「岩段社長、どうしてそんな目で私を見るの?」 玲奈は首を傾げ、不思議そうに秋年を見つめた。 秋年は視線を一瞬伏せ、質問をかわした。「どんな目だって?」 「思っていた専属モデルと違うとでも?」玲奈が笑みを浮かべながら言った。 秋年は呆れたように微笑み、「俺が選んだ専属モデルだ。どうであれ、俺が悪く言うわけがないだろう。森川さん、安心していいよ」 「そう?」玲奈は目を伏せ、唇に小さな笑みを浮かべた。 綿は二人の会話を静かに見守っていたが、節々に対立を感じた。 もし玲奈が秋年に関心を持っているのが、彼が輝明の友人だからだとしたら、それはやめてほしいと願った。 後半、バーでの時間はそれほど盛り上がることもなく、三人が座っている間は誰も声をかけてこなかった。 綿は深夜まで一緒に過ごし、玲奈はついに飲み過ぎてしまった。 「俺が送るよ」 秋年は立ち上がり、玲奈のコートを手に取った。 綿は眉を上げ、止めようとしたが、ちらりと見ただけでやめた。 実際、秋年は悪い相手ではなかった。もし彼が本気で変わろうと、誠実に付き合うつもりなら、有能で容姿端麗、しかも権力を持つ彼は、玲奈にとって悪くない選択肢だった。 玲奈は芸能界のトップスターであり、その背後には強力な支えが必要だ。二人がもし結ばれれば、それはまさに「最強のパートナーシップ」となるだろう。 自身の結婚が破綻してしまった綿だったが、彼女は親友が幸せになり、愛されることを心から願っていた。 「岩段、私の見込みが外れないように」 綿は二人の背中を見送りながら、小声で呟いた。 その時、スタッフが秋年に近づき、メモを差し出した。 「岩段社長、こちらはある紳士から預かりました」 秋年はそのメモを特に気にせず受け取り、中身を確認することなく、玲奈を支えながらバーを後にした。 綿がバーを出ると、小雪が舞い降りていた。 寒さに身震いながら、彼女は手で腕を擦り、空を見上げた。 雪が頬に触れ、冷たさを感じた瞬間に溶けていく。 かつて彼女は、輝明との人生を共にすることを夢見ていた。 だが今では、その夢は雪のように儚いものだと感じていた。 綿はそっと手を伸ばし、降り落ちてくる雪を受け取った。 手のひ
それでもなぜだろう。胸の奥が妙に重く、苦しい気持ちが押し寄せてくる。 恋愛の行き詰まりからくる苦しさ、日々の生活に疲れた苦しさ……そして、あの男が自分を見るたびに浮かべる複雑な眼差しが原因の苦しさ。 「ボス、具合悪い?」 雅彦が慎重に問いかけた。 綿はゆっくりと顔を上げ、軽く首を振った。口を開くこともせず、どこか気怠げな雰囲気だった。 雅彦は笑みを浮かべ、「笑い話でもしよっか?」と言った。 綿は雅彦の方をじっと見た。 多くの場合、雅彦はまるで彼女の「癒しの存在」であるかのようだった。彼は気配り上手で、相手の感情を察するのに長けていた。彼女の不安を、いつもいち早く見抜いてくれる存在だった。 「どうしてそんなに僕をじっと見てるんだ?」雅彦が目をぱちぱちさせながら問い返した。 「弟がいるって、いいものね」綿はそっと答えた。 雅彦は笑い、「今さら、僕の良さに気づいたのか?」とからかった。 「ずっと気づいてたわよ」綿は真剣な口調で言った。 雅彦はしばらく黙り込んだ。 「ボス、もしかして……高杉社長とのことが原因で、気分が優れないのか?」 彼は慎重に質問を投げかけたが、綿は首を振り、「そんなことないわ」と答えた。 しかしその視線は窓の外に向けられていて、どこか空虚さを漂わせていた。 雅彦は小さくうなずき、「うん」とだけ言った。 車内に流れる音楽の音量が少し下がった。 綿はスマホを取り出し、再びツイッターを開いた。そこにはまたしても輝明に関するトピックが浮上していた。 【記者インタビューで高杉輝明、陸川嬌を愛したことは一度もないと発言。三年前の誘拐事件について高杉社長が語る!】 こんな夜更けにもかかわらず、多くのマーケティングアカウントがこれを拡散していた。明日の朝には大きな話題になることが明らかだった。 「これで完全に陸川家との縁を切るつもりなのね」 綿は軽く舌打ちした。まずは陸川家との協力を打ち切り、そして彼と嬌の関係についての噂を封じ込めようとしている。 もし彼が、嬌が彼の祖母を殺そうとした黒幕だと知ったら…… 「嬌、自分の身を守れるといいけど」 綿の口元に冷笑が浮かんだ。おそらく、彼女が手を出すまでもなく、輝明が嬌を完全に破
高杉家の別荘。 玲奈を家まで送り届けた後、秋年はわざわざ車で輝明の家を訪れた。 その理由は、彼がバーで受け取ったメモにあった。 「病院、陸川嬌の部下――河野健一」 このメモの意味は何なのか?「病院」と関係があるなら、高杉の祖母に関係しているのだろうか? そう考えた秋年は直接、高杉家へ向かった。 玄関を開けた輝明は、どこか不機嫌そうな顔をしていた。目は赤く充血し、疲れ切った様子で、一目でまともに眠っていないのが分かる。 彼はグラスに水を入れて秋年に差し出しながら言った。 「こんな時間に寝ないで来るなんて、過労死する気か?」 秋年は冷笑しながら、「そのセリフ、そっくりそのまま返すよ」と言い返した。 輝明は舌打ちをしてから、ソファに身を投げ出し、テーブルの上の酒グラスを手に取って一口飲んだ。 「何しに来た?」 秋年は散らかったリビングを見回した。酒瓶やグラスがあちこちに散乱し、カウンターも同様に乱れていた。 こいつ、どうやってこんな状態になったのか? 「お前が死んでないか確かめにな」 秋年は冗談めかして言ったが、輝明は冷ややかに、「死ぬのはお前が先だろ」と返した。 秋年は肩をすくめ、気怠そうに笑った。「やっぱり家には主がいないとダメだな。桜井がいなくなったら、この有様か」 彼はテーブルの空き瓶を一つ手に取ると、「こんな高級酒を一人で空けたのか?」と感嘆した。 輝明は冷たい目で秋年を見た。この男は本当に余計なことばかり言う。うんざりだ。 「最近来てなかったけど、お前の家、なんか変わったか?」 秋年は部屋を見回しながら言い、最後にソファの前で足を止めた。 輝明は表情を変えず、「何が変わったって?」と問い返すことなく酒を飲み続けた。 「これだな」 秋年の目は壁に掛けられた絵画に留まった。指を差し、「前の絵とは違うよな」と指摘した。 輝明も壁に視線を移した。そうだ、あの絵はもうない。綿が描いたものではなく、自分でどうにかして描いたものだ。真似しようとしても、失敗ばかりだった。 彼はグラスの酒を飲み干した。 「どれだけ似ていても、もうあの絵じゃない。持っていても仕方ないだろ、捨てたらどうだ?」秋年はアドバイスを投げかけた。「見れば見
輝明は沈黙していた。 彼は手にしたメモをじっと見つめながら、低い声で話し始めた。 「祖母が二度も危篤に陥ったのは、病室に不審者が入り込んだからだ」 その視線には怒りが込められている。 「その相手は俺を狙ってきたが、家族に手を出した」 彼は秋年に顔を向け、冷たい目で続けた。 「まさか、これが嬌の仕業だったとはな」 「頭がおかしいのか?祖母様に手を出すなんて、どうしてそんなことができるんだ?」 秋年は困惑し、首を横に振った。 それはどこから来た度胸なのか?美香は高杉家の主であり、外では誰もが敬意を払う「高杉家のお祖母様」として知られている存在だ。 「あいつは確かに狂っている」 輝明の目はさらに険しさを増し、その声には険しさが込められていた。 「腐れ縁だ」 秋年が冷笑しながら皮肉を言った。 輝明は手にしたメモを握り締め、徐々にその力を強めた。 陸川家を見逃そうと思っていたが、もうその必要もないな。 彼はスマホを取り出し、そこには易からのメッセージがいくつも届いていた。 易【妹が君に申し訳ないことをしたのは認める。でも、それで陸川家全体を狙う必要があるのか?】 易【気でも狂ったのか?ニュースであんな風に嬌ちゃんのことを言うなんて!彼女はこれからどうやって生きていけばいいんだ?】易【冷静になれよ!嬌ちゃんは確かに君を裏切ったかもしれないが、陸川グループは何もしていない。陸川グループを狙うのか?それは連座制と同じだぞ! 】 輝明は冷笑を浮かべた。 嬌が祖母に手を出したことが、連座制とどう違うんだ? 彼は自分が冷酷だと思っていたが、実際には嬌こそ本当に冷酷な人間だった。 祖母にまで手を出すとは、想像以上の卑劣さだ。 その怒りが彼の目に明確に現れていた。 秋年はその表情を見て、「これで嬌との因縁も、ついに決着をつける時が来たんだな」と心の中で思った。 「必要があれば、いつでも声をかけろ」 幼なじみの間でしか通じない、、無条件の結束を示す言葉だった。 「ありがとう」 輝明は短く返事をすると、再びメモに目を落とした。 ……翌朝、雲城は大騒ぎとなった。 三年前の誘拐事件について、嬌が実際には輝明を救った人物で
広々としたベッドの上で、綿は大きく伸びをした。 スマートホームが今日の雲城ニュースを要約して流していた。 彼女はあくびをしながら、スリッパを履いてベッドから起き上がった。 カーテンがゆっくりと開き、窓の外には一面の銀世界が広がり、街全体が一段と明るく見えた。 ふと目に入ったものに視線を移した。庭の木々が飾り付けられているのに気づいて、少し驚いた。 庭に目を凝らすと、父の天河が家から出てきて、手に小さなイルミネーションライトを持ち、木にかけているところだった。 その後、盛晴も外に出てきて、マフラーを持ちながら背伸びをして天河に巻いてあげている。何かを話しかけながら、微笑んでいるようだ。 綿はその光景を見て、思わず口元がほころんだ。その後、首を少し傾けた。 両親の愛情深い様子を見て綿は複雑な思いを抱いた。羨ましくも感じたが、自分の手には届かないもののように思えた。 こうした華やかで慌ただしい現代社会において、一生一人の人を愛し続けることがどれほど難しいことか。 心から誰かを愛するということは、こんなにも難しいものだとは。 悲しいかな、人はみな不誠実なものだ。 綿はその場を離れ、グラスに水を注いだ。そして再び窓辺に戻ると、タイミングよく天河がこちらを見上げて手を振った。 彼女は水を一口飲み、ベランダの窓を開けた。冷たい風が一気に流れ込み、思わず身震いする。 「おい、寝間着のまま外に出るなって!」 天河は彼女を呼び止めた。 綿はすぐに寒さに慣れ、ベランダに出て話しかけた。 「クリスマスツリーの飾り付け?」 「そうだ、もうすぐクリスマスだからな」 天河は目尻を下げて笑っていた。「うちの綿ちゃんは、小さい頃クリスマスが一番好きだったからな!」 その言葉に、綿は少し考え込んだ。 昔、自分が何を好きだったかなんて、もうほとんど忘れてしまっている。ただ、ここ数年は輝明と過ごすうちに、自分を見失っていたことだけは自覚していた。 「何か欲しいものがあるか?パパが叶えてあげよう」 天河は冗談めかして尋ねた。 綿は笑った。自分の欲しいものはすべて自分で手に入れられることを、父も知っているはずだ。それでも彼女は少し考えた後、真面目に答えた。 「パ
綿はラジオを消した。 それでも赤信号で車を停めた時、商業施設の広告スクリーンに目を向けると、そこにもまた輝明の顔が映し出されていた。 「陸川嬌に正式な謝罪を要求する」というあの言葉も流れている。 綿はため息をつき、一方の手で額を押さえ、もう一方でスマホを手に取った。 通知欄を確認すると、そこにも輝明に関するニュースが溢れている。 「……本当にうっとうしい」 彼女はスマホを置いて、再び信号に目を向けた。 「ピン――」 スマホの着信音が鳴り響き、画面には見知らぬ番号が表示された。 彼女が応答ボタンを押すと、冷たい女性の声が耳に届いた。 「桜井綿、あんた、なんて卑怯な女なの!」 綿は目を細めた。この声は……どんな姿になろうとも彼女は絶対に忘れることはない。 「絶対に許さないわ。この一生、あんたを許すつもりなんかない!河野を返してよ!返して!」 声の主は、間違いなく嬌だった。 綿は目を伏せ、低い声で応じた。 「狂う相手を間違えたんじゃない?」 「河野が死んだのよ!」 綿の表情が一瞬固まった。 「死んだ?」 「河野はあんたと揉めた後に死んだの!これは絶対にあんたが輝明に教えたからに違いないわ!」 嬌の声は泣き叫ぶようで、耳をつんざくほどだった。 後続車がクラクションを鳴らし、綿はアクセルを踏み込みながら冷静に応じた。 「陸川さん、私に問い詰めるつもり?」 「当然でしょ!あんたみたいな奴が死ぬべきだったのよ!」 「彼は高杉家の祖母様を殺そうとした。彼の死は自業自得よ」 綿の声には冷たさが滲んでいた。 「河野の死に私は関与していない。責める相手を間違えないで」 電話口の向こうで、嬌は狂ったように笑った。その笑い声には憎悪と混乱が滲み出ていた。 「あたしの唯一の友達だったのよ!絶対に許さない!あんたを彼の墓に連れて行ってやる!」 綿の目が細まり、その声には冷たい威圧感がこもっていた。 「試してみれば?」 その瞬間、彼女は地獄から現れた悪魔のようだった。 電話越しの嬌は息を呑み、一瞬だけ沈黙した。 綿は冷笑した。 「彼の死は彼自身の責任よ。そして、自分の不幸を招くようなことをこれ以上
会社の人々は次々と振り返り、休憩室のドア前に集まってきた。 誰もが見たのは、陸川家のお嬢様が床に座り込み、顔にコーヒーをかけられた姿だった。 コーヒーが頬を伝い落ちる中、嬌は何もせず、ただ泣いているだけだった。反抗する気力すらないようだった。 一方、彼女にコーヒーをかけた女性は、カップをテーブルに置き、ドアの外を見上げた。 外の人々はお互いに顔を見合わせたが、誰も何も言わず、急いでその場を離れ、普段の仕事に戻るふりをした。 「何も見なかったことにしよう」 誰もがそう思ったのは、嬌が会社で敵を作りすぎていたからだ。入社して間もないのに、彼女はすでに多くの人を不快にさせていた。 横柄で無礼、他人の気持ちを考えない。それが彼女の悪癖だった。 彼女を嫌う人々にとって、彼女の屈辱的な姿を見るのはは痛快だった。 嬌が会社から追い出されれば、そのポジションはあの女が引き継げるのだから。 誰もが見て見ぬふりをするのは、そのためだった。 女性は休憩室を出るとき、偶然、会社の社長が易を伴って入ってくるのを目にした。 易はシャツの襟を乱しながら、険しい表情で声を上げた。 「妹はどこだ?」 その冷たい声に、周囲の人々は縮み上がり、さっと距離を取った。 先ほど嬌にコーヒーを浴びせた女性は、口元に薄笑いを浮かべると、そのまま振り返ることなくトイレへ向かった。 手を洗いながら心の中で嘲笑する。 コーヒーをかけた?ちょっと手元が滑っただけ。 易が休憩室で嬌を見つけたとき、彼の胸は痛みに締め付けられるようだった。 血の繋がりがなくても、彼女は二十年以上もの間、彼が守り続けてきた妹だ。彼にとって、嬌は実の妹同然だった。 彼女は家族に甘やかされ、いつも高飛車な態度をとっていた。それが今、こんなに惨めな姿をしている。易は突然来たのではなく、恒育に命じられて嬌を連れ帰ったのだ。 嬌に関する世論はもはや制御不能で、陸川家も巻き込まれてしまった。株式市場が開くと、株価は大暴落した! 彼女を連れ帰って対策を考えなければ、取り返しのつかない事態になる。 嬌の腕が誰かに引っ張り上げられた。 顔を上げると、そこには易がいた。 彼の目には疲労がにじみ、いつもきちんと整っている
輝明はスーツの襟を整え、森下がその後に続く。二人の表情はひどく厳しいものだった。 会社の中は人の行き交う音でざわついていたが、この光景に気付いた社員たちは歩みを緩め、興味深そうに見守っていた。 どうしたのか?こんなちっぽけな会社に、易だけでなく、高杉グループの社長まで来たなんて。「どういうこと?」 先に声を上げたのは易だった。 風は冷たく、会社のエントランスには張り詰めた空気が漂っている。 輝明は易が抱える嬌に目を向け、淡々と口を開いた。 「妹に聞いてみるんだな、彼女が何をしたのか」 「うちの妹は確かに世間知らずだ」 易は冷ややかな目を輝明に向けながら続けた。 「だが、どんなことをしたにせよ、俺が責任を取る。お前の条件を聞こう」 その言葉には、彼の必死な思いが滲み出ていた。 「俺に条件を出させるのか?」 輝明は薄く笑い、目には軽蔑の色を浮かべた。 「お前に俺の条件を満たせる力があるのか?」 「何でもいい、何でもあげる。ただし、陸川家をこれ以上追い詰めるのはやめてくれ!」 易の声には必死さが込められていた。 陸川家はもう耐えきれない。両親も年を取り、もしこのまま全てを失うことになれば、まさに命を奪われるようなものだ。 一度頂点を極めた者が、その後のどん底に甘んじられるはずがない。 輝明は冷ややかに笑いながら言った。 「今の俺に欲しいものなんかない。今日ここに来たのも、別に深い意味はない」 彼の声は冷たく無感情で、聞く者を震え上がらせるほどだった。 「ただ、陸川さんにちょっとした贈り物を渡しに来ただけだ」 「贈り物?ここに?」 易は冷笑した。 恐怖心を抱きつつも、今陸川家を守れるのは彼しかいないのだ。 易は情に厚い人で、ここまでずっと陸川家を支えてきた。 彼が早くから家庭を背負ったのに対し、陸川家の次男は若い頃に国外へ逃れ、年に一度も連絡をよこさないような人間だった。 今、家が崩壊しそうな時にも、一切の連絡がない。 「そうだ」 輝明は唇を抿り、遠くを見つめながら静かに言った。 「ほら、もう来た」 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、2台のパトカーが到着した。 「どういう
彼は生き延びたい。生きていたい。そのためには奪うしかないのだ。「さっさと金目の物を出せ!」男は手にした猟銃を再び綿の方に突きつけた。綿の心拍が早くなる。男が一歩近づいたその時、背後のもう一人の男のスマホが突然鳴り響いた。彼はスピーカーモードに切り替え、通話内容が聞こえるようにした。電話の向こうの声が響く。「あの女、腕時計を持ってる。すごく高価なやつだ!その腕時計を奪え!!」綿の顔色が徐々に冷たくなっていく。陽菜への嫌悪感が一気に頂点に達した。彼女はこれまで、嬌以外にこれほど誰かを憎んだことはなかった。女の子同士は助け合うべきだと信じていたが、こういう酷い相手に対してはどうすればいいのか。親切心なんて、ただ踏みにじられるだけではないか。さらに電話の向こうから男の声が続く。「それと、その女のブレスレットは俺が手に入れた。時計さえ渡せば、すぐに解放してやる!」猟銃を持つ男が急いで顔を上げ、綿に向かって言った。「聞いたな?お前の時計はどこだ?さっさと答えろ!」綿はもう我慢するつもりはなかった。近くにあった茶碗を手に取り、思い切り机の上で叩き割った。男たちは即座に警戒態勢に入り、二人で綿の動きを注視する。割れた碗の破片を手にした綿に、猟銃を持つ男は焦りながら銃口を再び彼女に向けた。その銃は簡単に命を奪えるものだ。「その手を下ろせ!」彼は引き金を引きたくなかった。たかが少しの金のために、そこまでする価値なんてない。もしこんなことで捕まったとしても——たったの十五日で出てこれるのだから。発砲すれば状況は一変し、警察に捕まった場合は一生ものの罪を背負うことになる。「あなたに言われて下ろす理由なんてないでしょ?」綿は目を細め、一歩前へと進んだ。男は怯んで後退する。綿は確信していた。彼は銃を撃つ度胸がない。「銃を下ろしなさい」綿は鋭い目つきで彼を見据え、態度をさらに強硬にした。男は何も言わず、ただ唾を飲み込みながら後退し続ける。個室の外に追い出されそうになるのを見たもう一人の男が、その場を打開しようと、突然綿に飛びかかった。彼は綿の手から破片を奪おうとしたが、綿は素早く反応し、破片を振りかざして相手の顔を斬りつけた。鋭い破片が男の顔に深い傷を作り、血が頬を伝い流れ出す。
次の瞬間、部屋の扉が突然蹴り開けられた。綿はすぐに後退した。和也と宗一郎は同時に顔を上げ、綿が両手を挙げたまま、慎重に後退していくのを目にした。彼女は穏やかな声で相手を宥めていた。「まず、その銃を下ろして」和也は目の前の男が手に猟銃を持っていることにようやく気づいた。「金目の物を出せ。さもなくば、こいつを殺す」男は和也を睨みつけた。綿と和也が目を合わせる。和也はどうすればいいのか分からず困惑した。こんな状況に遭遇するのは初めてだった。綿は軽く首を振った。「何のこと?俺たちはただご飯を食べに来ただけ。何が欲しいんだ?」和也がそう言いながら問いかけると、宗一郎は黙って綿の椅子に置いてあったバッグをゆっくりと机の下へ蹴り込んだ。その動きは非常に慎重で、音を立てないように配慮していた。しかし、強盗たちは完全に和也と綿に注意を集中させていた。「さっさと金目の物を出せ!価値のあるものをだ!」男は怒鳴った。綿は冷静な声で答える。「金目の物なら、さっきの女の子が持ってたでしょ?彼女を連れて行ったんじゃないの?」その口調は驚くほど落ち着いていた。「本当にあの女の命が惜しくないのか?」男は怒りを露わにした。和也は困惑しながら言った。「どういうことだよ!物を奪っただけじゃ済まないのか?まさか人を殺すつもりか?お前ら、やりすぎだろ!」男は鼻で笑いながら言った。「お前らみたいなよそ者は、いつも不誠実だ」そう言うと、男は手に持った猟銃を綿の頭に向け、こう付け加えた。「400万円だ。この女を解放してやる」綿はふっと笑みを浮かべた。400万円ごときで銃を持ち出すなんて、馬鹿げている。「その女なんていらないわ。さっさと消えなさい」綿の冷淡な一言が響く。男は眉をひそめた。「仲間を見捨てるのか?」「仲間?聞こえはいいけど、ただの知り合いにすぎないわ。悪く言えば、赤の他人。彼女がどうなろうと、私には関係ない。彼女を使って私を脅すつもり?それはあなたたちの甘さね」そう言いながら、綿は一歩前に踏み出した。男はすぐさま後退し、怒鳴り声を上げた。「動くな!」「怖いの?銃を持ってるくせに、私みたいな女一人を相手に怯えるなんて」綿は目を細め、冷たい視線で男を見つめた。その目には計算するような鋭い光が宿ってい
たとえ母親でも、子どもが言うことを聞かない時には、平手打ちをするべきだろう。綿はじりじりと後退した。男たちはそれを見て察した。陽菜と一緒にいる相手なら、間違いなくただ者ではないはずだ。しかも、この高級なレストランで食事をしている以上、金に困っているわけがない。男たちは薄く笑い、綿に尋ねた。「何か値打ちのある物を持ってるか?」綿は首を振った。「持ってないわ」彼女の持ち物で一番価値があるのは、父親からもらった腕時計だ。しかし、その時計だけは絶対に手放すわけにはいかない。幸いなことに、その腕時計は個室に置いてあり、今日は持ち出していない。男は目を細めた。「ないだと?」「自分で差し出すのか、それとも俺たちが探すか?」「私に触れる勇気があるなら、試してみなさい」綿は口元に笑みを浮かべ、気迫で二人を退けようとした。和也たちも言っていたが、こちらが譲歩すれば、相手はつけあがるだけだ。ならば、最初から強気に出た方が良い。彼女は試してみることにした。このやり方で二人を退けられるかどうか。男は冷静な口調で言った。「女一人に、男二人だぞ。お前に何ができる?」「俺たちは今まで欲しいものを手に入れられなかったことなんて一度もないんだ」「さっさと渡せ!」男の一人が前に出てきた。綿はすっと両手を挙げてみせた。その手首には何もついていない。さらに首元を見ても、今日はネックレスさえつけていなかった。「私、何も持ってないわ。あなたたち、何が欲しいの?」綿は笑みを浮かべた。男たちの顔色は険しくなった。彼女の身には、確かに目立ったものは何もない。「じゃあ、スマホだ!金を振り込め!」男たちは声を荒げた。綿は冷たく微笑む。「銀行口座には1円も入ってないわ。現金も持ち歩いてない。ポケットの中身なんて、顔よりも空っぽよ」「信じるかどうかは、そっちの勝手」綿は穏やかに微笑んだ。すると、男の一人が口を開いた。「覚えてるぞ。2202号室だ。あいつらの個室だ。彼女の荷物はあそこに置いてあるに違いない!さっきの間抜けが言ってただろう?荷物が個室にあるって。解放してくれるなら取りに行くってな!」綿「……」ああ、陽菜、本当に大したもんだ。綿は呆れた顔を浮かべた。強盗に「間抜け」と呼ばれるなんて、陽菜は間抜けの定義そのものを侮
綿は陽菜が自分を差し出す可能性について考えたことはあった。しかし、こんなにも早く自分を見捨てるとは思わなかった。この女、本当に役立たずな仲間で、救いようがない。数人の男たちが綿に視線を向ける。彼女は眉をひそめた。彼らは彼女をただの若い娘で簡単に扱える相手だと思っているのだろう。だからこそ、あの二人の四十代の男は全く警戒せず、綿に向かって近づいてきた。綿は冷ややかな目で彼らを見つめ、垂らしていた手をゆっくりと拳に握りしめた。幸いなことに今日はラフな服装で、ヒールも履いていない。一方、スカート姿の陽菜に比べれば、こちらはまだ動きやすい状況だ。「あの女はお金を持っている。彼女を相手にすれば、私を見逃してくれる?」陽菜は必死に綿を差し出し続けた。彼女は綿が自分を見捨てるはずがないと思い込んでいるので、遠慮なくそう言い放つ。若い男が笑いながら言った。「助けに来てくれた相手にそんなことを言うなんてね」「わかってなら、早く私を解放してよ!」陽菜は怒りを露わにしつつも内心は恐怖でいっぱいだった。綿は陽菜を睨みつけ、冷たく言い放った。「恩知らず」陽菜は叫ぶ。「綿、助けて!」その声は怒鳴り声ではあったが、どこか命令するような響きがあり、綿の怒りをさらに煽った。陽菜の中では、綿が絶対に自分を助けてくれる存在として位置づけられていたのだ。「綿、彼らはお金が欲しいだけよ!お金を渡せば済む話じゃない!でも、私のブレスレットだけは駄目!これを渡したら二度と手に入らないものだから!」陽菜はブレスレットを守り続けた。綿は、このままだと相手が怒り狂って陽菜の腕を切り落とし、ブレスレットを奪う可能性すらあると思った。「陽菜、もし私が今日あなたを助けなかったらどうする?」「それなら私の叔父さんに言いつけるわ!そしたらあんたは——」「助けるのは好意、助けないのは当然の権利。私はただの二十代の女の子よ。こんな状況で怖くて逃げ出したって、あなたの叔父さんが何を言うの?」綿は目を細めた。陽菜は言葉を詰まらせる。周りの男たちも、ただこの口論を眺めていた。綿は続けた。「陽菜、あなたの命は大事でも、私の命は大事じゃないとでも?」陽菜は申し訳なさそうに沈黙した。「本来、他の人は助けない方がいいって言ってたの。でも、あなたがそこまで悪い
「もし本当に強奪されたら、どうすればいいんですか?」綿は興味津々に尋ねた。男なら抵抗できるかもしれないが、陽菜のようなお嬢様なら一人でも危ないのに、複数相手ならなおさら無理だ。「本当に強奪に遭った場合、一番いい方法は素直に渡すことです。命の方が大事ですからね」和也はそう答えた。「彼らも誰にでも強奪するわけじゃない。まず観察して、この人が本当に金持ちなのかどうかを見極めるんですよ」「なんて怖いの……」綿は首を振り、信じられない様子だった。なんて無秩序な場所なんだろう。どうりで徹が陽菜を同行させたわけだ。一人では確かに心細い。とはいえ、陽菜もそれほど頼りにならないし、こんな状況ならむしろ屈強な男を連れてくるべきだったと綿は思った。綿が食事を続けていると、突然外から女の悲鳴が聞こえた。その声は耳障りで恐怖に満ちている。この声は……「いやあああ!助けて!」その悲鳴を聞いた瞬間、綿はすぐに分かった。陽菜だ!綿は立ち上がり、個室の扉を開けようとした。しかし和也が彼女の手を掴み、首を振った。「今出て行っても彼女を助けられません。彼らが欲しいのは物だけで、危害は加えませんよ」綿は動揺した。どういう意味だろう?陽菜が危険な目に遭っていると分かっていて、何もせずにここで待てというの?陽菜が少々苦手だとしても、何もしないわけにはいかない。「ダメです。陽菜は私が連れてきた人です。彼女を連れて来た以上、ちゃんと連れて帰らないと」もし陽菜に何かあったら、徹にどう説明したらいいか分からない。「桜井さん、相手は複数いますよ」和也は慎重に警告した。綿は和也が本気で彼らを恐れているのを見て取った。「あなたたちは姿を見せないでください。私は何とかしますから、警察を呼んでください」綿は和也に頼んだ。和也は少し躊躇したが、頷いた。しかし、この辺りでは警察に通報しても役に立たない可能性が高い。ここは無法地帯で、毎日何人もの人間が強奪に遭っており、全てを取り締まるのは不可能なのだ。それでも、綿は扉を押し開けた。「桜井さん、どうか気をつけてください!」宗一郎は心配そうに声を掛けたが、助けることはできなかった。彼がこの幻城で身を立てていられるのは、低姿勢を保っているからだった。階段の下で陽菜は男に引きずられていた。「
「この辺りの人って、いつもこんなに乱暴なんですか?」綿は不思議そうに尋ねた。和也は頷き、答えた。「これでもまだマシな方です。中には平気で唾を吐いてくる奴もいますよ」唾を吐くなんて、確かに竜頭のポーズよりもはるかに不快だ。それが自分の汚さや病気を気にせずに行われるというのだから、想像しただけでうんざりする。綿は唇を噛んだ。「ここ、どうしてこんなに荒れているんですか?誰か取り締まらないのですか?」「取り締まってはいますよ。ただ、追いつかないんです。流れ者が多すぎて。街も大きいし、人も多い。全員を一人ずつチェックするなんて無理です」綿は顔を手に支えながら考え込んだ。一部の都市はこういう性質を持っているのだろう。これが幻城に人が溢れている理由なのかもしれない。ただ、綿は信じていた。この街がいつか必ず整えられ、秩序を取り戻す日が来ると。車はやがて比較的高級なレストランの前で停まった。このエリアは静かで、不審者もいないようだった。車を降りると、宗一郎は再びSH2Nや柏花草について自分の考えを熱心に語り始めた。綿は静かに耳を傾け、時折頷いていた。レストランのスタッフが一行を案内し、席に着いたところで、綿のスマホが鳴った。輝明「どこにいる?誰と一緒だ?無事なのか?」綿「うん」彼女は短い返信を送り、スマホを閉じた。和也が尋ねた。「こちらのご当時料理をいくつか注文しておきましたが、お嫌いなものはありませんか?」言いながら、和也はメニューを綿に差し出した。「桜井さん、他に何か追加したいものがあれば、どうぞ」「結構です。ありがとうございます」綿は首を振り、陽菜の方を見た。陽菜はテーブルを拭いていた。ここは高級店ではあるが、環境はやはり雲城ほど整ってはいない。それが不満なのか、陽菜の表情には嫌悪感が浮かんでいた。おそらく幻城への出張など、もう二度と来るつもりはないだろう。和也は陽菜にウェットティッシュを差し出した。「どうぞ」「ありがとう」陽菜はお礼を言ったが、その手首には、いつの間にかまたキラキラと光るアクセサリーが戻っていた。綿が目線を向けると、陽菜は眉をひそめた。「何よ?もう夜なのに、誰が懐中電灯を持って照らしてまで盗むって言うの?」綿は何も言わなかった。「それでは柏花草の件、教授にお任せします。
雲城に足を踏み入れるような人物であれば、この爺さんも間違いなく一流の人だろう。その後も会話が弾み、気がつけば時刻は既に夕方。昼食を取るのも忘れて話し込んでしまった。6時を過ぎた頃、和也がようやく口を挟んだ。「そろそろ夕食に行きませんか?場所はもう予約してあります」綿は時計を見て、驚きと共に宗一郎に微笑みかけた。「教授、私ったらつい夢中になりすぎて、食事の時間をすっかり忘れてしまいました」「話が弾んでいたようだね」宗一郎は私的な場面では寡黙だが、的確な一言を返した。「行きましょう。今日は僕たちがご馳走します。幻城へようこそ!」和也は笑顔で綿たちを招いた。その表情は温かく、どこか優しげだった。綿は彼を少しじっと見つめた。――快活でハンサムな青年だ。外に出て和也たちと一緒に車に乗り込む前、綿のスマホ電話が鳴った。輝明「どこにいる?今日はクリスマスだ。昼間は一切邪魔しなかったけど、夜は一緒に過ごせないか?」綿は眉を上げ、メッセージを打った。綿「出張中」輝明「出張?なぜ一言教えてくれなかった?」綿「アシスタントと一緒。徹さんはあなたの友達だから、もう聞いてると思ってたのに?」綿は心の中でつぶやいた。――私の行動を知りたければ、いくらでも手を回せるくせに……何を今さら。輝明「何時に帰る?もう遅い時間だ」綿「順調なら夜8時の新幹線で戻る予定」輝明「順調じゃない可能性もある?」綿「わからないわ」話が弾んでいることに加え、せっかくの機会なので、あと2日ほど滞在してもっと議論を深めたいと綿は考えていた。だが、今日がクリスマスであり、父が自分のために飾り付けたツリーのことを思うと、心が揺れる。輝明「迎えに行くよ」そのメッセージを見た綿は即座に警戒し、慌てて返した。綿「来なくていい!」――何で彼に迎えに来てもらう必要があるの?自分で新幹線で帰ればいいじゃない。綿「仕事で来てるの。邪魔しないで」輝明「君が心配なんだ」綿「あなたがいなかった3年間も、私はちゃんとやってたわ。あなたの心配なんて必要ない」輝明「それは過去の話。今は違う」綿「何も変わらないわ」輝明「俺に3か月の猶予をくれたじゃないか」綿「猶予を与えたからって、あなたの望むままに付き合わなきゃ
目の前に広がるのは、これ以上ありふれたものはない、普通の店構えだった。外壁には「LK研究所」と書かれた小さな看板が掛けられているが、ぱっと見ただけでは、まるで路上の軽食店のようだった。山下はまたも気まずそうに笑いながら言った。「お恥ずかしい話ですが、僕たちの研究所は予算が少ないんです。でも技術だけは確かですので、どうかご安心を!」「では、どうぞこちらへ」彼は綿たちを中へ案内した。綿は無言のまま、周囲を見渡した。――このベテラン教授が信頼できる人だと知っているからこそついてきたものの。もし彼のことを知らなかったら、こんな場所、絶対に罠だと疑ったに違いない。「腎臓を売られるんじゃないか」とさえ思うほどだった。陽菜もおそらく、さっき目撃した事故の光景が頭に焼き付いているのだろう。妙におどおどしていて、綿のすぐそばから離れようとせず、以前のような口数の多さもすっかり影を潜めていた。綿にとっては、ようやく訪れた静けさだった。二人は山下の後について店の中に入った。外見はみすぼらしいが、内装は意外にも新しさがあり、ここ数年で改装されたようだった。綿はちらりと室内を見渡し、山下の後についてさらに奥へ進んだ。応接間を通り抜けると、そこは研究所の核心部である研究室だった。外観がボロボロなのは、わざと目立たないようにしているのかもしれない。派手に飾ってしまったら、盗みに入られるリスクが高まるからだ。そんなことを考えていたその時、後ろから年配の男性の声が聞こえた。「お待ちしていましたよ」綿と陽菜は声のする方を振り向いた。そこに立っていたのは、70代と思しき白髪の紳士。彼は白い着物を身にまとっていて、威厳が感じられる。山下は彼を見てすぐさま駆け寄った。黒服の山下と白服の紳士――二人の対比はとても目を引いた。しかし、綿はすぐに妙なことに気づいた。この二人、顔つきがあまりにも似ているではないか。それだけでなく、二人の姓も同じ「山下」だった。紳士は名乗りながら言った。「山下宗一郎です」綿は再び山下に目を向けた。すると、老紳士は山下を指差して続けた。「こちらは私の孫、山下和也です」綿は思わず息を飲んだ。――なるほど、親族だったのか……「この研究所にはお二人しかいないんですか
綿はすぐに理解した。「触れてはいけないもの」――だからこそ、あの暗い路地の奥からあのような叫び声が聞こえてきたのだろう。それは、「快楽の後の解放」のようなものだった。一方、陽菜はその意味が分からないようで、首をかしげながら尋ねた。「どういうこと?」綿は陽菜を一瞥し、静かに答えた。「幻城はとても乱れている。叔父さんは教えてくれなかったの?」陽菜は一瞬動揺した様子を見せた。確かに徹は「綿の出張に同行するのは良い学びになる」とだけ言って、それ以外の説明は何もなかった。「陽菜、あなたはこの出張に来るべきじゃなかったわ」綿がはっきりと告げると、陽菜は即座に不満を口にした。「どうして来ちゃダメなの?私が何か邪魔したっていうの?あんたって本当に支配欲が強いのよね!」陽菜の怒りはエスカレートし、口をとがらせて文句を浴びせた。綿はそんな彼女をじっと見つめたが、それ以上何も言わなかった。心の中でこぼれそうだった言葉――「ここは危険だから、あなたじゃ身を守れない」――を飲み込んだ。――陽菜が本当に危険な目に遭ったとしても、それは彼女が自分で招いた結果だ。――これだけ反発的な態度を取られたら、誰が彼女を心配するものか。そんな奴、心配する価値なんてまったくない!綿は静かに自分の指輪とブレスレットを外した。今日は特別に腕時計までつけてきたが、それも不必要だったようだ。彼女は腕時計を外して手の中でじっと見つめた。――この時計は18歳の誕生日に父がくれたものだ。その価値は6000万円以上。他の家庭が娘に贈るのは、バッグや香水、きれいなドレスといったものが多いだろう。だが、天河は違った。彼女に贈ったのは腕時計やスポーツカー、そして限界まで「カッコいい」ものだった。綿はその腕時計をバッグの中にしまった。陽菜はその様子をちらりと見て、呟いた。「そんなに怖がってるの?」綿は眉をひそめた。「地元の習慣を尊重して、余計なトラブルを避けるだけよ。私たちは仕事に来たの。遊びじゃない。あなたも身につけてるものを外しなさい」陽菜は頑なに拒否した。「今日のコーディネートに全部合わせてるんだから」「遊びに来たわけじゃないでしょ?誰があなたのコーディネートを気にするのよ?早く外して。そのネックレス、見るか