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黄金の林檎を奪われて、私は死ぬことにした

黄金の林檎を奪われて、私は死ぬことにした

By:  ピーチーCompleted
Language: Japanese
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私は人間の巫女。それなのに、タルタロスの死の呪縛に、この身は静かに蝕まれつつあった。 助かる道はただひとつ、百年に一度しか実らない、オリュンポスの黄金の林檎。魂を浄化できるのは、その果実だけだった。 けれど、運命の伴侶であるはずのゼイル——ポセイドンの息子は、私の手からその林檎を奪い取り、妹のメローラに食べさせた。 彼女が、ほんの軽い魔法の火傷を負っただけだというのに。 私は、アポロン神殿で受けていた最後の治療を自らの意思で投げ捨てた。そして代わりに手に取ったのは、ステュクスの水を混ぜ合わせた忘却の毒だった。 あらゆる苦痛を黙らせてくれる毒。 その代償は、3日後に魂が灰となって散ること。輪廻の輪から外れ、二度と生まれ変わることもない、永遠の消滅だった。 地上に残された最後の3日間で、私はすべてを手放した。 治癒の神殿はメローラに譲り渡した。大祭司である両親は、肩の荷が下りたと言わんばかりに、安堵の微笑みを浮かべた。 ゼイルがオリュンポスの刃を抜き、運命の絆を断ち切ろうとしたときも、私は喜んで自らの血を差し出した。彼は私の頬を優しく撫で、私の「寛大さ」を褒めた。まるで私がようやく聞き分けのいい女になったとでも言うように。 息子のフィロンをメローラのほうへと押しやり、「母様」と呼んでいいのよと告げた。フィロンは歓声をあげて彼女の腕に飛び込み、メローラの子守唄のほうがずっと心地いいのだと、無邪気にはしゃいだ。 すべてを手放した。それでも誰一人として、私が死にゆく身であることに気づきもしない。 みんな、ただ誇らしげに私を見つめていた。 「クレッサも、ようやく自分の立場をわきまえたようだ」 それでも、ふと思ってしまう。 私が永遠に星屑となって散り去ったとき、彼らは私のことを、ほんの少しでも覚えていてくれるのだろうか……?

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Chapter 1

第1話

アポロン神殿の巫女たちが向ける、哀れみに満ちた眼差しの中、私は顔を上げ、忘却の毒を一息に飲み干した。

冷たい液体が、喉を灼きながら胃の奥へと落ちていく。だが次の瞬間、タルタロスの呪いがもたらしていた魂を引き裂くほどの激痛が、嘘のように消え去った。

これが、毒がもたらした唯一の救いだった。もう、どこにも痛みはない。

その代わり、私に残された時間はあと3日。その果てに待っているのは、ただ星屑へと還ることだけだった。

神殿を後にした私は、その足でメローラの暮らす海辺の館へと向かった。

扉を押し開けた途端、母の怒鳴り声が耳に飛び込んできた。

「クレッサ、いつまでそんな惨めな芝居を続ける気なの!あなた、どこも悪くないのでしょう!」

母は鋭い指先を私の顔へと突きつけた。その瞳に宿っているのは怒りではない。怒りよりもずっと冷たく刺々しい、失望の色だった。

「あなたは神々に祝福された、治癒の巫女なのよ!昔はあんなに優しくて、思いやりのある子だったのに……どうしてここまで堕ちてしまったの!妹の命を救う黄金の林檎を、醜い嫉妬心から奪おうとするなんて!」

父もまた、苦々しい失望を滲ませた声で言葉を重ねる。

「クレッサ、お前はずっと我ら一族の誇りだった。姉として、メローラを慈しみ導いてくれるものと信じていたんだ。まさかお前が、実の妹にここまで冷酷になれるとはな……我々がお前を甘やかしすぎたせいかもしれん」

万力で胸を締めつけられるような息苦しさに襲われた。

毒は、この肉体の痛みを消し去ってくれた。けれど、実の家族に切り捨てられる悲しみだけは、いまだに私の呼吸を奪おうとする。

これが、私の両親だ。

私が死の呪いに蝕まれているという真実よりも、妹が些細な火傷を治すために百年を経た黄金の林檎を必要としたという言葉の方を、彼らは疑いもなく信じたがっている。

目を向けると、メローラは大きな真珠貝のベッドで、力なく身をもたせかけていた。けれど両親の死角に入るや、その口元がにやりと歪む。濃密な悪意と、勝ち誇った色を隠しもしないで。

以前の私なら、怒り狂っていただろう。喉が裂けるまで叫び、服を破ってでも、腐食し始めた魂の刻印を突きつけていたに違いない。

けれど今は、指一本動かす気になれなかった。

言い争ったところで、何一つ変わりはしないのだから。

呪いが魂を喰らい、毒が肉体を溶かしていく。私はただ、深い疲労の底に沈んでいた。

父が再び怒声を上げるより早く、私は静かに口を開いた。

「メローラは、私の治癒の神殿が欲しいのでしょう。信徒たちの信仰も。いいわ、全部あげます」

ふっと、場に沈黙が降りた。

父は凍りつき、母は口をぽかんと開けたまま言葉を失っている。

驚くのも無理はない。メローラはずっと、私の神殿を欲しがっていた。両親もまた、あらゆる手を尽くしてきたのだ——脅し、懐柔、そして罪悪感に訴える言葉。人間である私がこの手で築き上げた聖域を、幾度となく手放させようとしてきた。それでも私は、決して屈しなかった。

だが、今はもう違う。死にゆくばかりの魂にとって、そんなものはどうでもよかった。

私の言葉が本気だと悟るやいなや、母の顔にようやく笑みが戻った。驚きは瞬く間にむき出しの身勝手な歓喜へと変わり、母は私に歩み寄ると、愛おしげに髪を撫でた。

「やっと分かってくれたのね!メローラは生まれながらに神性を宿す子よ。信仰を糧にして育たなくてはいけないの。正直なところ、クレッサ、あなたが運よく海神の後継ぎと結ばれていなかったら、あの神殿はとっくにメローラのものになっていたはずなのよ。これでようやく安心できるわ」

運がよかった。

そのひとことは、頬を叩かれるよりも深く心を抉った。あの神殿を築くために、私がどれほどの血と汗を流してきたというのか。彼らにとっては、それすらもただの「運」にすぎなかったのだ。

私は無表情のまま袖から羊皮紙を取り出し、差し出した。

「なら、血の誓約で封じて」

メローラの瞳に、貪欲な光がよぎった。彼女は自らの指先を噛み切り、羊皮紙へと強く押しつける。

契約の文言がまばゆい光を放ち、私の手の甲から金色の神殿紋が剥がれ落ちて、メローラの額へと吸い込まれていった。

「ああ、クレッサ。ようやく目を覚ましてくれて、嬉しいよ」

いつ以来か思い出せないほど久しぶりに、父が私の肩に厚い手を置いた。その声には、隠しようのない安堵と温もりが滲んでいる。

「お前はやっぱり、我が家の聞き分けのいい娘だ」

私は、彼らが描く幸せそうな家族団らんの風景を、ただ虚しい皮肉を感じながら眺めていた。

なんと滑稽なのだろう。母が私に向けて優しく笑いかけてくれるのは、私がメローラのために命まですり減らすときだけなのだから。

それでも、ひとつだけ疑問が残った。いつの日かメローラの本性に気づき、そして私がもうこの世にいないのだと知ったとき、彼らは、少しでも後悔するのだろうか。

その夜、私は海神の宮殿へと戻った。

運命の伴侶であるゼイルと、息子のフィロンは祭壇のそばにいた。

深海で採れた真珠をひと粒、またひと粒と糸に通し、メローラへと贈る祝福のネックレスを編んでいる。

毒のせいで足音まで軽くなっていたのか、ふたりは私が帰ってきたことにすら気づかず、ただ楽しげに笑い合っていた。

ゼイルが最後の真珠を通し終え、ふと振り返って私に気づく。その口元の笑みは一瞬凍りついたが、すぐに何事もなかったかのように柔らかな表情へと戻った。

「クレッサ?いつ帰っていたんだ?」

彼は作りかけのネックレスを脇に置くと、いつものようにごく自然に腕を広げながら、こちらへと歩み寄ってきた。

私はその手を、思わず避けた。

ゼイルの腕が、行き場をなくして宙で止まる。その瞳に、傷ついたような色がわずかによぎり、やがて彼は疲れたような溜息を吐いた。声が、ふっと和らぐ。

「まだ黄金の林檎のことで怒っているのか?クレッサ、お前はいつだって強かっただろう。メローラにはどうしても必要だったんだ。あのままじゃ、あの子は死んでいた。メローラが元気になったら、お前の好きな東の海のオーロラを見に連れて行ってやるから。いいだろう?」

私は、台の上のネックレスをじっと見つめた。ひと粒ひと粒が海神の魔力を纏っている。メローラが愛してやまない、あの深い海の青だった。

皮肉なものだ。死を目前にして、ようやく知ることになるなんて。五年連れ添った夫が、これほどまでに辛抱強い人だったとは。

昔、私が心を込めて編んだ祈りのブレスレットを「野暮ったい」とあしらった人。彼の影響で、息子のフィロンもいつしか私から心を離していった。

私はこの宮殿に、自分のすべてを注ぎ込んできた。けれど返ってきたのは、冷ややかな無関心だけだったのだ。

以前の私なら、この仕打ちに涙し、取り乱していただろう。

だが今の私は、ただふたりの脇を静かに通り過ぎるだけだった。珊瑚細工の椅子に腰を下ろし、魔法の巾着の中身を静かに整理し始めた。

私の沈黙に、ゼイルは戸惑いを覚えたようだった。ネックレスをビロードの台座に戻し、再びこちらへと近づいてくる。

彼は私の手に触れようとした。その指先はためらいがちに、そっと伸びてくる。

彼の瞳には、何かを探るような、落ち着かない色が揺らいでいた。

「クレッサ、お前に話しておきたいことがあるんだ」

彼はためらうように唇を結び、気まずそうに目を伏せた。少しの沈黙ののち、ようやく重い口を開く。

「お前の妹、メローラのことなんだが」

心臓が、ずんと重く沈む。嫌な予感が胸の奥をかすめた。

そして続いた言葉は、稲妻に打たれたような衝撃だった。

「メローラは林檎を食べたが、魂はまだ弱っている。だから、その……しばらくの間、彼女と仮の婚姻を結ぼうと思うんだ。俺たちの運命の刻印を彼女にも分け与えて、その魂を癒してやりたい」

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松坂 美枝
松坂 美枝
神様も相手を見紛う事があり、結果一人の優しい神を殺してしまう… 神話も結構ドロドロしてるからな この小説みたいに悔いることもない奴らよ
2026-07-17 10:05:09
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13 Chapters
第1話
アポロン神殿の巫女たちが向ける、哀れみに満ちた眼差しの中、私は顔を上げ、忘却の毒を一息に飲み干した。冷たい液体が、喉を灼きながら胃の奥へと落ちていく。だが次の瞬間、タルタロスの呪いがもたらしていた魂を引き裂くほどの激痛が、嘘のように消え去った。これが、毒がもたらした唯一の救いだった。もう、どこにも痛みはない。その代わり、私に残された時間はあと3日。その果てに待っているのは、ただ星屑へと還ることだけだった。神殿を後にした私は、その足でメローラの暮らす海辺の館へと向かった。扉を押し開けた途端、母の怒鳴り声が耳に飛び込んできた。「クレッサ、いつまでそんな惨めな芝居を続ける気なの!あなた、どこも悪くないのでしょう!」母は鋭い指先を私の顔へと突きつけた。その瞳に宿っているのは怒りではない。怒りよりもずっと冷たく刺々しい、失望の色だった。「あなたは神々に祝福された、治癒の巫女なのよ!昔はあんなに優しくて、思いやりのある子だったのに……どうしてここまで堕ちてしまったの!妹の命を救う黄金の林檎を、醜い嫉妬心から奪おうとするなんて!」父もまた、苦々しい失望を滲ませた声で言葉を重ねる。「クレッサ、お前はずっと我ら一族の誇りだった。姉として、メローラを慈しみ導いてくれるものと信じていたんだ。まさかお前が、実の妹にここまで冷酷になれるとはな……我々がお前を甘やかしすぎたせいかもしれん」万力で胸を締めつけられるような息苦しさに襲われた。毒は、この肉体の痛みを消し去ってくれた。けれど、実の家族に切り捨てられる悲しみだけは、いまだに私の呼吸を奪おうとする。これが、私の両親だ。私が死の呪いに蝕まれているという真実よりも、妹が些細な火傷を治すために百年を経た黄金の林檎を必要としたという言葉の方を、彼らは疑いもなく信じたがっている。目を向けると、メローラは大きな真珠貝のベッドで、力なく身をもたせかけていた。けれど両親の死角に入るや、その口元がにやりと歪む。濃密な悪意と、勝ち誇った色を隠しもしないで。以前の私なら、怒り狂っていただろう。喉が裂けるまで叫び、服を破ってでも、腐食し始めた魂の刻印を突きつけていたに違いない。けれど今は、指一本動かす気になれなかった。言い争ったところで、何一つ変わりはしないのだから。呪いが魂を喰らい、毒
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第2話
耳の奥で、甲高い耳鳴りが響いていた。私はただその場に立ち尽くした。運命の伴侶の刻印とは、何よりも深い魂の結びつきを示す証だ。それを分け与えるということは、私たちの絆を根底から断ち切り、この魂を真っ二つに引き裂いて、その半分を別の女の体へと押し込むことに他ならない。伴侶を持つ者にとって、これ以上の侮辱は存在しなかった。私が言葉を失っているのを見て取ると、ゼイルはすぐさま一歩詰め寄ってきた。「クレッサ、俺が永遠に愛するのはお前だけだ。そう誓ったことは、忘れてないだろ?これはただ、彼女の命を救うための一時的な措置なんだ。俺だって、こんな道を選びたくて選んだわけじゃない!お前とメローラに血の繋がりはないかもしれない。それでも神々の前では、お前の大切な家族なんだろ?少しだけ耐えてくれ。あいつの神核さえ安定すれば、すぐにお前のもとへ戻る。俺はお前だけの夫だ。フィロンの父親も、この俺ただ一人だ」「母様、どうして一度くらい譲ってあげられないの!」いつの間にか駆け寄ってきていたフィロンが、小さな手でゼイルの脚にしがみつき、眉間に深い皺を寄せて私を睨みつけていた。「メローラ叔母様、今もすごく苦しんでるんだよ!どうして父様の愛を、ほんの少し分けてあげられないの?叔母様が言ってたよ、少し分けてもらえたら、もう毎日血を吐かなくて済むようになるって。母様って意地悪!」——意地悪。私は、命懸けでこの世に産んだ我が子を見つめた。それから、永遠の愛を誓い合ったはずの男を見つめた。なるほど、これが行き着く果てか。自分の夫と、自分の魂を守ろうとする私の切実な思いすら、彼らの目にはただの「意地悪」と映るらしい。でも、もういい。どうでもよかった。メローラが私のすべてを欲しがるというのなら、何もかもくれてやればいい。全部だ。私はもう、すべてを終わりにする。私は顔を上げ、ゼイルの瞳をまっすぐに見据えた。「いいわ。同意する」ゼイルの瞳に明らかな驚きが浮かび、憐れみに似た何かがよぎった。「本当に?」彼はためらう素振りすら見せず、虚空からオリュンポスの刃を呼び出すと、それをすぐに私へと差し出した。私は力なく自嘲の笑みを浮かべた。——ゼイル。あなた、そこまで必死なのを隠す気すらないのね。私はそのずっしりと重い刃を受け取ると、迷うこと
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第3話
神殿の空気が、凍りついたように静まり返った。誰もが、自分の目を疑うかのように驚愕した顔で、私を凝視している。私は、もとは力を持たない、ただの人間だった。このオリュンポスで生き延びるために、これまでどれほど容赦なく嘲られ、蔑みに耐えてきたことか。1枚1枚の金貨を、爪を立てるようにして積み上げてきたのだ。ここにいる祭司も召使いも、誰もが知っているはずだ。あの膨大な富と、権威の象徴たる杖を手にするために、私が人生の半分を費やしてきたという事実を。それを今、何一つ成し遂げたことのないあのセイレーンに、すべてくれてやろうとしているのだから。ゼイルが戸惑ったように眉を上げた。「クレッサ、お前……」何か言いかけたようだが、彼は結局、満足げに深く頷くだけにとどめた。「らしくないな、お前がそんなにあっさりと手放すなんて」「いや、珍しいこともあるものだ」父が大股で歩み寄り、私の手から巻物を乱暴にひったくった。その顔に浮かんだ笑みは、ここ数年見たことがないほどに満ち足りたものだった。「クレッサ」父は朗々とした声を響かせた。「お前もようやく、大祭司らしい度量の広さを見せられるようになったか。ようやく、我が一族の名にふさわしい娘になったな」寛容。物分かりがいい。彼らはそんな美しい言葉を並べ立てて、自分たちの強欲な行為を、平然と正当化していたのだ。そんな彼らを見つめていると、突然、胃の底から激しく込み上げてくるものがあった。体が、ついに私を裏切ったのだ。激しい咳の発作が全身を貫き、私は耐えきれずに冷たい大理石の床へと、どす黒い血と、黒い灰の塊を吐き出した。それは、タルタロスの死呪の紛れもない証。私の魂がすでに焼け落ち、灰になろうとしている何よりの証だった。ホールが、一瞬にして死んだように静まり返る。ゼイルが弾かれたように立ち上がり、手にしていた杖が大きな音を立てて床へ転がった。彼は瞬く間に私のそばへ駆け寄ってきた。震える両手で、今にも崩れ落ちそうな私の身体をしっかりと支える。「クレッサ!どうしたんだ!なんで血を吐くんだ!」母が短い悲鳴を上げ、手にしていた巻物を放り出して駆け寄ってきた。その瞳は瞬く間に赤く潤む。「そんな……!あなたは神殿の治癒の巫女でしょう、どうしてこんなに深く傷ついているの
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第4話
魂が完全に消滅するまで、あと6時間。ゆっくりと目を覚ますと、そこは復讐の女神ネメシスの神殿の中だった。すぐ傍らには、通信水晶から連絡を受けた親友、セレーネが寄り添っていた。彼女の目は、泣き明かしたように赤く腫れている。彼女は冷たくなった私の両手を、しっかりと握りしめていた。大粒の涙が、私の肌へとぽろぽろと零れ落ちる。「クレッサ、この大馬鹿……っ!」セレーネの声は、悲しみで激しく震えていた。「ポセイドンの息子となんて、絶対に絆を結ぶなって、あれほど言ったじゃない!どうして、自分をこんな残酷な目に遭わせたのよ!」彼女の言葉に答えたかった。けれど、もう喉から声が出なかった。死呪の侵食はすでに喉の奥にまで広がり、声を発する力を完全に焼き尽くしていたのだ。私は弱々しく指先を動かし、傍らに置いた巾着を示した。セレーネは、それだけで私の意図を理解してくれた。彼女が巾着の口を開けると、中には整然と巻かれた数枚の羊皮紙の巻物が入っていた。「これは……」彼女は最初の1枚を広げ、驚きに目を見開いた。「クレッサ、あなた……ずっと前から、これを用意していたの?」私は無言で、小さく頷いた。その巻物には、すべてが克明に記されていた。メローラがこれまでに犯してきた罪の数々と、私が緻密に練り上げた復讐計画の全貌が。「あいつたちに、あなたにした仕打ちの報いを必ず受けさせてやるから」セレーネは巻物を胸に強く抱きしめ、鋭い瞳で空を見上げた。「復讐の女神の名にかけて、誓うわ!」残り時間、あと3時間。セレーネが、神の力を振り絞ってでも、少しだけ命を延ばしてほしいかと尋ねてきた。たとえ、それがほんの数日間の猶予だとしても。私は首を横に振った。もう、すっかり疲れ果てていたのだ。今はただ、このすべての苦痛から自由になりたかった。「クレッサ、これを見る?」セレーネは少し躊躇いながらも、宙に水鏡を呼び出した。「メローラがさっき、通信術でこれをわざわざ送りつけてきたのよ」鏡の中で、メローラが、かつて私が使っていたベッドの上で、私の神聖な巫女装束を身にまとい、私の月桂樹の冠を頭に載せて、気だるげに伸びをしている。「クレッサ、あぁ、お可哀想なクレッサ。見ているかしら?」メローラは誰もいない虚空に向かって、得意満面に微笑
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第5話
メローラは海神の宮殿にあるベンチに気だるげにもたれかかっていた。深海の真珠を連ねたネックレスを、指先で優雅に弄んでいる。昨夜、ゼイルがその手で首にかけてくれたものだ。真珠の一粒一粒が、美しい海のような青い光を放っている。「ふふ、完璧だわ」彼女はうっとりとネックレスに触れた。得意げな笑みが、口元に浮かぶ。クレッサの神殿、財産、夫と息子。今やすべて、自分のものだ。すると突然、宮殿の扉を蹴破り、ハゲワシの翼を持つ、巨大で醜悪なハーピーが乱暴に押し入ってくる。「かわいい娘ちゃん!」ハーピーは鋭い歯を見せながら両腕を広げた。「母さんが会いに来てあげたわよ!」メローラの笑みが凍りつき、彼女はベンチから跳び上がった。「どうして分かったの!ここには絶対来るなって言ったでしょう!」ハーピーは怒声など気に留めず、豪奢な宮殿をゆっくりと見回して貪欲に舌なめずりをした。「あら、随分といい暮らしをしているじゃない。それなら、あたしにも分け前をもらわなくちゃね。ポセイドンの息子と結婚したんですって?しかも、騙して巫女の座まで手に入れたんですって?」「騙し取ったんじゃないわ!」メローラが金切り声を上げた。「私にはこれだけのものを手にする資格があるのよ!」「はいはい、そうなのよね」ハーピーは面倒くさそうに手を振った。「どうやって手に入れたにせよ、あたしは今すぐ10万金貨が必要なの」「な……!」メローラの声が裏返った。「頭がおかしいんじゃないの!」「だって冥界に借金があるのよ。期限までに払わなきゃ、タルタロスに放り込まれちゃうわ」ハーピーは、それがさも当然のことのように胸を張った。「あんたは今、こんなに裕福なんだから、あたしを助けるのは当たり前でしょう」「そんな大金、持っているわけないでしょう!」メローラは歯を食いしばった。「それに、どうしてあなたにあげなきゃいけないのよ!」ハーピーの目に、獰猛な獣のような光が宿った。彼女は一歩踏み込むと、鋭い爪をメローラの顎に突きつけた。「小娘が。あたしがあんたの手口を知らないとでも思ってるのかい?」彼女は喉の奥で嘲笑った。「くくく……怪我のふりも、同情を誘う憐れな芝居も、人のものを奪うやり方も。全部、あたしが教えたんじゃないか。
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第6話
メローラは、まるで雷に打たれたかのように、よろよろと無様に後ずさった。「死んだ……?クレッサが、死んだ……?そんなはず……どうして……」番人は彼女の動揺など意に介さず、冷徹に言い放った。「そこを退け、部外者よ。邪魔だ」メローラの頭の中は混乱で真っ白になっていた。それでも、まだわずかな望みに必死にしがみつこうとする。彼女は宝物庫からよろめき出ると、震える手で通信用の水晶を取り出し、神殿に直接連絡を入れた。「はい、治癒の神殿です。ご用件は?」聞き慣れない女の落ち着いた声が応答した。「私よ、メローラよ!」彼女は半狂乱で金切り声を上げた。「神殿の資産を確認したいの!」「メローラ様?」その声の温度が、一瞬にして冷たくなった。「申し訳ございません。大祭司クレッサ様が正当に指名された代理人の命令により、二日前に神聖なる封印が施されております。あなた様には現在、いかなる確認の権限もございません」「代理人?何よそれ!」メローラは絶望の叫びを上げた。「クレッサは私に神殿を譲ったのよ!」「大祭司クレッサ様は、3日前、星屑となって世を去られました」その声はさらに冷ややかさを増した。「代理人による公式な遺言の開示は、7日を過ぎねば行われません。それまで、神殿の資産には何者も手を触れることはできません」プツリと、水晶の光が途絶えた。メローラの頭の中で、張り詰めていた何かが激しく弾け飛んだ。彼女は宝物庫の階段にへたり込み、無様に身体を震わせる。通信の水晶を取り出し、なりふり構わず自身の魔力を注ぎ込んだ。「クレッサ!どこにいるの!答えなさいよ!」水晶はかすかに光ったあと、かき消えた。彼女の気配は、この世界のどこからも、かけらほども感じられなかった。「そんなはずない!こんなの現実じゃないわ!」彼女は歯を強く食いしばり、もう一度試みた。「クレッサ、こんなくだらない駆け引きはやめて!怒っているのは分かってるから!だから、姿を見せなさいよ!」水晶は、まるでただの石ころのように沈黙していた。何の反応もない。メローラは石柱の陰に駆け込み、頭を抱えて絶叫した。「あああっ!あのクレッサ、なんで死んだりしたのよ!これから私、一体どうすればいいのよ!」ハーピーは10万金貨を要求している。
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第7話
ヘカテは恐ろしい悪夢から目を覚ました。額には、氷のように冷たい汗が滲んでいる。夢の中で、クレッサが血の海の中に立っていた。その身体は灰と化し、あの優しかった瞳は、空虚で希望のない色を宿して彼女を見つめていた。「マシュー!」彼女は夫を激しく揺り起こした。「クレッサから、返事はあったの!」マシューは、疲れた目を開けた。「この2日間、ずっと神威を広げて呼びかけている。だが、まったく何の反応もない」「2日間ずっとですって?」ヘカテの胸が激しく早鐘を打った。「それに、家を出てから数えたら、もう4日も帰ってきていないのよ!」クレッサの最後の姿が、次々と脳裏をよぎった。あの青白い顔で、黒い灰を吐き出していた娘。もし自分の魂が完全に砕け散ったら、後悔するかと尋ねてきた娘。「違う、やっぱり何かがおかしいわ!」ヘカテはガタガタと震えながら身体を起こした。「あの子が吐いた、黒い血……あれは……!」「一体、何を考えているんだ?」マシューもただならぬ様子に身を起こした。「タルタロスの死呪の兆候よ!」ヘカテの声が、絶望と恐怖に震えた。「あの時は、あの子の悪質な芝居だと思い込んでいたわ。でも、もし……もし本当に、あの恐ろしい死呪にかかっていたのだとしたら……!」マシューの顔から血の気が引いた。「まさか。クレッサは、ただ神殿のことで怒っていただけで……」「なら、どうして帰ってこないのよ!どうして連絡が取れないの!」ヘカテは取り乱しながら身支度を整えた。「私、今すぐあの子を探しに行くわ!」翌朝、夜明けとともに、ヘカテは海神の宮殿へと血相を変えて飛び込んできた。「メローラ、クレッサから何か連絡はなかった!?」彼女は焦った様子で詰め寄った。メローラは、美しい遺物の装飾箱を弄んでいるところだった。ヘカテを見て、慎重に言葉を選んだ。「ううん、そういえば、お姉様の残した物、ずっと埃をかぶったままなのよ。いっそ私が……」「今はそれどころじゃないの!」ヘカテは、メローラが今まで聞いたこともないような怒声で彼女を遮った。「クレッサから何か連絡があったかって聞いているのよ!」そのあまりにも冷ややかな口調に、メローラはびくりとした。ヘカテはずっと自分のことを一番に甘やかしてくれていた。
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第8話
ゼイルの膝から力が抜けた。彼は大理石の階段に崩れ落ちた。「命の糸が、断ち切られた……?」彼は虚ろな声で呟いた。「そんなはずない。クレッサが死ぬなんて……」手の中で真っ二つに断ち切られた金の糸が、かすかに星の光を放っていた。その一つ一つの光が、まるで自分の罪を責め立てる呪いのように感じられる。「どうして……どうやって死んだの?」ヘカテが震える声で尋ねた。「魔物に殺されたの?」運命の女神アトロポスは静かに首を横に振った。「タルタロスの死呪がもたらした、最期の発作です。その炎が彼女の魂を喰らい尽くし、残されたのは星屑だけ」その声には何の感情も宿っていなかった。「規定により、三日後、代理人がご家族に連絡し、葬儀を執り行います」ドクン。ヘカテの頭の中が、真っ白になった。タルタロスの死呪がもたらした、最期の発作。彼女は思い出していた。あの広間で見たクレッサの姿を。黒い灰を吐き、立っていることすらやっとだった娘の姿を。それなのに自分は、露骨な嫌悪を浮かべ、鼻を覆ったのだ。クレッサを「不吉な子」と蔑み、同情を引くための芝居だと決めつけてしまっていた。「違う、違う、違うわ……!」ヘカテは激しく首を振った。「私の娘。私のクレッサ……!」彼女は思い出していた。クレッサの最後の問いを。「もし、いつか私の魂が完全に砕け散って……私がただの星屑になって、二度とこの世界に戻ってこなくなったら……あなたたちは、後悔しますか?」あれは悪趣味な冗談などではなかったのだ。母に助けを求める、娘の必死な訴えだった。それなのに自分は、メローラを呪うなと叱りつけ、馬鹿なことを言うなと切り捨ててしまった。「私が殺したのよ!私が、自分の娘を殺したの!」ヘカテは狂ったように自分の顔を叩きながら絶叫した。「死ぬべきなのは私よ!私こそ死ぬべきだわ!」マシューもまた、耐えきれずに崩れ落ちた。冷たい床に膝をつき、虚ろな目で前方を見つめる。彼は思い出していた。神殿を手放したあの日、クレッサが黒い血を吐いていたことを。あれこそが、彼女の魂を喰らう死呪の兆候だったのだ。なのに自分たちは、あれを芝居だと思っていた。単なる嫉妬だと決めつけていた。「クレッサ……私たちのクレッサ……」彼は声を詰まらせた。ゼイルは
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第9話
ゼイルは屋敷の酒蔵に閉じこもり、浴びるように酒を飲み続けた。丸三日が過ぎた。冷たい石床には空き瓶が散乱し、無精髭を生やした顔には虚ろな瞳だけが残っていた。クレッサは、死んだ。自分の妻。自分の伴侶。彼女は星屑となって消えた。そして自分は、彼女を殺した者の一人だった。そのときふと、冷ややかな魔力を帯びた伝言が宙に浮かび上がった。「ゼイル。明日の正午、復讐の女神ネメシスの神殿へ。クレッサの遺言の開示を行います」そこに響いたセレーネの声は氷のように冷たく、温もりのかけらもなかった。ゼイルは震えながら立ち上がり、よろめきつつ酒蔵を出た。翌日の正午、ネメシスの神殿の前に四人の姿があった。ゼイルは幽霊のように青白い顔をしていた。大祭司夫妻は互いに寄り添い、その目には絶望が滲んでいる。メローラだけが、落ち着かない様子で両手を揉み合わせている。心臓が早鐘を打っていた。神殿の扉がゆっくりと開き、暗い影の中からセレーネが姿を現した。黒い衣をまとい、冷淡な表情で彼らを睨みつける。「お入りなさい」その声には何の感情も宿っていなかった。四人は中へと歩み入った。黒い蝋燭が神殿を照らし、息が詰まるような重い空気が満ちていた。「皆さんを呼んだのは、クレッサの遺言を開示するためです」セレーネは祭壇の前に立ち、羊皮紙の巻物を手にしていた。「まず、事実を述べます。クレッサはタルタロスの死呪により命を落としました。その魂はすでに砕け散り、生まれ変わることはありません」ゼイルの身体がぐらついた。大祭司夫妻は苦痛に目を閉じる。セレーネは冷ややかな手つきで遺言を開き、淡々と読み上げた。「クレッサは明確に記しています。彼女が署名した3通の資産譲渡の巻物には、魔力による取り戻しの術式が仕込まれていました。彼女の死をもって、すべての譲渡は無効となります!」「なんですって!」メローラが飛び上がった。顔が蒼白になる。「そんなはずない!お姉様は同意したのよ!」「同意した?」セレーネが嘲笑った。「彼女が本当に望んで同意したと思っているの?」メローラは狼狽した。「お姉様は……理解してくれていたわ。私のために、良かれと思って……」「あなたのために?」セレーネが一歩、前に出た。その瞳に危険な光がよぎる。
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第10話
マシューは杖を床に叩きつけた。悲嘆に暮れて、天井に向かって咆哮をあげた。「私は、自分の家に毒蛇を招き入れた!私が、我が子を殺したんだ!」老祭司の声が悲鳴のように割れた。「クレッサ!私のクレッサ!最期に、顔を見ることさえできなかった……!」彼は膝から崩れ落ち、自らの胸を叩きながら嗚咽した。ゼイルは、セレーネの手にある巻物をただ呆然と見つめていた。「クレッサは……その神威を、誰に託したんだ?」その声は、枯れ草のように乾いていた。「人間界の、貧しい信徒たちへ」セレーネが冷たく答えた。「本当に必要としている人々のために、自分の力を役立てたいと願っていたのよ」ゼイルの胸が、切り裂かれるように痛んだ。最後の遺言の中でさえ、クレッサは人間界の信徒たちのために完璧な計画を立てていた。いつもの優しい彼女のままに。けれど、そこには夫である彼や息子フィロンへの言葉は、一言も記されていなかった。死の間際まで、彼女は二人を許さなかったのだ。「違う、違う、これは偽物よ!」メローラは全身が凍りつく感覚に襲われ、床に膝をついてマシューの足にしがみついた。「お父様!この人の言うことを聞かないで!お姉様が私を陥れたのよ!知ってるでしょう、お姉様がずっと私に嫉妬していたこと!この幻術も、全部お姉様が仕組んだのよ!」ヘカテは、平然と嘘を並べるメローラの顔を見つめた。あの日の記憶がよみがえる。黒い血を吐くクレッサ。それを嫌悪も露わに突き放した自分。すべては、目の前のこの女の嘘のせいで。「この化け物!」ヘカテは狂気の咆哮を上げ、メローラに掴みかかってその首を絞め上げた。「私のクレッサを、返しなさい!あの子は、私に助けを求めていたのに!私は、それを突き放したのよ!全部、あんたの嘘のせいで!」メローラの顔が青紫色に変わり、彼女は苦しげにもがいた。マシューは狂乱する妻を腕ずくで引き離した。だが、倒れ込むメローラを見つめる老祭司の目は死人のように冷たかった。ゼイルがゆっくりと立ち上がった。海神の力を帯びた威圧が、山のようにメローラにのしかかった。「メローラ」その声は、タルタロスの深淵から響く裁きのように低く轟いた。「お前は黄金の林檎を奪った。お前が、クレッサを殺したんだ」「違う!」メローラは喉をかき
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