Se connecter上野柚希(うえの ゆずき)は、桐生柊馬(きりゅう しゅうま)の最も卑劣な裏切りを目の当たりにした。柊馬はあろうことか兄の妻である桐生莉奈(きりゅう りな)を妊娠させておきながら、なおも平然と言い放ったのだ。 「お前には子供が産めないだろ?でも、桐生家の跡継ぎは、誰かが残さなきゃならないんだから」 なんて皮肉なのだろう。かつて自分の前に何度もひざまずき、「子供なんていらない。俺だって、パイプカットを受けるよ。お前さえいてくれればいいんだ」そう誓ったのも、同じ男だったのに。愛が嘘だったというのなら、もう情けを残してやる必要もない。 その夜、柚希は誰もが恐れて、決して自分からは関わろうとしない番号へ電話をかけた。そして……海鳴市を支配する、誰ひとり逆らえない男のもとへ嫁ぐ道を選んだのだ。 柚希と柊馬が再び顔を合わせたのは、柚希の結婚式だった。 その時になってようやく、柊馬は目に涙を浮かべ、柚希の前に跪いた。「柚希……俺が間違ってた。なあ、頼むから、俺の方を一度だけ見てくれ。少しでいいんだ……」 だが、柚希は一歩後ろに下がった。すると、ちょうどその後ろに立っていた男の胸の中に収まる。「閻魔」の異名で恐れられ、海鳴市の裏も表も支配すると噂される男、桐生炎真(きりゅう えんま)。彼は柚希の腰を引き寄せると、刃のように冷えた声で言い放った。 「自分の立場を忘れたようだな。こいつは俺の妻だ。お前の兄嫁になるんだぞ」
Voir plusオークションが始まった。ここに参加しているのは、事前審査という高い壁を越えてきた選ばれし者たちだけ。参加者は誰もが莫大な財をなす富豪ばかり。中には全財産を投げ打ち、生き延びるための可能性を買おうとしている者さえいた。開始直後から、価格は凄まじい勢いで跳ね上がっていく。競争は激しく、異常なほど熾烈だった。だが金額が上がり続けるにつれ、資金力の及ばない参加者は一人、また一人と脱落していく。最後に残ったのは、二人の買い手だけ。価格はもはや目を疑うような数字――920億円。柚希は頭が痺れるような感覚を覚えた。とんでもない金額だ。命を救うためとはいえ、あまりにも高すぎる。仮に落札できても、恐れ多くて飲めない気がする……炎真が再び札を上げようとした瞬間、柚希は反射的にその手首をつかんだ。「炎真、もうやめない?こんな大金、私には一生返せない……」炎真は、自分の腕をつかむ彼女の手へ視線を落とした。その声は静かだった。「返さなくていい」そう言うと、迷いなく札を上げる。冷ややかな声が会場へ響いた。「940億円」その瞬間、柚希の胸を、うまく言葉にできない感情が貫いた。金を積むという行為も、ここまで桁が違えば、さすがに格好よすぎる!もう一人の入札者は、すぐには金額を上乗せしなかった。オークショニアの声が響く。「ほかにご入札はございますか?なければカウントダウンに移ります。940億円……940億円2回……940億……」「1000億円!」一人の男が立ち上がり、絶対に譲らないという強気な声を出した。会場がどよめいた。柚希の胸に残っていた希望が、一気に沈む。炎真は険しい表情になり、掲げていた札を捨てると、今度は黒い札を手に取った。これを掲げるということは、他の誰がどれほど高値をつけても、自動的にさらに上乗せし、落札するまで競り続けるという意思表示だった。1000億を超えている今の状況でこの黒札を出せば、恐ろしい金額へ膨れ上がる……正気の沙汰ではない。柚希は慌てて、その手を押さえ込んだ。「炎真、落ち着いて!本当に!」炎真は涼しい顔で彼女を見た。「札を上げるだけだ。この程度で破産はしない」札を上げるだけ?この程度?それでも、柚希は炎真の手を押さえ続ける。「黒札を上げるより、もっといい方法
炎真の目にわずかな笑みが宿った。「別に謝ることじゃない」柚希は返事に困った。何と返していいのか分からず、言葉に詰まってしまった。柚希は気まずそうに笑っただけで、背を向けて車に乗り込む。乗車してすぐ、ノクターン財閥に残っている同僚たちに連絡を入れた。今すぐに向かうから、みんなは安全な場所へ退避して、自分と一切接触しないようにと伝えた。手配を済ませ、気合いを入れて仕事を片付けるつもりでいた。しかし窓の外を見ると、道がどうもおかしい。「ちょっと、道が違わない?ノクターン財閥に行きたいんだけど」「間違っていない」炎真は落ち着いた様子で答えた。驚いて彼を見る。「ノクターン財閥に連れて行かないつもり?さっきは分かってくれてるって言ったよね?ねえ、嘘だったの?」炎真は返事をする代わりに、高級感のある黒い招待状を柚希に差し出した。表紙には、特別な品であることを示す金文字が刻まれている。【X-Xウイルス特効薬ファイナルオークション】裏面には薬の詳細が記されていた。つい先ほど開発されたばかりで、すでに臨床試験を終え、有効性も確認されている。ただし製造が極めて困難なため、生産数はごくわずか。製造が極めて難しいため数は少なく、国内分として競売にかけられるのはこの一点だけだそうだ。炎真の低い声が響く。「病気が治ってから、ノクターン財閥に行けばいい」ということは……炎真は自分をオークションへ連れていき、この薬を落札するつもりなのだ!自分を生かすために。マヤへの手助けを断った時のあの言葉、「手伝いたければ、自分でやれ」……あれは冷たく突き放したのではなかった。生き延び、自分の手で助けられるようにする。そう決めていてくれたからこその言葉だったのだ。胸の奥から、言葉にならない感動が込み上げてくる。どうやら……炎真という男を、本当の意味では何一つ理解していなかったのかもしれない。「炎真」声が震えた。「もし私が死なずに済んだら、あなたは一生の恩人だから!馬車馬のように働くからね!」炎真の深い視線が、柚希の顔へ注がれた。「ああ」……オークション会場は、極限まで豪華に設えられていた。空間全体に、金と権力の匂いが漂っている。炎真は柚希をエスコートし、最前列の席に座らせた。柚希がコートを脱ぐと、彼はごく自然にそれ
彼女は苦しむハリーを見て、それから柚希を見た。指先で服の裾をぎゅっと握りしめ、掠れた声で口を開く。「あの……どうか……夫にも、薬を一粒もらえませんか?」長年連れ添ってきた夫婦の情と、骨の髄まで染みついた弱さ。それが、彼女に夫を見捨てることを許さなかった。柚希は心の中でため息をつく。もともと、本当に見殺しにするつもりはなかった。罰を与えた今、それで十分だろう。柚希は炎真を振り返り、問いかけるような目を向けた。「炎真……」炎真はカバンから薬を出し、手渡す。マヤは急いで歩み寄り、薬を掌の中に強く握りしめた。それを見たハリーは、また横暴な態度がぶり返し、こう急かした。「何ぼさっとしてるんだ?さっさと薬を持ってこい!のろのろするな。治ったら覚えてろよ、痛い目に遭わせてやるからな!」マヤは反射的にビクッと身を縮めた。柚希は眉を寄せ、厳しく言った。「ハリーさん!言っておきますけど、今後マヤさんに指一本でも触れたら、一生車椅子で過ごすことになると思ってくださいね!」ハリーは怖がって口を閉ざしたが、マヤを見る目には、隠しきれない凶暴な光が宿っていた。「マヤさん」柚希は静かに諭すように言った。「できるなら、彼と別れてください」マヤは感情を失ったかのように首を横に振る。「お気遣いありがとうございます。でも私は、もう……慣れてしまったので」哀れに思う。それと同時に、なぜ立ち上がろうとしないのかと腹立たしくもなった。柚希の胸は張り裂けそうに苦しい。だが、彼女自身も残された時間はわずか。家庭内暴力に傷つけられた一人の魂まで救う時間も力も、もう残されていなかった。「炎真……」しかし、柚希は思わず口に出した。「可能なら、マヤさんを助けてあげて……」炎真は断った。「手伝いたければ、自分でやれ」自分にはもう、時間がないのに。柚希は食い下がろうとしたが、防護服の下から見える炎真の疲れ切った表情に、胸が締め付けられた。ウイルスが蔓延して以来、炎真はずっと自分を助けてくれていた。気づけば、頼ることに慣れてしまっていたのだ。それに、炎真に助ける義務なんてない。柚希は自分の軽率さを悔い、唇を噛んだ。頼ることに慣れてはいけなかった。まして、限度を忘れてはならない。……エレベーターに乗ると、柚希は無意識に一番奥に立った。できる限
弘が本気で自分のことを思ってくれているのは、柚希にも分かっていた。「高木さん、私だって聖人じゃないから、自分を犠牲にして世界を救いたいなんて、そんな大それたことを考えてるわけじゃないの。でも、最後の瞬間まで、自分にできることをやりたい。だって……バイオニックロボットの中核アルゴリズムを完成させれば、少なくとも大勢の人を救えるから。しかし、柚希は真っ直ぐな瞳で彼を見つめ、力強く言い切る。これは私にしかできないことなの。少し苦しいだけで誰かの命が助かるなら、それだけの価値はある。そうすれば、死ぬときに思えるでしょう?私の人生も、無駄じゃなかったって」「でも、今の身体であんな高負荷の作業に耐えられるはずがないじゃないですか!少し疲れるどころじゃない。ものすごく苦しむことになるんですよ……」「柚希、俺と来い」冷たく、低い声が二人の言い争いを遮った。炎真がいつの間にかドアの前に立っていた。白い防護服をまとい、マスク越しに見える目元には隠しきれない疲労が滲んでいる。普段は隙一つなく整った男だが、今は顎に青い無精ひげまで生えていた。それでも、その圧倒的な凛々しさは何一つ損なわれていない。「炎真様!」弘は激しい剣幕で言い返した。「彼女は今、元気そうに見えているだけで、これは単なる一時的な持ち直しです。彼女に残された最後の時間を、幸せに……穏やかに過ごさせてあげてください」炎真は低い声で問いかけた。「ここに無理やり留めておけば、こいつは幸せなのか?」弘は、瞬時に言葉を失った。柚希の胸が高鳴る。炎真を意外そうに見つめた。いつも高慢で冷酷だったはずの彼が、今、自分を最も理解してくれている存在だったからだ。「大丈夫だよ、高木さん」彼女は弘の方を向くと、わざと明るく笑ってみせた。「多少の無理はするかもしれないけど、人生の最後に自分の意義を感じられるなら、私はそれで幸せだし、満足なの」弘は耐えきれず顔を覆い、指の隙間から涙をこぼした。柚希はバスルームに入り、シャワーを浴びた。それからスーツに着替え、念入りにメイクを施すと、晴れやかな表情で外へ向かった。だが、部屋を出た瞬間、廊下でうずくまっていた人影が、急に彼女の方へ這い寄ってきた。芋虫のように、床をずるずると進んでくる。「助けてください……お願いします。薬を一つでいいから
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