」綿「猶予を与えたからって、あなたの望むままに付き合わなきゃ
目の前に広がるのは、これ以上ありふれたものはない、普通の店構えだった。外壁には「LK研究所」と書かれた小さな看板が掛けられているが、ぱっと見ただけでは、まるで路上の軽食店のようだった。山下はまたも気まずそうに笑いながら言った。「お恥ずかしい話ですが、僕たちの研究所は予算が少ないんです。でも技術だけは確かですので、どうかご安心を!」「では、どうぞこちらへ」彼は綿たちを中へ案内した。綿は無言のまま、周囲を見渡した。――このベテラン教授が信頼できる人だと知っているからこそついてきたものの。もし彼のことを知らなかったら、こんな場所、絶対に罠だと疑ったに違いない。「腎臓を売られるんじゃないか」とさえ思うほどだった。陽菜もおそらく、さっき目撃した事故の光景が頭に焼き付いているのだろう。妙におどおどしていて、綿のすぐそばから離れようとせず、以前のような口数の多さもすっかり影を潜めていた。綿にとっては、ようやく訪れた静けさだった。二人は山下の後について店の中に入った。外見はみすぼらしいが、内装は意外にも新しさがあり、ここ数年で改装されたようだった。綿はちらりと室内を見渡し、山下の後についてさらに奥へ進んだ。応接間を通り抜けると、そこは研究所の核心部である研究室だった。外観がボロボロなのは、わざと目立たないようにしているのかもしれない。派手に飾ってしまったら、盗みに入られるリスクが高まるからだ。そんなことを考えていたその時、後ろから年配の男性の声が聞こえた。「お待ちしていましたよ」綿と陽菜は声のする方を振り向いた。そこに立っていたのは、70代と思しき白髪の紳士。彼は白い着物を身にまとっていて、威厳が感じられる。山下は彼を見てすぐさま駆け寄った。黒服の山下と白服の紳士――二人の対比はとても目を引いた。しかし、綿はすぐに妙なことに気づいた。この二人、顔つきがあまりにも似ているではないか。それだけでなく、二人の姓も同じ「山下」だった。紳士は名乗りながら言った。「山下宗一郎です」綿は再び山下に目を向けた。すると、老紳士は山下を指差して続けた。「こちらは私の孫、山下和也です」綿は思わず息を飲んだ。――なるほど、親族だったのか……「この研究所にはお二人しかいないんですか
綿はすぐに理解した。「触れてはいけないもの」――だからこそ、あの暗い路地の奥からあのような叫び声が聞こえてきたのだろう。それは、「快楽の後の解放」のようなものだった。一方、陽菜はその意味が分からないようで、首をかしげながら尋ねた。「どういうこと?」綿は陽菜を一瞥し、静かに答えた。「幻城はとても乱れている。叔父さんは教えてくれなかったの?」陽菜は一瞬動揺した様子を見せた。確かに徹は「綿の出張に同行するのは良い学びになる」とだけ言って、それ以外の説明は何もなかった。「陽菜、あなたはこの出張に来るべきじゃなかったわ」綿がはっきりと告げると、陽菜は即座に不満を口にした。「どうして来ちゃダメなの?私が何か邪魔したっていうの?あんたって本当に支配欲が強いのよね!」陽菜の怒りはエスカレートし、口をとがらせて文句を浴びせた。綿はそんな彼女をじっと見つめたが、それ以上何も言わなかった。心の中でこぼれそうだった言葉――「ここは危険だから、あなたじゃ身を守れない」――を飲み込んだ。――陽菜が本当に危険な目に遭ったとしても、それは彼女が自分で招いた結果だ。――これだけ反発的な態度を取られたら、誰が彼女を心配するものか。そんな奴、心配する価値なんてまったくない!綿は静かに自分の指輪とブレスレットを外した。今日は特別に腕時計までつけてきたが、それも不必要だったようだ。彼女は腕時計を外して手の中でじっと見つめた。――この時計は18歳の誕生日に父がくれたものだ。その価値は6000万円以上。他の家庭が娘に贈るのは、バッグや香水、きれいなドレスといったものが多いだろう。だが、天河は違った。彼女に贈ったのは腕時計やスポーツカー、そして限界まで「カッコいい」ものだった。綿はその腕時計をバッグの中にしまった。陽菜はその様子をちらりと見て、呟いた。「そんなに怖がってるの?」綿は眉をひそめた。「地元の習慣を尊重して、余計なトラブルを避けるだけよ。私たちは仕事に来たの。遊びじゃない。あなたも身につけてるものを外しなさい」陽菜は頑なに拒否した。「今日のコーディネートに全部合わせてるんだから」「遊びに来たわけじゃないでしょ?誰があなたのコーディネートを気にするのよ?早く外して。そのネックレス、見るか