LOGIN祖母の形見のヴァイオリンを取り戻すため、音羽は神崎家の御曹司・蓮と契約結婚をする。しかし蓮は、初恋の女性を失った原因が音羽にあると誤解し、三年間彼女を憎み続けていた。心を込めて作った楽譜まで破り捨てられた音羽は離婚を決意するが、その瞬間から蓮は態度を一変させる。不審に思った音羽は契約の真相を探るため彼の側に残りつつ、仮面の天才ヴァイオリニストとして世界へ羽ばたいていく。やがて蓮は、自分が憎んだ契約妻こそ追い求め続けた音色の持ち主であり、幼い頃から探していた命の恩人だったという真実を知る。すべてを失いかけた彼は、彼女の心を取り戻そうと奔走する。
View More――その音がなければ、彼は眠れない。
それを知っているのは、世界でただ一人。
私は三年前、神崎蓮の婚約者になった。
彼は同じ大学に通う、有名な財閥の御曹司。
容姿端麗で、ピアノを弾かせたら右に出るものはいない、誰もが羨む完璧な男だ。
そんな彼と私が婚約したのには、理由がある。
私の祖母から盗まれた、家宝のバイオリンの手がかりを得るため。
彼の父である神崎トオルが何かを握っていると確信したからだ。
彼に近づけば、必ず取り戻せる。
けれど、偽りの気持ちだけではなかった。
本当に彼が好きだった。
幼い頃、私は演奏会で一度彼に会っている。
私はバイオリン、彼はピアノ。
私が優勝し『百年に一度の天才』と称された夜だ。
本当は、彼と共にもう一度舞台に立ちたかった。
彼がピアノを弾き、私がバイオリンを奏でる。
そんな光景を想像するだけで幸せだった。
しかし婚約が決まり、真実を打ち明けようとしたその時、彼の初恋の人が海外へ旅立った。
そして彼は、その原因を全て私のせいだと思い込んだのだ。
「おまえのせいで、あいつは離れた」
蔑むような彼の目を、今でも覚えている。
違うと否定できなかった。
彼のそばにいられるなら、誤解されたままでもいいと思ってしまったから。
“あの頃の演奏者”が私だということを隠したまま、私は三年間、彼に尽くし続けた。
楽譜を書き、食事を用意し、生活の全てを捧げる。
私の想いは、いつかきっと彼に伝わるはずだと信じて。
それでも蓮は、一度も私を見なかった。
感謝も優しさもないまま、私はただ“影”のようにそこにいた。
私はもう、彼のそばに居続けるべきではないのかもしれない……。
――祖母のバイオリンさえ見つかれば。
それが唯一の希望だった。
契約を解いて、ここを離れられる。
そう信じて、今日まで耐えてきた。
そんなある日、祖母のバイオリンについて新たな手がかりが見つかった。
これを機にバイオリンが見つかれば、もしかしたら、これが彼の誕生日を祝う最後になるかもしれない。
そう思うと、急に切なさが込み上げてくる。
愛しているのに、それをうまく伝えることができず、唯一できることといえば、彼に癒しを与えること。
彼は昔から不眠症で、いつも同じ曲を繰り返し聴いていた。
きっともう、聞き飽きているはずだ。
この新曲が、少しでも彼を癒せたらいいのだけど。
一週間眠らずに、私は新しい曲を書き上げた。
彼の誕生日で渡すための物。
「……できた」
指の感覚はない。
それでも、これを渡せば少しは変わるかもしれないと、淡い期待を抱いていた。
夜。誕生日パーティーの会場前で、私は立ち止まった。
『来るな』と言われていた場所。
それでも来たのは、これが最後だと思ったから。
「それ、持っていくの?」
背後から声がした。
振り向いた瞬間、息が止まる。
着ている服が違わなければ、鏡を見ているのかと思った。
ああ……。
やっとわかった。
彼が私を婚約者にしたのは、この子に似ているから。
ただ、それだけだったんだ……。
彼女は華やかで、傲慢なほどの自信に満ち溢れていた。
「あなたが蓮の婚約者?トオルおじさまがどうしてこんな地味な人を連れてきたのかしら。まあ、確かに扱いやすそうではあるけれど」
彼女は西園寺玲奈。蓮が執着する、あの“初恋の人”だった。
「安心して。すぐに終わるから」
不敵な笑みを残し、彼女はひと足さきに会場へ消えた。
会場に入ると、冷ややかな視線が一斉に私に突き刺さる。
嘲りと興味の混じった空気の中を歩く。
神崎蓮はすぐに見つかった。
人々の中心で当然のように佇む彼の隣には、さっきの玲奈が、まるでそこが自分の指定席であるかのように寄り添っている。
二人には周囲が割り込めないほど親密に笑い合っていた。
胸が、酷く痛む。
一瞬、彼の隣にいる自分を見た気がした。
……でも、それは私じゃない。私は楽譜を握りしめ、一歩を踏み出した。
「蓮……お誕生日、おめでとう」
蓮が振り返る。
その切れ長の瞳に浮かんだのは、明確な嫌悪だった。
「来るなと言ったはずだ」
ざわめきが広がる。
そこへ玲奈が、わざとらしく小首を傾げて割り込んできた。
「あら?さっき門の前をうろうろしていた子じゃない。てっきり、神崎家の新しい使用人かと思ったわ」
周囲から失笑が漏れる。
私は黙ったまま、拳を強く握りしめた。
手にしていた楽譜の端が、くしゃりと音を立てて歪んでいく。
アメリカにあるICPOの厳重な会議室。重厚なオーク材のテーブルを挟み、私とケビンは特別捜査官たちと対峙していた。テーブルの上に置かれたのは、おばあ様の「黒のストラディバリウス」から取り出されたマイクロフィルムと、ケビンのチームが解析した膨大な暗号データだ。「……信じがたい。これほど完璧な裏帳簿と不法送金ルートのデータが存在していたとは」初老の捜査官が眼鏡のフチを触りながら、感嘆と驚愕の入り混じった溜め息を漏らした。画面に流れるデータには、神崎グループが長年行ってきた不正な資金洗浄だけでなく、彼らを影で操っていた闇組織の本拠地や、主要幹部たちの口座情報までが明晰に記録されている。「音羽さん、そしてKJ氏。あなた方が命がけで保全してくれたこの証拠により、本日付で国際的な一斉捜査本部が設置されます。日本側の特捜部とも連携し、ただちに強制捜査へと移行します」捜査官の力強い言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥にすっと静かな温もりが広がっていった。「ありがとうございます。……このデータは、私の亡き祖母が命をかけて遺してくれたものです。正しく使っていただけるなら、おばあ様もきっと喜んでいます」隣に座るケビンが、そっと私の手に自分の手を重ねてくれた。そのぬくもりが、私が歩んできた過酷な道のりが決して無駄ではなかったのだと教えてくれていた。一方、日本――夕闇に包まれる神崎家の屋敷。屋敷の外壁を取り囲むように、何台もの黒い車両が静かに停車した。車内から一斉に降り立ったのは、警察庁および東京地検特捜部の捜査員たちだった。重々しい玄関の扉が押し開けられ、ノックの音もなく踏み込んでいく。「神崎当主ですね。金融商品取引法違反および不法送金の容疑、ならびに組織犯罪処罰法違反の疑いで逮捕状が出ています」嵐のような捜査員のなだれ込みに、執務室で放心していた当主はガタガタと震え上がった。「な……何を言っている! 私は神崎家の当主だぞ! たかが警察ごときが私に手を触れるなど――」「往生際が悪いぞ。お前の裏口座も、組織との取引履歴も、すべて白日の下に晒されているのだ」手錠がかけられ、冷たい金属の感触が当主の腕を締め付ける。権力と威厳を誇ってきた男の哀れな没落の瞬間だった。その頃、屋敷の2階の廊下を、虚ろな目をした神崎蓮が彷徨っていた。下階から聞こえる怒号や足音すら、いま
神崎家の執務室には、痛々しいほどの静寂が広がっていた。机上に乱雑に散らばった財務書類、そしてICPOおよび東京地検特捜部からの捜査通告書。トオルは青ざめた顔でそれらを睨みつけながら、震える手で受話器を握りしめていた。「おい、どうなっている! 資金の海外逃避ルートがすべて塞がれているぞ! 約束が違うではないか!」電話の相手は、西園寺玲奈をすり替え、影から神崎家をコントロールしてきた組織の幹部だった。しかし、受話器から返ってきたのは、冷酷で乾いた笑い声だけだった。『神崎当主、状況が理解できていないようだな。君の役割はもう終わったのだよ』「な、何だと……!?」『あの音羽という娘とKJの手によって、我々の核心データがすでに警察へ渡っている。君の神崎グループは、当局の目を逸らすためのただの『トカゲの尻尾』だ。せいぜい一人で罪をかぶってくれたまえ』「待て! 待ってくれ! 玲奈はどうなる! 我が家の資産はどうなるのだ!?」トオルの悲痛な叫びも虚しく、ツーツーという切断音が響き渡った。長年、自分こそがすべてを支配していると思い込んでいたトオル。だが最後には、巨大な闇組織の手の中で踊らされ、切り捨てられた哀れな駒に過ぎなかったのだ。当主は力なく膝から崩れ落ち、頭を抱えて呻いた。一方、暗い密室に閉じ込められていた西園寺玲奈のもとへ、静かに足音が近づいてきた。重々しい扉の鍵が開けられ、中に入ってきたのは、髪を乱し、血の走った目で自分を見つめる神崎蓮だった。「……蓮」玲奈は膝を抱えたまま、冷めた瞳で彼を見上げた。酒と薬、そして絶望によって正気を失いかけている蓮は、ふらつく足取りで玲奈の前にしゃがみ込むと、彼女の肩を激しく掴んだ。「お前……どうして音羽のふりをした……? どうして俺を騙したんだ……!」「……騙した?」玲奈は自嘲気味にクスリと笑った。「騙されたのはあなたの方よ、蓮様。あなたは音羽しか見ていなかった。だから、音羽の服を着て、音羽の香水をつけただけの私に縋りついたんじゃない。……私を音羽にしたのは、あなた自身よ」「黙れ……! 俺が愛しているのは音羽だけだ! お前なんかに……お前なんかに用はない!」狂ったように叫ぶ蓮に対し、玲奈の瞳からツッと一筋の涙がこぼれ落ちた。「そうね……分かっているわ。最初から知っていた……。でもね、蓮。私はあ
ツーツー、という無機質な切断音が虚しく室内に響いた。神崎蓮は、自分の手に握られたスマートフォンを固まったまま見つめていた。拒絶の言葉、冷たく言い放たれた「二度と連絡しないで」という音羽の声。それが何度も彼の脳裏で繰り返される。「音羽……頼む……嘘だと言ってくれ……」画面をタッチし、再び同じ番号へ発信しようとしたが、呼び出し音すら鳴らなくなった。完全に着信拒否されたことを悟った瞬間、蓮の手から力が抜け、端末が硬い床へと落下して画面にひびが入った。彼がかつて誇っていた権力も、刺されてまで手に入れたと思っていた「許し」も、すべては己の身勝手な妄想に過ぎなかった。「う……あああああッ!」蓮は頭を抱え、獣のような叫び声をあげながら床に伏し転んだ。自分自身が犯してきた罪の深さ、音羽の心をどれほど踏みにじって痛めつけてきたのかという現実が、いまさら巨岩のような重圧となって彼の全身を押し潰していた。一方、神崎トオルの執務室のドアが乱暴に叩かれた。トオルが返事をする間もなく、扉が開かれる。入ってきたのは、いつもと違う重々しい雰囲気を纏った弁護士と、顔色を失った神崎グループの幹部たちだった。「神崎社長。大変なことになりました」「な、何事だ。ノックもなしに入ってくるとは無礼な……」トオルは強がりを口にしようとしたが、弁護士がテーブルの上に叩きつけるように置いた一束の書類を見て言葉を失った。「海外の主要取引先から、一斉に契約解除の通知が届きました。さらに、ICPOからの情報提供を受けた東京地検特捜部が、我が社の海外不法送金および裏組織との不透明な資金循環について正式な捜査を開始した模様です。……もう、隠しきれません」「何だと……!?」当主の顔が、瞬く間に土気色へと変わる。「そんな馬鹿な……! 我が神崎家が、長年築き上げてきたこの帝国が、たかが一度の捜査で揺らぐはずが……!」「一度の捜査ではありません」弁護士は冷ややかに首を振った。「内部の極秘データ、それも過去数十年にわたる裏帳簿の完全なコピーが、完璧な形で当局に提出されたのです。内部関係者の情報提供がなければ、これほど完璧な証拠が揃うはずがありません」トオルの脳裏に、かつて屋敷を去っていった音羽の冷ややかな眼差しと、彼女が持っていたあの「黒のストラディバリウス」の姿が浮かび上がった。あの
神崎家の屋敷を包む空気は、もはや重苦しい不穏さに満ちていた。トオルの執務室では、鳴り止まない電話のベルが虚しく響いている。取引先からの問い合わせ、銀行からの融資引き揚げ、そして捜査機関からの事前通告。当主は青ざめた顔で書類を撒き散らしながら、必死に裏のルートへ連絡を取ろうとしていたが、画面に表示されるのは無情なエラー表示ばかりだった。「クソッ……! ボスめ、俺を……神崎家を切り捨てたというのか……!?」長年、影の組織と手を組み、権勢を誇ってきたトオル。だが、組織にとって神崎家など、目的を果たすための資金源であり捨て駒に過ぎなかったのだ。足元から崩れていく帝国を前に、当主は初めて「真の孤立」という恐怖に震えていた。一方、かつて音羽が使っていた部屋で、神崎蓮は力なく床に座り込んでいた。酒と薬のせいで荒れた身体は限界を迎えていたが、彼の頭の中を占めているのは、激しい後悔と音羽への不格好な愛着だけだった。「俺が……間違っていた……。音羽、頼むから俺の声を聞いてくれ……」蓮は震える手でスマートフォンを握りしめ、幾度目になるか分からない音羽の番号へ発信ボタンを押した。 未読のまま放置されたメッセージの山。繋がるはずもない通話。それでも、彼にはもうこれしか縋るものがなかった。その時だった。奇跡的に、通話口から微かな呼び出し音が鳴り響いた。「つ、繋がった……!? 音羽……! 音羽なのか!?」蓮は叫ぶように受話器に飛びついた。同じ頃、アメリカの隠れ家。夕暮れ時の静かな部屋で、私のスマートフォンが小さく震えていた。画面に表示された「神崎蓮」の文字。以前の私なら、その名前を見ただけで全身がすくみ、呼吸が浅くなっていたはずだ。けれど、今の私に恐怖はない。傍らで見守ってくれているケビンが、心配そうに私を見つめていたが、私は静かに首を振り、通話ボタンをスライドしてスピーカーモードにした。『音羽……! 音羽、よかった、出てくれた……! 俺が悪かった、全部俺が間違っていたんだ! だから戻ってきてくれ……頼むから……っ!』受話器の向こうから聞こえるのは、かつて冷酷に私を支配しようとしていた男の、情けなく掠れた懇願の声だった。私はしばらくの沈黙の後、静かに、けれど氷のように冷たい声で口を開いた。「……蓮。私に助けを求めないで」『音羽……!? そん