三年間、彼に恨まれた契約妻は、世界を魅了する仮面の天才音楽家だった

三年間、彼に恨まれた契約妻は、世界を魅了する仮面の天才音楽家だった

last updateLast Updated : 2026-08-18
By:  ASAMIUpdated just now
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祖母の形見のヴァイオリンを取り戻すため、音羽は神崎家の御曹司・蓮と契約結婚をする。しかし蓮は、初恋の女性を失った原因が音羽にあると誤解し、三年間彼女を憎み続けていた。心を込めて作った楽譜まで破り捨てられた音羽は離婚を決意するが、その瞬間から蓮は態度を一変させる。不審に思った音羽は契約の真相を探るため彼の側に残りつつ、仮面の天才ヴァイオリニストとして世界へ羽ばたいていく。やがて蓮は、自分が憎んだ契約妻こそ追い求め続けた音色の持ち主であり、幼い頃から探していた命の恩人だったという真実を知る。すべてを失いかけた彼は、彼女の心を取り戻そうと奔走する。

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Chapter 1

第1話

――その音がなければ、彼は眠れない。

それを知っているのは、世界でただ一人。

私は三年前、神崎蓮の婚約者になった。

彼は同じ大学に通う、有名な財閥の御曹司。

容姿端麗で、ピアノを弾かせたら右に出るものはいない、誰もが羨む完璧な男だ。

そんな彼と私が婚約したのには、理由がある。

私の祖母から盗まれた、家宝のバイオリンの手がかりを得るため。

彼の父である神崎トオルが何かを握っていると確信したからだ。

彼に近づけば、必ず取り戻せる。

けれど、偽りの気持ちだけではなかった。

本当に彼が好きだった。

幼い頃、私は演奏会で一度彼に会っている。

私はバイオリン、彼はピアノ。

私が優勝し『百年に一度の天才』と称された夜だ。

本当は、彼と共にもう一度舞台に立ちたかった。

彼がピアノを弾き、私がバイオリンを奏でる。

そんな光景を想像するだけで幸せだった。

しかし婚約が決まり、真実を打ち明けようとしたその時、彼の初恋の人が海外へ旅立った。

そして彼は、その原因を全て私のせいだと思い込んだのだ。

「おまえのせいで、あいつは離れた」

蔑むような彼の目を、今でも覚えている。

違うと否定できなかった。

彼のそばにいられるなら、誤解されたままでもいいと思ってしまったから。

“あの頃の演奏者”が私だということを隠したまま、私は三年間、彼に尽くし続けた。

楽譜を書き、食事を用意し、生活の全てを捧げる。

私の想いは、いつかきっと彼に伝わるはずだと信じて。

それでも蓮は、一度も私を見なかった。

感謝も優しさもないまま、私はただ“影”のようにそこにいた。

私はもう、彼のそばに居続けるべきではないのかもしれない……。

――祖母のバイオリンさえ見つかれば。

それが唯一の希望だった。

契約を解いて、ここを離れられる。

そう信じて、今日まで耐えてきた。

そんなある日、祖母のバイオリンについて新たな手がかりが見つかった。

これを機にバイオリンが見つかれば、もしかしたら、これが彼の誕生日を祝う最後になるかもしれない。

そう思うと、急に切なさが込み上げてくる。

愛しているのに、それをうまく伝えることができず、唯一できることといえば、彼に癒しを与えること。

彼は昔から不眠症で、いつも同じ曲を繰り返し聴いていた。

きっともう、聞き飽きているはずだ。

この新曲が、少しでも彼を癒せたらいいのだけど。

一週間眠らずに、私は新しい曲を書き上げた。

彼の誕生日で渡すための物。

「……できた」

指の感覚はない。

それでも、これを渡せば少しは変わるかもしれないと、淡い期待を抱いていた。

夜。誕生日パーティーの会場前で、私は立ち止まった。

『来るな』と言われていた場所。

それでも来たのは、これが最後だと思ったから。

「それ、持っていくの?」

背後から声がした。

振り向いた瞬間、息が止まる。

着ている服が違わなければ、鏡を見ているのかと思った。

ああ……。

やっとわかった。

彼が私を婚約者にしたのは、この子に似ているから。

ただ、それだけだったんだ……。

彼女は華やかで、傲慢なほどの自信に満ち溢れていた。

「あなたが蓮の婚約者?トオルおじさまがどうしてこんな地味な人を連れてきたのかしら。まあ、確かに扱いやすそうではあるけれど」

彼女は西園寺玲奈。蓮が執着する、あの“初恋の人”だった。

「安心して。すぐに終わるから」

不敵な笑みを残し、彼女はひと足さきに会場へ消えた。

会場に入ると、冷ややかな視線が一斉に私に突き刺さる。

嘲りと興味の混じった空気の中を歩く。

神崎蓮はすぐに見つかった。

人々の中心で当然のように佇む彼の隣には、さっきの玲奈が、まるでそこが自分の指定席であるかのように寄り添っている。

二人には周囲が割り込めないほど親密に笑い合っていた。

胸が、酷く痛む。

一瞬、彼の隣にいる自分を見た気がした。

……でも、それは私じゃない。

私は楽譜を握りしめ、一歩を踏み出した。

「蓮……お誕生日、おめでとう」

蓮が振り返る。

その切れ長の瞳に浮かんだのは、明確な嫌悪だった。

「来るなと言ったはずだ」

ざわめきが広がる。

そこへ玲奈が、わざとらしく小首を傾げて割り込んできた。

「あら?さっき門の前をうろうろしていた子じゃない。てっきり、神崎家の新しい使用人かと思ったわ」

周囲から失笑が漏れる。

私は黙ったまま、拳を強く握りしめた。

手にしていた楽譜の端が、くしゃりと音を立てて歪んでいく。

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第1話
――その音がなければ、彼は眠れない。それを知っているのは、世界でただ一人。私は三年前、神崎蓮の婚約者になった。彼は同じ大学に通う、有名な財閥の御曹司。容姿端麗で、ピアノを弾かせたら右に出るものはいない、誰もが羨む完璧な男だ。そんな彼と私が婚約したのには、理由がある。私の祖母から盗まれた、家宝のバイオリンの手がかりを得るため。彼の父である神崎トオルが何かを握っていると確信したからだ。彼に近づけば、必ず取り戻せる。けれど、偽りの気持ちだけではなかった。本当に彼が好きだった。幼い頃、私は演奏会で一度彼に会っている。私はバイオリン、彼はピアノ。私が優勝し『百年に一度の天才』と称された夜だ。本当は、彼と共にもう一度舞台に立ちたかった。彼がピアノを弾き、私がバイオリンを奏でる。そんな光景を想像するだけで幸せだった。しかし婚約が決まり、真実を打ち明けようとしたその時、彼の初恋の人が海外へ旅立った。そして彼は、その原因を全て私のせいだと思い込んだのだ。「おまえのせいで、あいつは離れた」蔑むような彼の目を、今でも覚えている。違うと否定できなかった。彼のそばにいられるなら、誤解されたままでもいいと思ってしまったから。“あの頃の演奏者”が私だということを隠したまま、私は三年間、彼に尽くし続けた。楽譜を書き、食事を用意し、生活の全てを捧げる。私の想いは、いつかきっと彼に伝わるはずだと信じて。それでも蓮は、一度も私を見なかった。感謝も優しさもないまま、私はただ“影”のようにそこにいた。私はもう、彼のそばに居続けるべきではないのかもしれない……。――祖母のバイオリンさえ見つかれば。それが唯一の希望だった。契約を解いて、ここを離れられる。そう信じて、今日まで耐えてきた。そんなある日、祖母のバイオリンについて新たな手がかりが見つかった。これを機にバイオリンが見つかれば、もしかしたら、これが彼の誕生日を祝う最後になるかもしれない。そう思うと、急に切なさが込み上げてくる。愛しているのに、それをうまく伝えることができず、唯一できることといえば、彼に癒しを与えること。彼は昔から不眠症で、いつも同じ曲を繰り返し聴いていた。きっともう、聞き飽きているはずだ。この新曲が、少しでも彼を癒せたらいいのだけど。一週間眠らずに、私は新しい
last updateLast Updated : 2026-06-30
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第2話
あまりにも分かりやすい悪意だった。生まれてから今まで味わってきた理不尽のほとんどは、蓮と、その周囲の人間によるものだった。それでも、これ以上、彼の誕生日を台無しにしたくない。彼女の嫌味に応えることなく、私はただ礼儀正しく頭を下げた。「使用人だと思わせてしまったのね。誤解させてしまってごめんなさい」震える手で、一週間徹夜して書き上げた楽譜を蓮に差し出す。「これから毎日、よく眠れますように」蓮は無言でそれを受け取り見下ろした。そして、ふっと笑う。「……これがお前の音楽か?」「……え?」「この程度で玲奈の楽譜と並ぼうとしているのか。図々しい」……違う。今までの曲も、私が作ったもの。あの女が描いたものじゃない!蓮は誤解してる!全部、私のっ……!言葉にできない叫びを飲み込んだ、その時。蓮がポケットからライターを取り出し、カチリと、乾いた音が響いた。「あ……やめてっ!」あっという間に炎が紙を飲みこみ、一瞬で燃え上がった。「こんなゴミが音楽だと?こんなものしか描けない価値のないおまえの手は、これからも床を拭いていればいい」嘲笑が広がる中、私は動けなかった。私の音も、想いも、三年間費やした時間も、全て灰になっていく。どれだけ努力しても結局、この人との関係が変わることはないのだ。その時。「きゃっ!」短い悲鳴が上がった。見ると、玲奈が床に倒れ込んでいる。その手から溢れたスープが床に広がっていた。「今、この子がわざと私にぶつかって、スープを……」玲奈は涙を浮かべ、私を指さした。「え……違……」「何をしている」私の否定の言葉を遮るように、短い声が空気を切り裂いた。蓮は私を一瞥もせず、玲奈に駆け寄ってその身体を抱き上げた。「大丈夫か?」「スープが熱くて、少し火傷を……」震える玲奈の声を聞いた瞬間、蓮の目が据わった。「謝れ。今すぐ、謝れ」冷徹な命令。「謝れないのか」その一言に、胸が締め付けられる。違うと言っても信じてもらえない。心の奥で、何かが静かに切れた。――もともと、この場所は私のものではなかったんだから。玲奈が勝ち誇った目を隠し、善意のふりをして蓮の胸に縋る。「蓮、もういいわ。彼女も悪気はなかったのよ。私、少し驚いてしまって……。ここから、離れたいの」蓮は私を見捨てるように、二度と振り返るこ
last updateLast Updated : 2026-06-30
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第3話
あの日を境に、大学での私は完全に孤立した。遠巻きに見る同級生たちの口から出るのは、「盗作者」「性格の悪い婚約者」という、心無い噂ばかり。否定する気力すら、今の私には残っていなかった。昼休み。私は習慣のままに、蓮のために作った弁当を持って音楽室へと向かった。ドアを開けた瞬間、空気が凍りつく。中にいたのは、蓮と西園寺玲奈だった。「あの……お弁当を」震える声を必死に抑え、蓮ものとへ足を進める。「こ、ここに置いておきます」婚約者は私だというのに、何をこんなに二人に対して遠慮しなければならないのか。私がピアノ横の机にお弁当をおくと、視界の隅で玲奈が静かに口角を上げたのがわかった。「ちょうどいいわ」耳元で囁かれた、その直後。ガシャン!と激しい衝撃音が響いた。床に転がったのは、高価なバイオリン。「……あ、どうしてくれるの?これ、私にとってとても大事なものなのに」わざとらしい声。周囲の生徒たちの視線が一斉に私に突き刺さる。「謝れ」蓮の低い声が容赦無く落ちてきた。「そうだ。外へ出ろ。ちょうど雨も降っている。謝るにはいい舞台じゃないか。そこで土下座して謝れ」窓の外は激しい土砂降りだった。――どうして、そこまで私を嫌うの?絶望が怒りへと変わる。私はまっすぐに蓮を見据え、初めて彼に逆らった。「……嫌」一瞬、空気が止まる。蓮の目が見開かれた。「……なんだと?」「私は、やってない。だから、謝らない」凍りつく室内を後にし、私は激しい雨の中へ飛び出した。全身を叩く雨。息が苦しい。それでも、走る足を止められなかった。家に帰り着いた瞬間、視界が歪んで床に崩れ落ちる。異常な寒気と高熱。意識が遠のく暗闇の中で、懐かしいバイオリンの旋律が聞こえた。気づけば、私は幼い頃の海辺にいた。波の音。夕焼け。そして、一人の少年。「……泣くなよ」幼い頃の蓮が、まっすぐな目で私を見つめていた。「必ず、見つける。一生、守るから」――嘘つき。激しい拒絶感とともに意識が浮上した。部屋は真っ暗で、誰もいない。いつも通りの孤独だ。その時、枕元のスマホが震えた。画面に表示されたのは、西園寺玲奈からのメッセージ。添付されていたのは、薄暗いバーの片隅で、深くキスを交わす蓮と玲奈の写真だった。それを見た瞬間、涙すら出なかった。ただ
last updateLast Updated : 2026-06-30
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第4話
もう、何も感じない。心はすっかり冷え切っている。神崎蓮のそばから、離れる。そのためには、一刻も早く祖母のバイオリンを見つけ出さなければ。私はすがるような思いで、蓮の父である神崎トオルへ初めて電話をかけた。呼び出し音が長く響いたあと、聞こえてきたのは冷徹で傲慢な声だった。「……何の用だ。蓮の婚約者風情が、私に直接連絡してくるなど身の程をわきまえなさい」「神崎総帥、お願いです。おばあさまのバイオリンを返してください。あれが我が家の……」「黙れ」トオルは私の言葉を冷酷に遮った。「近頃、大学で盗作騒ぎだの不穏な噂が立っているのは知っている。神崎家の名を汚すような真似をする小娘に、くれてやるものなど何一つない。余計なことはするな。大人しく蓮の影として床でも拭いていろ」ガチャリと、一方的に通話を切られ、ツーツーという電子音だけが虚しく響く。拳を握りしめる。やはり、まともな手段では取り合ってもらえない。そんな時、スマホに一通のメールが届いた。「……え?」『全国大学生作曲コンクール、決勝進出のお知らせ』過去に、投げやりな気持ちで応募していた曲だった。「……うそ」決勝は生演奏審査。そして、進出者リストの演奏家枠には……神崎蓮と、西園寺玲奈の名前があった。逃げるように蓋をしていた世界が、私を強制的に引き戻そうとしている。その日の放課後。教室のドアが乱暴に開き、蓮が姿を現した。「なんで黙ってた?」「……何のこと?」「とぼけんな。コンクールの選出者リストを見た。お前の名前があったぞ。なぜ俺に言わなかった」机に手をつき、顔を近づけてくる蓮。その瞳は焦燥と怒りが混じっていた。「別に、言う必要ないでしょ?私の問題だから」冷たく突き放すと、蓮の表情が一瞬、痛みに耐えるように歪んだ。「……ふざけんなよ」「ちょうどいいところにいたわね」遮るように現れたのは、玲奈だった。彼女は冷酷な笑みを浮かべ、私の前に立つ。「その曲、私の盗作よね?私が前に作ったフレーズと全く同じ。証拠もあるわ。今なら間に合うから辞退しなさい。でないと、全て公表するわよ」頭の中が真っ白になる。だが、三年間虐げられてきた私の魂が、初めて明確な拒絶の炎を上げた。「……やめない。絶対に、思い通りにはさせない。この曲は、私のものだから」玲奈の目が細くなる。嵐の前
last updateLast Updated : 2026-06-30
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第5話
「……ねぇ、あの子、本当に盗作したらしいよ」「嘘でしょ?最低。よくそんな不届きなことできるよね」翌朝。大学の門をくぐった瞬間から、世界は反転していた。廊下を行き交う生徒たちの口からこぼれ落ちる、容赦のない囁き声。向けられる視線はどれも冷たくて、好奇と嫌悪に満ちている。噂は一夜にして校内を駆け巡り、私に弁明の機会など最初から与えられていなかった。「ちょっと説明してもらえる?」人気のない渡り廊下に呼び出され、行く手を阻まれる。目の前に立ちはだかるのは、腕を組んで傲慢に見下ろしてくる西園寺玲奈。そしてその背後には、彫刻のような顔を激しく強張らせた神崎蓮が立っている。私は一歩も引かず、玲奈の目をまっすぐに見据えた。「私は盗作なんてしてないわ。どうしてあなたがそんなことを主張できるのか、むしろそっちの方が理解に苦しむんだけど」毅然と言い放った私に、玲奈は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに哀れむようなわざとらしい失笑を漏らした。「まだそんな見苦しい言い訳をするつもり?偶然にしては、曲の核心部分のフレーズが私が作ったものと酷似しすぎているのよ。自分の実力不足を、他人の才能を盗むことで補おうだなんて、本当に惨めね」言葉のナイフが、容赦無く突き刺さる。だが、それ以上に私の胸を抉ったのは、隣に立つ蓮の一言だった。「おまえ、本当に恥さらしだな」「蓮……?」「周囲から疑いの目を向けられている、その事実だけでおまえの音楽は終わっているんだ。これ以上、神崎家の名を汚すな」いつの間にか、私たちの周りには大勢の野次馬が集まっていた。何十人もの冷ややかな視線が、私を罪人として縛り付ける。「私はやってない」「往生際が悪いぞ。言い訳するな」「ふうん。そんなに頑ななのは、このノートに何か秘密があるからかしら?」玲奈が私の鞄から、強引に一冊のノートを抜き取った。それは、私が血の滲むような思いで音楽を書き留めてきた、大事な楽譜だった。「返して……っ!」「こんな、他人のアイデアを盗み合わせただけの一文の価値もない楽譜なんて」玲奈がニヤリと笑った瞬間、バサリと鈍い音がした。白い紙が宙を舞う。階段の吹き抜けの空間へ、バラバラと引き裂かれながら落ちていく、黒い音符たち。私の三年間が、私の魂の叫びが、無残に汚されていく。「やめて!!」気がついた時には、身
last updateLast Updated : 2026-06-30
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第6話
放課後の喧騒が去った無人の廊下で、私は冷たい床に膝をつき、バラバラに散らばった楽譜を一枚ずつ、指先を振るわせながら拾い集めていた。白い紙は無残に踏みにじられて黒く汚れ、破けた端々が私の引き裂かれた心のようだった。どれだけ集めても、何ページか足りない。胸の奥が、すうっと音を立てて冷え切っていく感覚がした。……全部、もう戻らない。あの日から、私の心は決まっていた。神崎蓮のそばを、今すぐにでも離れる。その意志に曇りはなかった。だけど、現実はそれほど甘くはなかった。今ここで彼とのつながりを完全に断ち切ってしまえば、手がかりは永遠に失われ、私は全てを一人で背負って暗闇を彷徨うことになる。それでもいい。と、ノートを胸に抱きしめながら、私は強く唇を噛んだ。たとえどれほど険しい道であっても、これ以上、あの男のそばで魂を削られるわけにはいかない。そして迎えた、コンクール当日。格式高いホールの舞台裏に立った私の耳に、容赦のないざわめきが突き刺さってきた。「おい、あいつだろ?ネットで噂になってる盗作の……」「図々しいよね。良くもまあ、こんな神聖な場所まで来る勇気があるわ」観客席からの冷ややかな視線だけじゃない。そこには、神崎財閥や西園寺家に少しでも取り入ろうとする、魂を売った審査員たちの姿もあった。彼らは私とすれ違うたびに、聞こえるようにわざとらしく息をはき、蔑みの言葉を投げかけてくる。「才能のない人間が、汚い真似をしてまで舞台に立ちたいものかね。早く出ていきなさい。目障りだ」四面楚歌。張り詰めた緊張感と、圧倒的な周囲の圧力が私を押し潰そうとする。だけど、不思議と足は震えなかった。私はただ、自分の信じる音楽だけを抱いて、スポットライトの当たるステージへと歩みを進めた。私の演奏が、始まる。張り詰めた空気の中、私の指先が紡ぎ出す旋律は、怒りと悲しみを孕んでホール全体を支配していった。誰もが言葉を失い、圧倒されるほどの独自の音色。演奏が終わり、静寂が訪れる。その直後、割れんばかりの拍手が沸き起こった。ステージ中央に集められた進出者たちの前で、審査員長が厳かに口を開いた。「厳正なる検証の結果、本作品について、西園寺玲奈氏の楽曲との盗作の事実は一切認められません。類似性は極めて限定的であり、偶然によるものとします。むしろ、この楽曲の独自性
last updateLast Updated : 2026-07-01
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第7話
​薄暗いマンションの玄関で、私がスーツケースを手にドアノブへ手をかけた、まさにその瞬間だった。 ​「どこに行くつもりだ」 ​地鳴りのような低い声の直後、背後から強引に腕を掴まれ、視界が激しく反転した。 ​「離して……っ!」 「無理だ」 ​間髪入れずに返された拒絶。壁に背中を強く打ち付けられた瞬間、目の前にある顔の近さに息が詰まった。 わずかに感じるアルコールの匂い。けれどそれ以上に、彼の身体から発せられる熱量が、いつもと違って異常なほどに高かった。 ​「兄貴のところに行く気か」 鋭く図星を刺され、言葉が喉に詰まる。 「……あなたには関係ないでしょ」 ​すると、蓮は酷く歪んだ焦燥と、冷酷な怒りが混ざり合った目で私を睨みつけた。 ​「関係あるさ。やはり、お前が俺に近づいたのには最初から目的があったんだな。神崎の家にすり寄って、一体何を探るつもりだ?」 「なっ……」 「何も言わずに消えれば、逃げ切れるとでも思ったか。なら、お前が二度と立ち上がれないくらい、痛い目を見せてやる」 ​蓮は私の両手首を掴んだまま、逃げ場を塞ぐように完全に壁に押し付けた。息が触れ合うほどの距離。 彼は私が何かを隠していることを察し、その裏切りへの恐怖と歪んだ独占欲から、力尽くで私を支配しようとしていた。 ​「もう……全部終わったからよ! 離して!」 「終わってねぇ。勝手に終わらせるな」 「終わってるのよ!」 ​抑え込んできた感情が、私の内側で一気に爆発した。 ​「私の気持ちも、夢も、あなたとの関係も! 三年間、私はあなたの影だった。だけど、あなたの隣にはもう、あなたが命がけで守りたい西園寺玲奈がいるじゃない!」 ​叫んだ私の瞳から、耐えきれず涙が溢れ落ちる。 ​「あいつは関係ない。俺が欲しいのは、お前だけだ」 ​蓮の熱い指先が、私の頬の涙をなぞり、無理やり顔を上げさせた。抵抗する私の唇を、蓮は強引に塞いだ。 それは、これまで彼が私に向けてきたどの態度よりも苛烈で、狂おしいほどの執着が混じった、初めてのキスだった。 ​頭の芯が痺れ、抗えない力に圧し折られるように、私たちはベッドへと崩れ落ちた。 ​夜の暗闇の中、熱い吐息とシーツの擦れる音だけが響く。三年間、待ち続けた瞬間だった。けれど、胸に広がったのは喜びではなく、冷たい静けさだった。蓮……
last updateLast Updated : 2026-07-01
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第8話
目を覚ました瞬間、隣のシーツはすでに冷たくなっていた。蓮はもう家を出たのだろう。いつもなら彼が起きる時間に合わせて私が完璧に温度を整えていた部屋も、今朝はどこかよそよそしい。リビングの廊下ですれ違った時も、蓮は何事もなく家を出て行った。「おはようも」も「行ってきます」の一言すら、そこにはない。だけど、傲慢な彼が私を気にかけることなんて、最初からなかった。ただの無能な道具が、少しばかり不機嫌なだけだろうと思っているに違いない。蓮が扉を閉めた音を確認すると同時に、私はシャワー室へと向かった。温かい湯を浴びながら、昨夜、無理やり抱かれた時の蓮の奇妙な違和感を思い出す。明らかに、様子がおかしかった。冷徹な蓮が見せた、ほんのわずかな動揺。何かがあったに違いないと、私の直感が告げていた。それは、自分がこの神崎家に潜り込んだ真の目的ーー奪われた祖母の形見であるバイオリンを取り戻すという計画に、大きく関わることかもしれない。シャワーを出た私は、無表情のまま避妊薬を口に含み、水で一気に飲み干した。蓮との間に結んだ契約の時、私は「あなたのファンだから」と従順な理由を説明していた。だが、それは真っ赤な嘘。本当の理由は、トオルとの取引。神崎家が不正に囲い込んでいる祖母の遺品を、この手で奪い返すための潜入だった。夕方、帰宅した蓮の姿を見つけ、私は意を決して彼の前に立った。昨夜の違和感の理由を突き止め、バイオリンの手がかりを囲むために。「蓮、昨夜のことなんだけど……」しかし、その言葉が最後まで紡がれることはなかった。蓮のポケットでスマートフォンの着信音がけたたましく鳴り響いたからだ。蓮は私を一瞥すらせず、画面を見てすぐに踵を返した。彼がそのまま何も言わずに部屋を出ていく後ろ姿を、私は冷ややかに見送った。焦る必要なない。確実な包囲網を築けばいいだけだ。自室に戻った私はバイオリンのケースを開け、冷たい弦に指先を触れさせた。三年間、神崎蓮の前で飲み込み続けてきた言葉。西園寺玲奈に踏みにじられ、ゴミだと切り捨てられた楽譜の旋律。誰にも届かずに消えていくはずだった私の痛みが、怒りが、そして狂おしいほどの情熱が、すべて音の形をとって部屋の闇を引き裂くように溢れ出す。まだ、この音を世界に届けるための「仮面」は手元にない。けれど、この己の魂を音
last updateLast Updated : 2026-07-06
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第9話
翌朝、私はいつもより少し遅い時間にベッドから這い出した。いつもなら、蓮が起きる前に彼のその日の気分や天候に合わせた完璧なスーツを選び、ネクタイを揃え、ハンカチを用意しておくのが「無能で健気な婚約者」である私の日課だった。けれど、もうそんな必要はない。クローゼットの扉は閉じたまま、私は自分の身支度だけを淡々と済ませる。キッチンに向かい、蓮のために何日も前からメニューを考えて仕込むような、手の込んだ朝食や弁当を作るのを一切やめた。もちろん、掃除や洗濯といった彼のための家事も、これからは一切するつもりはない。起きてきた蓮は、リビングのテーブルに何も用意されていないのを見て、明らかに戸惑ったような表情を浮かべた。いつもなら彼が席につくタイミングで完璧に淹れられていたコーヒーすら、そこにはないのだから当然だ。「おい。俺の服はどうした。朝食の用意もまだなのか?」怪訝そうに、どこか苛立ちを孕んだ蓮の声が私に浴びせられる。これまでの私なら、「ごめんなさい、蓮。すぐに用意するわ」と慌てて頭を下げていただろう。けれど、今の私は冷めた瞳で彼を一瞥しただけだった。「自分で用意したらどう?クローゼットを開けば、服くらい入っているでしょう?」「なんだと……?」蓮が信じられないといった風に目を見開く。話しかけられれば返事こそするものの、私の態度はまるで赤の他人のように冷え切っていた。これまでの従順さを完全に捨て去り、境界線を引き、一定の距離を保つ。彼の機嫌を取るためだけに存在していた「神崎家の道具としての音羽」は、もうこの屋敷のどこにもいないのだ。私に一切の世話をされなくなった蓮の生活は、そこから見る影もなく乱れていった。身の回りの管理を全て私に丸投げしていたツケが回ったのだろう。自分で選んだネクタイの色はどこかちぐはぐで、お気に入りのシャツにはシワが寄り、家を出る時間すら遅れがちになっていく。傲慢な彼が、いかに私の「搾取」の上にその完璧な日常を成り立たせていたかが、滑稽なほど浮き彫りになっていた。そんな蓮の哀れな姿を冷酷に見下ろしながら、私はある計画を実行に移すために街へと繰り出た。向かったのは、路地裏にひっそりと佇む、知る人ぞ知る特注の美術品を扱う工房だ。事前に兄を通じて手配しておいたその店で、私は職人の前に座り、静かに注文を告げた。「私の
last updateLast Updated : 2026-07-06
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第10話
私の態度が完全に冷え切ってから数日、蓮の焦りと苛立ちは頂点に達していたようだった。彼は私の異変を「あの夜、無理に抱いたことで拗ねているだけだ」と都合よく思い込んでいた。自分の傲慢さが私をここまで変えたとは夢にも思わず、「女なんて、欲しがっていたものを与えればすぐに機嫌を直す」と高を括っていたのだ。そして蓮は、私の心を決定的に踏みにじる、最悪の行動に出た。「いいか。今週末に玲奈とその友人たちをこの家に招待する。お前は、俺の誕生日にいつも作っているような、あの豪華な料理を用意しろ」蓮は冷たい声で、私にそう命じた。彼の目的は明白だった。わざと私の前で玲奈と親しく振る舞い、私に猛烈な嫉妬をさせて、主導権を握り直そうという浅はかな当てつけだ。その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥で、何かが静かに、けれど完全に終わりを迎えた。毎年、彼の誕生日のために、私が何日も前から寝る間を惜しんでメニューを考え、指を傷だらけにしながら必死に準備していた特別な料理。私の心の結晶だったそのおもてなしを、今度は彼が囲っている愛人、西園寺玲奈とその取り巻きたちのために作れと言うのだ。さらに蓮は追い討ちをかけるように、机の上に一冊の楽譜を放り出した。それは、私がかつて蓮の誕生日に、魂を込めて書き上げて贈った自作の楽譜だった。蓮が価値のないゴミだと吐き捨て、その手で無惨に破り捨てたはずの……それを、彼が後から拾い集め、歪に貼り合わせたものだった。「玲奈が新しい曲を探していてな。これをお前にやろうと思ったが、玲奈へのプレゼントとして渡すことにした。お前がずっと欲しがっていたのは、これだろ?そんなに怒ることか?」蓮は勝ち誇ったような、底冷えする笑みを浮かべていた。私が必死に紡いだ旋律を、私の目の前で玲奈に貢ぐ道具にする。それが私への最大の罰であり、嫉妬を煽る特効薬だと信じて疑わないその姿が、猛烈に滑稽で、吐き気がするほど酷かった。……ああ、本当に、救いようのない男私は感情を完璧に押し殺し、ただ静かに「わかったわ」とだけ答えた。その夜、蓮が玲奈の元へ出かけた静まり返った屋敷で、私は行動を起こした。クローゼットの奥から、蓮との三年間の思い出の品々を全て引っ張り出す。初めての記念日にもらったアクセサリー、彼のために買ったお揃いの小物、彼の好みに合わせて選んだ服……それら全てを
last updateLast Updated : 2026-07-06
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