さよならは、笑顔の後で

さよならは、笑顔の後で

last updateLast Updated : 2026-07-16
By:  仲原Updated just now
Language: Japanese
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この人生が不幸だなんて思いたくなかった。 これからは幸せになれるんだと信じたかった。 でも、それはただの願望だったのだろうか。 どこから掛け間違っていたのか分からない、運命のぼたん。 もしかしたら……最初から、間違っていたのかも知れない……。 (表紙やあらすじは後日再編集する可能性がありますレーティングは仮のものです。ストーリーの展開次第では、レーティングを引き下げるかもしれません。現時点では見切り発車で書き始めています。)

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Chapter 1

01

 いつまでも黒いままのディスプレイ。

 暗く重い雲から落ちる雨が、一つ、又一つと足下に小さな染みを作っていく。

 残念ながら傘は携帯しておらず、時と共に大きさを増す水滴によって少しずつ全身が濡らされていく。徐々に重みを増して不快感を強めていくのは、今日のためにと選んだ衣服だ。張り付いた布地から感じた気持ち悪さに無意識に顔を歪めるのだが、すれ違う人は誰もこちらに気を止めることはしてくれない。

 本当ならば、大きな声を上げて泣きたかった。

 それでもそれを行動に起こすことが出来なかったのは、ちっぽけなプライドが邪魔をしたからだ。

 みっともない。

 そう思うと、無意識に笑いが込み上げてくる。

 俯いた表情は前髪のせいで見られることは無かったが、頬を伝う涙は静かに流れ雨粒と混ざり合う。

 悔しくて仕方が無かった。

 何故? 何故? 何故? 何故!

 そんな言葉だけがずっと頭の中をリフレインして止まらないほどに悔しくて仕方が無い。

 何処で間違ってしまったのだろう。

 もしかしたら……始めから間違っていたのかも知れない……。

 久藤くどう海亜みあには、昔から好きな人が居た。

 勿論それは彼女の片思いで、思いを寄せている相手に対し、一度も『好き』だと伝えたことはない。その理由は至って簡単で、その人にはお付き合いをしている相手が居たからだ。

 報われない想いならば、わざわざ伝えて傷を深くする事も無い。元々己を主張することが苦手だった彼女は、募る思いに蓋をし、自らの心を騙して笑顔の仮面を被ることを選択する。それが例え己の心を傷つけることだとしても、何らかの形で傍に居られるのであればそれで構わないとすら思って居た。

 そんな彼女の境遇に変化が起こったのは、想いを寄せていた相手が付き合っていた女性と別れた頃だ。

 普段なら滅多に鳴ることの無いスマートフォン。終わらないコール音に唾を飲み込むと、意を決して電話を取る。

「もしもし」

 着信の相手が誰なのかは既に分かっている。だからこそ緊張して上手く声を出すことが出来ない。暫くの沈黙。気まずい空気を破ったのは、電話の向こう側に居る相手の深い溜息だった。

『話したいことがある』

 何度聞いても耳に馴染むことが無い低い声に、思わず肩が跳ねてしまう。

「な……なんでしょうか」

 怯えるようにそう答えると、相手は再び溜息を吐いた後、ゆっくりとこう答えた。

『一度、こちらに戻ってきなさい』

 突然の要求に頭の中に浮かぶ疑問符。普段は殆ど干渉してこない人が、一体何の用だろうと無意識に警戒してしまうが、相手は黙ったままこちらの返事を待っているだけ。

「何故ですか?」

 仕方なくそう問いかけると、非常に歯切れの悪い言葉で相手はこう返す。

『電話では話しにくい。直接会って伝えたいのだが……』

 出来ることならば、こちらは相手に会いたくない。だが、いくらそう願ったところで、彼女の主張が通ることなど一切無いことは、彼女自身も分かっている。

「……分かりました」

 諦めたようにそう答えると、相手はこちらの都合を確認することなく、『迎えを寄越す』と一方的に電話を切ってしまった。

「…………」

 ディスプレイには通話を終わらせるための赤い受話器のマーク。受話口から聞こえてくる通話切断音が、早く通話を終えろと催促しているようで気が滅入る。右手の人差し指で画面に触れると、役目を終えた電話に休みを与える。切り替わったディスプレイに映し出されたのは最近見かけた茶色の猫で、行きつけのカフェのテラス席でのんびりひなたぼっこをしているその子に、思わずシャッターを切ったものだ。人間の事など気にしていないような自由な雰囲気が結構気に入っていてゆっくりと指で猫を撫でる。

「……可愛い」

 偶然にも出来の良い画角で取れた力作は、先ほどの嫌な気持ちを少しだけ軽減してくれる。漸く少しだけ。張っていた気を緩めて呼吸が出来る感覚。しかしそれもつかの間で、端末に設定していた省エネモードが容赦なく、その画面を真っ黒に染めてしまった。

「あ」

 容赦ない切り替えはまるで、先ほど通話を行っていた相手のようだ。

「……はぁ」

 気持ちを切り替えるべく頭を左右に振ると、顔を上げて空を見上げる。太陽の位置はまだ随分と高い。肌にまとわりつく熱気に、じんわりと汗が浮かんだ。

 海亜の元に迎えが来たのは、電話があってから五時間後のことだ。

 メッセージが届いたことを知らせる通知。ディスプレイに映し出された一文に、バッグを持って階下に下りる。エントランスを抜けマンションを出ると、圧倒的な存在感を放つ黒塗りの高級車が一台。傍らには真っ黒なスーツに身を包んだ老年の男性が待期し、彼女の存在に気がつくと軽く会釈をして高級車へと誘った。

「お嬢様、どうぞ」

「ありがとうございます」

 開かれたのは重厚感のあるドアだ。滑り込ませるように後部座席に乗り込むと、手触りの良い革張りのシートへと静かに腰を下ろす。直ぐに閉じられた扉は、容赦なく車内と向こう側の世界を切り離し、即座に居心地の悪さが彼女に寄り添う。運転席に乗り込んだ男性がエンジンを掛けると、車はゆっくりと走り出した。

 まるで作られた映像のように流れて行くのは外の景色だ。楽しそうに笑う学生の姿を羨ましげに見つめ浮かべた笑みは、どこかしら悲しげなもので。

「最近はどのようにお過ごしでしょうか?」

 社交辞令のような問いかけに、「いつも通りです」とだけ答えて口を閉ざす。

「偶にはこちらにもお顔をお出し下さい」

 その台詞は男性本人の気持ちから出たものなのだろうか。

「用事が無いのでそれは難しいです」

 口から出たものは小さな拒絶を示す言葉で、お願いだから放っておいて欲しいという細やかな抵抗だった。

「そんなことは仰らないで下さい」

 男性は困ったように眉を下げると、彼の使える主の思いを代弁するかのように言葉を続ける。

「旦那様も、お嬢様が帰ってくることを心待ちにしておりますよ」

 その言葉を聞いた瞬間、海亜の表情が固まる。

「お嬢様?」

「……そんなわけ……ないじゃない……」

 別に彼を責めるつもりはない。この男性にとって使えるべき主は海亜の父親で、海亜自身ではないのだから当然、彼女の好まない言葉を返すのは仕方の無い話。ただ、いくら頭で理解していたとしても、心がそれを受け入れるかというとそうではなく、どうしても納得できない憤りを感じてしまうのも事実なのだ。

「お父様は、私の事なんて興味ないから」

 記憶の中に残る思い出では、幼い頃は、父親とそれなりに仲が良かったことを覚えている。それなのに今では互いの距離はどこまでも遠い。そうなってしまった理由は彼女が小学校の頃、母親が病気で他界したことだ。それが擦れ違いの始まりで、時間の経過と共に彼らの繋がりは薄れていってしまった。

「必要が無ければ連絡すらしてこない相手なんて、父親じゃないと思います」

 静かに瞼を伏せると、今は亡き大切だった人のことを思い出す。惜しみない愛情を与えてくれた大好きな人。海亜は母親のことをとても慕っていた。だからこそ、この世界から母親が居なくなったこと告げる父親が、幼い海亜には許せなかった。故人を偲ぶ時間すら与えてくれない彼に対して抱く憤り。売り言葉に買い言葉で起こった喧嘩は落としどころを見つけられないまま、未だに微妙な関係を継続させ改善する気配を見せない。

「それに、あの人は私よりも、新しい家族の方が大事なんですよね?」

 自分だけが異質。本来ならば幸せなはずの家族という空間に、いつ頃から『他人』が入り込んだ事も気に入らない。母を失って悲しみに暮れていた海亜にとって、時間を空けずに父親が再婚をしたという事実が受け入れがたく、小さな痼りだったはずの蟠りは更に大きな隔たりとなって二人の繋がりを引き裂いていく。

「そんなことはありませんよ」

 慣れた手つきでハンドルを操る男は静かに言葉を紡ぐ。

「旦那様は、お嬢様のことを誰よりも大切になさっております」

「そんな嘘はやめてください!!」

 この会話も一体何度目だろうか。

「冗談で言っている訳ではございません」

 もういい加減察して欲しい。そんな思いから運転席に座る男性を睨み付けると、バックミラー越しに目が合ってしまった。

「旦那様はただ、不器用なだけでございますよ」

 小さな鏡の中の世界でこちらを見る彼の瞳はどこかしら悲しそうなものだ。それでも海亜は気付かないふりをして、毎度繰り返される定例句のような台詞に聞きたくないと耳を塞ぎ顔を背けると、それ以降は一切会話の無いまま目的地までのドライブは続く。

 国道から高速道路に入り、二つ目のインターチェンジで下りる。四車線の道を暫く走行した後、一本ずつ減っていく道路。黒塗りの高級車はやがて、私有地である広い土地へと吸い込まれていき、重厚な鍛鉄造りの門扉が開かれると格式のある洋風の建物が視界に入った。

「…………」

 記憶に残る懐かしい外観。確かに懐かしいと感じるのに、同時に思い出の中の映像と少しだけ異なる違和感を感じさせられ気分が悪くなる。

「着きましたよ」

 先に降りた男性が扉を開くと、再び車内の空間と外の世界が繋がり、この状況から逃げられないという現実を突きつけられ表情が暗くなった。

「分かっています」

 すらりと長い白い足が車外に出され、低めのヒールの底が地面に触れる。

「僭越ながら、エスコートさせていただきます」

 差し出されたのは白い手袋を嵌めた形の良い手。

「ありがとうございます」

 それに手を添え身体を持ち上げると、自らの足で立ち目の前に聳える建物へと視線を向ける。

「帰ってきたくなんて無かったのに」

 かつて、この建物は海亜の住む家だったものだ。あの頃は真新しい白い壁が眩しく、大好きな青い屋根に手を叩いて喜んだものだ。今でも丁寧に管理されている庭に様々な植物があるのだが、彼女の好んでいた花は以前より大分減っていることが苛立たしい。

「気持ち悪い」

 手入れをしているのはきっと、父親が再婚した後妻なのだろう。元々母の場所だった所が少しずつ他人に浸食され、思い出を上書きするかのように奪われてしまっていることが気に入らない。

「薔薇は嫌い」

 そんな悪態を吐いてしまうのは、何一つ願いが叶わない理不尽さを嘆くためだった。

「こんな庭、全部潰してしまえば良いのに」

 例えどんなに美しく見せられたとしても、所詮張りぼての虚栄。本物には叶わない安っぽい美しさに吐き気を覚える程、彼女はこの状況を嫌悪してやまない。

「奥様は、お嬢様が考えているような悪人ではありませんよ」

 そんな海亜を諭すかのように男性は柔らかい口調でそう告げると、建物の内側へと誘うべく重厚な扉を開ける。

「どうぞ」

 しん、と静まりかえったホールは少しだけ薄暗い。エントランスに立ちゆっくりと視線を動かすと、天井につり下がっている大きなシャンデリアが淡い光を放ち煌めいている。一歩足を踏み出すと、耳障りな足音が辺りに響いた。

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 いつまでも黒いままのディスプレイ。 暗く重い雲から落ちる雨が、一つ、又一つと足下に小さな染みを作っていく。 残念ながら傘は携帯しておらず、時と共に大きさを増す水滴によって少しずつ全身が濡らされていく。徐々に重みを増して不快感を強めていくのは、今日のためにと選んだ衣服だ。張り付いた布地から感じた気持ち悪さに無意識に顔を歪めるのだが、すれ違う人は誰もこちらに気を止めることはしてくれない。 本当ならば、大きな声を上げて泣きたかった。 それでもそれを行動に起こすことが出来なかったのは、ちっぽけなプライドが邪魔をしたからだ。 みっともない。 そう思うと、無意識に笑いが込み上げてくる。 俯いた表情は前髪のせいで見られることは無かったが、頬を伝う涙は静かに流れ雨粒と混ざり合う。 悔しくて仕方が無かった。 何故? 何故? 何故? 何故! そんな言葉だけがずっと頭の中をリフレインして止まらないほどに悔しくて仕方が無い。 何処で間違ってしまったのだろう。 もしかしたら……始めから間違っていたのかも知れない……。◇ 久藤海亜には、昔から好きな人が居た。 勿論それは彼女の片思いで、思いを寄せている相手に対し、一度も『好き』だと伝えたことはない。その理由は至って簡単で、その人にはお付き合いをしている相手が居たからだ。 報われない想いならば、わざわざ伝えて傷を深くする事も無い。元々己を主張することが苦手だった彼女は、募る思いに蓋をし、自らの心を騙して笑顔の仮面を被ることを選択する。それが例え己の心を傷つけることだとしても、何らかの形で傍に居られるのであればそれで構わないとすら思って居た。 そんな彼女の境遇に変化が起こったのは、想いを寄せていた相手が付き合っていた女性と別れた頃だ。 普段なら滅多に鳴ることの無いスマートフォン。終わらないコール音に唾を飲み込むと、意を決して電話を取る。「もしもし」 着信の相手が誰なのかは既に分かっている。だからこそ緊張して上手く声を出すことが出来ない。暫くの沈黙。気まずい空気を破ったのは、電話の向こう側に居る相手の深い溜息だった。『話したいことがある』 何度聞いても耳に馴染むことが無い低い声に、思わず肩が跳ねてしまう。「な……なんでしょうか」 怯えるようにそう答えると、相手は再び溜息を吐いた
last updateLast Updated : 2026-07-01
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02
「あ! お姉ちゃん!」 頭上から響く元気な声。反射的に声の方へ視線を向けると、嬉しそうに笑う女の子が大きく手を振りながら階段を駆け下りてきた。「いつこっちに来たの?」「…………」 目の前に立つのは子猫のように愛嬌のある義理の妹。海亜のことを『姉』と呼ぶその子は随分と好意的な態度で海亜に話しかけてくる。どうやら彼女は、海亜とは異なり『姉妹』という関係を肯定的に捉えているらしく、随分と久しく会っていない姉に対し躊躇うこと無く白い手を取ると、徐に距離を詰めた後で甘えるように腕を絡めてきた。「さっき着いたばっかりです」 義妹のパーソナルスペースは思った以上に狭く、そんな彼女との距離感はいつまで経っても馴れないまま。海亜にとってこの子はどこまでもいっても他人という認識が強く、決して家族とはなり得ない存在なのだ。だからこそ、嫌そうに眉を寄せながら右腕に絡む彼女の手をやんわりと解くと、彼女は義妹を避けるようにして距離を取った。「こっちに来るんだったら連絡してくれれば良いのに」 海亜が示したのは明らかな拒絶のはずだった。彼女自身ははっきりと態度で示したつもりなのだが、どうやら義妹はそのことが全く気になっていないらしい。「お姉ちゃん、全然帰ってきてくれないから寂しかったんだよ」 心から再会を喜ぶような彼女の態度に決して悪気は無いのだろう。それでも、この無神経さは逆に海亜の神経を逆撫でてしまう。「私はあなたに会いたくもありません」 「……お姉ちゃん……」 彼女を無視して歩き始めると、一瞬躊躇った後、義妹は躊躇いがちに海亜の後を追いかけてくる。「……怒ってる?」 先程までの態度から一変。彼女は海亜の顔色を伺う様に、かけられた弱々しい声。「別に……」 一瞬。否定の言葉を吐きかけて海亜は言葉を止めた。「…………」 確かに馴れ馴れしく絡んでくるこの子に対して不愉快さは感じている。しかし、怒りというよりはどちらかというと、戸惑いの方が強いのが正直なところ。実際、海亜は名義上の妹という存在にどのように接して良いのかが未だに分かっていない。「用がないのならば放って置いてください」 だからこそ相手に対しての反応はいつまでも中途半端なまま。漸く絞り出したその言葉で一方的に会話を終わらせると、その子の返事を待たず逃げるように足を動かして廊下を進む。「お姉ちゃん
last updateLast Updated : 2026-07-02
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03
 予想外の出来事が起こると、目の前が真っ白になることもあるらしい。「結婚を望んだのが昴兄様……というのは、嘘ですよね?」 結婚を望んだのは誰だと父親は言ったのだろうか? 長いこと耳にするのを避けていた名前を聞いた瞬間、海亜の心が激しく動く。「そんな冗談は受け入れられません」 しかし、どんなに甘い誘惑でも、所詮夢は夢でしかない。ぬか喜びに終わることなど、想像しなくとも分かり切っている。だからこそ、傷付く前にその期待を打ち砕いてしまおう。そんな思いから、海亜は言われた言葉を冗談だと片付け部屋を出て行くべく父親に背を向ける。「冗談などでは無いとさっきも言っただろう?」 現実味の無い時間から逃避しようと早足で扉へ駆け寄ると、素早く背後から伸びる手が視界に入る。ドアノブまでは後数センチ。だが、それに指が触れることは叶わず、行く手を阻むように腕を掴まれ「待ちなさい」と貴久に引き留められてしまった。「離し……っ」「良いから、話を聞きなさい!!」 部屋中に響く怒号。頭上から降る大きな音に無意識に身を縮め怯えを見せる。そんな海亜の態度を見て貴久は気まずそうに表情を歪めるとゆっくりと摑んでいた腕を放し距離を取った。「海亜は覚えているか?」「何を……」「お前と昴くんは元々、婚約者同士だったということをだよ」 その言葉を耳にした瞬間、海亜表情が僅かに曇る。「覚えて……います」 忘れるわけが無い。忘れたいと願ったことも無い。何故なら、一條昴は海亜の初恋の相手で、今でも一途に思い続けている相手だからだ。「でも、その婚約は一條の家の都合で白紙に戻されているはずですよね?」 海亜の記憶が確かならば、婚約関係があったことは事実だが、それが既に破棄されていることも事実である。言葉に棘が含まれてしまうのは、その契約が白紙になったことを彼女自身が納得していないせいだった。「お前の言うとおり、確かに一度は、あちらの都合で婚約は白紙に戻ってしまった」 縁を結ぶのも勝手。縁を絶ちきるのも一方的。いつだって海亜の感情は、既に決められたことに合わせて育ち、崩れるもの。「私は婚約を破棄されたことを、未だに納得出来ていませんので」 海亜の母がまだ健在だった頃。久藤と一條の両家は非常に親しい間柄だった。そのため、両家の子供である海亜と昴はとても仲が良く、何処へ行くにも一緒で。双
last updateLast Updated : 2026-07-03
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04
 そこから先の時間の流れは、驚くほど早いと海亜には感じられるものだった。 結婚の申し出を受けると返事を返してから数日後のことだ。「久しぶりだね、海亜」 再び実家に呼び戻された海亜に会いに来たのは、誰よりも再開することを夢でみて、それ時が来ることををずっと願っていた人物である。「…………あ……」 一方的に姿を見かけることは何度かあった。しかしこうやって、互いに顔を合わせ言葉を交わす。そんな機会は長いこと訪れなかった、そんな相手。その人物が今、こうして目の前に立ち存在して居る。そうなって欲しいと望んでいた状況に、無意識に海亜の心が踊ってしまうことは仕方の無いことで。感じて溢れる喜びというものは隠そうとしても難しい。現にほんのりと紅の差す頬と緩んだ口元を見れば、どれだけ彼女がこの再会を嬉しいと感じているかなど見て直ぐに分かってしまう程だった。 仲の良かったあの頃は随分と遠い思い出。記憶の中のものとは随分と変化している互いの容姿に、互いに過ごした時間の長さを思い知らされる。勿論、子供の頃の面影が完全に消えて無くなったわけではない。それでも、思った以上に高くなっている背丈のせいで、昔は同じ高さだった昴と海亜の目線は大きなズレが生じ、今ではこうやって幼馴染みの顔を見上げなければ視線を交わす事が出来ない程、差が開いてしまっている。それでも意を決して彼の方へ視線を向けると、目の前の昴の表情は以外にも柔らかく、彼女に対して悪い印章を持っているという雰囲気では無かった。「昴お兄様も……お久しぶり、です」 立派になってしまった幼馴染みに、今の自分を見られる事が恥ずかしい。何も悪いことをしている訳では無いのだが、勝手に感じた羞恥心から慌てて視線を逸らすと、海亜は困ったように眉を寄せ俯き自らの爪先をだけをじっと見つめる。「元気そうで良かったよ」 そんな海亜の気持ちを汲み取ってくれたのだろうか。無理に距離を詰めることはせず落ち着いたトーンで話しかけた後、あの頃と同じように温かい手で、昴は静かに海亜の頭を撫でた。「会いたかったよ、海亜」「昴……兄様……」 耳を擽るのは心地の良いテノールである。「こうして、お話をすることは久しぶりですね」 以前はもっと自然に掛けられた言葉も、人との付き合いが苦手になってから使い続けた敬語のせいでどことなく他人行儀になってしまう。「
last updateLast Updated : 2026-07-04
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05
 純白のドレスは軽やかで、シンプルなエンパイアライン。 このタイプドレスの特徴は、身体への締め付けがなく着心地が楽で動きやすいというもの。その代わりスカートのボリュームに期待できないため、どうしても胸元のデザイン次第で印象が大きく変わってしまう。余り派手なことを好まない海亜が望んだのはカジュアルの中に若干のアンティークさが同居するシンプルなウェディングプラン。だからこそ、全体的な主張を抑えたエンパイアラインを選び、控えめながらも上品さを引き立てる精密なデザインの白のレースをあつらえたこの一着が、式の雰囲気ととても良く似合っていると考えている。「昴兄様」 恥ずかしそうに頬を染めて。フィッティングルームからドレスを纏い現れた海亜のことをじっと見つめる相手に掛ける声。「どうかな?」 自らの好みはこの選択なのだと。それでも似合っているかと確認してしまうのは、相手の好みと差違があることを嫌だと感じてしまうからなのだろう。「うん。良いと思う」 幸いにも昴は、海亜の好みに異議を唱えること無く微笑んで頷くと、静かに歩み寄り彼女の肩に触れる。「でも、この辺りが少し、寂しい感じはするかな」「そう……かな?」「うん」 確かに。昴の言葉通り、豪華な装飾の無いドレスは目を引くようなポイントが乏しく物足りなさを感じさせてしまうようだ。それは大きな姿鏡に映る自らの姿を見て感じた素直な気持ちである。「それに……」 そこまで言って昴は言葉を濁すと、一度、海亜から視線を外し照れたように鼻の頭を掻きながらこう続けた。「肩や胸元を僕以外の人間にも見てしまうのかと思うと何というか……」 その言葉に海亜ははっとしたように驚きを見せた。「もしかして、嫉妬……して、くれているんですか?」「あー……うん。そう……だね」「……あ……」 彼が見せた独占欲。それに覚えたのは歓喜で、海亜はそんな昴の思いが嬉しくて仕方ない。「それじゃあ、こういうのはどうでしょうか?」 今のベースはそのままに。その上から薄手のボレロを羽織って肩のラインを隠すデザインはどうかと出した提案。「でも、それじゃあ胸元はまだ大きく開いたままになるんだよね?」 そのデザインも悪くは無いけれど。一度、その提案を肯定した上で昴の出した条件は、もっと肌の露出を抑えて欲しいというものだ。「そうですね。それじゃあ、
last updateLast Updated : 2026-07-05
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06
 白を基調とした室内には、アクセントカラーとして黒やダークブラウンなどの家具がバランス良く配置されている。それらは割とシンプルなデザインのもので露骨な派手さは無く、全体的にシャープな印象になるよう統一されているものだ。 部屋の中央にはガラス製のローテーブル。それに併せるように色を選んだゆったりとくつろげる広めのソファは座り心地が良さそうなもので。テーブルの中央に置かれた碧のグラデーションが美しい花瓶の中にはこの時期の花である紫陽花と霞草の組み合わせ。それらは寄り添うようにして咲き、見るものの表情を自然に笑顔へと変えてくれる。「ふふっ」 少し硬めのクッション。そこに腰を下ろしすらりとした足を組む海亜の手元にあるのは、一枚のウエディングフォトである。「また見ているのかい?」 顔を上げると、帰宅したばかりで着ていたスーツを脱ぎながら笑う昴と目が合う。「大好きな写真なんです」 アンティークな彫刻で装飾を施したウォールナットのフレーム。その中に収められているのは、切り取られた二人の過去の姿である。過去とはいってもその記憶は新しく、未だ色鮮やかに海亜の中に残っている。「君に喜んでもらえるような式になって良かったよ」 ソファの背もたれに上着を掛けると、身を屈めて近づける顔。大きくて無骨な手は海亜の顎に添えられ、軽く持ち上げられ角度を付けたところで、相手の唇が軽く触れる。「ただいま、海亜」「お帰りなさい。昴兄様」 このスキンシップには、いつだって驚かされてしまう。それでも海亜にとってこの瞬間はとても嬉しいと感じるもので、静かに瞼を伏せると仄かに伝わる暖かさを素直に受け入れる。それは、時間にするととても短いものだったのかも知れない。それでも時の進みを自覚しなければ、一瞬が永遠になるような錯覚を味わえるため、表情が和らぐのだ。それでも終わりの時は必ず来てしまうもので。柔らかな感触が去って行くと、少し濡れてしまった唇は、外気に冷やされ冷たくなってしまった。「あ」 そこで漸く瞼を開く。目の前には楽しそうに笑う伴侶の姿。実にくすぐったい関係に困ったように笑うと、海亜は持っていたフォトフレームをテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がって昴の上着へと手を伸ばす。「こーら、海亜!」「え?」 そんな海亜を制止するかのように昴が腕を伸ばす。「兄様、じゃないだろう?」
last updateLast Updated : 2026-07-06
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07
 一冊、二冊と本棚に増えていくアルバムたち。デジタルが主流になった今では、それらは電子情報として記憶媒体にバックアップされている。それなのに敢えて出力し、本という形で手元に置くことを選んだのは単純に、時の経過と共に味わいを深める紙ならではの良さを感じたいと考えているからである。「いつの間にかこんなにも増えたんだな」 収められた写真が撮影された年月日。その数字を収録されている印画紙の期間で表記した背表紙は、左から右へと徐々に新しいものに変化していく。「この数字もあっという間に、三年目のものになりましたしね」 それらの記録を愛おしそうに撫でながら、海亜は今までの事を振り返る。「私、今でも私が、あなたの妻であることが信じられないんです」 結婚した当初、想像もしていなかった状況に、毎日夢では無いことを確かめ夢であることを疑っていた。未だに敬語で話す癖は抜けないが、『兄様』と呼ぶことは改善し、伴侶である昴のことを名前呼ぶことが出来る様になったのは、ここ数ヶ月の話だ。それほどにまで婚姻という状態を受け入れるには時間がかかっている。それでも、疑り深い海亜に呆れること無く、昴は毎日彼女のことを甘やかしてくれる。時々、子供の頃み見せた妹に対して取るような対応をすることはあるが、それはお互い様な部分もあるのだから仕方が無い。「僕は、ずっと君のことは妻だと思っているけどね」 背後から伸びる長い腕が、自分よりも一回りほど小さな愛おしい存在を抱き締める。「アルバムが増える度に、君との大切な思い出が増えていくことが嬉しくて仕方ないよ」 そう言って互いに顔を見せ合い笑い合う。適当に抜き取った白い冊子は、ソファに腰掛けた海亜の膝の上で小さく音を立ててページが捲られていく。昴も彼女の隣に腰を下ろし、白くしなやかな指が記憶と共に閉じ込めた時間をなぞるのを見て、楽しげに目を細めて見せる。「ここはとても綺麗だったね」 開かれたページにあるのは、数年前日程を調整して訪れた海外旅行での写真である。「この時は海亜が場所を選んだんだっけ」「ええ。どうしても一度、行ってみたかったんです」 この時の旅程はそれほど日数を確保出来なかった。そのため、できるだけ移動の負担が掛からないように観光スポットを控えめにし、その代わり現地の雰囲気を楽しめるようフリープランを選択している。「この建物ア
last updateLast Updated : 2026-07-07
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 手当を終え、用が無くなった薬箱は所定の位置へ。使っていた食器たちはシンクに移動し、軽く汚れを落とした後で食器洗い洗浄機へと並べていく。慣れた手つきで操る機械。洗剤を入れコースを設定したら、直ぐに機械が動き始める。「何時頃に出掛けようか?」 食事に出るという話が止まったままだったことを思い出し、海亜は時計を探して視線を彷徨わせた。「そうですね……」 数字の無い壁掛け時計。金メッキの針が小さな音を立てて忙しなく回っている。「今が四時過ぎなので、六時半に出るというのは……」 時間を計算し、外出の時間を決めてしまおうとしたところで鳴り響いたのは、コール音だった。「電話?」「そうみたいだ」 シェア数の多い人気のあるデザイン。保護することだけを目的としている黒いカーボン調のケース。それに収まっている小さな機械から吐き出されたのは軽快な旋律で。昴の手の中で存在を主張している端末の画面には、着信を表す画像がフルスクリーンで表示されている。「母さん?」 画面に表記された番号の持ち主。個人名でなく『母』とだけ書かれた味気ない文字に首を傾げながら、軽く手を上げ謝罪を意味するジェスチャを見せた後で昴は受話ボタンをタップし電話を取る。「もしもし?」 電話の相手に昴を取られてしまったため、海亜との会話は中途半端なところで途切れてしまった。 邪魔をしないように汚れたタオルを洗濯しに移動すると、彼女は黙々とタオルに付いた染みを落としていく。電話の相手は母親だと昴が言っていた。一条家の人間との関係は決して悪い訳では無い。しかし、距離感は微妙なところで過度な干渉がない分、未だに距離の縮め方が分からず戸惑いも多い。その相手がどういった要件でコンタクトを取ってきたのか海亜には創造が出来ず、話の内容が気になって仕方が無い。「え?」 無意識に耳を欹てて拾う言葉。「……うん。……は? ……いや。そんなことは無いけど……」 この場所からだと、二人の会話の全てが聞こえているわけでは無く、声が大きくなるところだけが途切れ途切れに耳に届く程度。そんなもんだから、話の内容なんて詳しく分かる筈もなく、嫌な事ばかりが頭に過ぎり非常に落ち着かない。「そうだね。……うん。……分かってるよ」 ただ、昴の声のトーンから、余り楽しいと感じるような話では無いことは理解出来た。「いや。多分、大
last updateLast Updated : 2026-07-08
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 大きな音を立てて落下する金属の筒。小さなモーター音を響かせながら点灯する機械は、飲料物を販売している自動販売機だ。身を屈めて取り出し口から取り出した缶のサイズは手のひらに収まる程度。外気に触れると直ぐにパッケージの表面が汗を掻き始める。「これで、良かったかしら?」 普段は滅多に買うことをしない缶コーヒーは、選択肢が無かった事で選んだものだった。いつもならインスタントでもその場で淹れてくれるショップや移動販売のものを購入するのだが、時間の都合で購入が難しく妥協するしかない状況。相手の好みは何となく理解しているが、こういった産地やオプションを選べない商品の場合、どれが口に合うのか聞いたことが無い。自らは苦みの強い嗜好品を好んで飲むことをしないため、余計にこの選択肢が妥当だったのか分からず困ってしまう。「口に合わなかったら、零して貰うことにしましょう」 自身の喉の渇きを潤すための飲料は無糖の紅茶をチョイス。先ほどと同じように大きな音を立てて落下した冷たい缶を回収すると、海亜は急ぎ足で昴の待つ車へと戻る。「昴さん」 ドアを開け助手席に乗り込むと、運転席の彼はシートを倒した状態で小さな寝息を立てていた。「疲れていたのね」 カップホルダーに買ってきたコーヒー缶を静かに置く。「最近は、お仕事が随分忙しかったみたいだし、当たり前か」 昨日も、昴が帰宅したのは日付が変わって暫くしてから。共に暮らすようになった当初は、彼が帰宅するまで食事も取らず待っていることが多かった。そんな海亜に申し訳ないと思ったのだろう。一週間もしないうちに昴の方から、遅くなる時は先に休んで欲しいと懇願されてしまった。それでも海亜は曖昧に笑って返事を濁し、昴が帰宅するまで本を読んで待つ事を繰り返していたのだが、待ち疲れてソファで眠ることが多くなったことで昴からお叱りをうけてしまい、それ以降は互いに話し合って決めた時間を過ぎると、ベッドに移動し寝る準備をする事で落ち着いた。「起きたら隣に昴さんが居たくらいだし」 入眠時には隣に居ないことも多い伴侶。それでも最愛の人は、夜明けには必ず海亜の隣で寝息を立ててくれている。今まで第三者の気配を感じたことは無い。衣服に付くことがある他人の香りも、ビジネスを円滑に進めるための許容範囲の付き合いで移る程度のものだ。「どうしようかしら」 スマートフォ
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 一条の屋敷の造りは昔ながらの日本家屋である。 目の前には威厳のある門構え。それは海亜の実家のものとは異なる雰囲気の造形で、独特の威圧感を放っていた。「はぁ」 駐車場が外部に設けられていることもあり、人の住まう建物へ入るためには、ある程度の距離を歩く必要がある構造。荷物が多いと最悪で、建物に辿りつく前に疲弊してしまい、非常に面倒くさい。完璧に閉ざされ開く気配の無い分厚い板は外部から訪れる人間の存在を歓迎せず、内側から開けて貰う必要があるため連絡をしてから待つ時間も必要で。それがまるで気軽に立ち寄ることを拒んでいるかのように感じられ居心地が悪い。海亜自身、この場所に訪れたのは指を折って数えられる程度しかなく、本家であるこの場所の印象は思った以上に薄い。そのせいで、ここに訪れる度に酷く萎縮してしまうのだ。「ここってさぁ、毎回来る度に疲れるんだよなぁ……」 一応はここが実家のはずなのに珍しく愚痴を零す昴は、額に滲む汗を拭いながら海亜の隣で溜息を吐いている。「婆ちゃんと同居するからって、さっさと隠居しなくても良いんじゃないか?」 その言葉から分かる事。それは、元々昴の両親はこの屋敷で暮らしていた訳では無いということだろう。 実際、昴の家族は子供が中学校に上がる頃まで海亜の家の近くに居を構えていた。互いの家族の親交があるのはそのためで、仕事の付き合いは勿論、プライベートでも互いの家を行き来するほど交流の距離は近いものだったはずだ。その距離感が狂い始めたきっかけは確かに、海亜の精神状態が不安定になったことに起因はあるのだが、その後一条の家側の都合もあり引っ越しを境に、随分と長い間頻繁な交流の機会は途絶えていた。それでも、子供達の進学が海亜の地元を選択していたこともあり、実家とは別にマンションを購入し一年の半年はそちらで生活していたはずだと父親から聞いたことがある。「僕自身もあんまりここに来る機会は無いから、どうしても苦手でね」 昴が成人して数年後に、両親は会社の経営を彼に引き継いだ。勿論、会長として名は置いているが、経営の殆どは実質昴が担っているのが今の現状である。「兄さんはさっさと進路を決めて家を出てしまってるし」  屋敷が昔気質の純日本風なことに反して、意外にも一条の家は形式に拘らない。付き合いのある旧家の話を聞く限り、家督は通常長男が継ぐ事が一般
last updateLast Updated : 2026-07-10
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